後編 戦場での再会
私の暮らしていた街は、無惨に、「北側」の砲撃と、空襲で廃墟と化していた。
この国を引き裂く「南北境界線」。鉄条網を挟んで互いに睨み合いながらも、危うい平和を保っていた「北側」と「南側」。その平和は脆くも打ち砕かれた。
私が暮らしていた、境界線近くの街は、ある夜更けに突如始まった、「鉄条網」の向こうの大砲から放たれる、鉄の雨。そして、轟音を立てて、「北側」から飛んできた爆撃機の、腹から吐き出す爆弾の雨によって、あっという間に大勢の死人を出し、火の海とされた。私も焼け出されて、家も家族も失ってしまった。軍事侵攻が始まった事を悟った。
かつては、密かに「鉄条網」越しに親しく付き合っている人達もいて、緩やかな空気だった筈の「北側」と「南側」の間の空気は一変した。焼け残った街角のテレビや、ラジオ放送では「北側」の卑劣で残忍な侵攻を断じて非難する、政府は総動員令を発令して、同盟国と共に「北側」に徹底抗戦すると発表したと、放送していた。
「北側」も「南側」も、徴兵の対象となっているのは、男だけでなく女もそうだった。身体健康な者は、直ぐに国防軍の徴兵事務所に行くよう、命令が出され、男女を問わず、怒りに燃える多くの人が徴兵事務所に詰めかけた。私の周りも例外でなく、
「何を迷っているの。今こそ、あの汚い、『北側』の連中に徹底的にやり返して、懲らしめないと」
という意見が大半で、私が、臨時召集令状を受け取りながら、まだ徴兵事務所に出向いていない事を話すと、戦意の低い者となじられた。
徴兵事務所で受け取った軍服を机の上に広げながら、私は、一枚の栞をその横に置いた。あの、「鉄条網」の網目越しに口づけを交わしたあの日、彼女がくれた、最後の花で作った栞だ。そして、その栞は、長らく、あの日でページが止まったままの、一冊の本の中に挟まれていた。私と彼女の記憶も、その本と同じように、あの日、あの口づけという栞で、ページは止められたままだ。
私は軍服に袖を通すと共に、その栞を、大事に胸のポケットにしまった。あの日でページが止まったままの本も荷物に詰め込んで。
反転攻勢は順調に進んでいるようだった。私が編入された部隊は進軍を続け、次々と、『北側』に占領されていた街を取り返していった。
「ひぃっ!!殺さないで!お願い!」
「うるさい、黙れ!我々の故郷を、こんな目に遭わせておきながら。おい、こいつらを早く、機関銃で黙らせろ」
とある街の一角で、壁の前に並ばされた捕虜達に向かって、小隊長が怒鳴っていた。そして、彼の命令と共に、同じ小隊の兵士達が機関銃の引き金を引く。冷たく乾いた破裂音が鳴り響き、命乞いをする、男女が入り乱れた捕虜達の声は、断末魔の叫びに変わっていく。
そして、銃声が途絶えた時、まだ煙の立ち昇る銃口の先で、生き延びている者はいなかった。
「お前達が口外しなければ、誰も捕虜殺しの事は知らない。おい、お前。ガソリンをかけて、こいつらを焼却しろ!」
小隊長は、私と、他、何名かの兵士に、焼却処分を命じた。
「北側」との戦闘で捕虜を取った後に、もう、何度も見た光景だった。最初、この光景を見た時、私は、胃の中の物が空になっても、まだ吐き気が止まらずに、草むらで四つん這いになって吐いていた。しかし、今や、血まみれの「北側」の兵士の遺体を、只の肉塊としか思わない程に、戦場に慣れてしまっている。他の兵士と共に、黙々と、遺体をうずたかく積み上げていく。
その遺体の中に、女性兵士がいる度に、私は「蓮ちゃんではないか」と、必死にその顔を確認する。自分の頭の中で、重ねた年の分だけ成長した蓮ちゃんの顔を想像し、照らし合わせて、それが彼女でないと分かると、胸をなでおろす。それだけが、この極限の世界で、まだ私が、人の心を失っていない事を証明できる、唯一の過程だった。
ガソリンをかけて、そこに一人の兵士がライターで火をつけた何かを放り込む。みるみるうちに、火が燃え広がって、敵兵の遺体を飲み込んでいく。こんな非人道的な行為に幾度も関わりながらも、私は、蓮ちゃんの事を思い出す事で、人間でいたかったのかもしれない。
一発の銃声が鳴り響く。その光景を、ジープの助手席にふんぞり返って、煙草をふかしながら、満足気に見ていた小隊長が崩れ落ちた。「小隊長!」近くにいた兵士が叫び、近寄るが、血だまりの中で、彼は既にこと切れていた。狙撃されていると、私も周りも瞬時に悟った。近くで一番階級の高かった兵士が、臨時で指揮を執る。
「敵襲!散開!狙撃兵だ!場所を探せ」
各自、散開して、建物や、捕虜を乗せてきたトラックの後ろに身を隠す。私も必死に、小銃を構えながら、あちこちの建物の窓に目を配る。すると、とある窓の一角から、発砲する閃光が見えた。近くの兵士にハンドサインで、知らせる。3階建ての小さなビルに向けて、私は、数名の兵士と共にひた走る。すると、また銃声が鳴って、私のすぐ後ろにいた兵士が、呻き声と共に倒れる。胸のポケットにしまった栞に、手をかざし、「蓮ちゃんにまた会うまで、絶対に死ねない」と強く祈り、私は小さなビルの中へ飛び込む。
