殺人教室 ——今日の授業は人間不要論——

畑中雷造の小説畑

殺人教室——今日の授業は人間不要論——

〇星守教の山神太一


 1


ここ北海道南幌町立美園高等学校は、明日の卒業式を最後に閉校することが決まっている。そして今日は卒業式の前日、予行演習日。教員たちも有終の美を飾るため、全員が予行演習に参加する予定だ。

「そうだ、せっかくだから先生方だけで記念撮影しませんか?」

 山神は職員室の真ん中で、全員に聞こえるように言った。教員は今日、八人全員が出勤してきていた。

「いいですね」

 山神の前に座っていた古文の女教師が賛同したことで、全員が一度手を止め、職員室の真ん中の通路に集まった。

 山神は、まず自分が撮りますと手を挙げ、通路付近に集まった教員たちから離れた。五歩ほど下がったところでスマホを構えた。

「あ、立花先生、もうちょっと右に。佐川先生もっと寄って……!」

「え~? こうですか~?」

「そうです、あ、でも、もっと全体的にコンパクトにお願いします!」

 山神の指示に従い教員たちは体を寄せ、ほどよく雁首をそろえた。

「すみません、僕の言い方が悪いですね。ちょっと……」

 場所の微調整をするように見せかけ、山神はスマホをいったん机の上に置いて教員たちのほうへ歩いていく。

 両端にいる教師を内側に動かした後、満面の笑みを作った。

「いいね」

そして凶器を懐から素早く取り出し、山神を除く七人の教師たちの首を一瞬のうちにかっさばいた。

 ——ズシャッ!

 山神の頭に、血のシャワーが降りかかる。首を押さえもがき倒れる教頭、目を見開いたまま額から床に落ちる女教師、手を伸ばしながら、口をパクパクと動かす男の教員……。

 ——ああ、やっぱり首を切るのは一番気持ちがいい。

 久しぶりに殺しの味を堪能し、山神は喜びを感じた。両手を広げ、深く息を吸う。

鼻腔を通って肺に入ってくる血の味が、本来の自分を呼び起こしたような気がした。

山神は昨日かかってきた電話を思い出す。

『久しぶりだな、太一』

『お久しぶりです。どうしたんですか』

『朗報だ。日本での準備が整った。明日から仕事に取りかかれ』

『……え? 本当ですか?』

『ああ、三年間も待たせて済まなかったな。だが、もうすべての機関は星守教に堕ちた。あとは実行するのみだ。……もしや任務の内容、忘れてないだろうな?』

『いえ、ご安心を。いつでも始められるよう、片時も準備を怠ったことはありません』

『ならいい。詳細は追って連絡する。期待しているぞ』


 赤く濡れた手でスマホを手にした山神は、外で待機している仲間に連絡する。

「邪魔者は排除した。入ってこい」

 通話を終え、腕時計を見ると、八時十五分だった。もう教え子たちは教室に集まってきているころだろう。

 ——ああ、楽しみだ! あいつらのことも、これからの人生も! 

 肉の塊となった元教員仲間たちを跨ぎ、山神はシャワー室へ向かった。


〇いじめられっ子の佐々木高志


 1


 佐々木の鼻面に、雪のついた靴裏が叩きこまれた。一瞬の浮遊感の後、後頭部と背中が冷たいものにぶつかった。

目の前には二人の男子生徒がおり、その後ろには高さ二メートルほどの薄緑色のフェンスが見える。朝だというのに日が差していないのは、この場所が校舎裏に位置するからだ。

佐々木の背後にあるクリーム色の校舎の壁は、大量の雪で白く染まってしまっている。地面も同様、白で覆われている。

蹴られた佐々木は、鼻から温かいものが垂れてくる感じがして手をかざした。だが間に合わなかった。白銀の地面に赤い点が二つできた。

——最悪だ、鼻血出てきた……。

佐々木は鼻を押さえ、片目をつむりながら上体を起こした。目の前に立つ二つの影を見上げた。

舌打ちをし、薄茶色のブーツを地面にこすりつけているのは吉田和真という男だ。バスケットボールで鍛えられた肉体は縦にも横にも大きく、一般人よりも太い首の上に、小ぶりな頭が乗っている。側頭部は青く刈り上げられており、短い前髪は整髪料で立ててある。

 吉田の隣には、吉田と親しげに話す糸目の男がいた。河崎拓也である。平均的な身長だが、その割には痩せている。吉田と対照的に髪には何もつけていないようで、凍える風がときおり、そろった前髪を揺らしていた。

「ねえ、もっとやろうよ。仕置きが足りないって」

「こんなカス、殴る価値もねえよ。つか我慢できなくて蹴っちまったけどな」

 いまだに蹴ったほうの足を雪にこすりつけている吉田は、眉間にしわを寄せている。その様子を見ていた河崎は、吉田のコートの袖をちょいと握り、残虐な目を向けた。

「いいから、やろう?」

 喧嘩でもスポーツでも吉田に勝てるものなどいない、というのが美園高校での通説なのだが、こと残虐性に限っては違った。つまり、頭のネジがぶっ飛んでいるのが河崎なのだ。

日々いじめられている佐々木にとっては、フィジカルの強い吉田よりも、いかれている河崎のほうが天敵だった。

 吉田はため息をついた。

「ったく、わかったよ。……まあ俺の女に怪我させたんだ、これくらいじゃ済まないのは当然だ」

「そうこなくっちゃ! じゃ、次俺の番ね~」

 指を鳴らしながら、河崎が雪を踏みしめて近づいてくる。ふだんの河崎の糸目とは違い、奥のほうに強い嗜虐の感情が佐々木には見えた。逃げ場をなくした弱者を狩る、獣のような笑みを浮かべている。

尻もちをついている佐々木の前に立った河崎が、黒いブーツの先端を佐々木の顎に当てた。

「立てよ」

 佐々木は言うとおりに立ち上がる。ここで抵抗したら、もっとひどい仕打ちが襲いかかってくる、と心が知っているからだ。

 泣きそうになる気持ちを押さえ、佐々木は突っ立って、自分よりも一回り高い視線と目を合わせる。

口角を上げた河崎が利き手とは反対の腕を伸ばし、佐々木の襟を掴んだ。

軽く持ち上げられる感覚。最低限の防御として、歯を食いしばる。

引き絞った拳が、佐々木の頬を打ち抜いた。幸いにも非力な河崎の拳は、口内を切るだけで済んだ。吉田の拳ではこの程度で済まなかっただろう。だが連続して撃たれていくうちに、血の味がどんどん濃くなっていった。

 何度目かの拳の往復が、後ろで待機していた吉田の声で止まった。

「拓也、そろそろ交代だ」

「え~、もう~?」

 最後にもう一度、今度は腹に衝撃がきた。河崎は襟から手を離し、いつもの笑顔を佐々木に向けた。

「おまえってさ、ムカつくとか、そういう感情なくしちゃったの? もっと前みたいにさ、こっちを楽しませるような顔しろよ、つまんない」

 憎たらしいその表情とセリフに、佐々木は歯をあらん限りの力で食いしばったが、それでも睨みつけたり拳を握ったりすることはなかった。

——明日で終わりだ、だから我慢だ我慢。

 涙や苦しい表情を見せると河崎はテンションが上がるので、佐々木は心の奥底に感情を封じ込めた。

 片手をポケットに突っ込んだ河崎が、首を鳴らして歩いてくる巨漢とハイタッチをして交代した。河崎より遥かに高い位置から見下ろす吉田のこめかみとおでこには、はちきれんばかりの太い血管が浮き出ていた。佐々木の眼前に立つと、吉田は佐々木の髪を掴んで持ち上げた。

「さっき冷静になってみたら気づいたんだけどよ、お前、謝罪の一つもしてないよな。普通人の彼女に怪我させたら、彼氏に謝るよな。ああ⁉」

 髪が引っ張られて頭皮が焼けそうなくらい痛い。佐々木は即答した。

「ごめん」

「それが人に謝る態度か?」

 自分で持ち上げたにもかかわらず、吉田はその太い腕で力任せに佐々木の頭を沈めた。

「いいか? ごめんだけじゃ何に謝ってるのかがいまいち伝わってこねえんだよ。ちゃんと俺の彼女に何をしたのかを言ってから、それについて謝れ。——土下座でな」

 首がもげそうな威力だった。後頭部が上から強く押され、額が硬い雪の地面に激突した。鼻血が勢いよく吹き出す。

貧血のようにくらくらするなか、前方の薄茶色のブーツに焦点を合わせる。吐きそうになりながらも息を整え、謝罪の言葉を口にした。

「昨日、ぼくは橋本さんを怪我させてしまいました。すみませんでした」

 結果的に怪我をさせてしまったのは事実だが、実際佐々木は橋本を助けようとしたのだ。

——昨晩、佐々木家の鮮魚店に買い物に来たクラスメイトの橋本杏奈は、レジ打ちをしていた佐々木からレシートをもらい忘れた。佐々木は呼び止めたが、彼女はイヤホンをしていたので気づかず、そのまま店を出て行ってしまった。佐々木はレシートを渡すために追いかけた。

 狭い通路を通って帰ろうとしていた橋本の背中に追いついて肩を叩いたとき、突然、屋根の上にあった巨大な雪庇が橋本の頭上に落ちてきた。そのことに気づいた佐々木は咄嗟に彼女を突き飛ばし、雪の塊から守った。しかし結果的に、橋本は氷の地面に腕を擦り、怪我をしてしまったのだ。

——というのが真実で、佐々木が何もしていなかったらもっと酷いことになっていたかもしれないんだよ。……とは言えなかった。言い訳や口ごたえと取られて、火に油を注ぐことになってしまうからだ。

額を地面にこすりつけようとするが、その前に硬い感触に阻まれる。

「ちゃんと言えよ。どこをどんなふうに怪我させたかを」

 吉田の靴の先端が、怒りに満ちた力で跳ね上がる。佐々木の額は蹴り上げられた。眉間にしわを寄せた吉田の顔と、少し離れて笑っている河崎の顔が視界に入り、脳が揺れた。

「……手のひらと手首に擦り傷、あとは腕も打撲しているかもしれないです。すみませんでした」

 土下座すると、今度はどこにも痛みはこなかった。どうやら回答に成功したようだ。誠意が伝わったのかもしれない。——そんなものを佐々木は一度も二人に向けたことがなかったのだが。

 いいと言われるまで地面につけていようと思っていた頭が、しゃがみ込んだ吉田によって、強引に引きはがされた。近くに寄せられた獰猛な肉食獣のような眼が、佐々木を射抜いた。

「次やったらマジで殺すからな」

 ゴミを捨てるように投げられた佐々木は、よし、これで終わりだ、と安堵した。もちろん内心の怒りは計り知れない。

だが今日と明日で高校生活が終わるという素晴らしい理由があるので、佐々木は耐えることができた。それどころか、もうこいつらと会わなくて済むようになる、と逆に嬉しい気持ちになりさえした。

吉田と河崎が去っていくのを確認すると、佐々木は鼻をつまみ、口に溜まった血の味を雪で薄め始めた。鼻血は寒いからか、すぐに固まった。

雪の冷たさと痛みの熱が交互に襲ってくるなか、佐々木はなんとか体を起こした。膝に手をついて立ち上がり、深いため息を吐く。自分の口から出た白い息を眺めていると、その先にどんよりとした雲が見えた。まるで佐々木の人生を物語っているようにも思えた。

——はあ、ぼくの人生って、ほんとあんな感じだよな。

 佐々木は体についた雪をはらい、冷たいポケットからスマホを取り出した。画面を鏡代わりにして傷跡に雪を当て、血が目立たないように薄くしながら歩いた。

校舎裏から表に出る角に差しかかろうとしたとき、こちらに向かって走ってくるような足音がした。佐々木は動きを止め、スマホをズボンのポケットにねじ込んだ。

——まさか、また戻ってきたのか。

 その予想は見事に的中した。まるで子供のような無邪気な笑顔で、河崎が戻ってきた。

「いやさ、なんで帰ってきたって、そう思ったでしょ? さっき教室に行く間に考えてたんだよ、卒業の思い出になるもの、何かないかな~ってさ。そしたら、いいアイディアが浮かんできてね?」

 気色悪い笑顔で、吐き気のするセリフを口にする河崎。そろった前髪を全部引きちぎりたくなったが、それはしない。黙って異常者の言葉が終わるのを待つ。

「気持ちよくて、忘れられないものがいいなって思ってね~。……で、思いついた。お前の鼻を折る!」

 気持ちよくて、と聞いたとき、一瞬この場で犯されることを危惧したが、違う内容だったため少し安心した。冗談でもなんでもなく、そういうことをやる奴なのだ。

河崎は高一のとき、中学生をレイプしたことがある。狭い地域なので、蓋をしたつもりでもすぐに情報は漏れて出回ってしまうのだ。

河崎の腕が伸び、佐々木の左肩をがっしりと掴んだ。

「いっくよ~!」

 幼稚なかけ声を出しながら、河崎の硬く握られた拳が引き絞られる。嗜虐的な目と口が佐々木の目に映る。嫌だ、殴られたくない。

だがそう思う心とは別に、佐々木は自身の防衛反応を拒絶した。逃げようとする足、ガードしようとする両腕、そむけようとする顔面を意志の強さで固定し、拳が振り下ろされるのを待った。守ったり逃げたりすると、一発で終わるものも終わらなくなる、と体に染みついているからだ。

掴まれていた肩にかかる指の強さが増し、少し引き寄せられた。拳が一瞬のうちに大きくなって——

「何やってるんだ!」

 突如現れた声と同時に、河崎の細腕が上から掴まれた。

止めた腕の持ち主は森口翔太だった。空色のマウンテンパーカーを着ている。短髪を自然にセットしており、整った顔立ちをしている好青年だ。

腕を掴んだまま、森口が佐々木のいるほうに近づいてから言った。

「河崎君、やめてもらえないかな?」

「ちっ——」

 ふいに暴力を防がれ不満が溜まったであろう河崎は、森口を睨みつけ、なおも腕を下ろそうとせずに佐々木に殴りかかろうとした。しかし、河崎の細腕は森口の握力によって締めつけられる。

森口は中学までサッカーをやっていたこともあり、ひょろガリの河崎は痛みに耐えられない。

「わかったよ、痛いから離せ」

 最後に佐々木に糸目を向けた河崎は、ポケットに手を突っ込んでさっさと帰っていった。そのまま家にでも帰れ。そう思わざるを得なかった。

佐々木の肩に手を置いた森口は、心配そうな目をして佐々木の顔を覗き込んだ。

「大丈夫? ……って、うわっ、ひどいね……」

 ひどく驚き目を見開く森口は、佐々木のことを本当に心配しているようだ。佐々木は首を横に二、三振り、礼を言った。

「ごめん、ありがとう」

森口はいつもいじめられている人間を助けてくれる。父親が警察官だからなのか、正義感がすごく強いのだ。諭すように森口は続けた。

「高志君も、少しは抵抗しないと危ないよ。……あいつ、本当に手加減できないからさ」

「うん……ごめん」

 いつものように佐々木は俯いて答える。その上から、ため息を吐く音が聞こえた。

——強者はわからないんだ。抵抗したらもっと暴力は強さを増す、ということを。

森口にそれを説明しようとは思わないが、いつも助けてくれるのは本当に感謝している。森口の心配そうな目を見て、佐々木は重ねて礼を言った。

「いいよ、困っている人がいたら助けるのは当然だよ。それより、もうそろそろ教室に向かったほうがいいね。行こうか」

 佐々木の肩を軽く叩いた森口は、爽やかな笑顔を浮かべて歩き出した。その笑顔を見て、やっぱり自分とは違う世界の人間だな、とあらためて感じた佐々木は、とぼとぼと後ろをついていった。


 2


 階段を昇り、二階の三年一組の教室の前についた。相変わらず節電のためか廊下には電気がついておらず、薄暗かった。教室のドアから漏れ出ている光と騒々しい声が、久しぶりに学校に来たことを実感させた。

 一月ごろから自由登校になったことで、佐々木はここ二か月ほど、家に引きこもっていた。

だが、今日は卒業式前日、予行演習の日。二月二十八日だ。明日の本番で恥をかかないためにも、佐々木は渋々登校した。

森口から少し遅れて教室に入ると、寒い外とはうって変わり、暖かい空気が佐々木の顔に触れた。どうやら暖房を入れてくれているらしい。

入った瞬間、佐々木は違和感を覚えた。教室ってこんなに広かったっけ。立ち話をしている生徒が大半だが、床に座っている生徒もいる。——そう、椅子や机が一つもなかったのだ。

唯一あるのは教師が使う教卓と教壇のみだった。

だが、疑問はすぐに解けた。明日で閉校になるから、机や椅子はもうどこかに寄付してしまった、あるいは処分した、ということだろう。佐々木は一人納得した。

クラスの中心である森口が友人たちから挨拶をもらうなか、佐々木は一人で窓際に向かった。

窓際の一番後ろが佐々木の席のあった場所だ。教室の後ろにあるコート掛けに脱いだ上着をかけてから、もう椅子はないが、その辺りに行った。

顔を俯かせながらも久々に来た教室の様子を眺めてみた。

黒板には可愛らしいカラフルな字で『明日は卒業式!』と書かれており、周りには小さい字やら細かい絵やらが描かれていた。

黒の学ランと白のセーラー服をなんとなく懐かしい気分で眺めていると、聞き慣れた優しい声が近づいてきた。

「もう、またやられたの?」

 幼稚園のころからの幼馴染である、三上恵美(えみ)だった。ショートの黒髪はいつもさらさらで、笑うとえくぼができるのが特徴の女の子だ。

 またやられたの、というセリフからもわかるように、三上は佐々木がいじめられた後は、必ずと言っていいほど声をかけてくる。傷ついた顔をじろじろ見られる。

佐々木は視線を逸らし、意味もなく窓の外を見た。久しぶりに会ってなんだか恥ずかしいのと、また情けないところを見られた、という二つの理由で、彼女の顔を直視できなかった。

「もう、何黙ってんのさ。……はい、これ」

 つやつやと光る爪の先には、茶色い楕円形のものがつままれていた。佐々木は顔を上げ、三上の可愛いらしい顔を一瞬だけ見て首を横に振った。

「いや、いいよ」

 佐々木が怪我したとき用に、三上はいつも絆創膏を携帯していた。佐々木は、申し訳なさ半分、恥ずかしさ半分に遠慮した。だが、

「もう、よくないってば!」

 そう言っていつの間にか剥がした絆創膏を、三上は佐々木の額に張ろうとしてきた。周囲の目もあってさすがに恥ずかしいので、細い手首を掴み、それを阻止した。

「じ、自分でやるから……」

三上の指から絆創膏を奪い、スマホを取り出した。画面に反射した額を見ると血は止まっているが、痛々しい。赤い部分を隠すように絆創膏を張った。

「……ごめん、いつもありがとう」

 佐々木は照れながらもぼそっと礼を言った。

 いつもいじめられているのが恥ずかしくて情けないけれど、そのたびに三上は優しくしてくれる。こういう優しさが三上のいいところだ。

優しくされて思わず潤みそうになる目を隠すように俯くと、三上は温かい言葉をくれた。

「いいよわざわざお礼なんて、幼馴染なんだからさ、このくらい当然だよ。……もう、あいつらもホント懲りないよね」

 三上は教室の真ん中で騒ぐ河崎、吉田たちのほうを見た。

数人の男子たちと、吉田の彼女である橋本杏奈率いる女子集団たちが笑い合っている。クラスの中心である彼らは、騒ぐのが好きで好きでたまらないのだ。特に今日は自由登校明けで久しぶりに会う顔が多いからか、猿のようにはしゃいでいた。

