夢想機
星宮獏
姉妹
どこからか声がする。
それは、人魚の国の、あぶくでできた言葉みたいに聞こえる。
その言葉の音を正確に聞き取ることはできないが、その声は明確に私を呼んでいる。それは私の名前だ。
誰かが大声で私の名前を呼んでいる。
「ユズハ!ユズハ!」
急速に眠りが遠のいていくのを感じた。ヒナタが私を起こそうとしているようだった。ヒナタは私の身体をこれでもかと揺さぶった。
「わかった、わかったから」
「もう起きるから」
私は無理やりベッドから身体を起こした。低血圧で頭がクラクラした。海の底から無理やり引き上げられた深海魚みたいな気分だった。私は寝起きがとても悪い。
「あの装置、届いてたよ」
「開けてみようよ」
ヒナタはそう言うと、巨大な荷物を抱えて持ってきて、ビリビリと開封し始めた。私はそれを見て、なんかそういう種類の子犬みたいだなと思った。人間が子犬に見えるのも変な話だけど。
「なんか、すごく悪い夢を見てた気がする」
私はあくびをしながらぼやいた。
「悪夢なんて、今日でおさらばだよ」
「じゃじゃーん!」
ヒナタは大げさにそう言うと、ダンボール箱を開いた。そこにはヘッドギアが二つ入っていた。
私たちが注文したのは、望んだ夢を見られる機械、一般的に夢想機と呼ばれる装置だった。
夢想機を最初に発明したのは、たしかアメリカの国立脳神経科学研究所だったはずだ。夢想機は、睡眠中の脳に磁気刺激を与えて明晰夢の状態を作り出し、使用者の望んだとおりに夢を操作できるようにする装置だと、ウィキペディアで読んだ。まぁそんなことはどうでもいい。スマホを使用するのにスマホの動作原理なんていちいち知らなくてもいいのと同じことだ。
私たちが注文した夢想機はいわゆる第二世代というやつで、一つの夢を複数人でシェアすることが可能だった。
「いま何時?」
「もう12時だよ。起きるの遅すぎ」
私はコーヒーを淹れ始めた。それを見て、ヒナタは心配そうな顔をした。
「コーヒー、飲みすぎないでね」
「今夜は一緒に寝るんだから」
私は重度のカフェイン中毒だ。いつも胃がムカムカするほどコーヒーを飲む。そして、私が摂ったカフェインはしっかりと夜間の睡眠を妨げ、私の概日リズムを乱した。
私はコーヒーを三杯だけ飲むと、仕事机に向かい、書きものを始めた。クオリティにこだわる必要はないので、1時間で3000文字ほど書き上げた。私は息をするように文章を書くことができる。そのため、今は作家の真似事のようなことをして小銭を稼いでいる。
私は書き終えた原稿を出版社に送った。それは、くだらない雑誌の隅に連載されるくだらない小説の原稿だった。私はその雑誌を読んだことはなかった。そのような類の仕事を、私は何件も掛け持ちしていた。『ダンス・ダンス・ダンス』の言葉を借りれば文化的雪かきと呼べるだろう。しかし、『ダンス・ダンス・ダンス』の主人公より私の稼ぎはずっと悪かった。
カフェインが足りないせいで頭がグラグラした。あぁ、今すぐ眠ってしまいたい。
そもそも私はフリーの作家なのだから、基本的にいつ眠っていつ起きても構わないはずだった。それならコーヒーだって飲み放題だ。そんな私をぎりぎり健常の側に、もっと言えば社会の側にとどめている存在がヒナタだ。ヒナタという碇がなければ、私という船は波に揉まれてフラフラと沖へ出て行って、そのへんの岩にでも乗り上げて座礁していたことだろう。そう思えばヒナタは大変ありがたい存在だし、実際私は彼女にとても感謝している。彼女は私の生活にはなくてはならないもので、私の外付け体内時計みたいに機能している。
そんなことを机に向かったまま、ぼんやりと考えていた。眠ってしまわないために。
ヒナタは食材の買い出しに行ってしまったようだ。といっても、ヒナタに行き先を聞いたわけではない。私が便宜的にヒナタの外出を買い出しだと考えているだけだ。
とにかく、食材の買い出しと料理、および家事全般はヒナタの担当だった。私は、それらに関して完全に門外漢だった。というか、壊滅的にできなかった。
ヒナタは予想に反してなかなか帰ってこなかった。私は不安になって、だんだんイライラしてきた。私はヒナタに行き先を聞かなかったことを後悔し始めていた。時計の針は嫌がらせのようにゆっくり進んだ。
******
「ただいま〜」
「ごめんね。おそくなっちゃって」
「ユズハ?」
私はヒナタに駆け寄って、そのまま胸に顔を埋めた。ヒナタが帰ってこないあいだ不安で仕方がなかった。死んでしまいそうだった。
ヒナタは私の頭を撫でた。私が不安なとき、ヒナタはいつもそうしてくれる。ずっと昔から、そうしてくれる。
「ユズハ、不安の薬飲んだ?」
「あっ、忘れてた」
私は心療内科でもらった一回一錠の抗不安薬を二錠飲んだ。
「あっ、二錠飲んだ!」
「コーヒーみたいに、依存症になっちゃうよ」
私はしばらく押し黙ってから、言った。
「だってヒナタが帰ってこないから……」
「ごめんね」
「ねぇ、そんなに不安だった?」
ヒナタはどこか満足げな表情でそう聞いた。私が答えようとすると、人差し指で口を閉じた。ヒナタは、私たちの身長差を埋めるように背伸びをした。ヒナタの顔が近づいてきて、鼻の下の産毛が、窓から差し込む西日を含んで金色に光っているのが見えた。
「目を閉じて」
「はい……」
私は本能的に従った。やがて唇が重なり、ヒナタの舌が私の口に入ってきた。比喩ではなく甘い味がした。ヒナタの舌が、コロンとした甘い球を私の口の中に押し込んだ。それは飴玉だった。
「それ、あげる」
「どう?」
「不安、治った?」
「うん……」
私たちは一歳差の姉妹だ。私が姉で、ヒナタが妹だ。女同士で、そのうえ血縁者同士でこんなことをするなんて、始めは強い罪悪感があった。しかし、慣れてしまった今はどうということはない。それは生活の一部で、互いに必要としている行為で、栄養補給にも近いものだった。私はヒナタが性的に好きだったし、同じようにヒナタも私を好いてくれた。
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