鉄条網の向こうの貴女

わだつみ

前編 鉄条網の向こうに「貴女」はいて

 私は息を切らして、草木の中をひた走っていた。彼女に会える、あの場所を目指して。

 子供の私の小さい体は、草木に姿を隠すには丁度良い。それに、私が今から近づこうとしている「南北境界線」の一角は、私が暮らす「南側」の人が、境界線の向こうの「北側」の人々と密かに会ったり、物々交換などをする場所として使われていた。近寄っても大丈夫な場所というのは、子供ながらに知っていた。だから、そこまで恐れる事なく、街の近くの「南北境界線」まで私は行く事が出来た。

 森を抜けて、草原を真っ直ぐに横切って、「南北境界線」はそびえていた。高さ数メートルの、いわゆる「鉄条網」だった。その上には、棘が沢山備え付けられ、見ているだけでも痛くなりそうな、有刺鉄線が張り巡らされていた。

 その「鉄条網」の下の方に、私は、スカートについた草いきれを払いながら、腰を下ろし、背中を付ける。そうして、しばらく待っていると、私の背中の方‐、つまり、「鉄条網」の向こうの国、「北側」から、彼女の声が響いてくる。

 「おーい、沙苗(さなえ)!」

 女の子の声ではあるが、聞き方によっては少年のような声にも聞こえなくもない声で、私の名前が呼ばれる。それを聞いて、嬉しくなって、私は、鉄条網の金網に指を引っかけて、その向こうにいる彼女へと呼びかける。

 「蓮(れん)ちゃん」

 蓮ちゃんは、今日も顔に泥をつけて、手も土に汚れている。髪も、私と違い、農作業で邪魔になるからという事で、蓮ちゃんの親にいつも短く切られている。

 彼女が両親と住んでいる村の収穫の、「ノルマ」とかいう物を達成しないといけないらしく、いつも彼女は、農家である家を一生懸命に手伝っていた。だから、彼女はよく日に焼けていたし、髪は伸ばす事を禁止されている「北側」の村の掟らしく、いつも短くされているから、一目見ただけだと、本当に少年に見間違えそうになる。

 でも、鉄条網の網目を掴んでいる私の手の上にそっと重なる、彼女の手。その、いつも土に汚れ、農作業の道具を持たされて、まめだらけの手の、指は、やはり細く、華奢で、少年のそれとは違っている。こうして近くで彼女の手を見ると、よく分かる。

 「はい、これ。沙苗にあげる。また、綺麗な花、見つけたんだ」

 蓮ちゃんは網目を潜らせるようにして、鉄条網の向こう側‐、彼女から見たら、「南側」にいる私に、一輪の花をくれる。それを、私は受け取る。

 「ありがとう。また、しおりを作るのに、使わせてもらうね」

 私は、その花を大切に胸に抱き、そう、鉄条網の向こうの、蓮ちゃんに言う。

 この、私達の間を、更には、同じ日本語を話す日本人を、真っ二つに分断してしまったこの「壁」が、せめて、全面コンクリートで向こうが見えない壁でなくて、本当に良かったと心底思う。

 もしも、向こうが全く見えない壁だったなら、私と蓮ちゃんが言葉を交わす事すら出来ず、何より、彼女が嬉しそうに笑う顔も、見る事は出来なかっただろうから。

 「今日も聞かせてほしいな、『南側』で出た、面白い小説。私達の学校、あんまり楽しい感じの本はおいてなくって、『悪い南側と、それを操る大国をやっつけよう!』みたいな本ばかり読まされるから、嫌になっちゃう…」

 蓮ちゃんは、そう言って、わくわくとした表情で、向こうから私を見ている。

 「はいはい、ちょっと待ってね」

 そう言って、私は背中のリュックから、一冊の本を取り出す。「北側」は検閲が非常に厳しいらしく、本も自由に売る事も読む事も出来ない、と蓮ちゃんから聞かされた。だから、蓮ちゃんは娯楽に飢えていた。学校と、家の手伝いに明け暮れる日々の彼女に「南側」の本を読み聞かせてくれる私の存在は、非常に嬉しいものだったようだ。

 私が本を読み上げ始めると、彼女は鉄条網に背を預けて、それに聞き入っていた。 

 この時間がいつまでも続けば良いのにと、彼女の小さな背中に、ちらりと目線を送りながら思う。

 本に挟む栞も、だいぶ種類が増えた。

 蓮ちゃんが、向こうの村で摘んできてくれた花を乾かして、私が栞にする。それを、本に挟んでおく事が、私と、鉄条網の向こう、「北側」にいる蓮ちゃんとの、唯一の、目に見える繋がりだった。学校の教室で本を広げている時も、その栞を見れば、いつでも私は、蓮ちゃんを思い出す事が出来た。