 反対に森口が中心のグループは、落ち着きながらも親しげに会話している様子がうかがわれた。佐々木から見ても森口のグループのメンバーはいい人ばかりだった。

このクラスは大きく分けると、吉田たちのグループと森口のグループ、それ以外の少数グループ、一人でいるものに分けられる。佐々木はもちろん一人でいることが多い。

「ま、長かったけど、今日と明日で終わりだからさ、負けちゃだめだよ」

 優しい母のようなほほ笑みを浮かべた三上が、じゃあ行くね、と胸の前で手を振って、友人の安藤のところに行ってしまった。

 こういう優しさに対しての防御はもろかった。佐々木は窓の外を見るふりをして顔を誰にも見られないようにし、こっそり瞳を潤ませた。

 

 袖で目もとを擦った後、佐々木は楽しそうに会話する三上のほうを見た。やっぱり可愛いし、見ているだけでも胸がドキドキする。笑顔を見ると、特にそうだ。

ふと、今日と明日で制服姿の三上を見られなくなることに気づき、見納めのつもりでじっくりと眺めてみた。すると、さすがに気づかれたようで目が合った。手を振ってくる。

慌てて佐々木は視線を横にずらし、見ていないふりをした。ずらした視線の先に、友情を育むことに忙しい生徒たちが大勢いた。

——このクラスメイトとも、明日でお別れだ。

学ランと白いセーラー服をぼんやりと眺めながら、佐々木はなんだか感慨深い気持ちになった。

 ここ美園高校は、明日の卒業式を最後に閉校することになっている。急に決まった話でもなんでもなく、佐々木たちの代が入ってすぐに通達されていたことだ。

北海道の南幌町というこの地域は、二〇三〇年現在では人口減少に拍車がかかり、若い世代がほとんど住んでいない。

小学校のときは佐々木の学年も二クラスあったのだが、隣町の中学に進むものや、札幌に移住するものが後を絶たず、中学に上がると一クラスになってしまった。

中学を卒業するとさらに進路は分かれ、現在の二十五人だけが美園高校に入学することになった。転入してきたものは一人もおらず、全員が小学校からの知り合いでありご近所仲間であるため、仲が良いものが大半だ。

だが人間関係が変わらないということは良いことだけではない。佐々木は小学校からずっといじめを受け続けてきた。吉田、河崎、時には橋本率いる女子グループからもいじめられることがあった。

だから佐々木にとって高校の卒業式とは、華々しい青春の集大成でも、友との思い出を語り合う記念の日でもなく、いじめからの解放という、この上ない幸せの日なのだ。

明日が終わればもう学校から解放され、悪党と毎日顔を合わせることもなくなる。

佐々木は南幌町に残って実家の鮮魚店を手伝うつもりだが、吉田や河崎なども含めて、ほかの人はほとんど町から出て行く。大学に通うものが大半だ。ここから通うにしても、今までのように毎日顔を合わせることはなくなるだろう。

今日と明日を乗り越えれば地獄から抜け出せる。そう思うからこそ、今朝はどんなに殴られても泣かなかった。


 今日の卒業式の予行演習は、一旦教室に集合してから体育館に移動すると通達されていた。

早く終わらせて帰りたい、そんな思いでいっぱいだった佐々木は時計を凝視していた。やがて時計の針は八時三十分を指し、同時にチャイムも鳴った。チャイムが鳴り終わるころ、教室前方のドアの向こうから、白衣を着た人物が現れた。

「うい~」

 黒い名簿で肩をトントンと叩きながら、三年間担任として世話になった山神太一先生が教室に入ってきた。

今日もふだんと同じ、しわ一つない純白の白衣と、折り目のついた黒いスラックスに身を包まれている。

 眉にかかるほどの長さの前髪が似合っており、顔立ちも整っている。一回り年が違うはずなのに、大学生のように若々しく見える。

「山ちゃん久しぶり!」

「お、神センじゃん! おはよ~」

 橋本や河崎が友人感覚で話しかける。周りの生徒たちも山神先生のもとへ自然と集まっていく。

笑顔で生徒たちと挨拶を交わした山神先生は、一度腕時計を見た後、全員を床に座らせた。名簿を見ながら人数を確認していく。

「来てないのは……木野だけか」

「山ちゃん、愛里は多分ただの遅刻だと思うよー」

「遅刻かすら怪しいよね~」

「あー、あるあるー。だるいから休むわ的な?」

 橋本率いる女子グループが、友人の不良な態度を想像して笑い合っている。木野はふだんから遅刻や欠席を訳もなくする生徒で、特段珍しいわけでもないからだ。

教壇に立つ山神先生を見ると、うんうんと首を縦に振っている。それからいつものように柔和な笑みを浮かべて、先生は口を開いた。

「木野のことは放っておくとして、進めていくか」

「賛成だ。予行演習なんかだるいことさっさと終わらせて、早くバスケの練習してえからな」

「俺も帰って早く遊びた~い!」

 吉田が足を投げ出した座り方で、河崎は真っすぐ上に手を突き出して賛同した。佐々木も同意見で、一刻も早く家に帰りたいと思っていた。

ほかの生徒たちからも特に反対意見が出ることもなく、木野抜きで卒業式の予行演習を始めることを全員が同意したようだった。

「じゃあ、始めるとするか」

 何か前までの山神先生とは違う、異様な雰囲気を出したと思ったのは、佐々木だけだっただろうか。優しい目の奥で不気味に存在を主張する黒いものが見えた気がした。

 せっかちな何人かが、先生の言葉を体育館に移動するという意味で捉えて起立する。周りも同調し、廊下に出ようとした。

「今日の卒業式予行は中止になったので、代わりにいい授業をしようと思う」

 その言葉に、立ち上がった全員の足が止まる。すべての顔が山神先生に向けられる。

「今日の授業は人間不要論だ」

 先ほどまでの表情とはやはり違い、まるで悪魔が憑いたような凶悪な笑みが張りついていた。先生の別人のように豹変した雰囲気を感じ取ったのか、全員が凍ったように動かなくなる。

「先生? どうしたんですか?」

 そんななかでも口を開いたのは、クラスの中心女子、水谷夏海だった。快活な瞳を山神に向けている。教室の後ろにいたからか、山神先生の豹変ぶりに気がついていないのかもしれなかった。鋭い目つきが、教壇の上から水谷のほうを射抜く。

「どうした、か。……まあとりあえず戻れよ」

 何か喋りかけてはいけない雰囲気を感じ取ったのか、生徒たちはひそひそ声で喋りながらもといた場所に戻る。教壇に両手をかけ、少し前のめりになった山神先生は話し始めた。

「ひとつ確かなことは、今日の卒業式予行が中止になったことだ。質問はあるか?」

 先生はあたりを見渡す。佐々木が観察する限りでは、目を合わせる人間は誰もいなかった。だが一人の生徒が挙手をした。森口だ。

「なぜ中止になったのでしょうか」

「いい質問、とは言えないな。少し考えればわかることだ。予行が中止になったということは、本番がなくなった、ということだ」

「……つまり、明日の卒業式も中止になったということですか。それは、なぜですか」

 森口も、今の山神先生から発せられる気迫に押されているようだった。声が少し震えている。

「答えは簡単。この学校から卒業する生徒は、ただ一人になるからだ。そして卒業式は今日の授業を受けて生き残った一人だけに実施することになる。——ああ、わからないのも当然だ。そんなに困惑した顔をしなくても、噛み砕いて教えてやるから」

 そう言った山神先生は教壇から降り、開け放しになっている教室の前後の引き戸を閉めて回った。その間誰も口を開けなかった。

後ろのドアを閉めた後、先生は教壇に戻らずに歩き出しながら口を開いた。

「突然だが、世界の宗教の割合が今はどうなっているか、わかるか、吉田」

「え……? っと、たしかキリスト教が一番多かったと思うけど……」

「不正解。だがいい間違えだ。それは一昔前の話。現在二〇三〇年では、ある宗教がキリスト教を超え、世界の半分以上の人間を導いている。何だと思う、河崎」

 この異様な状況でも変わらない態度の河崎は、教室内を歩き回る山神を首で追いながら答えた。

「宗教のことはよく知らないけど、うちの親は星守教だよ~神セン。つかさ~、いいから早く予行演習やって帰らせてよね~。何の意味があるの、この質問?」

 空気が読めないのも大した才能だ。しかし先生はそんな態度の河崎に怒ることもなく、首を縦に振った。

「そう、現在世界の半数以上を占めている宗教は、星守教だ。河崎のように、自分の親が星守教の信者だというものもいるだろう。ちなみに俺も星守教だ。ところで、星守教がどういった信条で、どんなことをしているかわかるか、森口」

 教室前方にいる森口が、振り返って山神のほうを見た。

「はい。僕の両親も星守教なので、おおよそは理解しています。その名のとおり、星、つまり地球を守るという信条だと聞いています。ゴミ拾いや植樹、野生生物の保護などの活動を行っている、とも言っていました」

「いい答えだ。そのとおり、我々はこの星を守るために活動している。地球温暖化が及ぼす影響を少しでも減らすために、星守教は行動している。無論それは国内だけのことではない。海外でも同様のことが行われており、その思想は全世界にまで広がっている。……というのが表向きの星守教の実態だ。いや、実際全世界にまで星守教の教えが行き届いているのは本当のことだ。だが、それは真の教義ではない。では、星守教徒以外には知られていない真の星守教の教義が何か、……宮園、お前にわかるか?」

 クラス一優秀な宮園洋(ひろし)に、先生は質問を投げかけた。縁のない四角い眼鏡を中指で押し上げながら、宮園は答えた。

「……もしかして、それがさっき言っていた先生の、あの言葉と関係してくるとでもいうのですか?」

 あの言葉とはいったい何だったか。佐々木は何のことを言っているのかわからなかった。

「いい、いいね、理解力のある奴は。話が早い。……ということで、話は最初に戻る」

 教壇に再び立った山神先生は、目を見開き、口を裂かんばかりに広げて言った。

「今日の授業は人間不要論だ」


 3


「人間、不要論……?」

 誰の口から漏れ出たのか、その不気味な言葉が教室内の空気をさらに重くした。

「授業の目的と内容は簡単だ。目的は、人を殺せる人材を短時間で作り出すこと。そして内容は、クラス内での殺し合いだ」

 人を殺す。殺し合い。その単語が、教室の空気を一層重くした。

佐々木はそれを口にした張本人の表情を見た。冗談、もしくはドッキリの類ではないかと思ったからだ。

だが教卓に体重をかけるその人物の顔は、狂人としかいえない恐ろしいもので、とても冗談を口にしたようには思えなかった。乾いた口から「は」という息だけが漏れた。

佐々木が今朝いじめられる原因となった吉田の彼女である橋本が、声をあげた。

「は? いや、先生、どういうこと? 意味わからないんだけどマジ……」

 呼応するように周りの女子たちや吉田、河崎らが声をあげる。

「冗談でしょ?」

「殺しあいって、嘘、だよね?」

「神センさ。さすがにそれは笑えないんだけど、マジで」

「てゆーかさ、他の先生たちはどうしたの? 来てるよね⁉」

「なんか脱出ゲーみたいな展開なんだけど! いいじゃん、やろうよ!」

 河崎だけがまだ緊張感についていけていないコメントをした。明らかにふだんの山神先生とは違うことに、まだ気づいていないのか。そんな指摘をするものも教室内には誰一人いない。

 核爆弾並みの強大な発言を投下した狂人は、生徒たちの反応を無視し、黒板いっぱいに描かれた絵や文字を消していった。

五分ほど丹念に黒板消しをかけ、新品同様にきれいになってから、先生は白衣の内側からチョークの入ったケースを取り出した。

長く白い一本のチョークをつまみ出すと、佐々木たちに背中を向け、何やら手を動かし始めた。

 佐々木は状況を理解しようと、必死に黒板を凝視していた。やがて黒板の上を滑らせていた手が止まると、そこには『ルール』という白い文字がお手本のようにきれいに書かれていた。


 ルール一 教室から一歩でも外に出たものの家族は即座に殺される

 ルール二 教室から出て「逃げる」とこちら側が判断したものは、射殺される

 ルール三 生徒が死んだ場合、その家族も即座に殺される

 ルール四 休み時間や山神が見ていないときに殺しをした場合、そのものを即座に殺す

 ルール五 最後の一人になるまで殺し合いを続け、生き残った一人だけが卒業する


 その黒板に書かれたたった五行の文字の羅列を、佐々木は何度も繰り返し読んだ。

殺される。射殺される。生徒が死んだ場合……。

ルールが見えるように脇に避けて立っている山神先生は、こちらの驚く顔を見て喜んでいるようだった。

しばらく無言が続いた後、橋本が怒気を含んだ声音で言った。

「先生、これ何なんですか? マジで意味わからないんですけど!」

「意味がわからない、か。あまりいい反応ではないな。いいか、頭の固いお前らに教えてやろう」

 白衣の下の黒いスラックスのポケットから、山神先生はスマホを取り出し、何か操作をし始めた。送信、と口にした直後、佐々木のポケットから振動がした。教室のあちこちからも電子音やバイブの音が聞こえてきた。佐々木は久しく開いていなかったグループチャットを開き、一枚の画像と対面した。

「——え?」

 写真には、どこかの施設の床に座っている、見覚えのある人たちが写っていた。コンクリートでできた無機質な部屋の中に、大人たちが腕や足を縄で縛られて捉えられている。中心に集められた拉致者たちを囲うように、ライフルらしきものを持った迷彩服を着た男たちが三人立っていた。全員がサングラスをかけている。

脅えた顔で写真手前のほうを見る群衆のその視線の先には、うつぶせに倒れている血まみれの男がいた。その男に見覚えのあった佐々木は、まさかと思い、写真を拡大した。

それは井口萌というクラスメイトの父親だった。スライドさせると、佐々木の父親と母親の顔もしっかりと写っていた。

——なんで父さんと母さんが!

「ルール一がハッタリではない証拠だということだ。もうお前らの家族は人質にとってある。教室から出たものの家族は即座に殺される。……まあ、もう死んでいる奴もいるようだがな」

 鼻から息を出して微笑した山神先生——否、もう先生とは呼べない——山神はスマホをしまい、高らかに宣言した。

「一時間目の授業を始めようか」

 同時に九時のチャイムが鳴った。

父が死んだことを信じられない様子の井口が、小さい体を抱え、「違う違う」と小刻みに震えていた。


〇一時間目


 1


 佐々木は理解した。監禁されているのは紛れもなくクラスメイトの家族で、逆らったであろう井口の父親が容赦ない制裁を食らったということを。

 もちろん家族の全員が監禁されているわけではない。写真からもわかるが、二十五人の生徒の両親五十人が映っているわけではなかった。佐々木の弟と祖母も映っていない。

 おそらく、南幌町から離れた場所にいる人物は捕まえられなかったのだろう。

だが、それは些細なことだ。大切な家族を人質に取られているこの状況では、一人だろうが二人だろうが同じこと。ルールに従うしかない。

佐々木は黒板に書かれている文章をもう一度しっかりと見直した。とにかくあの狂人のいうことには絶対に逆らわないようにしよう。家族を殺されるのは避けなければならない。

ルールを読む限りでは、教室から脱出させないという強い意思が読み取れる。それに、生徒が死んだ場合、という文言がさも当然のように書かれているのが怖くて仕方なかった。

——これからここで殺し合いをやれっていうのか。でもそんなの犯罪だし、今すぐに警察を呼べば未然に防げるんじゃないか?

「一時間目の授業は、質問タイムと、座学だ。今から二十分間、好きなだけ質問していいぞ。俺のルールとこの世界の常識を完全に頭に叩き込んでもらわないと、殺し合いなんて成立しないからな」

 山神がさあどうぞという態度で、教卓に両手をついた。質問タイムといっても、なにから問えばいいのか。佐々木には難しいものだった。

最初に挙がったのは、学ランから伸びた手だった。

「先生、あの、警察を呼ぶことは可能でしょうか?」

 勇気を持ったその発言をしたのは、朝佐々木を助けてくれたヒーロー、森口だった。

下手をすると山神を怒らせるかもしれないという恐怖があっただろうに、最初にその役を買って出てくれた。井口の父親のように、気に食わない人間は即殺されるかもしれないというのに。

教室中に、ピンと張りつめた冷たい空気が流れた。しかし、山神は腕を組み、笑顔を絶やさず返事をした。

「警察? いいよ別に。……それより、もっとこう、星守教とかルールに関する質問とかないの?」

 驚いたことに、警察を呼んでもいいらしい。山神はそんなことはまるで気にしていないという言い方だった。警察を呼んでも対抗できる手段があるのか。

「わかりました。じゃあ警察を呼びます。みんなも、いいよね?」

 森口はスマホを握り、三桁の番号を押した。耳に当て、少し待つ。

「もしもし、あ、事件です——」

 事件の内容をあますことなく伝え、森口は通話を終えた。教室中が静寂に包まれていたため佐々木の耳にも届いたが、完璧に、齟齬無く伝わったはずだ。

山神に視線を移すも、特段焦った様子も見られない。不思議だ。

今度は女子の中心人物、水谷が挙手した。

「今のでわかりました! 先生、本当はこれ、ドッキリか何かなんですよね? だって、もし本当にわたしたちの家族が監禁されて、井口ちゃんのお父さんが殺されているんだとしたら、警察が来たら先生は百パーセント逮捕されるじゃないですか! なのに先生は逃げようともしない。ってことは、卒業前の盛大なドッキリなんですよ! きっと他の先生たちもどこかに隠れてるんだ!」

「俺は命のかかった状況で理解が及んでいないバカが一番ムカつくんだよ」

 手のひらが勢いよく黒板に叩きつけられ、ものすごい音がした。佐々木の心拍数は急上昇した。

山神は大きなため息を吐いた。

「この期に及んでドッキリ? バカか水谷お前は。……ちなみにさっきから言ってる他の教師のことだが、あいつらは今朝皆殺しにしたよ」

「——っ⁉」

 皆殺し、という単語に水谷は固まった。

「俺は説明したはずだ。星守教には真の目的があり、それは人間不要論だと。……つまり、地球上のすべての人間を殺し尽くし、地球を人間という悪の根源から守るのが我々の絶対にして唯一の教義だ。殺人を犯すと警察に逮捕される。そんなことを我々が考えないはずがないだろう。当然警察も掌握済みだ」

「警察を掌握済み……? そんなことできるわけない」

 ありえない、といったふうに、森口は首を小刻みに左右に揺らす。森口の父親は警察官で、ここ南幌の警察署に勤務しているのは誰もが知っている。山神は気にせず続ける。

「星守教徒が全世界の半数以上を占めていることは先ほど言ったな。我々の教祖は星守教に入信しているさまざまな業界の権力者たちに、真の目的を徐々に脳に刷り込んでいった。いわゆる洗脳だ。敬虔な信者は我々の素晴らしい教祖のもとで徹底的に教育され、人間不要論が地球を守るために最善の策だと教え込まれた。もちろんこれは嘘偽りなく実際に最善の策だと俺も思うがね。警察はもちろん、官界、政界、財界、立法、行政、司法、報道、消防、自衛隊……挙げればきりがない。すべての権力を星守教が秘密裏に掌握した。だから水谷、警察が来ても逃げないのは、ドッキリでもなんでもなく、警察も星守教が支配しているからなんだよ」

 山神の演説は、嘘を言っているようには聞こえなかった。さも当たり前のことを言っているような口ぶりだった。だが実際、そんなことが可能なのだろうか。

「ありえないでしょ! ねえ! みんなもそう思うよね!」

 快活な瞳を左右に動かし、水谷がクラスに賛同を求めた。

「そ、そうだよ、ただの作り話だよ……! みんな、落ち着いて! しばらくしたら警察がここにやって来るから、そしたら、そのとき父さんもきっと来る! だから大丈夫だよ!」

 大丈夫だよ、と言う森口は、言葉と裏腹に動揺していた。その姿を見ていると、佐々木も平静を保っていられなくなってきた。警察が来ても、山神が逮捕されなかったらどうなってしまうのだろうか。

「お前の父親がここに来るかは知らないが、安心しろ森口。お前の——」

 山神が何かを言いかけたとき、ふいにガラガラと教室前方のドアが開いた。警察にしては駆けつけるのが早すぎる。誰だろうか。佐々木は目を向ける。

フードにふわふわのファーがついた、真っ白なダウンを着た人物だった。スカートを履いている。遅れてきた女子生徒、木野愛里だ。

だが普通に入ってきたわけではなかった。彼女の後ろにはアサルトライフルを手に持った大柄の白人がいた。迷彩柄の服を着て、サングラスをかけている。

——銃を持ってる! それにあの格好、父さんたちが監禁されている場所にも同じ奴らがいた!

