最終話「新しい扉へ」
「未知のこの世界で目覚め、どれほどの混乱と苦悩があったか、私には計り知れぬ。すまなかったな」
「なんだよ気持ち悪ぃな……悪いと思ってるなら、質問に答えてくれ」
プロスペローは肩をすくめる。
「俺は、死んだんだよな? 記憶があんまりないんだけど」
「そうだ。魂を引き寄せるときにいくらか剥落したのだろう。弱りきった魂だった」
「なんで死んだ?」
プロスペローは答えなかった。けれど、俺の目を真っ直ぐに見返していた。だから、俺の推測は間違っていないのだと分かった。
「もしお前にその気があるなら、その肉体でこの世界を生きてみるといい」
「アンタはどうなる?」
「次の約束がある。どのみち、私の魂はすでに摩耗しているし、肉体から離れ過ぎた。もう戻れぬ」
プロスペローは苦笑し、顔を水平線に向けた。山間から細い光の筋が伸びている。一秒を数えるごとにどんどんと、世界に光が流れ込んでいる。
「だがお前が生きることを望まぬなら、共に冥府に連れていくこともできる。安らかな憩いを約束しよう」
「……」
「とある部族は、朝日の差すこの瞬間を信仰している。太陽が世界に光を満たす一瞬に、神は宿るのだと。美しい光景だろう?」
プロスペローは俺に視線を戻した。
「しかし世界はあまりに醜い。人はどこまでも愚かだ。それはこの世界も変わるまい。お前は再び苦しむだろう。期待し、裏切られ、同じことを繰り返す。それが人の生きる定めだ。それでもお前は、生きることを選ぶか?」
「……」
かつての俺に何があったのかを、俺は思い出せない。
記憶にはないが、自分が選んだ結果は事実としてここにある。生きることは苦しみにもなる。どれほど馬鹿で間違っている選択だとしても、それを選ぶ以外に苦しみから逃げる方法が分からない時もある。
俺は、同じ選択をしないとは言い切れない。だったら––––。
風が頬を撫でた。
顔を上げると、小さな妖精の背中がそこに浮かんでいた。俺の前に立ち塞がり、プロスペローを睨んでいる。
「そそのかすのはやめてください。だからあなたは極悪魔法使いこと悪魔族なのです」
「ちょっと、魔族を一緒くたにするのはやめてくれない? 風評被害よそれ」
と、俺の横に、ルスティカーナを抱いたトスカが並んだ。
エアリアルが長い髪をたなびかせながら振り返り、俺の眼前にふわりと浮かぶ。
「あなたは、私と契約をしたはずです。あなたがいないと、私はこの世界を楽しめません。相棒を放りだすなどもってのほかです。責任をとってもらいます」
ぽかんと惚ける俺を見て、けらけらとトスカが笑っている。
「あーあ、迂闊なことしたわね。妖精は怖いわよ、魔族よりも契約にがめついんだから」
「がめつくなどありません。あなたのような粗雑な性格ではないというだけです」
「フゥン? 小さいからって見逃してあげてたけど、調子に乗ったわね。どっちが上か分からせておこうかしら」
「ぽっと出の盗人は態度をわきまえた方がよろしいのでは? 善意の略奪しかできないのですか?」
ピキ、と何かがひび割れる音がした。絶対にした。聞き間違いじゃなく。
トスカの髪がゆらめき、瞳孔が縦に割れ、笑っているはずなのに寒気がする。俺は慌ててふたりの間に身体を挟んだ。
「あ! あー! そうだよな! 二人とも心配してくれてさんきゅーな! プロスペローも! 気遣ってもらって嬉しいけど、こいつらをそのままにしとくと世界が滅びそうだからさ! ちょっと抜けられそうにないわ!」
「まるで私に問題があるかのような言いようですね?」
「あるだろうが!」
「心配しないでいいわよ。あたしが魔族を統一したらまずは妖精族を傘下にしてあげる」
「心配するとこしかねーだろ! 売るケンカの規模がでけえんだよ!」
「そこをどいてください。一族のためにもここで息の根を止めておきましょう」
「お前もちょっと静かにしてろ!」
ああ、くそ、胃が痛ぇなあ!
