最期

 佳鈴声よしすずこえの葬儀には、海勇魚船わたないさなふねに住む人々の多くが参列した。

 佳鈴声自身は引っ込み思案なのもあって、けして人付き合いが多かった訳ではない。しかし人々は彼女こそが彼人かのと等の主神を栄えさせた者であり、それ即ち自分達が孤立した海の上での健やかな生活を支えてくれた偉人であると知っている。

 統木すばるきの成長で葉がざわめく度に、統木が汲み上げる泉の水が溢れそうな程に膨らむ度に、統木の花が次々と綻ぶ軌跡を目の当たりにしてその香海こうみに包まれる度に、根が広がる振動が海勇魚船に伝わる度に、海勇魚船に住まう人々は佳鈴声の歌が統木の花嫁を満たしたのを知るのだ。

 そしてその歌の素晴らしさは、後から雲手弱くものたおや達が書き記して張り出されたり今言いまこと達が詠み聞かせたりして人々に知らしめられた。

 葬儀に集った民の多くが、佳鈴声の姿を始めてみた。けれどそれは生前よりも細く萎れた亡骸で、花の散った後のがらを見るのに等しい。

 それでも神の威光勢力を高めた佳鈴声の顔は息を引き取った後も柔らかに微笑んでいて、人々の中には故郷で見た桜の、花弁が全て吹き払われた後に残る咲き殻の色濃く鮮やかに紅く目を惹き付けるのを思い出して涙する者もいた。

 佳鈴声を直接知らぬ人々でもそれだけ親身になって彼女を弔いに来たのだから、普段から彼女と触れ合ってその人柄を知る女房達は、それこそ声を失う程に悲しみ、或いは涙も喉も涸れてなおも嘆く。

 佳鈴声を始め、身寄りのない孤児だった者達の教育に携わった二人の女房も静々と人々に道を開けて貰い、顔が衆目に触れぬように扇で隠しながら、佳鈴声の遺体の側へと近寄ってきた。

 いつもは佳鈴声の姿を見るなり二人で交互に囃し立てて可愛がっていた彼女達も今は感情を失くしたままに褪めた顔で、自分達より一回りも年の若かった少女の体を見詰める。

寶船たからぶねななかみらにともするも、人の命の定めあるとは」

 貴族の元に生まれた女房の一人が、佳鈴声の死を嘆く。

 幸せを人に運んで来る寶船に七つの神の供として乗っている、そんな栄誉を賜る人は間違いなく人として優れた善人である筈なのに。それでも人の命は限りがあり死は定められた必然であるだなんて、どうやって信じられようか。ましてその中で最初に死んだのが最も神に愛され神に奉仕した、うら若く寿命もまだ長いような、少なくとも自分よりは長く生きて然るべき少女である。

 嘆かわしいだなんて言葉に出来ない程に人々の、そして神の心も悼んでいる。

「波にたちわが袖濡らすうたかたの浮世をたちて涅槃ととけり」

 そしていつでも鏡合わせのように寄り添うもう一人は、佳鈴声の死を祈る。

 波に旅立つというあなた。あなたを浚った波が立つ度に飛沫で袖が濡れる。それに波を見る度にあなたを想い涙でも袖は濡れる。そんな袖を濡らす海の泡ように儚く生の浮世を離れたのは、しかしよくよく考えれば苦しみと悩みがが次々とうたぐむ憂き世を絶ち切って、大海に例えられる涅槃の功徳へと誰より先に溶けて一つになったのであって、そして涅槃の境地が如何なるものか生き様で見せた末に死の姿の美しさでも人々に説いたのでしょう。

 そんなあなたは間違いなく悟りを得て救われたのだと今は想います。

 二人して抱いた相反していながらも確かに一つの気持ちを残さず過たずに伝える為に、二人はそれぞれに気持ちを表す歌を佳鈴声の最期に送り、そして冷たくなった肌を撫でる。その肌は死んでいるのに羨ましくなるくらいにすべすべとしていた。

 きっと統木の果実を最後まで口にしていたから病も体を傷められなかったのだろう、まして魂は煌めく艶やかさを損なわなかったのだろうと二人は感じて、お互いの顔を見合わせて頷き確かめ合った。