山神の仲間、あるいは手下だろうか。本物の銃を目にしたことで、佐々木は黒板に書いてある『射殺』という文字が、急に現実味を帯びてきたように感じた。

木野愛里が後ろの兵士によって背中を押されて前によろけた。

「ちょっ! 押すなし! てかなんなわけこの人!」

 振り向いて兵士を睨みつける木野。だがその兵士は眉一つ動かさないでそこに立ち尽くしたままだった。視線は木野ではなく山神に向けられているようだった。

「ご苦労。マルタ、戻る前に少しだけ教室の後ろのドアの前に立っていてくれないか。ルールを理解していないバカが出るかもしれないからな」

「OK」

 山神とマルタという兵士の間柄は、佐々木には上司と部下のような関係に見えた。日本語も理解しているようで、マルタは廊下を通り教室後方のドアに向かった。ドアの向こうに巨大な影ができた。

「ちょっと山ちゃん、え? 何がどうなってんの? てか今日、卒業式の予行でしょ? もうみんな体育館行ってると思ってたんだけどあたし」

「木野、おはよう。とりあえず遅刻の理由を聞こうか」

 状況を把握できていない様子の木野に、山神がスマイルを浮かべて聞いた。

「は? 遅刻の理由? まあ普通に寝坊したんだけど……てかそんなこと今はどうでもよくない⁉ うちあの兵隊とかさ、みんなが教室にいるのとかでわけわかんないんだけど!」

「愛里、今とんでもないことが起こっ——」

「橋本、黙ってろ」

 白衣の袖がはためき、喋る橋本のほうに向かって手のひらが向けられる。

ふだんは耳にしないきつい言葉と冷たい声音に、教卓のそばにいる木野は目を瞬かせていた。

「ちょうどいいところに木野が来たんだ。どうやら水谷や森口のようにこの状況がまだのみ込めていない愚か者どもが大勢いるようだからな。ここらで信じさせてやろう」

「ちょ! え⁉ なになに⁉」

 山神の黒い革靴のかかとが教壇を鳴らした。一歩踏み出し、木野を生徒たちのほうへ向かせ、山神は背後から腕を回した。木野は動けなくなる。

 一体何をするのだろうか。信じさせてやろう、ということは、つまり、今までの話がすべて本当だと証明するということか。だが、どうやって……?

 佐々木の疑問など関係なく、状況は進んでいく。

木野は抜け出そうとするが、がっちりと掴んだ山神の腕は微動だにせず、脱することができない。山神が、口の端を吊り上げた。次の瞬間、白衣の内側から光るものを取り出し、それを木野の剝き出しの首に当てて、引いた。一瞬だった。

「キャアァァ!」

 誰かの悲鳴が教室に響き渡り、木野の正面にいた生徒たちが赤く染まった。まるで噴水のように勢いよく飛び出した血液が教室中央にいる生徒たちにまで降りかかった。

 ——こ、殺した! ひ、人が殺された!

あまりの出来事に、佐々木は寸前まで生きていた木野の体から目が離せなくなった。山神の腕から解放され意思を失い横に倒れたそれの首は、リズミカルに命の源を吐き出していた。白いダウンの胸もとがじわじわと赤く染まり、タイル張りの床も赤に侵食されていく。

 一時硬直していた生徒たちが悲鳴をあげて走り出すなか、佐々木だけは金縛りにあったようにまだ動き出せなかった。ドアを勢いよく開ける音がして、やっと佐々木の目玉は木野だった体から離れることができた。

目を向けると、学ランとセーラー服の奥に、マルタと呼ばれた屈強な兵士の上半身が見えた。どうやら逃げようとした生徒を体で跳ね返したらしい。

兵士は銃を構え、引き金に指をかけて生徒たちに銃口を向けていた。

「落ち着けよお前たち。マルタも撃つなよ」

 ナイフを教卓の上に突き刺し手放した山神は、しゃがみこみ、木野のスカートで丁寧に手を拭いた。

 恐怖が、佐々木を支配した。今までの人生で生身の人間が殺されるシーンなんて、見たことがなかった。心臓がこれ以上ないほど強く脈動する。

山神は立ち上がって黒板をコツコツと叩いた。

「ルールをいきなり破る気か? そんなことしたら家族が死ぬぞ?」

 黒板には、教室から一歩でも外に出たものの家族は即座に殺される、と、そんな気違いじみたルールが書かれていた。

「そうだ。落ち着いて状況を把握しなおせ。お前らはこの教室からは一歩も出られない。逃げたら家族を殺す。……今俺がお前らを教室から出さなかったのは慈悲だぞ? ルールを理解してからが本当のスタートだからな」

 この狭い部屋の絶対なる支配者からの、寛大な措置。などと考えられるわけはなく、ただただ恐怖が増すばかりだった。教室から出られない。それはつまり、人を簡単に殺す狂人と、ずっと同じ空間にいなくてはならないということを意味していた。

 山神はスマホを取り出し、耳に当てた。

「木野愛里の家族を殺せ」

 死んだものの家族は即座に殺されるというルール三に則り、人質に取られていた木野の家族が殺されてしまう。

 スマホに通知が来て、それが一枚の画像であることを確認し、佐々木は息をのんだ。木野の家族が銃殺され、血を流している写真だった。

少しの間しんと静まり返ったが、やがて一部の女子のすすり泣く声が聞こえてきた。おそらくクラスメイト全員の危機意識が急上昇しただろう。

佐々木も、心臓が喉の奥に押し上がってくるくらいひどく恐怖していた。

——やばい、次は誰が殺されるんだ? 泣いた女子? それとも目が合った生徒……?

 佐々木は目を合わせないように自身の足の先を見つめていた。時が止まったかのように誰も動かない。視界の端に映る山神もまた動く気配がない。

そんな時間が一分ほど続いただろうか。山神が口を開いた。

「あのさあ、別に俺と目が合ったからって殺しやしないよ。ただお前らが俺の言ったことをまったく信用してないみたいだったから、仕方なくやったんだよ。それに、文句があるなら言ってきてもいいんだよ? 質問時間はまだ残ってるし」

 山神はそう言うが、質問といっても、もうそんな状況ではない。佐々木を含め、ほとんどの生徒が恐ろしさに震えていた。

かろうじて動けたのは、親友の木野を殺されて怒っているに違いない橋本だけだった。彼女は一歩前に出た。

「愛里は大事な友達だった。殺すなんて信じられない。あんた頭おかしいよ……」

 怒っているだけではなく、悲しんでいるようでもあった。言葉は震え、語尾は弱弱しくなっていた。橋本は膝をつき、床に拳を打ちつけて顔を伏せた。

 杏奈、杏ちゃん……と橋本を心配する声が近寄り、橋本の肩を抱く。同じく友人の死に耐えきれなかった戸田依梨夢(いりむ)と小林継美(つぐみ)が涙を流しながら、山神を睨みつけている。

涙は伝播し、恐怖と悲しみ、悔しさとで教室がいっぱいになった。

 誰もが動けないでいるなか、森口がゴクリと喉を鳴らしてから手を挙げた。

「先生、質問があるのですが」

「おう、いいぞ」

 全員が森口に注目した。

「先生はなぜ殺し合いをさせるのですか? わざわざそんなことしなくても、先生ならここにいる生徒をたやすく全滅させることもできるのではないでしょうか」

「何言ってんだよ森口!」

 吉田が全員の気持ちを代弁した。そんな挑発のような発言をしたら、本当に殺されるかもしれない。佐々木は、今にも山神が飛びかかってくることを想像し、一歩後ずさった。だが、当の山神は襲ってくる素振りどころか、柔和な笑みさえ浮かべていた。

「いい質問だ森口。もちろん俺がその気になれば、ここにいる全員を一分以内には皆殺しにできるだろう。だが俺はそんなもったいないことはしない。俺の仕事は、短時間で星守教の教義である人間不要論を叩きこみ、かつ殺しを実行できる人間を選抜することにある。だから俺が殺しても意味がないんだ。お前らが殺し合うことに意味がある。わかったか?」

「……。わかりました」

 何もわからない。言っている意味はわかるが、理解が及ばない。なぜそんなことをする必要があるのか、そもそも人間が不要だという考えが理解できないので、佐々木にはまったく理解できなかった。森口やその周囲の生徒たちも同じようで、嫌悪の表情を浮かべていた。

 とりあえず今は、これ以上山神の手によって殺人が起きるわけではないと信じていいのだろうか。質問がその後続くことはなく、時間だけが過ぎていった。

 時計の長針が四にさしかかろうとしたとき、窓の外に白黒の車が見えた。パトカーだ。

窓際にいた佐々木からは、教室の真下にある駐車場に止まったパトカーの中から、警察官が二人出てきたのが見えた。

「け、警察が来たよ」

 クラスメイトを勇気づけるためか、気づいた自分が言わないのが責められると思ったのかはわからないが、佐々木は全員に伝えた。

「父さんだった⁉」

「う、うん……」

「よかった。父さんなら絶対大丈夫だ。みんな、もう大丈夫! 安心して!」

 森口は力強く言いきった。それを聞き、クラスメイトたちの緊張は少し解けたようだった。

「でもさ~、神セン逃げないぜ? 本当に警察も星守教に毒されてんじゃね?」

 信じる生徒とは裏腹に、河崎のように警察が来ても状況は変わらないと思っている生徒もいるようだ。山神の様子を見ても、いっさい慌てた様子はない。

 廊下に足音が聞こえてきた。警察の制服を着用した森口の父親が教室内に入ってきた。

「父さん!」

 森口が救世主を見るような期待の目で父に向かって叫んだ。森口父はこちらを見て一言、「おお翔太」と言った後、すぐさま山神のほうに首を向けた。

「山神先生、いつもお世話になっております」

「やあ森口さん。あなたがいらっしゃるとは」

 手に血のついている山神に対し、森口の父は普通に挨拶をした。続いて知らない警察官がもう一人後から教室に入ってきて、状況を確認するように首を巡らせた。

森口の父は転がる死体に一瞬目をやり、再び山神に顔を向けた。

「先生——いえ、山神様、この死体をかたづければよいのですね?」

「ああ、頼む。今後も出るから、その都度頼むわ」

「承知しました」

「おい、手伝え」

「はい」

 流れる作業のように、木野の残骸が教室の外に引きずり出されていった。

警察が山神のことを敬称で呼び、さらには死体を当たり前のように迅速に処理した。その事実を目にした佐々木の口は開いたまま塞がらなかった。

——本当に世界は変わってしまったのか?

 口をわなわなと震わせている森口は、廊下に消えていった父を追うこともせず、ただ頭を抱えていることで精いっぱいのようだった。クラスメイトも同様、信じられないといった驚愕の形相を浮かべていた。

「いい顔だなお前たち。そうだ、これが現実! これが当たり前の世界になったのだ!」

 宙を見て笑い、腕を広げ興奮する山神。響き渡る笑い声が嫌でも耳に入ってくる。絶望が現実になり、人間不要論が山神だけの妄言ではないことが証明されてしまった。

「でも先生、待ってください。こんなことをもし全世界で同時に行ったとしたら、国や報道を完全に支配していても、星守教徒ではない一般人が目撃して騒ぎになるはずですよ!」

 眼鏡を押し上げた宮園が反論する。たしかにそうだ。こんなことはおかしいに決まっている。ただ森口の父と助手の警察官だけが山神の仲間なだけで、世界中でこんな惨事が起こっているわけがない。

「たしかに全世界同時に殺人祭りをしたら、騒ぎになって星守教の侵略は失敗に終わる。だから我々は、まず人口の少ない土地を選び、実行している。南幌町を封鎖し、隣接する町や市にはいっさい気づかせずにな」

「そ、そんな……」

「できないとでも思うか? 全人類の半数以上が星守教徒、そのすべてが洗脳済みだ。小さな街一つを隔離するくらい、簡単なことだ。今ごろ住民は逃げる間もなく殺されていってるだろうよ。……まあ教室から出られないお前らには関係ないことだ」

 宮園がありえないと口にして尻もちをつく。

 佐々木も同様、ありえない、と思っていた。だが同時に、山神の最後のセリフだけは、紛れもない事実だと思った。この教室からは出られない。それは、覆せないことなのだろうと。

 山神が白衣の袖をめくり、自身の腕時計を見た。

「いい時間だ。これからは人間不要論を教え込む、座学の時間だ」

 言葉を発するものも、教室後方の立ち位置から移動しようとするものもいない。山神の放った言葉は耳を通り抜けていく。

反応がないことに腹を立てたのか、山神は頭をかいた。

「座れ。座学だからな。座れないなら、森口、お前の母親を殺す」

 そういって山神はスラックスのポケットに手を突っ込んだ。スマホをちらっと見せてくる。こっちはいつでも殺せるんだぞ、という脅しだろう。森口は歯を食いしばってからその場に座った。

佐々木も床に座った。自分の親が殺されるわけではないが、全員従った。

「いい判断だ。だがお前らの表情はいいとは言えないな。——まあいい、悠長にやっている時間はないんだ。これから人間不要論についてお前らに教える。俺の話を聞いていないと判断したものについては、人質に取っている家族を殺していくから、聞き逃さないように」

 そう言った山神は一度ニヤッと笑い、話し始めた。


 2


「人間不要論、それは、星守教ができたきっかけ、『地球温暖化』を止めるためにある。一九七〇年代後半から、人類は地球温暖化について考え始めた。気候変動、生態系の変化、オゾン層が破壊されることによる紫外線量の増加、それに伴う生物への被害、南極の氷が溶けることによる海水面の上昇・水没など、挙げればきりがない。そしてその主な原因は、人間による都市開発、森林伐採などによる二酸化炭素の増加だ。だが人間はそれを解決しようとはしなかった。地球にやさしい商品の開発、脱炭素、クリーンエネルギー、プラスチックの削減、SDGs。そんな上辺だけの政策や考え方では地球を守ることはできないと気づきもしなかった。現に二〇三〇年になった今でも人間は、地球温暖化を何とかしなくてはまずい、などとほざいている。だから星守教が活動しなければならない。星守教は、地球温暖化は人間が絶滅しないと解決できない問題だと結論づけている。よって、長い年月をかけて信者を増やし、人間不要論を水面下で唱えてきたわけだ」

 倫理的な問題を全排除すれば、言っていることは正しいのかもしれない。佐々木は不覚にもそう思ってしまっていた。

だが、やはり人が人を殺すのはやってはいけないことだ。そこだけは人間である限り守らなければいけない尊厳なのだ。

「この話を聞いて、倫理的な問題がぶっ飛んでいると感じたものも少なくないだろう。だが、その倫理とは何だ。倫理とは何のためにある? ……答えは簡単、倫理とは人が守るべきルールのことだ。では、その『人』は何のために存在している? ……吉田、どう思う? 別にどんなことを言っても何もしないから答えてみろ」

 吉田が答える。

「人が何のために……? それは、何かを成し遂げるため、とか?」

「河崎、お前はどう思う?」

「う~ん、楽しく生きるため、かな~」

「橋本は?」

 ついさっき人を殺した狂人の言うことなど普通は聞く耳を持たないはずだが、人は何のために存在している、というまともな話になったのが意外で、生徒たちは恐怖もあったが、自分なりに山神に返答していった。

「佐々木はどう思う?」

「……あ、何かを守るため、でしょうか」

 佐々木もなんとなく思ったことを発言した。この頭のいかれた教師が支配する教室で、人の存在意義について考えることになるとは思っていなかった。

全員の答えを聞き終わった山神はこの場に似つかわしくない、教師としての笑みを浮かべた。

「人が何のために存在するか。その答えは、お前らのどれもが合っていて、どれもが間違っている。つまり人の存在意義など、誰にもわからないということだ。これは誰がどれだけ考えてもわからないことだ。宇宙の存在意義を考えているのと同じだ。答えなどない。存在するから存在するのだ。なら考えるべきは、人が何のために存在するかではなく、何によって生まれ、何によって生かされているかだ」

 いつの間にか殺伐とした空気感は薄れ、いつもの授業中の雰囲気に近づいてきていた。まるで生物の授業を受けている気にさえなった。

「何によって生かされているか、その答えは、環境だ。環境、つまり、地球だ。地球がないと我々人類は生きられない。宇宙に行けば生きられないし、火星などほかの惑星に移住することもできない。人は地球にしか生きられないのだ」

 それはそうだ。水や空気がないと生きられないし、温度が適切じゃないと人は死んでしまう。

 山神は真剣な表情を崩さぬまま、生徒の顔を見ながら続ける。

「ところで宗教的な話になるが、ほとんどの宗教は、神を信じている。得体のしれない神を崇拝し、見たこともない神の姿をイメージし、勝手に救われようとしている。それはおかしなことじゃないか? 神が何をしたと知っている? 神が宇宙を創造し、地球や人間、動物、植物を創った? それを人間は本当に知っているのか? 勝手に想像し、自分の思うとおりの神を創り、心の支えにしているだけじゃないか? ——別に神を信じていること自体を否定しているわけではない。もっと身近に感謝できるものがあるんじゃないか、と問いたいだけだ。そう、地球だ。地球があるということを人間は絶対に知っている。知っているものと信じているもの、どちらに感謝すべきだと思う? 星守教では、知っているもの、つまり地球に感謝する。何しろ地球がないと人間は生きていけないのだから」

 佐々木は眉間にしわを寄せながらこの話を聞いていた。

頭はぎりぎりこの話についていけてはいた。かなりわかりづらかったが、要するに、神という不確かなものに感謝するより、地球という確かなものに感謝しろということだろう。

「星守教は地球こそが我々の祖と考えている。我々を創り出し、今も支えてくれているのは紛れもなく地球だ。この星だ。なら、どうしてその地球を破壊するという行動を許せる? ……佐々木、お前はさっき、人は何かを守るために存在していると言ったな。それは、人だけを守るということなのか?」

「……い、いえ、違います。人だけではなく、動物や植物、虫など、生きているものすべてを守るのが人の役割だと思います」

 間違ってはいない、当たり前のことを言っただけだ。人間は、何かを守るために存在している。

「素晴らしい。そのとおりだ佐々木。先ほど人の存在意義について各々に聞いた後、答えは人それぞれと言ったが、星守教では一つの答えにたどり着いている。人の存在意義を我々はこう定義する。地球と地球に住むあらゆる生物を守るため、と。だがそれには人も含まれる。本来ならな。だが祖である地球をボロボロにし、そこに住む生物を殺している人間など、はたして守る価値があるのだろうか。倫理とは、人が守るべきルールのことだ。なら、人が人として生きていくためなら、周りの環境や生物、地球を破壊してもいいということだろうか。それは絶対に違う」

 熱のこもった山神の話を聞く生徒たちの姿勢は、だんだんと真剣になってきていた。なかには首を縦に振るものもいた。

間を空けるタイミングや声量の強弱のつけかたなどが、自然と耳を傾けたくなるのだ。

「地球に害をもたらす人間を我々は決して許さない。このまま何もせずのうのうと生き続ける未来には、破滅しかない。動物や植物が殺され、空気が汚れ、ゴミが地中に蓄積しきれずに地上に噴出されている地球を我々は見たくない。生みの親を汚し、破滅させるわけにはいかない。……だからこそ、地球や生物を守るために我々人間は絶滅しなければならないのだ。これが星守教の人間不要論だ。以上で座学を終了する」

 一時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り、山神が廊下に出ていった。佐々木は、熱に浮かされたように、頭がぼんやりした。

——そうか、ぼくたちは地球を、親を殺そうとしているのか……。

 ぼーっと黒板のあたりを見ていると、何やら騒いでいる声が耳を通り過ぎていった。

「だから、今なら脱出できるんじゃないかって言ってるだけだし!」

「いや、でも教室から出たら家族が殺されるかもしれないんだよ。慎重に考えなきゃ、ね?」

「森口の言ってることも確かだ。杏奈、早まった行動はするなよ」

「う……。わかった」

「でも実際どうするの、ねえ? 窓の外にも銃持った兵士がいるし、廊下の両端にも銃口向けた兵士がスタンバイしてるし……」

「危ないよ何やってるんだ水谷さん!」

「だいじょぶだって! 顔出しただけで、足は出てないから! ね?」

「まったく……」

「とりあえず何とか脱出の方法を考えないと! みんなも何か意見を出して——」

 黒板の何もないところを眺めていると、佐々木の肩にぽんと手が置かれた。振り向くと、心配そうな顔をした三上が覗き込んできていた。

「もう! 大丈夫? そんなボケーっとしてて」

 屈んだ三上のセーラー服の胸もとに視線がいった。血しぶきがついていたからだ。

——血がついてる。どうしたんだろう?

