チョコレートストリート

 弟が大学に入学した2020年、コロナで大学は事実上封鎖され、全ての授業がオンラインとなった。だから弟は毎日家にいる。

 父母は現場仕事なので毎日通勤しているが、私の職場では春からテレワークが導入された。なので、実家住まいの私も結構家にいる。

 WiFi環境の良いリビングのテーブルにパソコンを並べ、日中私と弟は向かい合って座っている……はずなのだが、向かいに弟の姿を見ることはあまりない。その辺で寝っ転がってスマホで動画を見たりゲームをしているからだ。あるいはそもそも起きてきていない。


「ごろごろするなら自分の部屋ですれば?」

「部屋が汚くて落ち着かない」散らかしたのはお前だ。

「仕事してるんだから静かにして。動画うるさい」

 弟はおもむろに黒と金に光るスタイリッシュなワイヤレスイヤホンを取り出す。入学祝に親にねだって買ってもらった3万円以上するやつだ。高音質を誇るそのイヤホンで弟が聞くのはもっぱらお笑い動画とラップバトルである。

「音楽を聞かないんだからその高性能は無意味でしょ」

「でもこれノイズキャンセルすごいんだぞ」

 イヤホンをした弟が動画を見ながら盛大にギャハハと笑う。弟の声ノイズを遮断するのにそのイヤホンが必要なのは私の方だ。


「あんた、オンライン授業受けなくて大丈夫なの?」

「講義は録画されたのを視聴する形式だから、いつ見てもいいんだ」

「いつ見ても視聴なんかしてないじゃない」

「大学では勉強なんてしなくていいんだよ」

 そんなわけないが、なぜか弟は自信満々である。試験前に去年のテストが先輩からまわってくるとか単位を取りやすい講義の情報を教えてもらえるとか考えてるのかもしれないが、コロナで大学に一歩も足を踏み入れられず、友達の一人もできていないのに。

 試験で合格点を取らないと単位はもらえないよとか、1、2年の間に取れるだけ単位を取った方がいいとかいう姉の真っ当な忠告を、弟はノイズと判断して聞いちゃいないようだった。


 その日は会社へ出勤し、家に帰ってくると弟が珍しくパソコンで講義を見ていた。そういえばそろそろ大学に入って初の前期試験の時期か。テストはいつ? と聞くと、「話しかけないで。テスト今日だから。話してる暇ないから」という。”今日”が終わるまであと数時間。

「まさか大学に入ってからも勉強するなんて……」驚いた様子で弟がつぶやく。私の方が驚きだ。試験当日まで講義を一コマも見ていないなんて。勉強しなくても卒業できるだなんて馬鹿げたことを本気で思っていたのだろうか。


「留年したら授業料無駄になるんだよ。真面目にやりなよ」

「真面目にやってる。ほら」

 弟がにゅっと突き出した手の中には眠気覚ましのブラックガム。弟のなんてこのガム1枚分くらい薄っぺらい。


 日付が変わる真夜中に、リビングのドアの向こうから弟が「ぎゃーーー!!!」と叫ぶ声が聞こえた。私はばからしくてあえて何も聞きに行かなかった。


 翌年の春ついに対面授業が始まり、1年遅れで弟のキャンパスライフが始まった。当然といえば当然だが弟は毎日とても楽しそうだ。早速できた友達とスポーツジムにも通い出したらしい。家でもダンベルをせっせと持ち上げたりしてるので、なんで筋トレ? と聞くと「もてたいからに決まってる」と当然みたいに言う。


「ところで進級できたの?」

「進級は全員できる。単位が足りなかったら4年で卒業できないだけで」

「あんた4年で卒業できるの?」

「それは卒業するまでわからない」


 実は弟の大学は、私の卒業した大学より偏差値が高い。難しい数学の筆記試験を突破する頭があるのだから、単位の逆算くらい目をつむってでもできてほしいが、前期分の講義を1日で見るのは無理だという単純な計算もできないのだから、それとこれとは話が違うのかもしれない。


 両親は弟に成績を見せろと言っているが、成績証明書は学生課にある専用端末に学生証やIDを入れて自分でプリントアウトしなければならず、弟は「学生課に行くの忘れた」とかなんとかとか言って一向に持ち帰ってこない。だから弟がどの程度大丈夫なのか大丈夫じゃないのか私達にはわからない。


 進級は全員できるのでこの春弟は大学4年生になった。私は昨年転勤で実家を出て、今は少し離れた場所で一人暮らしをしている。


 5月のある日母から、弟が早くも内定をもらって就職が決まったと嬉しそうな声で電話がきた。順調過ぎて正直驚く。弟がちゃんとやっているのかひそかに心配していたのだ。でも、弟が頼りなく見えていたのは単に6つの年齢差からくる私の思い込みだったのかもしれない。実は意外にしっかりしているのかもしれない。

 来年の春には弟も私と同じ社会人だ。私が育てたわけでもないのになんだかしみじみ感慨深い。


 私は夜弟にラインしてみた。

「第一志望から内定もらったんだって? すごいじゃない」

「すごいだろ」

 マッチョがドヤ顔でポーズを取るスタンプが連打で届く。ちょっと気持ち悪い。

「なんかお祝いちょうだい」

「あげるあげる。よくがんばったね」

「うん、がんばってる」

「え? なにを?」

「就職に卒業要件があるから、卒業できなかったら内定がなくなる」

「卒業できないの?」

「それは卒業するまでわからない」

 

 母によると弟は最近真面目に勉強しているらしい。でもそれは、ではなくなのだと思う。だからあれほど言ったのに。でも仕方ない。弟は姉の言うことなんかきかないものなのだ。


 次の帰省にはとりあえず、内定祝にブラックガムをエコバッグいっぱい持って帰ってやろうと思う。来年の春、弟が私と同じ社会人となるために。

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