 本を読み上げるのも、自分でもだいぶ上手くなったと思う。彼女が、より物語の世界に没入出来るように、登場人物達の台詞に感情を乗せて、まるで朗読劇のように、音読出来るようになった。学校の国語の先生からも、音読が上手だと褒められたが、その理由が、鉄条網の向こうにいる、蓮ちゃんのおかげだというのは誰も知らない。

 「沙苗、また、読むのが上手くなったね。こうして目を閉じていると、物語の世界が、浮かび上がってくるみたい…」

 蓮ちゃんも、そう言ってくれた。

 本のページの上で繰り広げられる物語を、私が声に乗せて、鉄条網の向こうにいる蓮ちゃんに届ける時。いつも、私と彼女は同じ世界の中で繋がる事が出来た。

 現実の私と彼女の間には、この国を二つに分断する、決して越える事は許されない壁が存在するけれど、物語の世界の中には、そんな壁は存在しない。二人でどんな冒険にも出かける事が出来た。

 けれど、私が「今日はここまでね」と言って、読み聞かせるのを終えて、本を閉じると、無限に広がっていた筈の二人だけの世界は呆気なく終わる。私と彼女の間には、高さ数メートルの鉄条網がそびえていて、私と彼女はお互いの手にしか触れる事が出来ない。

 物語の世界に二人で没入している時間は大切だ。しかし、本を読み終えた後、二人で、その読後感を共有して、一緒にその余韻に浸る。その、何をする訳でもないけれど、二人で共有出来る物が確かにある時間が、私は好きだった。

 「沙苗の手は、綺麗だね。私と違って、肌も白いし、指も細くて」

 彼女はよく、私の手を褒めた。そんな、褒められる程、特別に手が綺麗とは、私自身は思わない。けれど、蓮ちゃんは、「私の手は、いつも土で汚れてるし、まめやら擦り傷だらけだから」と、私の手と、彼女の手をちょっぴり残念そうに見比べて、そう零した。

 「北側」に住む子供を、蓮ちゃん以外、私は知らない。ただ、彼女の話では、同じ年頃の子供達が、学校が終わるとすぐに、農作業や、その他も子供でも手伝えるような作業に駆り出されているのだと聞いた。その中には、彼女に聞いてしまった事を、後悔するような悲しい話もあった。例えば、大雨の中でも、容赦なく作業に当たらされて、水害に遭って亡くなった、蓮ちゃんの友達の話などがそうだった。

 その話を聞いた時、私は、身の回りで大人と同じ仕事をさせられて、命を落とした子などいなかったから、この鉄条網のすぐ向こうの世界が、全く現実味を帯びて感じられなかった。

 だけど、蓮ちゃんがこうして、私の手に触れて、声を聞かせてくれて、現実に存在している。その事で、彼女が生きている、この鉄条網の向こうの世界も、どんなに私には現実味のない事だらけであっても、紛れもない「現実の世界」として存在しているのだと認めざるを得なかった。

 ずっと、こんな日々が続いていくのだと、無邪気にも信じていた。「北側」と「南側」。学校の社会の時間でも、「北側」の事を、学校の先生達は「悪の国」「独裁国家」と呼んで、「あの国に心を許してはいけません」と教えられてきた。しかし、それはあくまで建前で、実際には、あの鉄条網の向こうに、沢山の大切な人-分断された、家族や親戚の人がいて、鉄条網越しに会っているらしい事も私は噂で知っていたし、「壁」を隔てての、「北側」とのやり取りは続いていた。

 昔の、太平洋の向こうの大きな国との戦争‐、学校では「太平洋戦争」と教えられた‐の前までは、地続きの同じ国に属して、同じ言葉でやり取りしていた人達なのだから、憎しみ合う理由なんてない筈だった。あの戦争の後、私達の国は、北の大きな国と、太平洋の向こうの大きな国によって分断されたけど、本気で「北側の人達は悪魔」と言っている人は誰もいなかった。

 だから、このまま、平穏な日々が続いていくのだと、まだ、世界で何が起きているかもろくに知らなかった、幼い時の私は信じ切っていたのだ。

 しかし、私と、蓮ちゃんの、鉄条網越しの逢引きが、引き裂かれた時から、既に、私の甘い考えとは、全く逆の方向へ、この国も、歴史も動き始めていたのだろうと思う。

 「もう…、『南側』とは一切関わるなって、命令された…。今までは大目に見ていたけど、国の方針っていうのが厳しくなって、『南側』とは交流してはいけないって、村の方でおふれが出て…。だから、私がここに来られるのも、今日が最後…」