「もう高志ってば! 聞いてる?」

 ——血。血がついてる。……血?

「うわっ!」

「ど、どうしたん⁉」

 佐々木は後頭部を壁にぶつけた。

血を見て佐々木は急に思い出した。さっきこの教室で木野が殺されたことに。それまで一時でも忘れていた自分が信じられなくて、驚いた。

確かめるように教壇のほうに目を向けると、乾ききっていない赤い跡が床にまだ残っていた。

「ご、ごめん……。血が……」

 後頭部をさすりながら体を起こし、三上の差し出した手を握る。

「あ、そうだよね……。木野さんが殺されて、警察が普通にかたづけて、私たちは変な授業を受けて。これから死ぬかもしれなくて。おかしいよね、こんな状況」

 セーラー服についた血を見ながら、三上は唇を噛みしめた。

 そう、こんな状況はおかしい。佐々木も、できることなら脱出して父と母を助けに行きたい。あの写真には親の姿しかなかったが、弟と祖母のことも心配だった。

「たしか殺し合いで最後に生き残った一人だけがこの教室を出られるんだよね」

「うん。でもそれってさ、実際起こると思う? だって私たち同士で殺し合えってさ、正直無理じゃない? きっと誰も動けないと思うよ。そんなことするくらいならここから逃げ出すか、全員で先生とあの兵隊を倒すほうが絶対いいよ」

「……そ、そうだね」

 クラスの中心では森口を筆頭に意見を出し合っているようだったが、佐々木のような日陰の存在ではこんな場面でも話には入っていけなさそうだった。もっとも佐々木自身、話に加わりたいとは思っていなかったから、誘われても断っていただろうが。

 佐々木の様子をうかがいに来てくれた三上が、さらさらの黒髪を揺らしながら安藤のもとへ駆けていった。赤い眼鏡をかけた小さな女の子、安藤咲花と親し気に会話し始めた。

どうすることもできない状況でも、彼女は佐々木や安藤のような弱い立場の人間に声をかけてくれる。友達だからというのもあるだろうが、それでも佐々木にとっては特別に嬉しかった。

ふと時計を見ると、十時まであと三分ほどとなっていた。山神はまだ教室に入ってきていない。

一時間目は質問と座学で終わったが、二時間目からはどうなるのだろう。殺し合いなんてできるわけがない。もしやらざるを得ない状況になっても自分は動けないし、真っ先に吉田や河崎に狙われて死ぬだろう。そんなマイナス思考に耽っていると、佐々木の口から自然とため息が出た。

頭をうなだれて絶望を感じていたところに、今朝も耳にした嫌いな音が入ってきた。

「佐々木ぃ~」

 さっきまで話し合いの場にいたはずの河崎が、佐々木のすぐ隣まで来ていた。邪悪な笑みを浮かべて、ちょっとツラ貸せ、と指を動かしていた。拒んでも殴られるだろうと判断した佐々木は立ち上がり、河崎の背中についていった。

何の用かは知らないが、とりあえず教室後方のドアの付近まで行った。河崎は開いているドアの前に立ち止まった。

家族の命がかかった状態なので、もし廊下に出ろ、と言われたとしても、それだけは絶対に断るつもりだった。

だが、そう口を堅く引き締めたとき、ドアの前でこちらに振り向いた河崎の白い歯が見え、同時に学ランの袖が伸びてきた。咄嗟に腕を引いたが、間に合わず掴まれてしまった。そのまま位置を交代するように引っ張られ、佐々木は教室から出されそうになった。

「何を——」

 かろうじてドアと壁につっかえるように両腕を伸ばし、佐々木は教室から出ることを拒んだ。だが態勢を整えようとしたとき、位置が逆転した河崎が背後から佐々木の背を蹴り飛ばした。

「実験開始~!」

「あっ」

 体重を支えていた両手が耐え切れず宙に投げ出され、佐々木の眼前に死の廊下が現れた。

冷たい床の感触を手のひらで味わったとき、佐々木は「終わった」と思った。後ろで笑っている河崎の声を聞き、さらに絶望した。

ルール一の、教室から一歩でも外に出たものの家族は即座に殺されるという条件を満たしてしまった。監禁されていた父と母が今、殺されてしまう。

「いや……まだ見られていない——!」

 山神に目撃されなければルールに抵触したことにはならない。そう考えて急いで走り出そうと立ち上がったとき、ぶれた視界の端に人の輪郭が映り込んだ。瞬間体が凍ったように固まり、佐々木はその場から身動きできなくなった。教室のドアは二歩先にあるというのに、恐ろしく遠い場所に感じた。

目の端に白く映るものは一歩一歩近づいてきており、とうとう佐々木のすぐ横にたどり着いた。

「佐々木高志、アウト」

 耳もとに寄せられる生温かい吐息と残酷な宣告が、耳を通り越して脳を貫いた。

「あ……いや、先生、違います、これは河崎に押されて——」

「何言ってんの? ルールはルールだろ」

 声音が笑っているように感じた佐々木は、反射で山神の表情を確認するために首を巡らせた。そこには狂った光を灯す見開かれた目があった。獲物をいたぶって楽しむような残虐な瞳が、恐怖と喪失感を佐々木の中に一瞬にして植えつけた。

 山神は姿勢を戻し、スマホを取り出して耳に当てた。

どこに連絡するのか佐々木にはすぐに見当がついたが、止めようにも呼吸が邪魔で声が出せない。

——嫌だ、やだ、ダメ、ダメだって——!

家族を失う怖さが呼吸を乱し、足をすくませ、視界を明滅させる。耳だけは正常に働いている証拠に、山神の紡いだ軽々しい一言が聞こえてくる。

「佐々木高志の家族を殺せ」

 了解、という短い返事が聞こえた。山神はスマホをポケットにしまい、笑みを浮かべた。

「あっ……ぁ……」

 ほんの少し廊下に出ただけなのに、こんなことで家族が殺されなきゃいけないのか。おかしい、おかしすぎる……。

そんな佐々木の絶望などおかまいなしに、二時間目の始まりを意味するチャイムが鳴り響く。チャイムが鳴り終わるころには、教室の生徒たちはざわめき始めていた。顔を上げると、スマホを手にして画面を見つめ、唇を噛みしめている生徒たちの姿が目に入った。

「へへっ、実験成功~! 佐々木ぃ! スマホ見てみろよ!」

 ほかの生徒とは違い、河崎だけは可笑しいようだった。自身のスマホを指でつまんで揺らしている。

 佐々木は誘われるようにポケットに手を入れ、スマホを取り出した。画面には通知がきており、開くとグループチャットに二枚の画像が送られてきていた。

何が起こったかわかっていて、見たくないと思っているのに、佐々木の目は自動的に画像の内容を読み取り、脳に送ってしまう。

「ああああああ——!」

 父と母は監禁された家族たちの前で、頭を正面から撃ち抜かれていた。冷たいコンクリートの上に二人の生きていた証が飛び散っている。

 弟と祖母も死んでいた。脳天が斧か何かでかち割られたようで、外のアスファルトの上に仰向けに転がっていた。

「なんで」

 佐々木は頭を抱え、膝をつき、声の限り叫んだ。何度も、何度も。

「なんで⁉ なんでだよ! なんで何も悪いことをしてない家族が殺されなきゃならないんだっ——!」


ふと膝の横に煌めく刃が置いてあるのに気づいた。そばにいたはずの山神はすでに教室に入っており、教室前方の入り口に寄りかかってこちらを見ていた。

佐々木は凶器の柄を握り、立ち上がった。

「佐々木、残念だったな、お前の家族は死んだ」

「……」

「だがそれはお前のせいじゃない。そうだろ? 悪いのはお前を廊下に突き飛ばした河崎だ。何の罪もないお前の家族が、河崎ただ一人の気まぐれによって殺されたんだ」

 ——そうだ、あいつのせいだ。河崎が殺したんだ……。

「そのナイフをやる。殺人者は教室の中で得意げに笑ってるぞ。『教室から出たら家族が死ぬって本当だったんだ~。実験してよかったよ~』ってな」

 瞬間、佐々木の頭に血が上り、嘲笑う河崎の表情が脳裏に浮かぶ。

「——絶対許さない!」

 後方のドアに向かってダッシュし、教室に入る。河崎を探すと、生徒たちに囲まれて壁際に追いやられているところだった。見つけたとたん、顔中の血管が破裂するかというほど熱くなり、耳は高音が鳴り響いて聞こえなくなった。河崎から目が離れない。

ナイフを力いっぱい握りしめ、人垣をかき分けて中心に突っ込んでいく。河崎の憎たらしい顔が見えた。

——こいつが、こいつが父さんを、母さんを、ばあちゃんを、悟志を——!

家族の仇をとるために、佐々木はナイフの先端を相手の腹に突き刺し、内臓を傷つけ、ズタズタに切り裂いてから生ゴミとして廃棄してや——

「——ダメだ!」

 あと少しで刺さるはずだったナイフを、腕ごと壁に叩きつけられて止められた。すんでのところで邪魔が入ったと見上げると、森口が腕をがっしりと掴み、佐々木を猛烈に睨みつけていた。

「佐々木君、気持ちはわかるけど殺しちゃダメだ。君まで殺人者になってしまう!」

「知るかあ! ぼくはこいつを殺すんだぁっ!」

 佐々木は暴れ、もがき、目の前の悪を殺そうとする。憎たらしい顔が、家族の命を理不尽に奪った気持ちの悪い顔面が、すぐそこにある。このナイフを腹に突き刺せば、殺せる。殺す以外の選択肢なんて、絶対にない。

 だが、非力な佐々木は数人の男子に押さえつけられてしまう。手首を強く掴まれ、握りしめていた凶器が佐々木の手から滑り落ちる。佐々木にしか許されないこの殺意が、復讐という名の殺す権利が、関係のない人間に剥奪されてしまった。

「……っ! なんで……、なんでこいつは、ぼくの家族を……!」

 だが、それよりも何よりも、目の前の河崎が憎い。殺したい。荒い息を吐き、歯を噛み潰しながら、佐々木は憤る。怒りは収まらない。家族を理不尽に奪われて、怒りが収まるわけがない。しかし体を押さえつけられて動けずにいると、少しずつ怒りを超える新たな感情が湧き上がってくるのを感じた。それは、悲しみだった。悔しくてむかついて殺してやりたい気持ちの奥から、泣きたくなるような深い悲しみがだんだんと近づいてくる。

「……佐々木君」森口が床に正座し、真剣な表情を佐々木に向ける。「気持ちはわかるよ。僕もあいつを絶対に許せないし、今すぐにでも殺してやりたいよ。……でも、佐々木君が仕返しをしても、家族は帰ってこない。それどころか、この最低な人殺しと同じになっちゃうんだ。僕は君を河崎と同じにはさせられない。君には優しい人間でいてほしいんだ」

 森口の優しい言葉が、佐々木の心に沁み入ってくる。泣きたくなるような悲哀の心に、一滴の雫が天から落ちてくるように。

「う……、くそっ……!」

 強く握った手を、悔しさと憎しみを込めて床に叩きつけた。愛する人たちの大好きな顔が次々と現れ、「高志」と呼んでくれる愛しい声が頭の中で反響し続ける。

 大粒の涙が瞳から溢れていった。

今までの人生で味わったことのないとてつもなく大きな喪失感が、佐々木の心を徐々に侵食していく。父、母、弟、祖母、かけがえのない存在が、一瞬にして奪われた。

佐々木の心はもう戻らないかもしれない。


〇二時間目


 1


 押さえつけていた男子たちから解放された佐々木は、湧き出てくる涙をこぼし続けながら、河崎とは反対方向の窓際の壁に移動した。

河崎はクラスメイト全員から非難され、一番の友達だった吉田からも距離を置かれていた。

 体育座りをして俯いて泣いていると、隣に誰かが座る気配がした。すすり泣く声が、それが幼馴染の三上だということを教えてくれる。

「ごめんね……。勝手に泣いちゃって。でも、高志のお父さんとお母さん……、おばあちゃんと悟志くん……ひぐっ、もう会えないって思うと……」

 三上はまるで自分の家族が殺されたかのように、次から次へと熱い雫をこぼす。佐々木もつられて涙をさらに流した。

「うん……」

 もう会えない——その言葉を聞くと、悲しい気持ちがさらに膨れ上がり、喉の奥から湧き上がって止まらなくなる。佐々木と三上はむせび泣いた。

 教室の反対側、河崎に非難を浴びせる生徒たちのもとに、この教室の支配者の声が届いた。

「お前らさあ、言い合うだけで誰も殺そうとはしないんだな。せっかくナイフが転がってるっていうのに、誰も使おうとしない。佐々木だけだよ、殺意を持ったのは」

 じっと成り行きを見ていた山神は、教壇で腕組みをしたまま冷徹に言い放った。

「もう二時間目は始まってるんだ。早く殺し合えよ」

 河崎を責める輪の中心にいた森口が、殺されるかもしれない可能性を忘れたかのように、山神を睨みつけた。

「先生、いやあんたはおかしいよ! 殺し合うなんて絶対間違ってるし、人間不要論も僕たちには必要ない! 僕たちは是が非でもここから脱出しますよ!」

 生徒たちもうなずいて、森口の味方につく。だが山神という狂人は意に介さない。それどころか、あきれたように吹き出し、やれやれと肩をすくめた。

「森口、お前はまだ理解していないんだ。人間不要論が理解できれば、人を殺すことが悪いことだとは思わなくなる。それどころか、人を殺すことが地球やほかの生き物を救うことになる、と気づくはずだ。佐々木はまあ、一時の逆上にすぎないがいい反応だったぞ? あのままお前が止めなければ確実に殺していただろうよ」

 山神は森口に蔑むような視線を向け、一度教卓を強く叩いた。

「いいか、この教室においては殺すのが正義で、殺さないことは悪だ。森口、お前が佐々木を止め河崎を守ったことによるペナルティを与える」

 誰も彼もが反抗的な顔つきで山神を見ている。吉田や橋本といった、気が強い人間は今にも飛びかかりそうだ。山神が顎に手をかざし考えるそぶりを見せる。

「そうだな……。五分以内にこのクラスの誰かを殺さないと、橋本の家族を皆殺しにする、ということにしよう」

「はぁ⁉ ふざけんな!」

「そんなの認められっかよ!」

 橋本と吉田がキレる。輪の中から飛び出し、山神のほうへ寄っていく。

「なんだ? 俺を殺して止めるか? それも一つの手だな」

 ニッと笑った狂人が腕組みをほどき、懐に手を突っ込んだ。

「上等だ、お前を消せば俺たちは解放される!」

「消す? フッ……」

 失笑した山神は、楽しそうな表情をして吉田を見る。吉田は激怒しているようで、指をポキポキと鳴らし、山神のもとへ近づいていった。

 青筋を立てた巨漢が拳に力を入れ、山神に襲いかかろうとした。そのとき山神の懐からきらりと光るものが見え、殴りかかろうとする吉田の首の一寸先をヒュン、とかすめた。

そのまま前に体重をかけていたら確実に死んでいたであろう高速の技。だがすんでのところで後ろから腰に抱きついた森口が、吉田の体を後ろに引いていた。吉田はおかげで首を切られずに済んだ。

 吉田は目を見開き、反応できなかったことに戦慄しているようだった。喉仏が一度下がり、口は魚のように開きっぱなしになった。

「いい反応だ森口。……俺が殺すのは簡単だが、それじゃあこの場を用意した意味がなくなるからな。殺し合いは推奨するが、これからも俺に向かってくる奴はできるだけ止めてくれ。命がもったいない」

 ナイフを懐にしまった山神は手を叩き、「あと四分だ」とだけ言った。あと四分で誰かを殺さないと、橋本の家族が皆殺しにされてしまうという宣告だ。

「ちょっといいか」

 教室の壁の近くにいる群衆の中から、一つの手が上がった。クラスで一番頭のいい宮園だった。

「あ? なんだよ、なんかいい案でも思いついたのか」

 こめかみに汗を浮かべている吉田が、震える声を隠しきれずに聞いた。

「いい案ではない、けど、選択肢ははっきりさせておいたほうがいいと思うんだ。現状を全員が正しく理解するためにね」

 森口や水谷といったクラスの中心人物を一度見て、宮園は切り出した。

「あくまで選択肢だけど。一、誰かが誰かを殺す。二、何もせず時間経過で橋本の家族が殺されるのを待つ。三、この教室から脱出する。四、山神を倒す。現実的に考えると、これくらいしか今俺たちが取れる行動はないんじゃないか?」

 反論も覚悟の上だろう。特に一と二の選択肢は誰も首を縦に振るとは思えない。どちらも人が死ぬ選択肢だからだ。三か四の選択肢が妥当だろう。

宮園は眼鏡を中指で触り、周りの様子をうかがった。一番に反応したのは橋本だった。

「あたしの家族がとか、選択肢にないから! ってか、脱出するしかないじゃんこんなん!」

「そうだな、脱出するのが一番だ。けどどうする、窓の外にも廊下にも銃構えた兵士がいるんだぞ。脱出したとしても何人も死ぬことになる。それに、家族も殺されることになる」

 吉田が橋本の意見に同意するが、ルールにより家族が殺されてしまうという最大の懸念点を挙げ、脱出が難しいことを示唆する。時計を見た森口が真剣な表情で会話に入る。

「クラスメイトや家族が死ぬなんて、絶対ダメだよ。それにたとえ全員でいっせいに教室を出たとしても、ここにいる二十五人のうち、半分、いやそれ以上は確実に死ぬことになる。なら選択肢は一つだけだよね」

 頷く生徒たち。いまだ反対側の壁にいた佐々木と三上を除き、ほぼ全員の意思が固まった。

人質の家族を殺す指令を出せるのはおそらく山神のみ。屈強な兵士も警察も山神に服従していたからだ。今までの敵側の態度から、この学校にいる敵の中で最も権力を持つのは山神だと推測できる。その山神を倒すことができれば、家族を殺されることなく脱出できる可能性も見えてくる。

「あと二分しかねえ。ナイフは俺が持つ。女子は下がってろ」

 先ほど佐々木が落としたナイフを拾って、吉田はクラスに呼びかける。男子の中でも強そうなものたちが選抜され、教卓の脇に寄りかかる山神の前に戦う男たちが並んだ。

森口、吉田のほかに、柔道部の藤川、吉田の舎弟の中村(黒人とのハーフ)、サッカー部の相馬が前に出た。この強いメンツ五人がかりでいっせいに飛びかかれば、山神を倒せるはずだ。

すると、何を思ったのか、山神が白衣の内側に隠し持っていたサバイバルナイフを四本、男たちの前にばらまいた。そのとき、床に落下したその金属音が、絶望の沼に沈んでいた佐々木を現実に引きずり出した。佐々木は涙を拭き、顔を上げた。

——一体どうしたんだろう。殺気立ってる……。

「話し合った結果がこれとはまったく見込みのない連中だが、……ほら、殺す気なら凶器を使わないとな」

 すでに持っていた吉田を除いた四人が、それぞれナイフを手にし、臨戦態勢をとった。

 ——そうか、山神を殺そうとしてるんだ。

 脱出が無理なら、山神を殺せばいい。話し合いをした結果、そう考えたのだろう。

山神を挟み込むように藤川と中村が教壇に乗り、吉田が教卓の正面、森口と相馬は吉田の両隣りに位置取った。じりじりと間合いを縮めていく。そして——、

「いくぞ!」

 吉田が力任せに突き出したナイフの先端が、山神が立っていたところを貫いた。だが、肉体を貫くはずの刃は空を切り裂いただけで、ひょいとかわした山神には当たらない。

かわした先で藤川が斜め上から振り下ろす。それをまるで予測していたかのように半身を捻じって避ける山神は、次いで飛んでくる中村の胴体への横薙ぎに軽く反応し、逆さに構えたナイフで受け流す。その隙を逃さなかった相馬がナイフを膝もとから切り上げようとするも、それにも超速で反応しナイフで止めた。

 ——すごい。まるで一人だけ次元が違う。

 家族が殺されて悲しみのどん底にいるはずなのに、佐々木はいつの間にか山神の動きに見惚れてしまっていた。運動能力が高い吉田たちがまるでスローに見えるほど、佐々木の目に映る山神は速かった。

相馬、中村、藤川を回転しながらほぼ同時に蹴り飛ばし、突進していった森口のナイフは上に弾かれ、天井に突き刺さった。

最後に吉田がもう一度突きをしに前に出たが、その首の高さに山神はナイフを横に構えていた。このとき吉田が死の気配に気づいたか否かは、定かではない。だが、体重の乗った吉田はもう止まれなかった。

「——」

ザシュ、という肉を削ぐ音が鳴り、鮮やかな赤の飛沫が黒板と教卓に飛び散った。吉田は撃沈した。

 遅刻してきた木野が殺されたときのように、誰かが悲鳴をあげた。教室がパニックになり、生徒たちは後ろの壁にめり込むように後退した。隣に体育座りしていた三上も、佐々木の横から離れて掃除用のロッカーのところまで必死に移動していた。

そんななか佐々木はただ一人、場違いな感想を抱いていた。あろうことか、山神の体さばきに感激していたのだ。

——なんて鮮やかなんだ! 包丁さばきは父さんより上だ!