小銃を上に向けながら、生唾を飲み込んで、階段を一段ずつ上がっていく。踏み込まれた事にはもう、「敵」は気付いている筈だ。汗が、ヘルメットの下から、零れ落ちる。すると…、カランという乾いた音と共に、2、3個の何かが私達の足元に落ちてきた。
手りゅう弾だった。
爆発が立て続けに起こり、私は壁へと叩きつけられる…体の何処かが千切れ飛ぶ感覚と共に。気付いた時、私は壁に寄りかかる姿勢になっていた。左足がほぼ千切れて、皮一枚で繋がっている。傷の断面から、ドクドクと出血していた。もう長くはないと悟る。階段を降りる音がして…、やがて、「北側」の軍服を着て、狙撃銃を構えた兵士が現れた。その体つきを見て、女性兵士だとすぐに分かった。こちらが、皆死んだと思っているようで、隙が見えた。蓮ちゃんに会う事は叶わずに、私は散っていくのか…と、思い、それでも、最後の抵抗のつもりで腰のホルスターから、拳銃を引き抜く。
「私を蓮ちゃんに会えなくした、お前も道連れだ」
そう言って、拳銃で彼女を撃った。血飛沫をあげ、彼女は狙撃銃を床に落とし、倒れる。しかし、急所は外れていたらしく、お腹を押さえながら、彼女はまだ動いている。
「え…、れ、蓮ちゃん…って…、その声は…沙苗…?」
口から血を溢れさせながら、彼女が絞り出す、その声に私は、ハッとする。
「う、嘘…。貴女…蓮、ちゃん…?」
彼女は、ヘルメットを脱ぎ捨てる。顔が良く見えるようになり、そこに、かつて鉄条網の向こうに見えた、日焼けした笑顔の面影を見る。そして彼女は、床に血の跡をつけながらも、何とか私の元へ歩いてきて、私の顔を見る。
「ああ…、やっぱり沙苗だ…」
私は、心臓を殴られる程の衝撃を受けた。まさか、殺し合っていた相手が、蓮ちゃんだったなんて。他ならぬ私の手で、彼女に致命傷を負わせてしまったなんて。私は、ガタガタと体が震え始めて、握っていた拳銃を取り落とす。
「な、なんてことを、私は…。ごめんね、蓮ちゃん…!」
血とは別の温かい物が、頬を伝っていく。この死に際の時にあって、やっと人間らしく、また涙を流せるようになった。それも、こんな形での、蓮ちゃんとの再会によって。皮肉なものだ。
「私こそ、ごめんなさい、沙苗…!こんな形で、また会う事になるなんて…」
私と同じく血まみれの蓮ちゃんは、泣きながら、そう言って、私の体を抱き寄せた。こんな、戦争という形でしか、私達はあの鉄条網を越えて、会う事は出来なかった。
「蓮ちゃん、撃って、ごめんね…」
「もう…、いいの…!死ぬ前に、沙苗にまた会えて、良かった…。」
「あの花の栞、今も、持ってる…?」
彼女に血に染まった軍服のポケットから、栞を取り出す。彼女も私と同じ事をしてくれていた。私も、照らし合わせるように、ポケットから、花の栞を取り出す。あの日、二人で分け合った花だった。
「持っててくれたんだ…。あの日に、栞を挟んでくれていたのは、蓮ちゃんも同じなんだって知れてよかった」
「忘れる訳、ないでしょ…!あの日の事を…。この花の栞も…」
こうして、二人で死んでいくのも悪くはない。段々と体から熱が失われていくのを感じる。
「あの日の本の続き、読んでくれる…?」
彼女の言葉に、背嚢から一冊の本を取り出す。その本を、最後の力を振り絞って、手に持つ。ああ、やっと、あの日で止まったままだった、二人の時間も、またページが開くのだ。お互いに死んでいく瀬戸際にあって。
もう、目もぼやけてきて、文字が追えない。それでも私はかすれる声で読んだ。昔のように、鉄条網越しではなく、今度は、彼女の膝に頭を乗せられ、髪を撫でられながら。
やっと、二人でまた冒険に出られるというのに、私も蓮ちゃんも力尽きようとしていた。本が手から滑り落ちて、血だまりの上に転がる。私達二人の、血の色に染められていく。
私達は抱き合ったままで、固いコンクリートの上に倒れ込む。もう、何も私達を隔てない。やっと、何にも邪魔されずに、蓮ちゃんの顔を見られる。
「あの日の続き…、もう一つ、あるよね…?死ぬ前にまた、しよう…」
私が、声を絞り出して、懇願すると、蓮ちゃんは、私の顔を、両手で挟んで、引き寄せる。そして、私が目を閉じると…彼女の唇が、私のそれに触れるのが分かった。
あの日とは、違って、涙ではなく、血に濡れて、彼女の唇はしょっぱい味がした。
そのまま、私は彼女の腕の中に抱きすくめられる。
このまま目が覚める事はもうないだろう。それでも構わない。やっとお互いに触れ合える。誰にも邪魔される事のない場所へ、もうすぐ、二人で行けるのだから。心臓が止まる瞬間まで、私は蓮ちゃんと共にいよう。
(了)
鉄条網の向こうの貴女 わだつみ @scarletlily1125
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