 蓮ちゃんに突然、そう切り出された時、私の頭は、彼女の言葉を理解する事を拒んでいた。何とか、その衝撃的な知らせを言い終えた彼女は、顔を押さえて、嗚咽を零していた。いつも、どんなに村での仕事がきつい時にも、弱音一つさえ零さなかった彼女が。その、日焼けした頬の上を、いくつも涙の筋が零れ落ちた。

 「そんな…」

 まだ、彼女に聞かせていない物語が沢山ある。今だって、彼女がくれた花で作った栞を挟んでいる本が、私の荷物の中にはある。二人で冒険する筈だった、物語の続きが。

 「嫌よ…!まだ、蓮ちゃんと一緒に冒険していない物語が幾つもあるのに。今、読み聞かせている物語だってまだ途中なのに…、蓮ちゃんがいなくなったら、私はもう、一人じゃ冒険も続けられない…!」

 鉄条網の網目に手を差し入れ、ぎゅっと、それを掴む。今まで、私と蓮ちゃんが同じ物語、同じ時間を共有するのに、何の邪魔にもならないと思ってきた、この鉄条網が、突如として、私から彼女を果てしなく遠くへと引き離す、巨大で分厚い壁に変貌してしまった。今も、涙の膜の向こうに、私と向かい合うようにして、こんなすぐ近くに、蓮ちゃんが網目を掴んで立っているのに。

 「ごめん…、でも、もう、私にはどうする事も出来ないんだ…。もうすぐ、この辺りも銃を持った兵隊さんがいっぱい来て、すごく、見張りも厳しくなって、近づけなくなるから…。そうなったら、ここに近づけば沙苗だって、危険な目に遭ってしまう。もう、今までとは、変わってしまったから…、終わりにしよう」

 私達は無力で、二つの国の間で起きつつある大きな変化に、何も抗う力なんてない事は分かっていた。だけど、このまま、彼女との繋がりが絶たれるなんて耐えられなかった。

 「この花…沙苗にあげる」

 いつものように、彼女が、私へと網目を潜らせて花を渡す。彼女の手にある、二輪の花のうちの、一輪が私の手に渡る。

 「いつ、また、ここに来られるか分からないけれど、この花を、私も栞にして持っておくから。沙苗がいつもそうしてるように。私達の冒険と、時間は、まだ終わりなんかじゃないっていう、その証として。沙苗も、その花を見たら、私の事を思い出してほしい」

 貴女の事を忘れられる筈がない。この花は、必ず栞にして、大切にとっておく。今日、ここで途切れた私達の物語。それをいつでもまた再び始められるようにという、祈りを込めて。

 「それとね…、沙苗にあげたいものが、今日はもう一つあるんだ」

 大事に花を胸に抱いていた私に、蓮ちゃんはそう言った。そして、彼女は私に鉄条網の傍に、ぎりぎりまで近づくように言った。言う通りにすると、目前まで、鉄条網の網目が迫って来た。

 「そのまま、顔を近づけていて。目を閉じて」

 私は、目を閉じる。次の瞬間、私は、自分の唇に、柔らかく、温かい物がそっと重なるのを感じた。それが何であるか、今、私は蓮ちゃんに何をされているのか、目を開けずとも、私は、すぐに察する事が出来た。蓮ちゃんは、鉄条網の、網目越しに私に口づけをしてくれたのだ。

 「…これが、私からの、もう一つのあげたかったもの…」

 彼女は、気持ちの乱れがそのまま表れたかのように、声を震わせて、そう言った。

 どんなに高い鉄条網でも妨げられない、お互いの手以外にも、触れ合える場所がもう一つあったのだ。そして、この行為を受け取った瞬間、私は、蓮ちゃんが言えずにいた思いも、受け取る事が出来た。

 「私も、この鉄条網の、向こう側…、沙苗と同じ側に生まれて…、恋がしたかった。私の手でもっと沙苗に触れたかった…。でも、それはもう、ここで言ってもどうしようもない話。だから、せめて、この口づけだけなら、鉄条網だって邪魔出来ないから、あげたかった。沙苗に、手以外で触れられる、たった一つの場所だったから」

 その言葉を、別れのはなむけのようにして、後は、何も言わずに、蓮ちゃんは、去って行った。ほんの一瞬、何よりもお互いに近くにあった、私と彼女の唇は、また、遠ざかっていく。絶対に越えてはならない、二つの国を引き裂く鉄条網の向こうに。

 彼女の唇が、微かにしょっぱい味がしたのも私は忘れない。この口づけの記憶を、二人の物語を、いつでも、再び始められるよう、願いを込めての栞にした。

 

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