天国と地獄

西順

天国と地獄

 これで何連勤だろうか? 私は所謂ブラック企業で働いている。この日も朝早くから働き、帰りは日付けを跨いでの事だった。


 ああ、辞めたい辞めたい辞めたい。しかし今抱えている案件を片付けるのに忙殺されて、辞表を提出する暇がないのだ。もっと人を増やして欲しいのだが、上司は聞き入れてくれず、俺がそんな風に辞られずにいる間に、同僚や後輩たちが次々辞めていくので、その分の案件までこちらに回ってきてますます辞める機会を逸しているのは否めない。


 この日もそんな風に頭の中で毒づきながらも、仕事の疲れで眠りそうになるのを何とか持ち堪え電車に乗っていた。


「〇〇駅━━、〇〇駅━━」


 自分が降りる駅名がアナウンスされて、ハッとして目を覚ます。いつの間にか眠りこけていたらしい。俺は飛び起きて電車から転がるように下車した。


 地下にある駅のホームには誰もいない。今日は自分が最後の利用客だったらしい。俺は運良く寝過ごさなかった事にホッとしながら、誰が見ている訳でもないのに、転がるように下車した事など無かったかのように、普段より背筋を伸ばしてホームの階段を上っていった。


 長い階段だ。本当ならエスカレータを使いたい所だが、ここ最近はでっぱり始めてきたお腹を気にして、階段を歩いて上り下りする事にしている。


 しかし長い階段だ。こんなに長かっただろうか? 上っても上っても上階に着かない。それどころか見上げてみると階段の先が光っていて見通せない。おかしい。長い階段とはいえ、上階の影も形も見えない構造じゃなかったはずだ。駅を間違えたのだろうか? 今からでも引き返してホームで駅名を確認した方が良いかも知れない。


 そう思って振り返ったら、そこには闇が広がっていた。ゾッとした。何せその闇がホームの階段を壊しながら迫ってくるのだ。俺は闇から逃げるように上階へ向かって駆け出した。体裁なんて気にしている場合ではない。俺はネクタイを解き、上着を脱ぎ捨て、光って見える上方へ向けて階段を走り続けた。


 いつまで走り続ければ良いのか。いつまで階段を上り続ければ良いのか。そんなものは階段に聞いて欲しい。上は光で下は闇。しかも下の闇はこちらへ迫ってくるのだ。それでは上へ走る以外に選択肢はない。


 走って上って走って上って、必死に上っているうちに、上の光は輪郭を帯びてきた。するとどうだろうか。上階に広がるその光景は、陽光が差し込む美しい庭園で、そこでは蝶や小鳥が舞い踊り、中央にあるあずま屋では数名の美男美女が談笑している。その美女の一人がこちらに気付き、手招きしてきた。


 ああ、楽しそうだなあ。と俺は足を止めていた。二の足を踏んだ。と言った方が正確だろう。このように美しい庭園で、あんなにも楽しそうな美男美女の中に、俺のように他人を毒づくしか能のない人間が混ざっては、奇麗な絵画に腐った卵を投げ付けて台無しにするようなものではないか。そう思ったらそれ以上先に進むのを体が拒否してしまったのだ。そして俺は闇に追い付かれ、意識を失った。


 次に目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。俺を診てくれた医者の話では、俺は駅のホームでいきなり倒れ、この病院に運ばれてきたそうだ。しかも一時心肺停止となり、生死の境をさまよう危険な状態だったらしい。


 その後色々と検査をしたが、少し太り気味である事以外、これと言って悪い箇所も見当たらなかったのでそのまま退院となり、俺は元の生活に戻る事となった。いや、違うな。


 俺は会社を辞めた。数日会社に出勤しなかったけれど、別に俺がいなくてもこの会社は回っていたからだ。俺の代わりに同僚や後輩が分担して仕事を肩代わりしてくれていたようだ。それってつまり、俺に仕事を押し付けて、お前らが楽をしていたって事だよな? その事実に気付いた俺は、皆が必死に止めるのも聞かずに会社を辞めた。


 今は失業手当を貰って次の仕事を探している。どこで噂を聞き付けたのか、昔の同僚たちから、うちで働かないか? と幾つも誘いを受けているが、全部断っている。何故って? どうせ俺をこき使ってやろうと言う魂胆が丸見えだからだ。失業手当は一年は貰えるみたいだし、前の会社で働いた分の貯金もある。仕事はゆっくり探すとしよう。


 こんなにのんびりしたのは大学生以来だが、思い出すのは、あの夜のあの光景だ。この世のものとは思えない美しい光景だった。もしもあの先に進んでいたら俺は……。いや、考えるのはよそう。今はこの天国のような時間を謳歌するのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天国と地獄 西順 @nisijun624

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画

同じコレクションの次の小説