––––笑い声が響いた。
俺たちは顔を見合わせる。誰も笑っていない。振り返る。
白髪の混じった黒髪の俺が、皺の増えた目尻に涙を浮かべて笑っていた。常に眉間に力を込めて厳しい雰囲気だったのに、楽しそうに、俺たちを眺めていた。
プロスペローは目尻を拭うと、どこか力の抜けた顔で俺と目を合わせる。
「人間にとって恐るべきは孤独だが、お前はひとりきりではないようだな。二度目の人生、好きに生きてみせろ」
「……アンタはいいのか? 自分の命までかけて助けたのに、ルスティカーナを置いていくのかよ」
「構わない。目的は果たせた。ただ、そうだな、心配はある。あの子が何を為すとも、為さずとも良い。ようやく手に入れた翼によって自由に羽ばたき、その人生が良きものとなることを祈るしかないのが、少し歯がゆい」
「分かった。俺ができる限り見守るし、何かあれば力になる。だから、まあ、頼りないとは思うけどさ、安心してくれよ」
断言できないところが少し情けないが、それでも俺の本心だった。
プロスペローは口の端に浮かべる程度に微笑み、頷いた。
「もうひとりの私の言うことだ。これ以上に信用できる言葉はないな」
柄にもなく優しい声音––––目を見開いてしまう。
空はもう青白く、天辺には群青さえ染まっている。暗闇は端に追いやられ、朝日が姿を見せ始めていた。
プロスペローの身体を透かして、光が溢れ出している。その足先が、解けるように消えている。小さな花びらのひとつひとつとなって、風に吹き流されていく。
「どんな舞台にもやがて幕は降りるものだ。エアリアル」
「––––はい」
「よく尽くしてくれた。ここで契約は完了だ。きみを縛るものはもうない。風のように気ままに流れるも好きにすると良い」
「言われずとも。とりあえず、半人前の魔法使いがあたふたするのを近くで眺めてみようかと」
「それは楽しくなりそうだな。この世界でプロスペローの名を継ぐには苦労もあるだろう。支えてやってくれ」
「安心してあの世で下働きに励んでください」
エアリアルの遠慮ない言い草に、プロスペローは苦笑した。それからトスカに顔を向ける。
「君には悪いことをした。罠に嵌めるような形になって申し訳なかったな。その助力がなければ、ルスティを助けることは叶わなかっただろう」
「……別に、もういいわ。ルスティが目を覚まさなかったら、冥府の果てでも追いかけてぶっ飛ばすけどね」
「結構。その執念があれば魔族統一も遠くないだろう。あまり魔族を冥府に送ってくれるなよ。面倒な仕事が増える」
プロスペローの顔は晴れやかだった。すでに腰までが花びらとなって消えつつある。
「なあ、プロスペロー。なんでそこまでしてルスティカーナを助けたかったんだ」
慈悲もなく魔族のひとつを滅ぼすような男が、どうしてひとりの少女にそこまでこだわったのか。見返りひとつ求めず、命すら捧げ、死後の魂すら賭けて助けようとしたのか。俺にはわからない。
プロスペローは穏やかな顔のまま、口を開いた。
「––––私は、この世界が嫌いだ。同じ種族で殺し合い、憎み合い、土地を奪い合い、平和を求めながら、争いを起こす。他人に絶望し、自分にすら嫌気がさす。生きる意味などない。奪われぬために力を手に入れれば、恐れられ孤立し、安堵できる場所は辺境の果てだけ……」
プロスペローはルスティカーナに目線を送った。眩いものを、決して手に入らぬ美しいものをただ眺めるように、目を細めて。
「その子の母シラクスと、ルスティは、希望だった。その子を見ていると、私は世界に絶望せずに済む。その子が生きているだけで、世界を肯定できる。その子は、私に残った最後の朝陽だ」
プロスペローの身体は、もう胸元までが散ってしまった。ゆるゆると流れる風に花びらが散り、その花片にきらきらと朝陽が反射している。
プロスペローは俺をまっすぐに見た。その瞳に、祈るような願いを見た。
「ルスティを頼む。邪魔する者は踏み潰せ。害する者は打ち砕け。誰かが我欲を押し付けるなら、それ以上の我欲で跳ね除けろ。正義など意味がない。必要がない。価値がない。たとえ誰に悪と罵られようと胸を張れ––––希望の灯火を守るために戦え。忘れるな」
「––––おう」
その言葉の重さをどれだけ受け止めきれたかはわからない。だが、ひとりの男が、死の間際に残す言葉だ。軽いわけがない。今はすべて分からずとも、これから時間をかけ、何度でも咀嚼し、すべてを受け入れる覚悟を持って、俺は頷いた。
ついにプロスペローの顔が消えていく。俺たちはもう言葉も見つけられず、ただそれを見送っていて。
「プロスペローさま」
エアリアルが声をあげた。
「––––さんきゅ」
なんとまあ、気の抜ける軽い言葉だった。
けれどその一言に、プロスペローはたしかに笑みを返したような気がする。
花びらが風に乗って空に散っていく。星屑のように輝きながら、青い空に消えていく。俺たちは、この世界にすっかり朝が来て、もうどこにも夜の名残を見つけられなくなるまで、そうして空を眺めていた。
「いっちゃったわね」
トスカがぽつりと言う。
「ああ。満足そうな顔だったな」
「やりたいことをやり遂げたのです。なにを思い残すことがありましょう。さあ、プロスペローさま。これから何をなさいますか」
「はい?」
「何を惚けてんのよ。本物のプロスペローに後を任されたんだから、アンタが今から本物でしょ」
「……あ、そうか。やっべ、考えてなかった。どうしよ」
なんとなく悪い魔法使いかもと曖昧に認知しているのと、正式に拝命するのとでは天と地の差がある。今後は人違いですなんて振る舞いはできない。もし良い魔法使いがプロスペロー討伐に来たりなんてしたら、俺が立ち向かうしかないってことか?
