第39話「悪い魔法使いの夜」



 涙が流れていることを気づいていないかのように、トスカは歩み寄った。

 浮き上がっていたルスティカーナの身体が近づき、トスカの腕の中にふわりと体重を預けた。受け止めることで傷つけることを恐れるかのように、トスカはルスティカーナを抱き留めながら地面に座り込み、おずおずと頬に指先を触れさせる。


「––––あったかい」


 少女のように無垢な瞳が俺を見上げた。


「そのうち目を覚ますよ」

「なにをどうやったわけ? 冥界から身体まで取り戻したなんて言わないわよね」


 俺は胸を張った。いかに困難な挑戦だったか、そこに挑んだ俺の命懸けの活躍をドヤ顔で語ろうとしたのだが、唇が勝手に動く。


「良い質問だ。しかし話すと長くなる。またの機会にしよう」

「いや、ここは説明しよう。俺も死ぬとこだったんだぞ」

「功績を誇ることは吝かではないが、もうひとりのお嬢さんのためにも時間を浪費すべきではない」

「……ごもっとも」


 この身体はいま、プロスペローのものでもあるのだ。おまけにプロスペローは悪の魔法使いのくせに正論が得意らしい。ちくしょう。でも言うことは正しい。グラウのために、俺は自慢話を飲み込んだ。


「……自分と会話をする変人はたまに見るけど、今日ばかりは馬鹿にできないわね。こうして本当に友達を取り返してくれたんだもの」


 腕の中のルスティカーナに優しげな眼差しを落とす。それから俺に––––あるいはプロスペローに視線を戻し、


「ありがとう、悪の魔法使いさん」


 と微笑んだ。

 これほどに真っ直ぐで感情のこもった感謝をされることが、これまでの人生であっただろうか。生前の記憶はばらばらで曖昧だが、正しい生き方をしてきたつもりだ。誰かに迷惑をかけず、角を立てず、時には自分を押し殺して、自分ではない誰かや何かのために生きていた。


 そんな生き方の中で、俺は誰かに感謝されるようなことができていただろうか。胸の中に込み上げる、こんなにもむず痒くて、背中がそわそわとして、どうしてか居心地が悪くなるような清々しさを、感じたことがあったのだろうか。

 そして、俺はこの感情が自分のものだけではないと気づく。

 この身体にはふたつの魂が同居している。だからわかるのだ。プロスペローもまた同じく、この感情を持て余している。


 本当に真っ直ぐなありがとうを言われると、不思議な気持ちが起きる。偉ぶって胸を張ったり、どういたしましてと微笑み返したりすることもできず、どうしてかこちらこそありがとうと、感謝を返したくなる。だが良い歳をしたおっさんが微笑みながらありがとうなんて返事ができるわけもなかった。


「べ、べつにあんたのためじゃないんだからねっ」


 精一杯の返事は、トスカに怪訝な顔をされるという結果で終わってしまう。


「……よし、墓に向かおう。今は時間が惜しいからな!」


 俺は先陣を切ってずんずんと歩き出した。くそう、プロスペローの野郎、こういうときは黙り込みやがって……。


 枯れ果てた花壇の端に、小さな墓が並んでいる。ルスティカーナの墓は、俺が掘り返したままで大穴が開いているが、その隣にはグラウの墓が土の色を真新しくしている。


 ここにグラウの遺体を埋葬してから、ずいぶんと時間が経ったように思える。

 けれどこの場所で過ぎ去った時の流れは一夜でしかなく、空はうっすらと青みがかり始めていて、夜がもうすぐ終わろうとしていた。


「手を貸そうか」とプロスペロー。

「いや、任せてくれ。墓を掘り返すのは得意なんだ」

「ほう、私よりも所業の悪い魔法使いがいるとはな」


 俺は地面に膝をつき、両手で土を掴んだ。埋めた時と同じように、風の魔法を沈め、土を掘り返す。空中に浮き上がった土塊がぼろぼろと崩れ落ちていく。やがて、白い布に包まれたグラウの遺体だけが残った。遺体をゆっくりと引き寄せ、地面にそっと横たえる。