 そこへ統木の花嫁が花夫はなづまに付き添われてやって来た。

 二人は惜しむ事なく身を引いて、大事に思う妹のような彼女を正しく安らぎへと導いてくれる神霊へと亡骸を委ねる。

「悔いはなきや?」

 花嫁が人々に思う存分別れを済ませたのかと問う。

 嘆きの声を波に消される者もいる。

 嗚咽を陽光に曝される者もいる。

 けれど、ただ黙して佇む二人の女房を始めとして、誰もが遠巻きになって近付こうとする者はいなかった。

 花嫁はここまで手を取ってくれていた花夫に目配せをする。

 妻の意を受け止めて、花君はなぎみは佳鈴声の亡骸を通り過ぎて腰に佩いた太刀を抜く。

 夏の陽射しを白く跳ね返す刃を花君は三度振るった。

 生きる者を治める人の神が、死を齎す刃によって境界を切り、死者と生者を分かつ。

 太刀を顔の前で構え天へと掲げる航津海わたつみの征嗣国主ゆきつぐくにぬしのみことの背後は、今ばかりは死の場であり、彼が見守る前方のみが生者が在るのを許された現世うつしよになる。

 花嫁は花夫の背中に向かって悠然と歩み出し、そして佳鈴声の華奢な体を軽々と抱え上げる。

 美しい所作で踵を返し、花嫁は自らの神体である神樹を伝って海へと向かって降りていく。

 その先には予め海の波に浮かべられた神樹の葉が揺れていた。小舟にも見紛うような大きさのその葉は数人が乗っても沈みはしない。

 神樹の葉は波に流されて行かないように、今は未だ神たる千々万束ちぢよろづかの生綱きづなによって海勇魚船に繋がれていた。

 千を超えて千切れても元の神威を保ち万の拳を重ねるよりも更に長く伸びるこの命綱は、普段は遠くへ漁へ出る船を海勇魚船に繋いで絶対の帰還を約束するものであり、今は死に逝く者を最期に繋ぎ止める要の、正に命の綱となっている。

 航津海わたつみの統木大神すばるきおおみかみは、佳鈴声の軽い体を片手で抱え直しあめの千々万束ちぢよろづかの生綱きづなのみことを空いた手で手繰り寄せる。

 花嫁がそっと亡骸を自らの葉に乗せると、とぷんと波が一滴跳ねて鳴いた。

 花嫁は右手で生綱を握り、左手を葉に掛ける。あとは左手を少し押してやれば、佳鈴声は安らぎの眠りへと旅立てる。

 それなのに、花嫁はしばしの躊躇いを見せる。

 じっと佳鈴声の痩せ枯れた体を、血の巡りも赤味も失った肌を、息を終えらせた口許を見詰め続ける。

 それでも。

 ああ、それでも。

 生きる事が歓びであるのと同様に安らかなるまどは慶びである。

 人は生まれて先ずは嘆き吠えて、死する時には静かに黙る。

 波が立つようにして生きて、波が鎮まるように死ぬ。

 生き続ける者は不幸である。死に続ける者が無価値であるのと斉しく。

 生を言祝ことほぐのなら、死をまつらねばならない。

 人よりも神である花嫁はよくよく真実を弁えていた。

 弁えていても、頬を伝う雫を海に落とさずにはいられなかった。

 花嫁は深く、静かに息を吸い、吐く。

 生綱を強く握る。それに応えてみことたましいは自ら解けて死者を乗せる神樹の葉を解き放った。

 しかし花嫁の左手は何時からか、佳鈴声の乗る神樹の葉を掴んでいた。それをまだ離せなかった。

 花嫁の嫋やかな五つの指だけが佳鈴声が死に逝くのを繫ぎ止めている。

 波が揺れる。

 波は海勇魚船を押す。

 波の音は常に耳に届く。

 海勇魚船神わたないさなふねのかみを根で抱く航津海統木大神の神体も、波の飛沫を受け波の音に触れている。

〈わたつみの〉

 その波と波の狭間に。

〈ふねおすなみの〉

 鈴の音のような声が。

〈よるべには〉

 気のせいのようにも思える。

 願望が勘違いをさせているとも思えてしまう。

〈ふねたつくにの〉

 けれど、人は思い違いをして聞こえてもいないものを聞く事もあるが。

〈きしもあるらむ〉

 神は全ての真なるものを認識する。

 航津海統木大神は波の音に託して象られた佳鈴声の辞世の歌を確かに聞いた。

 その歌の間に花嫁の指は解かれていた。

 いつの間にか佳鈴声を乗せた神樹の葉は波に揺られ、左右に傾きを繰り返しながら、海津空わたつそらへと遠ざかって行く。

 花嫁は佳鈴声の最期の姿を、波が高く立って神樹の葉を飲み込むその瞬間まで、刹那も見逃さずにそこに立ち続けていた。


【最初の死者】 了

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統木の花嫁、海を征く 奈月遥 @you-natskey

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