山神は汚れたナイフを床に落とし、白衣の肩についた血を一瞥して舌打ちをした。

「ちょいと早いが二時間目は終わりだ。それと五分経ったから橋本の家族を殺す」

 吉田和真と橋本杏奈の家族を殺せ、という無機質な声を通話口に向けた山神は、すぐさま教室から出て行った。

 その後、警察である森口の父ともう一人の警官が、吉田の骸を引きずってどこかへ持っていった。遅れてスマホの通知音があちこちで鳴った。

彼氏と家族を同時に失った橋本の泣き声が、佐々木の耳の中をひっかくように傷つけた。


 2


 ついさっき佐々木は、人を殺した狂人の、素早い動きや包丁さばきに見惚れてしまっていた。冷静になって考えてみると、自分はどうかしている、と思わざるを得なかった。

——ぼくは人殺しを容認しているのか? それに、ついさっき父さんや母さんが殺されたばかりなのに、どうしてぼくはあんなことを思えたんだ?

 頭に穴の開いた両親の画像を見て、ショックを受けたはずだった。脳天を割られた弟と祖母を見て、絶望し、泣いたはずだった。

だがそのことよりも、山神の美しい包丁さばきや尋常でない俊敏さのほうが大切だと脳が判断した、とでもいうのだろうか。

自問しているうちに、佐々木の心は切り替わっていった。いつまでも家族の死を悼んでいられる状況ではない。この教室に、現実についていかなければならない。


 橋本に寄り添う戸田、小林、吉田の親友だった河崎や藤川らが怒りに震えていた。

森口はほかの男子たちに、水谷は女子たちに声をかけ、なんとかこの最悪な状況に耐えられるように奮闘していた。

三上は佐々木と安藤に声をかけた後、「空気が悪いから」と言って窓を開けていった。冬の冷たい風が教室内に入ってきた。

ぼーっとする頭で三上のなびく髪を眺めていると、ふと思ったことがあった。本当に最後の一人になるまでこの殺し合いが続くというのなら、三上もいつか死んでしまうのだろうか。

大事な幼馴染で、好きな女の子が、佐々木の目の前で無惨に殺される。木野や吉田のように、首を切られて血を噴き出して息絶える。

そんなものは、絶対に見たくない。

見たくないが、この理不尽な教室で佐々木が三上を救えるとは到底思えない。同年代の男子にさえ勝てない非力な佐々木では、山神を倒すことも、脱出することも不可能だろう。

佐々木は窓の縁に片手をかけ、頭を少し出して地面を見下ろした。

自殺、という言葉が佐々木の脳裏をよぎる。自殺すれば、三上の死を目にすることも、殺し合いをすることもなく逝ける。

——なんて、自分勝手にもほどがあるか。

乾いた笑みが佐々木の口から漏れ出た。

それに、この教室は二階に位置し、地面は雪に覆われている。もし落下しても足を折るだけだろう。自殺するには条件が整っていない。

地面に落ちて痛みにひるんでいる間に兵士に撃たれて死ぬのが想像できた。教室で死ぬのと何ら変わらない、と結論づけた。

 窓の縁にかけていた手をひっこめようとしたとき、佐々木の視界に艶のある黒髪が入り込んだ。

「何考えてたの?」

「……いや、なんでも」

 目を伏せて首を軽く振った。三上は窓の下の壁に体を預けて、外を見ながら耳に髪をかけていた。佐々木の家族が死んだときに泣いた跡が、目の周りにまだ残っている。

「もう、嫌になるよね。私、ここから落ちて死んじゃおっかな、なんて」

「……無理だよ。ここじゃ高さが足りないよ」

「あ、やっぱりそんなこと考えてたんじゃん。高志ってほんとバカ! 顔で大体わかるんだからね!」

「ご、ごめん……」

 自殺を一瞬でも考えたことを見透かされたみたいで、胸のあたりを小突かれた。

「家族はいなくなってもさ、高志のこと大事に想ってる人は、ほかにもいるんだよ。だから、死ぬことなんて考えないで高志。いっしょに頑張ってここから脱出しようよ」

「……うん、ありがとう」

 ——高志のこと大事に想ってる、かあ。嬉しいな。

 心が温かくなるのを感じた。佐々木の脳裏に、『好き』の二文字が浮かんだ。

 三上との会話が途切れたところで、今度は森口が近づいてきた。真剣な顔つきをして、佐々木たちとその近くにいた生徒たちに、一度みんなで話し合いたいから集まってくれと言ってきた。

生徒たちは教室後方に集まっていく。佐々木も移動した。ちらと黒板のほうを見て、森口が話し始めた。

「今はまだ十時半。三時間目が始まるまで、あと三十分ある。山神に勝てない以上、残された選択肢は脱出しかない。でも簡単には脱出できないし、もし教室を監視されているとしたら、教室から一歩でも外に出た瞬間に家族が殺されてしまう。だからみんなで考えたいんだ」

 切実な目で訴えかける森口。口を引き締め、全員に問いかける。否定する声は上がらず、教室から脱出することに全員賛成のようだった。

実際問題、殺し合いをするわけにもいかないし、山神を殺すこともできそうにない。なんとかして脱出する方法を考えるしかなかった。宮園が挙手をした。

「森口の意見におおむね賛成だけど、監視されているか否かについては、考える必要はないよ。監視があろうとなかろうと、教室を脱出するということは自分の家族が殺されることを前提に動かなければならない」

「それは、どういうことかな?」

「仮に、兵士にも山神にも監視カメラにも見つからずに教室から出て外に脱出できたとしても、家族の居場所は俺たちにはわからない。全員で家族のいる場所を探している間に山神が教室に戻ってきたら、どうなる?」

「あ……そっか。あいつなら誰がいなくなってるかすぐにわかるから、家族を殺されるのは間違いない、ってことだ」

 水谷が納得した様子で頷いた。

 宮園の言うとおり、たとえ誰にも気づかれずに脱出できたとしても、山神には後で絶対に気づかれてしまう。三年間担任として接してきた人間が、クラスの誰が脱出したのかを把握できないはずがない。宮園が再度伝える。

「だから、脱出するなら、家族の命を犠牲にしなければいけない」

「それはダメだね。家族を犠牲にして脱出、生き延びたところで意味はないと僕は思うよ」

「わたしもそう思う。何か別の方法を考えないと……」

 ほかの生徒たちも頷き、俯いて頭を巡らせている。佐々木も考えるが、脱出できる案は浮かばない。

 その後クラス全員で話し合ったが、五分十分と過ぎても、実行可能な案が出ることは無かった。

一番脱出できる可能性が高く、なおかつリスクが少なさそうな案は、兵士の銃を奪ってほかの兵士と山神を制圧するという宮園のものだったが、兵士のもとにたどり着く前に確実に死人が出るし、そもそも銃の撃ち方も知らないし、さらに言うと死ぬとわかっていて挑もうとするものがいない、というさまざまな問題を孕んでいたため、この案も通ることはなかった。

最低でも山神を倒さないといけない、という最大の条件を突破できる案が出ることはなく、十時五十分、二時間目の終わりのチャイムが鳴った。

カーテンが勢いよくなびいて冷たい風が入ってきた。全員必死になって思考していたため、教室が寒くなっていることに気づかなかった。佐々木と三上は窓を閉めて回った。

 やがて、卒業式予行の日には不必要なはずのチャイムが、無情にも三時間目の始まりを告げた。


〇三時間目


 1


 鐘が鳴り終わるとき、教室前方のドアから山神が入ってきた。

「おいおい、まだ泣いてんのかよ橋本」

 嘲笑しながら、山神は言った。その山神の白衣には先ほどついたはずの血がきれいさっぱりなくなっていて、靴も新品同様になっていた。おそらく着替えてシャワーでも浴びてきたのだろう。

 泣き止まない橋本は答えることができない。

「それは人間不要論が非常識な考えだったころなら正しい反応だった。人間としてこの世に生まれ、家族や愛が大事だと気づき、友人との絆を深め、やがて恋に落ちて子供を産み育てる。この繰り返しが善とされていたころならな。だが、今日からは違う。お前らが今までやってきたことすべてが悪となった。いいや、ただ気づかないふりをしていただけで、ずっと人間は悪だった。だから橋本、それにお前たち、人間が悪で不要な存在と正しく認知されたこの世界では、人間が一人死ぬごとに泣くなんてことはバカがやることだ。これからは一人死ぬごとに地球がきれいになる、地球が救われると考えろ。それが常識になる」

 まるで社会の授業を教えているような顔で山神は説く。嘲笑めいた顔ではなく、真面目な教師としての顔で佐々木たちに教え込んでくる。

「さあ、時間は有限だ。俺は明日からも授業があるからな。今日中に終わらせなければならない。……それじゃあ三時間目、始めようか」

 染み一つない白衣の内からチョーク入れを取り出した山神は、黒板に書かれた最初のルールの隣に、クラスメイトの名字を次々と書いていった。二十五人クラスから木野と吉田の二人が死んで、残りは二十三人。それが三つのグループに分かれて書かれていた。


『佐々木高志、相馬唯斗、宮園洋、森口翔太、安藤咲花、戸田依梨夢、三上恵美』

『太田正人、河崎拓也、清水達樹、中村・スジーキー・海人、野田晴太、藤川優佑、小林継美、橋本杏奈』

『久保寛太、西山涼、渡辺修一、井口萌、今野美紅、佐藤凛、中野瑠香、水谷夏実』


 グループを見ると、クラスの内情を事細かく知っているわけでもない佐々木でも、分け方が偏っていることに容易に気づけた。おそらく、山神から見て仲の良い生徒同士を組ませたのだ。

佐々木高志、三上恵美、安藤咲花は仲が良く、森口翔太と相馬唯斗も仲が良い。宮園洋は、佐々木と同じで一人でいることが多いから、人数合わせだろう。だが戸田依梨夢だけは意図的な配置だと感じた。

戸田依梨夢は、橋本杏奈と小林継美と木野愛里(木野は死んだが)との不良女子四人グループのはずだが、橋本、小林とは今回別のグループに配置されている。不自然だ。なぜだろうか。

 考えている間はほとんどなく、山神は話し始めた。

「三時間目の殺し合いは、三つのグループに分けた殺し合いだ。殺し合いといっても、ただ全員が殺し合うわけではない。それが一番手っ取り早いんだが、お前らはそうもいかないみたいだからな。これまでの二時間でお前らが他人を殺せない人間だということはよくわかった。だが、縛られたルールの中では人は変わらざるを得なくなる」

 山神は続けた。

「殺すという体験を実際に一度でもしたやつは、次から殺すことに躊躇がなくなる。殺すことで解決できるのなら、その方法を選ぶようになる。……ということで、次の殺し合いではぜひとも殺人者が出ることを期待する。さあ、ルールの説明だ」

 黒板の右側にまだスペースがあったので、山神はそこに新品同様の長いチョークを滑らせていく。

すぐに書き終わった。内容はシンプルなようだ。


ルール一 グループごとに集まり、十分以内に同じグループ内の誰か一人を殺す

ルール二 殺せなかった場合はペナルティを与える


「グループごとに分かれて適当に集まれ。ナイフは今から全員分配るから、それで殺せ。はい、スタート」

 おざなりな号令で生徒たちは動き出した。佐々木のグループ七人は、教室中央の左隅に集まった。山神はむき出しのナイフを一人一人に手渡ししていった。

ナイフを手にした佐々木に何の危機感も持たないで背を向ける山神を、一瞬だけ刺しにいこうか迷ったが、そんなことをすれば自分が殺されることを本能で感じ取ったのでやめておいた。ほかの生徒たちも同様、隙だらけに見える山神に誰一人として襲いかかるものはいなかった。

 十分の計測はすでに始まっており、全員にナイフを配り終えた時点で残り八分ほどとなっていた。

「先生、質問してもいいでしょうか」

 佐々木の隣に立つ森口が手を挙げた。

「いいぞ」

「ペナルティの内容はどんなものなのでしょうか」

「今答えるわけないだろう」

 腕組みをして教壇に立つ山神が、厳しめの口調で答えた。すみません、と森口は頭を下げた。

「話し合いはしてもいいでしょうか」

 教室後方の右隅にいるグループの中から、水谷の声が上がった。山神はニヤリとした後、鼻から空気を出して答えた。

「好きにしていい。殺しとは関係のない話でもいいぞ。例えば俺を殺す方法とか、脱出する方法とかな。別にそれに怒って俺が何かすることはない。ただ、不愉快にはなるな」

「あ、ありがとうございます」

 萎縮した様子の水谷が唇を噛みしめ、グループに目を向けた。その後質問が出ることはなく、それぞれグループ内で少しずつ会話が始まった。

 佐々木のグループでは一番山神が近いというのに、森口が遠慮なく話をし始めた。

「僕は人間不要論なんか馬鹿げてるとしか思わない」

「え……」

 開口一番に山神にも聞こえる声で、森口は反感を買うであろう発言をした。佐々木は驚いて思わず声を出してしまった。

星守教の教義を罵ったことが山神の逆鱗に触れるのではないかと、グループメンバー全員が慌てて山神のほうを見る。

「大丈夫。……ね?」

 山神はこちらを見てはいたが、怒る様子は微塵も見せていない。

先の水谷の質問に対する山神の答え、殺し以外の話をしてもいいということを、森口は身をもって証明したのだった。基本的に山神は嘘をつかない、ということだろう。

森口はグループのメンバーの顔をぐるりと見渡し、落ち着いた声で言った。

「時間も残り少ないけど、自由に発言していいということはわかった。だから、これからは遠慮なく意見を言っていこう。いいよね、みんな?」

 佐々木たちはそれぞれ頷いた。宮園が眼鏡に中指を当てて話し始めた。

「俺はこの十分の間に殺し合いをする必要はないと判断した。もちろん、殺し自体反対ではあるが、わざわざ自分の手を自らの意思で汚す必要はない、という意味でだ。時間は有効に使って、この馬鹿げたゲームをどうにかして終わらせる方法を考えたい」

「そうだね。どうにかして脱出するか、終わらせるかしないとね」

 三上も、首を縦に振って賛同した。安藤もその隣でうんうんと頷いている。

森口が佐々木に「どう思う?」という目線を投げかけてきたので、佐々木は答えた。

「ぼ、ぼくもそう思う」

 実際、殺しなんかしたくないし、協力して知恵を出し合えば何とかなる可能性はあると佐々木も考えていた。ただ吉田のように山神を倒そうとする作戦には反対するつもりだった。

森口の横に立っている相馬が、日焼けした腕を組んで言った。

「俺も気持ち的には当然殺し合いをしたくはない。でも、ペナルティのことも考慮に入れないといけない。わざわざルールに書いてあるってことは、普通に考えて今一人を殺しておくほうが犠牲は少なくて済むってことだ」

「……は? それってさ、ペナルティが怖いから今一人殺っちゃおうってこと? あたしにはそう聞こえたけど」

 壁に寄りかかっている戸田が、爪を見ながら相馬の発言に反応した。

「違う。そういう意味じゃない。この十分間で誰一人殺さなかったら、犠牲者が一人では済まなくなるかもしれないだろ。俺はそのリスクも一応わかっておいたほうがいいと思っただけだ」

「うん、僕も唯斗の意見は大事だと思う。山神は正真正銘の殺人鬼だ。だからこの十分間が終わった後、あいつは誰かを殺すだろうね。それも、一人や二人じゃないかもしれない。……でも、クラスメイトを自分たちの手で殺すより、僕はそのほうが何倍もいいと思う。みんなもそう思わない?」

 悲しげな顔を浮かべた森口が、グループ内の全員に問いかける。

森口が言いたいことはわかる。佐々木も賛同できる。どちらにせよこのクラスから死人が出ることには変わりないが、自分たちの手でクラスメイトを殺すより、山神に殺されたほうがまだマシだと言っているのだ。

被害者であれば、心は穢れることはない。

佐々木も、誰かを殺して自分一人だけが生き残るなんて残忍なことは考えられなかったし、それくらいなら殺されたほうがマシだと思っていた。

 戸田もほかの全員も同じ考えのようで、ひとまずこの十分間は殺し合いをしない方向にまとまった。

佐々木はほかのグループはどうなったか気になって、視線を教室の後ろに向けた。佐々木たちのすぐ隣にいる河崎のグループも、殺し合いを始めるような雰囲気ではなかったため安心した。

ただ一つ気になったのが、明らかに意気消沈している様子の橋本の存在だった。彼氏と家族を殺されたことで相当生気を失っている様子だ。

橋本の落ち込む姿を見て、佐々木もつられて悲しい気分になった。理不尽に殺された家族との、最後になってしまった今朝の会話が脳裏に蘇る。

『明日で卒業かぁ、高志。早いもんだなぁ』

『母さんとお父さんと、それにおばあちゃんも、明日の卒業式、見に行くからね』

『いてらしゃい!』

『気ぃつけて行くんよお』

『うん、いってくる』

 ——ごめん、みんな。……卒業式、なくなっちゃったんだ。本当はちゃんとした晴れ姿、みんなに見せたかったんだけどな……。

グループ内で話し合いが続いているが、それらは佐々木の頭上を通り過ぎていく。耳には何も入ってこない。

家族の顔を思い返していると、堪えきれなくなった涙が目に溜まってきた。心臓がキュッと締めつけられるように痛い。

——あったかい家族だった。こんなぼくなんかを一生懸命育ててくれた。愛してくれた。数えきれないほどたくさんもらった。みんな、大好きだった。……本当は、もっとずっと、いっしょにいたかった。