「この場で死者を蘇生しようってわけ?」


 ルスティカーナを横抱きにしたトスカが、声音を高くした。


「楽しそうだな?」

「あたしはそんな怖いことしたくないけど、誰かがやるところを見るのは大好きなの」

「お前さあ、性格悪いって言われるだろ?」

「あら、みんな褒めてくれるわよ。理想の姫君だって」

「周りに本音を言うやつが誰もいねえのが証拠じゃねえか」

「へえ、面白いこと言うのね。認識が改まるまでお話ししましょ?」

「悪い、いま忙しいからまた今度な」


 恐ろしい女と知り合っちまったかもしれん……。

 俺はグラウの遺体に手を伸ばし、できるだけ優しく白い布をほどいた。生気を失った顔が露わになる。


「……何度見ても変な気分だね」


 俺の横に、グラウが並んで座り、しみじみと言う。自分の身体のはずなのに、自分ではないような違和感。自分の死体を客観視するという経験は奇妙と言うしかない。

 グラウは困ったように眉尻を下げ、俺を見る。


「本当に元に戻せるのかい?」


 俺には答えられない質問だったが、言葉は滑らかに出てきた。


「私にとっては肉体も水車小屋も変わりはない。構造への知識と相応しい技術があれば、時を戻さずとも物体は修復できる」


 プロスペローが指を振る。身体の中で魔力がはしり、それは魔法という形になって現実を変える。

 グラウの遺体が浮かび上がったかと思うと、風によって編み上げられた新緑のベールに包み込まれる。

 グラウの身体が淡く光り、小さな拍動が聞こえた。それは少しずつ確かに、大きくなっていく。


 とくん、とくん、とくん……。


 見る間に、グラウの顔に血色が戻っていく、土気色だった唇に鮮やかな赤味が彩る。


「お見事––––善の魔法使いが知ったらブチギレそうな禁忌の魔法ね」


 トスカが面白がるように言った。


「幸い、善良なものは夜には眠りについている。悪事を企むにはちょうど良い」


 プロスペローはグラウと並んで座ったまま、視線を向けた。


「カヴァレリア嬢––––いまはグラウと名乗っていたな。きみが望むのであれば、この身体に魂を戻そう。だが良いのか? きみは知っているだろう、この世界は苦しみによって成り立っている。死の憩いから離れ、再び生の苦しみを選ぶことに後悔はないか」


 それは真剣な問いかけだった。だがグラウは迷いもなく、むしろ挑むように微笑みを返した。


「あの子をもう一度抱きしめられるなら、喜んで地獄にだって行くさ。アンタも同じ気持ちだろう?」

「……」

「キャリバン、私はアンタに感謝してるよ。たとえアンタが父さまを裏切ったのだとしても、ルスティの死のきっかけだったとしても。自分の過ちを命懸けで正せるやつはいない。だから、心安らかにね」


 グラウはプロスペローの腕をぽんと叩くと、立ち上がり、自らの身体に手を伸ばした。その瞬間、ベールが広がると同時に光が迸り、俺は思わず目を瞑った。

 次に目を開けた時には、身体を透けさせた霊体のグラウの姿はなく、グラウの身体だけが浮かんでいる。


「これで成功したのか……?」

「そう時をおかずに目覚めるだろう」


 風のベールが解けるようにして、グラウの遺体がゆっくりと地面に横たわった。

 俺は立ち上がり、夜の闇に塗り潰されていた遠い山々を見た。黒い山の境界線がくっきりと際立っている。空の端が白み始めていた。


「––––お前には感謝せねばなるまい」


 ふっ、と身体から大きなものが抜き取られたような、奇妙な感覚。不快感はないけれど、ぽっかりとした穴が空いたような寂しさが残った。


 目の前に鏡写しのように自分が立っている。俺よりも老けていて、俺よりも顔つきが険しく、けれど間違いなく俺だと分かる存在。

 本物のプロスペローは、柔らかな目で俺を見ている。

 



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