「このままではすぐに野垂れ死にしてしまいそうですから、仕方なく力を貸してあげます。仕方なく」
とエアリアルが俺の肩にふわりと腰掛ける。
「ルスティと話したいことも山ほどあるし、あたしもしばらく付き合ってあげてもいいわよ」
「……頼もしい仲間がいて嬉しいよ、まったく。っても、何をしたらいいもんかね」
「アロンゾ殿下からの招聘がそのままです。黒山羊族の書状への返答もしておりません。獣人族とも対立しましたし、そもそも人間族の王女暗殺事件に首を突っ込んでいるので、今後は要注意です」
「へえ、楽しそうなことになってるじゃない。さっさと逃げ出してあたしと魔族の統一でもやる?」
「……それもいいかもな」
ただの会社員だった俺は、気づけば異世界で悪名高い魔法使いになっていた。死ぬほど嫌だった元の人生の記憶もないが、まさかこんなヘンテコな難問で悩んだりはしていなかっただろう。
国家間の謀略には巻き込まれそうだし、魔族の後継者争いにも片足を突っ込んでいるし、簡単に人を暗殺するような奴らにも狙われそうだし。考えるだけで夜も眠れなくなりそうだ。
絶望したっていいような気もするが、不思議と心は軽かった。
まあ、なんとかなる。いや、なんとでもできる。
それは楽観的というよりは、ただ、希望を抱いているだけなのかもしれない。だから、大事なのは希望を守り続けることだ。
他人にどう思われたって構わない。誰かが押し付ける善人という偶像や、都合の良い人間になる必要はない。俺は俺として、俺の信じる希望を守って、胸を張って生きていくのだ。
「––––よし、決めた」
俺は眼前に手をかざす。この身体でプロスペローが魔法を使う感覚を体感したおかげで、魔法の使い方というものが分かった。
目の前に扉が生まれる。これでもう、誰かが用意した扉に縛られる必要もない。俺はいつでも、どこにだって行ける。
「人間族の城を落としますか?」とエアリアル。
「獣人族にしましょ。脳筋のクセに矜持ばかり旺盛で鬱陶しいのよね」とトスカ。
「どっちもやらねえよ!?」
俺はグラウを抱き上げる。エアリアルは肩に腰掛ける。トスカはルスティカーナを。
これで全員だ。この世界で知り合った変なやつらだが、これが俺の仲間たちだ。こいつらがいる限り、俺は孤独じゃない。だから、どんな問題が降りかかってこようと解決してやるさ。
俺は扉に手をかける。まずは、ルスティカーナの約束からだ。
「海を見に行こう。頼りになる船長に心当たりがある」
長い夜は終わった。新しい一日が始まっている。一度は死んだとしても、もう一度生きることもある。ここから、新しい人生へと踏み出していくのだ。
ルスティカーナも、グラウも、まだ眠っている。目が覚めたとき、眼前に広大な、囲いも境界もない海原が広がっていたら、二人はどんな顔をするだろう。戸惑うだろうか。いや、きっと目を輝かせて喜んでくれるだろう。
それを見て笑うことが、俺とプロスペローの、今の希望だ。
了
悪役魔法使いの改心 風見鶏 @effetline
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