あふれる思いとともに、目から熱のこもった水滴がこぼれ落ちていく。

——こんな息子のために愛情を注いでくれたことに、『ありがとう』って、言いたかった。一人前になって、恩返しがしたかった。


とめどなく流れる悲しみを押さえきれずにいると、顔のすぐ下に水色の四角く折りたたまれたものが、急に横から現れた。きれいなハンカチだった。

顔を上げると、そこには片手を胸に当てた安藤の姿があった。唇を少し噛みしめ、泣き出しそうな表情をしていた。

「これ、使って」

「あ、……ありがとう」

 受け取った佐々木は、ありがたく涙を拭いた。ハンカチはほどよい柔らかさで、柔軟剤のいい匂いがした。ふいの優しさに、また涙が出てきそうになった。

それをぐっと堪えて奥に押し戻し、濡れてしまったハンカチを安藤に手渡す。

「ごめん、汚しちゃって……。でも、安藤さんも使ったほうがいいよ」

 赤縁の眼鏡をかけている安藤は、レンズの向こうにある瞳を潤ませて必死に泣くのを我慢していた。もらい泣き、というものだろうか。首をふるふると左右に振る小柄な少女を見て、優しい子だなと佐々木は思った。

ハンカチを受け取った安藤は佐々木に「ありがとう……」と言い、眼鏡をずらして涙を拭いた。自分のハンカチなのに礼を言う彼女がなんだかおかしくて、少し心が和んだ。

 戸田を除くグループの全員が、佐々木と安藤に声をかけてくれた。三上には頭を撫でられてしまった。

「もう、メソメソしないの! ……ったく、泣き虫なんだから高志は」

「うん、ごめん……。ありがと……」

 そんなことがあったが、その後も佐々木のグループでは、森口を中心にこの状況を打破できる方法を必死に探し続けた。

しかし、やはり家族という人質をとられているせいで生徒側の動きがかなり制限されるので、良案は出なさそうだった。十分間の殺し合いの残り時間が二分を切ったとき、隣のグループで塞ぎ込んでいた橋本が手を挙げた。

「先生、星守教には女の人も当然いますよね。……質問していいんですよね」

 挙手したまま喋る橋本の目もとは、メイクが伸びて汚くなっていた。まだ目は充血していて、頬には涙の流れた跡が少し残っている。だが橋本のその目は、今はもう、家族が殺されて落ち込んでいる人間の目つきではなかった。意思の強さを感じる目だった。

佐々木は唐突な質問もそうだが、彼女の立ち直りの早さに心底驚いた。教室中の生徒たちも、橋本の急な質問と態度に驚いているようで、全員が彼女に注目していた。山神だけはこの場にそぐわない笑みを浮かべた。

「もちろん質問は歓迎だ。そして答えはイエス、女性も星守教で活動している。だがなぜそんな質問をする?」

 なぜ急に今こんな質問をしたのか、佐々木には皆目見当もつかなかった。三上も安藤も眉を寄せて橋本のほうを見ていた。

「女性は子供を産めますよね。だから人間不要論とは反対に、人間を増やしてしまう要因になってしまうと思うんですよ。先生はこの教室からは一人しか卒業生が出ないと言ってましたが、それは女子でもいいんですよね?」

「ああ、そういうことか、いい質問だ橋本。つまりお前が聞きたいのは、もし最後まで生き残った一人が女だったら、俺が不要だと判断して排除しないか、ということだな」

「はい。どうせ死ぬんだったら、ここで頑張る意味がないので」

 突如始まった問答に、佐々木の頭はついていけなかった。橋本の言いたいことがいまいち理解できない。女がどうとか、生き残るとか、頑張るとか、どういうことかわからなかった。山神は続けた。

「理解の及んでいない生徒が多いな。橋本はつまりやる気になったってことだ。家族が殺されたことで俺に復讐心を抱いたのか知らんが、正当にここを出ようとするのはいいことだろう」

 橋本が舌打ちをしたのが聞こえた。

「最初のほうにも言ったが、俺の目的は殺しのできる人間を作り出すことだ。短時間でな。星守教徒は全世界の半分以上と言ったが、それはもちろん高齢者も含まれる。戦力にはならない。そしていくら洗脳済みだとはいえ、全員が全員、殺しができるとは限らない。人間不要論は叩き込まれていても、実際に殺す行為を躊躇わない狂人が何人現れるかわからない。そのための保険がお前ら若い年代の人間だ。体力も力もあり、殺しもできる、そんな可能性を秘めた原石がお前らで、そいつを採掘するのが俺の役割だ。だから俺は、卒業生が女でも男でも構わない。……ただ、この教室で生き残った最後の一人が殺しのできない人間——つまり殺すことなく偶然に生き残った奴——だったなら、俺はそいつを躊躇なく殺すだろう。橋本、そういうわけだ、女だという理由では俺は殺さないと約束しよう」

「わかりました」

 何かを決心したかのような表情で、橋本は頷いた。山神もそれを見て頬を歪ませる。

橋本の彼氏の吉田はバスケットボールをやっていたこともあり、体格、力、スピードは申し分なかった。さらにほかの強そうな男子と五人がかりで山神を倒そうとした。しかし吉田は簡単に殺されてしまった。だから橋本は、この教室を出た後で隙を見て山神を殺るつもりなのだろう。

——この教室から『正当に出る』ということは、橋本さんはクラスメイトを次々に殺していくということなのか?

 佐々木やほかの生徒たちのさまざまな想像と疑問が教室内を駆け巡るなか、ついに十分が経過してしまった。白衣が動いたのを視界の端で確認した。山神が腕時計を確認していた。

「十分経った」山神はため息をついた。「全員にこれからペナルティを与える。これからは一言も喋るな。喋ったと俺が判断したら、殺す。はいスタート」

 ——喋ってはいけないということは、山神は今から誰かを殺すのか? 悲鳴を出させない訓練とでも言って……。

 ネガティブな妄想が佐々木を恐怖させた。

山神は教室を見回した後、スマホを取り出して何かし始めた。文字を打っているようだった。それが終わったのか、山神は人差し指を二度動かし、佐々木たちのグループを呼んだ。

「森口のグループ、黙ってこっちに来い。——一列に並べ」


 2


 佐々木たちは口を閉じたまま山神のほうへ向かい、言うとおりにした。教壇と平行になるように一列に並んだ。

山神は端に並んでいた佐々木の前に一歩踏み出し、スマホの画面を見せてきた。白い画面に黒い文字が書かれてあった。佐々木は上から順に黙読した。


 ペナルティ

ルール一 自分以外のグループメンバーの名前を紙に書き、一番得票数の多かったものが殺される

ルール二 ジェスチャーなど不審な行動をしたものはルール違反とみなし、そのものと親族を即座に皆殺しにする

ルール三 得票数の一番多い人物が複数いた場合、グループ内で決選投票をして殺される人物を一人にする


 佐々木が読み終わった後、隣の森口にもスマホの画面を見せると思っていたが、そうではないらしい。佐々木だけ教卓に近づくように言われた。どうやらルールは一人一人直前に知らされるシステムらしい。

このルールは要するに、一番名前を多く書かれた人物が殺される、というものだ。不要な人間を排除するという、人間不要論の考えに基づいて作られている。

 教卓に近づくと、山神は内ポケットから白い小さな紙とボールペンを取り出して置いた。名字がやっと書けるくらいの小さな紙だった。

佐々木はボールペンを握り、誰の名前を書けばいいか真剣に考えた。

森口、相馬、三上、安藤、宮園、戸田。この六人の中から殺す人間を選ばなければならない。誰を書けばいいんだ、と悩んでいると、ふと先ほど抱いた疑問を思い出した。戸田だ。戸田がこのグループメンバーの中に混じっているのはやはりおかしい。

——そうか、戸田を選べってことか……。

もしかすると戸田を殺せという山神からのメッセージなのではないか。佐々木はそう考えた。

不良で高圧的な態度で弱者をいじめる女。佐々木は戸田に対してそういうイメージがあった。佐々木ほど頻繁にいじめられていたわけではないが、安藤も女子の間ではいじめられるほうだったと記憶している。思い返せば、中学生のとき、戸田が安藤を突き飛ばしたところを何度も見たことがあった。

 このグループで一番不要な人間は戸田だ。確信した佐々木は、戸田という名字を紙に書き込んだ。ペンを置くと、山神からの指示があった。

「そのまま振り返らずにそこのドアの前まで進み、立って待ってろ」

 佐々木は振り返らずに歩いていき、ドアの前に立った。

 少しして、山神の森口を呼ぶ声が聞こえた。森口は誰の名前を書くのだろうか。

このグループは七人いるから、四人から名前を書かれたらアウトだ。森口もおそらく消去法で戸田を書くはずだ。

 やがて、佐々木の後ろに森口が並んだ。次は相馬が呼ばれ、三上、安藤、宮園、戸田の順で呼ばれていった。

全員の投票が終わったところで、山神から指示を受けて教室の後ろに進んだ。同時に次は河崎のグループが前に呼ばれた。

河崎グループで殺されるのは河崎以外間違いない。むしろそれがいい。佐々木の家族を殺したのは紛れもなく河崎のせいであり、そのことはクラス中誰もが知っているからだ。

 河崎グループも投票が終わった。まだ開票されていないが、歩いてくる河崎の目は床を見ながら右へ左へと動いていた。不安で仕方ないのだろう。

水谷のグループも前に呼ばれ、最後のグループの投票が始まった。

 佐々木はそれとなく視線を河崎たちのグループに向け、様子をうかがってみた。不審な動きをすると殺される可能性があるのにもかかわらず、河崎はグループ内の一人一人の顔を見て探っているようだった。

『俺の名前を書いてないだろうな?』『お前は誰に入れた?』と目で言っているように感じた。もう遅いのに、と佐々木は心の中で失笑した。

 水谷のグループの投票が終わったところで、山神は「開票の時間だ」と言って邪悪な笑みを浮かべた。そして佐々木たちのグループを再び前に呼び出した。

佐々木グループは先ほどと同じように山神の前に横一列に並んだ。上から見下ろしてくる狂人の言葉を待つ。

「まだ喋るなよ」山神は教卓の引き出しの中から名前の書かれた紙を取り出し、その七枚の投票用紙を裏にして教卓の上に伏せた。

「これから一枚ずつ書いてある名字を呼び上げる。一番多かったものは死んでもらうことになる」

 無情な宣告をした山神は、一枚目の紙をつまんで自分の顔の前に持ち上げた。佐々木はもしかしたら自分の名前が呼ばれるのではないかと、今さら心配になってきて、つばを飲み込んだ。

山神は小さな紙から視線を外し、佐々木の目を見た。そして紙を裏返して見せる。

「佐々木」

 ——えっ⁉

 山神の口から、聞きたくない名前が飛び出した。そこには紛れもなく佐々木という漢字が書かれていた。一瞬にして心臓の鼓動が速く、大きくなったのを感じた。

——なんでぼくなんだ! 誰が書いたんだ⁉

 山神はその紙を置き、続いて二枚目を持ち上げた。また佐々木のほうを見て、口角を上げた。

「佐々木」

 裏返した先には、またもや佐々木という字が書かれていた。佐々木の心臓が、跳ねるスピードをどんどん強く速くしていく。なぜ自分の名が書かれたのか、佐々木には見当もつかない。いじめられっ子ではあるが、それが理由なのか。

佐々木はたまらず首を横に向けた。だが一列に並んでいるため、隣の森口の表情しか見えない。その森口は、唇を噛みしめ、正面を見たまま次の紙の結果を待っているようだった。

佐々木はその表情からどんな事を今考えているのか、読み取れなかった。しかし、森口まで佐々木の名前を書いたのかもしれないという疑念が膨らんだ。

——次は戸田、次は戸田……。佐々木は祈った。

「戸田」

 三枚目は戸田と書かれてあった。よく見ると、それは自分の書いた字であることがわかった。そのことから、字で誰が誰の名前を書いたかがわかることに佐々木は気づいた。四枚目を山神が裏返す。

「戸田」

 五枚目も裏返す。

「戸田」

 連続で戸田の名前が呼ばれた。佐々木の心は少し落ち着いた。

——よし、これで戸田に三票入ったことになる。おそらく最初の二票、佐々木と書いたのは戸田と宮園くんで、残りの全員が戸田と紙に書いたはずだ。

佐々木は三上と安藤とは仲が良いほうだし、森口はいつもいじめから助けてくれる。森口の友人の相馬も、佐々木が死ねばいいとは思っていないはず。だから大丈夫だ。

山神が六枚目を意図的にゆっくりと持ち上げ、顔の前で止める。光の加減で薄っすらと文字が透けて見えた。

——え?

「佐々木」

 山神は大口を開ける佐々木を見ながら、手で顔を覆って小刻みに震えている。手の甲の下から白い歯が見えた。目を見開いた佐々木は、危うく声が出そうになってしまった。

 ——そんな、ありえない。いったい誰がぼくに入れたんだ。

 これで残りは一枚。最後の一枚も佐々木と書かれていたら、佐々木の死は確定する。戸田と書かれていたら戸田が殺されることになる。

運命の一枚を、山神は先ほどよりもゆっくりと持ち上げ、視線を七人全員と合わせた。山神の口もとを注視した。息を吸った——

「戸田」

 ——はあ、よかった……。

 耳に入った瞬間、全身から空気が抜けたような気がした。生きた心地がしなかった。佐々木は膝に手をつき、もう一度、人生で一番大きなため息を吐いた。

顔を上げると、一瞬ニヤッと笑い佐々木のほうを見た山神が、教壇に置かれた投票用紙を何やら並び替えていた。

「よし、開票は終了だ。お前らのグループだけ自由な発言を許可しよう」

「ふざけんなよ、誰だよ入れたの! ——おい答えろよ!」

 山神が喋っていいと言った瞬間、青筋を立てた戸田が、女子とは思えない荒々しい言葉で怒鳴った。隣の宮園の胸倉を掴んでいる。宮園は気おされながらも首を横に振った。

「俺じゃない、俺は佐々木に入れた」

「じゃあ誰だ、ぶっ殺してやる」

「まあ待て戸田。一旦落ち着け」

 ほかのメンバーに脅迫しようとした戸田の首もとに、いつの間にか光る刃が置かれていた。戸田は寸前で勢いを止め、猛獣のような鋭い目つきで山神の顔面を睨みつけた。

「ルール一により、得票数の一番多かった戸田が殺されることが決定した。だが、俺はもともとこんな投票ごっこで生死を決めるつもりはなかった。……ということで追加ルールだ。ルール四、殺されることが決まったものは、代わりにグループ内のほかのメンバーを一人殺すことで、死ぬことを回避できる」

「は?」

 山神の発言に、七人が全員同じ一言を放った。

——追加ルール⁉

「お前らに一人一つずつナイフを配ったのを忘れたのか? それはここで戦うためだ」

 そう不敵に笑った山神は、戸田の首もとに構えていたナイフを懐に戻し、戸田に続けて言った。

「ついでに戸田、お前に誰が投票したのかわかるようにしておいたぞ。順番に並び替えておいた」

 教卓に乗っている、名字の書かれた小さな紙きれを指さした山神。佐々木は身を乗り出し、目を凝らしてよく見た。佐々木の字で戸田と書かれた投票用紙が、佐々木側の一番端に置かれていた。

「佐々木は戸田に、森口は佐々木に、相馬、三上、安藤は戸田に、宮園と戸田は佐々木に投票したことがわかるな」

 山神がわかりやすく説明してくれた。佐々木は思わず森口の顔を見た。

——森口君がぼくに票を入れた?

 投票結果が公表されたことに動揺したのか、森口はぎこちない笑顔を作り、佐々木に何か言いかけた。

「いや——」

「——弁明は後にしろ森口。それよりも、これが結果だ、戸田。誰を殺して生き延びるか決めたか?」

 ナイフを利き手に持ちながら山神の話を聞いていた戸田が、ふだんから悪い目つきを、さらにぎらつかせ、鼻から勢いよく呼気を出して佐々木たちのほうを見た。歯を全力で噛みしめているのか、こめかみの辺りが膨らんでいる。怒りに震えた声で戸田は言った。

「宮園と森口は佐々木に入れたんだな。……じゃあ、お前らの中の一人をぶっ殺せばいいんだな」

「そうだ戸田、今すぐに殺せ」

 山神に発破をかけられ、さらに目がキマった戸田。理性が吹き飛んでいるのかもしれない。ナイフを握る手に力が込められ、プルプルと震えている。噴火寸前の表情をしている。

佐々木は無意識に学ランの内に忍ばせておいたナイフを手に取った。

戸田は佐々木、相馬、三上、安藤の順で目線を移動させ、最後に捉えた小柄な少女、安藤に狙いをつけ、殺意をまとった。

「ふっ——」

 二歩ほどの距離を大股一歩で瞬時に縮め、無防備な安藤に戸田が覆い被さるように上からナイフを振るった。

ナイフは横髪を斜めに切り裂き、安藤は頬を押さえて床に転がり込んだ。銀色の刃の先に赤い血が付着していた。

 佐々木は動けなかった。森口と相馬、三上、宮園も動けなかった。

だがそれは一瞬のこと。三上は倒れた安藤を背にしてしゃがみ、ナイフを前に構えた。相馬もナイフを握ってその三上の前に立つ。

「邪魔するなぁっ!」

 全身の毛を逆立てる獣のように興奮した戸田が、血走った目で相馬を睨みつける。

「落ち着け、やめろ」

 相馬が体の前にナイフを構え、戸田と相対した。

 三上は倒れた安藤を抱きかかえ、頬にハンカチを当てていた。安藤と三上はハンカチをいっしょに押さえている。傷はそれほど深くないようで、佐々木から見える範囲では血が少しハンカチに滲む程度だった。

佐々木の足は恐怖に震え、本能的に自分の身を守ることしか考えられなかった。

「どかないなら相馬、お前が死ぬことになる」

 呼吸を荒げた戸田は半身になり、相馬にナイフを向ける。佐々木は隣にいる森口に声をかけた。

「どうしよう森口君、戸田さんは本気で殺す気だよ」

 いつもの快活さは消え、森口の目は怯えている様子だった。佐々木にやっと聞こえるくらいの声量で呟いた。

「ダメだよ……。僕にはどっちの味方もできない……。だって誰かを殺さないと戸田さんは山神に殺される」 

「それは、そうだけどさ——」

 森口は動くつもりがないらしい。話している間に、戸田が動いた。相馬に向かってナイフを雑に振り回し始めた。

斜め上から、ボールを投げるような動作で腕を振り下ろし、空を切ったナイフが折り返しで横に一閃する。後ろに安藤と三上を庇う相馬はそれ以上後ろに下がれないため、ナイフでなんとか弾く。

戸田には殺意があるが、相馬にはそれがない。受け止めることしか考えていないようだった。再びナイフを、今度は突くように繰り出す戸田。相馬はかろうじて避けるが、学ランにかすり、ボタンが一つ飛んだ。

このまま防戦一方では、相馬は勝てないだろう。そう考えるも、佐々木の足はその場から一ミリたりとも動かなかった。

——やばい、なんとかしないと相馬君がやられてしまう。でも、ぼくは……。

 戸田が今度は相馬の腕を切りつけた。

「ぐあっ」

 学ランの上から傷口を押さえ、歯を食いしばる相馬。本当にやばい、と感じた。

と、そのとき、安藤を庇う三上と目が合った。視線を交わした瞬間、まるで『高志、助けて』と懇願されたような気がした。隣で縮こまっている安藤とも目が合った。

——動かなきゃ、動かなきゃ……!

 距離にして五歩ほどの距離が佐々木には遠かった。刃物を振り回す狂人に立ち向かう勇気が出なかった。

 ナイフを落とした相馬が、片膝をつきながら腕をまだ押さえている。血が学ランを濡らし、小指の先から床に落下する。

息を荒らげている戸田は、相馬から一度視線を外し、後ろに視線を向けた。その先には寄り添う女子二人、安藤と三上がいた。

——戸田の口角が上がった。

そのとき佐々木の体に電流が走った。もしかしたら戸田はまだ、相馬じゃなく安藤を殺そうとしているのかもしれない。

 戸田は相馬を真後ろに蹴り飛ばした。安藤を庇っていた三上のか細い足に、相馬の体重がかかってしまう。

「いたっ」

 三上が苦鳴をあげ、自分のふくらはぎを押さえた。戸田はその隙を見逃さず、まず相馬を蹴って左にどかし、すぐに三上の髪を握り安藤の右に引きはがした。二人の城壁が破られ窮地に立たされた安藤は、後ろに逃げようとするが、腰が抜けているようでうまく動けない。

戸田はナイフを腰の横に構え、床にぺたりと座って動けない安藤に向かって一歩を踏み出した。安藤は迫りくるナイフから身を守るため、頭を抱えている。

横から見える戸田が、野獣のような咆哮をあげて刃物を突き出そうとして——、

「え?」

 佐々木の後ろで森口の驚いたような声が聞こえた。

佐々木は自分の行動に驚いていた。まさに今、佐々木はなぜか無意識で走り出していたからだ。胸の前には刃先を戸田のほうに向けて持つ手があり、目は戸田の横顔とセーラー服のスカーフの間、むき出しの首だけを見据えていた。狭いスペースを直線的に走り、今にもナイフを突き出そうとしている戸田の首に狙いをつけた。手前に少しナイフを引き、勢いよく水平に繰り出す。

魚を捌くときとは逆方向に右腕を動かしたが、ナイフはしっかりと戸田の首に深く傷をつけた。瞬間、切りどころがよかったのか、温かいシャワーが勢いよく吹き出し、佐々木の肩口を汚した。戸田は慣性に従って前に倒れながら進み、安藤のすぐ脇にドサっと突っ伏した。痙攣した体から血液が吹き出していた。

「キャアアアァ——!」

 安藤と三上の叫びが聞こえ、そこで佐々木は我に返った。右手に持っているナイフについている血と、顔の半分に感じる温かい感触と嫌な臭いが、自分が今やってしまったことを物語っていた。

「……え、あれ? ——っあ、ああっ……!」

 ナイフを落とし、頭を抱えた。

「ああああああああああ——!」

視線を動かすと、怯える目で佐々木を見る安藤、傍らにあった動かない人間、そして真っ赤な体液が佐々木の目にはっきりと映った。

——ぼくは今、人を殺してしまったんだ。

 視線を感じ周りを見ると、三上も、相馬も、森口も宮園も、教室の全員まで佐々木に怯える目、信じられないものを見たときの目で佐々木を見ていた。

「いい、いいね佐々木!」

だがそんななか、山神だけは違う反応だった。

「お前は才能がある。非常にいい動きだった。動く首に寸分違わず刃を当てた。威力も申し分なく、一撃で命を刈り取った。素晴らしい、いい人材だ佐々木!」

 山神が教壇から降りてきて、佐々木の肩に手を回した。佐々木の脳はフリーズした。


 3


 四つん這いの状態で肘をつき、ただ意味もなく床を眺め続けていた佐々木。脳が周りの情報を遮断しているのか、その後教室で何が起こったのかをまるで知らない。

山神に顎を上げられたときにやっと気がついた。目の前で山神がにやけている。

「そこは邪魔だ。次のグループが殺し合う場だからどけろ」

 次のグループと聞いて、佐々木は現状を思い出した。左を見ると、すでに死体と血の池は跡形もなく消え去っていた。

佐々木は体を起こし、グループメンバーを探した。森口の姿を廊下側の壁で見つけたのでそちらに歩いていった。一瞬目が合った森口は、佐々木からわざと目を逸らした。

目が合ったのは助けた安藤と三上だけだった。脅えた表情は隠しきれていなかったが、それでも何か嬉しいものを感じた。

 教室後方のドア付近に立つと、安藤と三上が近寄ってきた。安藤がいきなり頭を下げた。涙を浮かべた三上は、唇に力を入れて頷いていた。私のせいで、ごめんなさい。高志は悪くないよ。そう言ってくれているように思えた。

学ランの袖を三上につままれ、左手を安藤の温かい感触が包んだ。

頭を上げた安藤の頬には一筋の涙が伝っていた。それから安藤は、眼鏡のレンズを通して佐々木の目をしっかりと見て、『ありがとう』と口を動かした。声は出せないから口パクではあったが、その想いは佐々木にちゃんと伝わった。袖が引っ張られて三上のほうを見ると、三上も同じことをしていた。

 殺人をしてしまったけれど、この二人のことは守れたのだ。佐々木はそう思えた。すると感情のダムが決壊し、一気に放流されていった。ポタポタと落ちていく透明の雫を見つめながら、戸田を殺してしまったことと、二人を救ったこと、罪悪感と安堵の気持ちがごちゃ混ぜになっていくのを佐々木は感じた。

二人の女子も声を出さずに泣いていた。それを見てさらに佐々木は涙を流した。

——優しいな、本当に。

 山神が教壇の上で白い紙を河崎たちに見せている。それを揺れる視界で眺めていると、安藤が自身の血で少し汚れているハンカチをポケットから取り出し、佐々木の顔を拭いた。

涙というより、顔半分についた返り血を拭き取ってくれているようだ。首もとと学ランの肩付近も丁寧に拭いてくれた。

『ありがとう』と佐々木も口を開けて感謝した。


 すすり泣く声はルール違反ではなかったのか、佐々木たちは山神に注意を受けることはなかった。佐々木は教室前方で横一列に並ぶ河崎グループを見た。今ちょうど八人目の開票を終えたところだった。

「開票は終わりだ。このグループだけに発言を許可する」

 山神が白い紙の順番を整えながら言った。河崎がグループ内のメンバー、特に仲の良い男友達に向かって怒鳴る。

「おい誰だよ俺に入れたのは! 五票入ってるってことはお前らの中にも俺の名前を書いた奴がいるってことだろ!」

 どうやら河崎が一番多く名前を書かれたらしい。河崎のグループのメンバーは八人で、その内河崎とよくつるんでいたのは、太田正人、清水達樹、野田晴太の三人だった。ほかのメンバーに名前を書かれたことは許容できたらしいが、親しい友人の裏切りは許せないようだ。三人の友人たちの中の誰かが、追加ルールのことを知らずに、あるいは匿名式と勘違いして河崎の名前を書いてしまったらしい。

答え合わせが、山神の口から発せられる。

「河崎、教えてやるよ。お前の名前を書いてお前が殺されればいいと思った奴をな」

 山神は教卓の上に置かれた小さな投票用紙の上で手のひらを広げ、河崎グループの全員に見せつけた。一人を除き、全員が教卓の上を覗き込む。河崎が紙とグループの並び順を確認し、ある生徒の顔を凝視した。

「お前か、晴太……」

「だ、だってしょうがないじゃん! この中で一番悪いのは拓也じゃん!」

 どうやら友人の中で河崎に票を入れたのは、野田晴太だったようだ。野田は必死に弁明する。

「人を殺したんだよ拓也は! 消去法で選ぶしかなかったんだよ!」

「俺たち友達だろ」

 河崎が強烈な視線で睨みつける。野田の両拳は硬く握りしめられ、首と耳は赤くなっている。

「友達とか関係ないよこれは! だってほかに選ぶ人がいないもん!」

「俺たちいっしょに遊んできたよなぁ。その友達を殺そうとするなんて、お前はもうダチとは言えないなあ」

 河崎は言い終わると同時に学ランのポケットに無造作に入れていたナイフを握り、野田に向けた。野田はまだ抵抗の準備もしていなかった。

野田の背中が曲がったと思うと、河崎の握ったナイフが腹に刺さったままになっていた。

「ぐぅ」

 そのままうずくまるように床に転がった野田。河崎の手には野田の返り血がついていた。小林の「ひっ」という小さな悲鳴が聞こえ、周りの生徒は河崎と野田から距離を置くように後ろに下がって唖然としていた。

 問答無用、まったく躊躇らうことなく人を殺す河崎を目にし、佐々木は総毛立った。

「友達は大事にしないとダメだぞ、晴太」

 まるで生徒を優しく叱る教師のように、河崎は地面に転がる野田に言った。しかし言葉とは裏腹に、ボールを蹴る動作に入った。まだ息をしている野田にとどめを刺すためか、河崎はつま先を思いっきり野田の腹にスイングした。

「ぐぉあっ」

 声とは言えない音を出した野田の下からさらに血が滲んで、後ろの佐々木たちにも見えるくらいに大量の液体が床を覆いつくしていった。野田が絶命したことを確認したのか、河崎は振り返り、山神に報告した。

「神セン、一人殺したので俺は殺されないで済むんすよね~?」

「ああ、そのとおりだ」

 悪魔のような邪悪な笑みを浮かべた山神が、「声を発することの許可を取り消す。黙って後ろに行け」と指示した。その後、スマホを耳に当てた山神は例のごとく、「野田晴太の家族を殺せ」と命令していた。

すぐ隣に歩いてくる河崎たちを見て、佐々木は思った。自分の命がかかっているとはいえ、あんなに簡単に友達を殺せるなんて、やっぱり河崎は気違いだ。

 安藤と三上が佐々木の後ろに隠れて、河崎からできるだけ距離を置こうとしていた。頼られているみたいでちょっと嬉しかった。

 教室前方のドアが開き、一時間目に見た森口の父親と、その助手の警察官が姿を見せた。いつの間にか救急隊員の格好をした男も一人増えていて、その男が持ってきた担架に死んだ野田が乗せられた。山神は森口の父親に言った。

「ご苦労。そうそう、お前の息子ははっきり言うが、この教室では生き残れないと思うぞ」

 山神は森口の父親から、佐々木の近くにいる森口翔太に視線を移した。森口父も息子のほうに顔を向けた。

「ああ、いいんですよ。強い者が生き残るだけのことですから。それにどうせ人類は遅かれ早かれ絶滅します。だから死ぬのがいつでも関係ありませんよ」

「それもそうだな」

 会話を終えた森口父は助手と担架を持ち、遺体を教室から運び出していった。救急隊員は床に散らばった血を布で拭きとってから出ていった。

佐々木は少し離れた位置に立つ森口の様子を観察してみた。下を向き、眉根を寄せて険しい表情をしている。

無理もない。実の父親もすっかり星守教色に染まっていて、息子が死んでも構わないと発言したからだ。信じて誇りに思っていた警察官の父親にあんなことを言われるのは、相当ショックだっただろう。

「水谷のグループ、前へ来い」

 そろえた指をクイと動かした山神は、最後のグループを教卓の前に並ばせた。一枚一枚白い紙を開票していき、発言の許可を出した。八人グループの中で一番票が多かったのは女子の井口萌で、六票獲得していた。

「そ、そんな……」

「ごめん萌ちゃん」

 水谷が井口に向けて頭を下げた。どうやら水谷は井口の名前を書いたらしい。それから次々と頭を下げる生徒たちが現れた。井口は驚愕の表情を浮かべていた。井口といつもいっしょにいる天然パーマが特徴の女子、中野瑠香だけは、今にも泣きだしそうな顔で井口に寄り添い、肩を抱いていた。水谷が頭を下げながら言った。

「悪い人間なんてここにはいなかった。でも、誰かを選ばないといけなかった。だからわたしは消去法で萌ちゃんを選んだ。ごめん……!」

 井口は小さい体を抱え、瞬きを速くした。震える声で疑問を返した。

「なんでみんな私を選んだの? 消去法って?」

「——」

 グループの誰も理由を言えなかった。みんな目を伏せ、誰かが言ってくれるのを待っているようだった。

佐々木も井口と同様、罪のない井口が狙われた理由がわからなかった。井口はふだんからいじめられているわけでもなかった。影が薄いといえばそうだが、それだけで標的にされるのは納得がいかなかった。

その疑問は、ため息をついた山神が答えてくれた。

「井口、お前が犠牲になったのは、お前の父親がもう死んでいるからだ」

 井口はそれを聞いて気づいたのか、立っていられなくなった。中野が支えながら、いっしょにへたりこんだ。

その山神の言葉の意味に佐々木も気づいた。脳裏に、ホームルームのときに送られてきた、家族の監禁写真が蘇った。

——そういえばあのとき、なぜか井口さんの父親だけ先に死んでいたっけ。……そうか、生徒が死んだら家族も殺されるというルールだから、もう家族を一人失っている井口さんが一番少ないダメージで済むと考えて、標的にされたんだ。

「井口、誰かを殺せばお前の死は覆る。……水谷なんか死んでもいいってツラしてるぞ」

 泣きじゃくる井口に、山神は選択を迫る。水谷は顔を上げてから大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。

「萌ちゃん、わたし、悪いけど死ぬつもりはないよ。わたし以外の誰かを狙うなら止めないけど、わたしにも大事な家族がいる。わたしが死んだら家族も殺される。それは嫌だ」

「井口の家族を間接的に殺す選択をしておいて、よくそんなセリフが吐けるな、バカ女。自分のセリフが井口をさらに傷つけるってのがわからないのか? それともわざと傷に塩を塗り込んでるのか?」

 山神が嘲笑しながら水谷を責める。

「井口、水谷はお前の母親を殺す選択をしておいて、自分の家族は殺させないとほざいてるぞ。一分待つから、その間に誰を殺すか決めろ。個人的には水谷を勧めるが」

 涙目になった井口が、セーラー服の袖で目をこする。支えてくれる中野に小さく礼を言い、おもむろに立ち上がった。

ナイフをスカートのポケットから取り出し、体の正面に両手で凶器を構えた。水谷のほうを向き、言った。震える声だった。

「夏実ちゃんは悪くないよ。それに、みんなも」

 グループ全員を見るように、井口は首を巡らせた。それから教卓に寄りかかる山神を見据え、ナイフを両手で構えたまま、教壇の上に移動した。教壇に立った井口は一度大きく深呼吸をした。

「待って! 何する気⁉」

 水谷が叫ぶが、井口は動じない。山神から視線を外さずに、大声で叫んだ。

「お父さんの仇はこいつだ——っ!」

 走り出す井口の横顔は復讐に燃える主人公のように力が漲っていて、佐々木はふだんのおとなしい井口とのギャップに驚き、鳥肌が立った。

水谷が止めようと手を精いっぱい伸ばし、足を踏み出そうとするが、——もう遅い。ダンダンと二回教壇を踏む音が鳴ったと思うと、次いで肉を切り裂く音がした。井口は前進しながらうつ伏せに倒れこんでいった。

「あっ——!」

 教壇からはみだした井口の上半身が、冷たい床の上に投げ出されていた。まだどこからも血は流れていないが、こちらを向いている井口の目の光はもはや失われてしまっていた。

一瞬のうちに山神は教壇の端に立っており、血の一滴もついていないナイフを白いハンカチで拭いていた。

佐々木はその技に驚愕した。どこからナイフを取り出したのかも見えなかったし、井口とすれ違った速度も刹那だった。殺し合いという状況が頭に入っていなかったら、ただ井口が教壇の上で転んだだけに見えただろう。

 水谷と中野が倒れこんだ井口に駆け寄っていく。そのとき山神が振り返って口を開いた。

「今近寄ると靴が汚れるぞ」

 山神に向けていた視線を死した井口の首もとに戻すと、一条の赤い線が浮かび上がってくるのが見えた。とすぐに、細首から破裂するように血液が噴出し、水谷と中野の足もとに飛び散った。

いきなりのことに二人は腰を抜かし、尻もちをついた。中身が抜けたせいなのか、井口の体が少しずり落ちた。

「うわあっ」

 井口の近くにいた二人の男子も勢いよく後ろに下がって壁に背中を打ちつけていた。教室の後ろにいる佐々木でも、その赤々とした光景に声を出してしまいそうになった。三上も安藤も佐々木の腕に掴まり、背中に隠れるようにして必死に声を押し殺している。

 山神が教壇の上を歩き、何事もなかったかのように中央の教卓に戻る。スマホを取り出し、お決まりのセリフを吐いた。

「井口萌の家族を殺せ」

 ため息を吐いた山神は、画面の上で親指を動かしてまた電話をかけた。井口の死体を回収するよう指示し、通話を切った山神は、再び小さく息を吐きだした。

「いちいち連絡するの面倒だな」

 小声で呟いた山神は、床にへばりついている井口の体を見て、それからいまだに尻もちをついて床から離れられないでいる水谷やグループのメンバーを見た。

「お前ら、いい加減に慣れろよ、『死』に。そんなんじゃこれからの世界についていけないぞ」

「そ、そんなおかしい世界、ついていこうなんて思わない!」

 声をあげた水谷は、金縛りが解けたように体の向きを変え、教卓にいる白衣の狂人のほうを向いた。

「じゃあお前はここで死ぬな」

 そう山神が冷たく言い放ったとき、ちょうどクラス中のスマホの通知音が鳴った。佐々木は見なくても何の通知かわかった。ポケットから少し画面を出して確認すると、思ったとおり二枚の画像が送られてきていた。今死んだ井口の家族の写真だろう。

 クラスの反応を見ると、わざわざチャットを開いて内容を確認していたのは河崎と橋本くらいだった。

 もはや警察とはいえない仕事をする森口父と助手、救急隊員の三人がドアを開き、教室に入ってきた。死体処理班と名乗ったほうがよほど似合っている。

先ほどよりも手際よく井口の体を運搬し、床の汚れを拭きとっていく。救急隊員が手に持つ白い大きな布が、毎度真っ赤に染まっていく。透明なゴミ袋に赤くなった布が何枚も放り込まれ、最後にアルコールスプレーのようなものを床に噴霧して、乾いたきれいな布で拭きとり、救急隊員は帰っていった。

 山神が白衣の袖をめくり、腕時計に目をやった。佐々木も壁掛け時計を見ると、十時四十五分を指していた。

「よし、これにて三時間目の授業を終える。もう好きに喋っても構わないぞ。それから、十分休みはトイレと水飲み場だけには行っていいことにする。というか毎回行け。井口のように大量に漏らされると臭くてたまらないからな」

 山神は教壇を降り、前方のドアを開けて出て行ってしまった。

 次の授業まであと十五分弱あるし、せっかくトイレ休憩に行っていいということだったので、佐々木はトイレに行くことにした。そばにいる三上と安藤に声をかけた。

「ぼく、トイレ行ってくるよ」

「危ないよ高志、教室から出たら兵隊に殺されるかもしれないよ」

「そうだよ佐々木君、あの人の言っていること、信じちゃダメだよ」

 三上に腕を掴まれ、止められた。安藤は自身の胸に手を当てていた。

 廊下で銃を構えている兵士に撃たれるかもしれない、という心配がまだ二人にはあるようだ。

「そっか、そうだよね……。でも、心配いらないよ、山神はぼくたちに殺し合いをさせたいだけで、意味もなくこんなところで嘘はつかないと思うよ。それに、ぼくにはもう家族がいない。井口さんがさっき消去法で選ばれたように、ぼくも今このクラスでは一番死んでもいい人間だから」

 佐々木は水谷のグループの投票結果と水谷の発言、井口の死から、命の価値には差があることを学んだ。家族分の命を背負っているか否かで、命の重みが変わり、殺される人間が自然と決まってしまうということに。

だからこそ、今この教室で誰よりも被害が少なく『実験』できるのは佐々木だけだと判断した。佐々木のほかにも橋本も家族を殺されているが、佐々木単体と橋本を比べると、明らかに橋本のほうが生きる価値があると考えた。

 佐々木自身はいたって普通のことを話したと思っていたが、三上と安藤は顔をしかめて反論してきた。強い語調だった。

「死んでもいい人間なんていないよ! それは違うよ高志!」

「家族がいないからって佐々木君が試す必要なんてないよ!」

 二人は本気で佐々木を止めてくれているようだった。

黒板に書かれている最初の五つのルールには確かに『教室から一歩でも外に出たものの家族は即座に殺される』『教室から出て「逃げる」とこちら側が判断したものは、射殺される』とあるが、あの山神が無駄に人を騙して殺すとは思えない。

だからやっぱり「心配ないよ」と口を開きかけたとき、ドアに近づいていく人影が目に入った。

近くのドアの前に立ったのは森口だった。佐々木の目を見て、重そうな口をゆっくり開いた。

「……佐々木君、ここは僕が先に出てみようと思う。山神の話していた内容からすると多分教室から出ても大丈夫だ。君の言うとおりだと思うよ。……それと、僕が廊下に出て無事だったら、佐々木君、いっしょにトイレに行かないかい?」

「……あ、うん、森口君がいいなら」

 森口の言いたいことは大体わかっているつもりだ。佐々木は頷いた。

森口の額には汗が滲んでいた。喉仏が上下し、不安げに一歩を廊下の床に踏み出した。首を左、右にゆっくりと振り、それから教室に残した後ろ足も床から離し、廊下に置いた。

佐々木や相馬は一番ドアに近かったこともあり、顔だけを廊下に出して左右を確認した。左右に伸びる廊下の先には、相変わらず銃口をこちらに向けてトリガーに指をかけている兵士がいた。だが、森口がさらに歩いても撃ってくることはなかった。山神がいるわけでもチャットの通知音が鳴り響くわけでもなく、そのまま森口は正面にあるトイレの前にたどり着いた。振り向いた森口が言った。

「大丈夫みたいだ」

 佐々木は頷き、廊下に続く。左右に三十メートルほど離れているところに兵隊が一人ずついて、そこから刺すような視線と殺気が伝わってきた。少しビクビクしながらも前方に進み、ところどころ剥げた青いドアの前に立った。

森口といっしょにドアを開き、トイレに入った。

中にはさすがに兵隊が潜んでいることはなさそうだった。何か変わったところも無さそうで安心した。

久しぶりにあの空間から出られて、佐々木は少し気分が軽くなった。森口と二人で小便器の前に立ち、チャックを開く。緊張感や恐怖やらのせいで全然気づかなかったが、結構溜まっていたようだった。ふいに森口が言った。

「佐々木君、その、さっきの投票のことなんだけど……」

「う、うん」

「僕が佐々木君の名前を書いたのは、佐々木君が憎くて死ねばいいと思って書いたんじゃないんだ」

「それくらいわかってるよ」

 佐々木は手もとを見ながら、微笑した。

——森口君ってほんとに真面目なんだな。

「……僕が君に投票した理由は、ごめん、あの中で一番犠牲が少なく済むのは佐々木君だと思ったからなんだ」

 森口は佐々木のほうに首を向け、頭を下げた。

「うん、わかってる。あの瞬間はわからなかったけど、井口さんが犠牲になったときに気づいたよ。あのグループの中でぼくだけが家族をすでに失ってた。ぼくが殺されても死ぬのはぼくだけだけど、仮に戸田さんが殺されたら戸田さんの家族も死ぬことになっちゃうもんね。ぼくも森口くんの立場にいたらきっと、同じように一番犠牲が少ない人を選んだと思うよ」

「本当にごめん。……でもわかってくれて、ありがとう。ほんとごめん!」

「おしっこしながら謝られたの、ぼく初めてだよ」

「う……ごめん」

 佐々木は今日初めて笑った。森口もチャックを閉めながら目を細めていた。その目尻には一瞬光るものが見えた気がしたが、佐々木は気づかないふりをした。

きっと佐々木に心から申し訳ないことをした、と罪悪感を抱えていたのだろう。真面目で正義のヒーローで、かっこいいな。

 水を流すボタンを押したとき、数人の男子が入ってきた。長居しても意味はないと考えた佐々木は手を洗おうとしたが、森口に引き留められた。

「あそこの窓から逃げられないかな」

 指さしたその先には、一つ窓が設置されていた。

森口に連れられて窓に近づき、外の景色に目をやる。ゆっくりと落下してくる小粒な雪の向こうに、白い広大な地面が広がっていた。誰もグラウンドで遊んだりしないため、当然降り積もった雪には足跡一つない。グラウンドのネットの向こうには、白で覆われたカラフルな遊具たちが、寒そうに佇んでいた。

「顔出してみても大丈夫だよね?」

「そ、それはどうかなあ」

 佐々木の曖昧な返事に少し逡巡した様子の森口だったが、「いや、ここで迷ってもしょうがない。やらなきゃ後悔する」と言って窓を開け、顔を出した。

森口の短髪の向きが二度三度変わり、後頭部と横顔が見えるなか、佐々木は、もしこれでペナルティが与えられたらどうしよう、などと考えていた。

森口は顔を引っ込め、外国人みたいに肩をすくめた。

「ダメだ。ここから見えるだけでも少なくとも兵士が一人いる。山神は思ったより神経質らしい。僕たちが家族を犠牲に逃げる可能性まで潰そうと準備しているってわけだ」

「そ、そっか……」

 やはり脱出するという選択肢は最初から用意されていなかったということだ。佐々木たちには最後の一人になるまで殺し合いをするしか道はないのだ。

森口が窓を閉めるのを少し待ち、二人は用を足している数人の男子たちの後ろを通り、手洗い場まで行った。蛇口をひねり、水を出す。

冬だからといって温かい水が出るわけではない。冷たい水が佐々木の手を濡らす。手というフィルターを通すと、若干赤くなって水が流れていった。

——あ、戸田の血だ……。

 狂人と化して安藤に迫る戸田の横顔と、ナイフで首を切った感触を佐々木は思い出した。

あのまま見過ごせば安藤は殺されていたし、首を切らずに動きだけを止めることは佐々木の体格じゃできなかった。仕方のないことだった。結果的に安藤を守ることができたのだからよかったじゃないか。

そう内心で言い訳をするが、歯をむき出しにした肉食獣のような戸田の表情は佐々木の脳裏にこびりついて消えない。手には初めて人を捌いた感触がまだ残っていて、それを消したくて冷たい水で手を何度も擦る。返り血はすすげたが、殺しの感触はなかなか消えてくれない。

「佐々木君、大丈夫?」

 隣の森口が心配そうな目で佐々木を見ていた。もう手を洗い終わってハンカチで手を拭いていた。

「だ、大丈夫だよ」

 森口に返事をして、感覚がなくなりそうなほど冷えた手を上下に振り、水を払い、蛇口をひねった。それからいつもの癖で鏡を見ると、そこには薄っすらと血のついた自分の顔が映っていた。先ほど安藤に拭き取ってもらったのに、顔の左半分と、よく見たら首の一部にもまだ赤い跡が残っていた。息をのんだ佐々木は、森口に言った。

「先に戻ってて」

 森口は頷き、扉を開いて歩いていった。佐々木は学ランを脱いで股に挟み、鏡を見ながら顔を洗いにかかった。

——汚い、汚い、まだ汚い、まだ、まだ……。

 数分後鏡を確認した佐々木は自分のもとの肌の色を見て落ち着きを取り戻し、トイレを出た。

 佐々木が廊下に出ると、教室の中から生徒たちの声が聞こえてきた。トイレのすぐ隣にある水飲み場で水を飲んでから教室に向かった。

後ろのドアから教室に入ると、中央のほうで人が集まっていた。森口や水谷が中心となってこの絶望的な現状を打破しようと、必死に話し合っていた。

時計を見ると、四時間目が始まるまであと残り三分ほどしかなかった。佐々木は正直、脱出も山神を倒すのも不可能だろうと諦めていた。だが森口は先ほどトイレの窓から脱出の糸口を見つけようとしていたことからもわかるが、まだ外に出られる可能性を捨ててはいないようだった。同じく意見を出し合う周りの生徒たちも、まだ諦めきれないようだった。

 ハンカチを持参していない佐々木は、学ランで手に残った水滴を拭き取りながら壁際に座った。四時間目はどんなことをするんだろうかとふと考えたとき、集団の外側にいた安藤が、こちらをじっと見ていることに気づいた。

赤縁眼鏡の奥の瞳が、佐々木の目と少しの間合う。どうしたのだろう。そのまま見つめ返したままでいると、ついと目を逸らされてしまった。気のせいかもしれないが、顔を赤らめていたように思えた。

 チャイムが鳴り、休憩を終えた山神が教室に入ってきた。話し合いをしていた集団はまだいい答えが見つからないようで、不満げな顔をいくつか残したまま口を閉ざした。


〇四時間目


 1


 代わり映えのしない教室の景色。天井からは昼光色の電灯が佐々木たちを明るく照らしている。壁や床には、殺されていった生徒たちの命の残滓が貼りついており、この場所が異常であることを如実に物語っている。

休憩時間はもう終わったが、黒ずんだ染みが目立つ黒板にはまだ白い文字の羅列が残されていた。唯一それを消す権限のある山神は、最初に黒板に書いた五つのルールを残し、それ以外のルールを黒板消しで消しているところだった。

すでに四時間目の始業のチャイムが鳴り、五分は経過している。

何度も何度も黒板消しをかけ、チョークの白い跡が完璧に消え、黒板が新品同様になったとき、山神はやっと口を開いた。

「なんだお前ら、俺を待ってたのか? そんなことしなくても殺し合っていいんだぞ?」

 なんでこんな問題が解けないんだ、とでも言いたげな顔をしてこちらを挑発してくる山神。

だが誰も自ら進んで殺人を起こすことはしない。当然だ。人間不要論という星守教の狂った教義など、誰も理解していないからだ。

 クラスの全員が沈黙を貫くと、山神は鼻から空気を出して笑った。

「まあいい、これからやれるようになるさ。まだ人間不要論の授業は四時間目だ。……さて、まだ俺のルールがないと殺し合うことすらできないひよっこたちに、俺は新たなルールを考えてきた」

 そう言った山神は白衣の内側から半透明のチョーク入れを取り出し、蓋をパチンと開けて白いチョークを手に持った。後ろ向きになって黒板にルールを書こうとしたとき、動きを止めてこちらに振り返った。

「お前ら、そんなに俺のルールが楽しみなのか?」

 理不尽な殺し合いのルールが嫌だから黒板を凝視していたのに、山神はそれを『楽しみ』の視線だと勘違いしたような発言をする。この殺し合いが楽しくなることなんてありえないが、山神はそれをわかっていて煽ってきているのだ。

佐々木は山神の言葉につばを吐きたくなり、黒板から目線を切った。

やがて、黒板をひっかくチョークの音が止み、教壇の上を革靴が踏む音が聞こえた。顔を上げてみると、お手本のようなきれいな字で新しいルールが書かれていた。


 ルール一 三人組で輪をつくり、その中の一人が有権者となる

 ルール二 有権者はほかの二人の内、どちらかを殺すことが許される

 ルール三 制限時間の十分以内に殺しを行わなければ、有権者の家族が殺される

 ルール四 一定の距離から離れたと山神が判断したものについては、その場で殺す


「この授業では何もしなくても生徒が死ぬことはない。だが有権者がグループ内の二人のどちらかを殺さなければ、自身の家族を犠牲にすることになる。家族か他人かを選ぶ簡単な問題だな」

 山神は説明をつけ足すと、生徒たち一人一人に目を向け、顎に手をやって何かを考えている様子を見せた。

このルール、『有権者』という響きが有権者を一見有利に見せているが、実はそうではない。ここでは、『殺す権利を持つもの』という意味で使われている。

 しかも有権者はグループ内の人間を殺さないと、自分の家族の命を失ってしまう。家族の命とクラスメイトの命、どちらかを選ぶという残酷なルールだ。

三人組は今決めているようで、決まった組から黒板に名前が書き出されていった。

 斜め後ろから見える山神の口もとが綻んだのを、佐々木は見逃さなかった。その笑みの意味はなんなのか、黒板に書き出された三人組を見て理解した。

——最悪だ。

 佐々木の三人組は『河崎、佐々木、森口』だった。有権者には名字の横に丸がつけられていて、佐々木のグループでは河崎の横にそれがあった。河崎は佐々木を狙ってくるだろう。

 やがて六個の三人組が作られ、黒板に書き出されていった。最後に二人が余ったようで、そこに山神自身を入れて組分けが終わった。

「人数までは考えていなかったな、誤算だ。だがここに書かれた二十人プラス俺一人で、今から殺し合いをしてもらう」

 二十人という数を聞き、佐々木はもう五人も死んだのか、という感想を抱いた。木野愛里、吉田和真、戸田依梨夢、野田晴太、井口萌が三時間目までに殺されている。

 七個作られた三人組の内訳はこうだった。


『河崎拓也、佐々木高志、森口翔太』『安藤咲花、橋本杏奈、三上恵美』『中村・スジーキー・海人、藤川優佑、宮園洋』『久保寛太、西山涼、渡辺修一』『太田正人、清水達樹、相馬唯斗』『今野美紅、佐藤凛、水谷夏実』『小林継美、中野瑠香、山神太一』


有権者はそれぞれ河崎、橋本、宮園、西山、相馬、水谷、中野だった。

佐々木がほかのグループで気になったのは、三上と安藤と橋本の組だった。橋本はこの教室から出て山神に復讐するようだが、彼女はそのために人を、あの二人の内どちらかを本当に殺す気なのだろうか。

「質問はあるか? 今だけ聞くぞ」

 山神が教室内に投げかけた。ルールの把握を済ませ不明点をいち早く聞くのは、ここでもやはり森口だった。森口が手を挙げる。

「このルールでは有権者だけが殺す権利を持っていて、ほかの二人は抵抗するだけなんですか?」

「いい質問だ、森口。有権者以外の二人も、グループ内の人間なら抵抗していい。無論、『抵抗』とは殺してもいい、ということだ。例えば俺のグループでは有権者は中野だが、別に俺か小林が中野に抵抗したっていい。まあ俺はこの際殺しはしないがな。ただの人数合わせだ」

「わかりました」

 人数合わせで入るから殺しはしないという山神の発言は、今までの山神の行動からしておそらく本当だろう。山神と組まされたといって、中野と小林が不利になることはない。

佐々木は一度教室の反対側にいる河崎のほうを見た。いやに大人しく、黒板を見つめてじっと動かないでいたのが不自然だった。

「先生」橋本が手を挙げた。「あたしは家族をもう失っているので、何もしなくてもいいんですか」

「いいや、そんなことはない。家族がいないものは親戚や、お前が大事に想っている人間が殺されることになる」

「そうですか」

 橋本は有権者だ。つまり家族を人質に取られて、誰かを殺さないといけない立場にいる。だがその家族はもう殺されているので、何もしなくてもクリアできるのか、と聞いたのだ。

もちろんそんなことはなく、次に近しいものたちが殺されることが決まっていたようだ。佐々木も家族を失っているが、今回は有権者ではないのであまり関係がない。だがここは一応聞いてみたほうがよさそうだ。

 佐々木も手を挙げた。

「先生、このルールとは関係ないですが、もしぼくが死んだ場合も、『大事に想っている人間』が殺されてしまうのでしょうか?」

 ふだんの授業では絶対に手を挙げない佐々木が質問をしてきたことに驚いたのか、山神の口が『お』の形になる。

「おお、佐々木が手を挙げるなんて珍しいな。……そうだ、お前がもし死んだら親戚や近しい人間も殺される」

「ち、近しい人間っていうのはクラスメイトも含まれるんですか?」

「ああそういうことか。安心しろ、お前が死んで近しい人間が道連れを食らうといっても、クラスメイト、特に三上なんかが殺されることはない」

 ——そっか、よかった……。

「あ、ありがとうございます」

 友人が殺されることはないとわかって安心した。だが、簡単に死ねないことは変わりない。家族や親戚などが連動して殺されるので、自分が死ぬことを受け入れるということは、周りの人を殺すことと同義だということだ。

 白衣のポケットに両手を突っ込んで教室の中を見渡した山神は、もう手が挙がらないことを確認し、言った。

「各自指定された三人組を作り、適当に散らばれ。全員の準備が整ったら開始だ」

 佐々木は息をのんだ。河崎がどう動いてくるかはわからないが、もし殺しに来るようであったら抵抗しようとは思っていた。森口を狙うのであれば森口を庇う心構えも作った。

生徒たちは思い詰めた表情をしてそれぞれ移動する。一度深呼吸して、佐々木も森口のいるところへ向かった。

 教室の中央で森口と合流した後、ゆっくりと歩いてくる河崎が来た。いつものふざけた態度は鳴りを潜めていて、真剣な顔をしている。糸目の隙間から覗く瞳孔と視線が交錯したとき、奥に鋭く光るものが見えたような気がした。

いつもの佐々木ならその眼光に怯え、恐怖を感じていたかもしれないが、今回ばかりは違った。殺されたくはないからだ。——否、違う。逆に佐々木が河崎を殺したいからだ。

なにせ佐々木にとって河崎は、家族の仇。実験という河崎の遊びによって、命を理不尽に奪われた。仇を討たなければならない。そうでなければ、家族に顔向けできない。

脳裏に家族の笑顔が蘇る。河崎の顔面を見ると、憎悪が増した。

——殺してやりたい。

上下の歯が無意識のうちに強く擦り合わされた。

「集まったみたいだな。じゃあ全員、配ったナイフを手に持ち、体の前に構えろ」

 教壇の前に立つ山神は、ルールどおり中野と小林と輪を作り、三人組を組んでいた。声に反応して山神のほうを一瞬見た佐々木の視界に、その近くにいた三上と安藤と橋本の三人組の姿が入った。

ナイフを取り出しながら、佐々木は心配になった。三上と安藤を見下ろす橋本の目がとても冷たく感じたからだ。だが手助けなどはできない。自分のグループに集中するしかないのだ。

集中しろ、と心で唱えたとき、胸の前に構えた凶器の峰に目がいった。そこから目線は奥にある白い上靴に移り、学ランを通り、憎い顔に移動していった。

つい今しがた、目の前にいる家族の仇を殺してやりたいと思ったはずだった。だが、実際に河崎の体にナイフを切りつける想像をすると、手が震えた。手の震えは腕、腰を通り、足にも伝播した。小刻みに揺れる自身の膝を見ると、その先の床に薄っすらと残っていた血痕にも目がいく。恐怖心が身をさらに震えさせる。

思考は勝手に進み、先ほど首を切り裂いて殺した戸田の横顔と、人体を初めて捌いたあの感触がまた蘇ってくる。

——無理だ、ぼくは殺せない。殺してやりたいほど憎いのに、殺すことが、ナイフを振るうことが、怖い……。

 目を閉じ、歯を食いしばり、なんとか震えと恐怖を奥に押しやり、顔を上げる。今は集中しなくてはならない。

森口と河崎もナイフを取り出し、その鋭利な刃を体の正面に構える。緊張感が増すなか、佐々木は森口の顔を見た。森口も佐々木を見つめ返し、互いに準備ができたことを確認する。

「制限時間は十分。はい始め」

 これから家族かクラスメイトかを賭けた殺し合いをするというのに、山神の号令には緊張感のかけらもなかった。三人組の殺し合いが始まった。


 2


 いきなり襲ってくることも考えてはいたが、河崎は動かないままだった。最初に動いたのは森口だった。といっても動かしたのは足や手ではなく、微笑を浮かばせた口だった。

「まず落ち着いて、どうするかを話し合わないか、河崎君」

「話し合うって何をだよ」

 ナイフは正面に構えたまま、森口は快活に、河崎はつっけんどんに話す。周りの三人組からもざわざわと話し声が上がりだした。

このルールでは三時間目とは違って声を出してもいいので、どうにかして解決策——そんなものがあるとは思えないが——を考えて話し合うのだろう。どこからも悲鳴や暴れるような音は聞こえてこない。

「この状況をどうするかだよ」

「どうするか、だって? それってさ、具体的に考えてから言ってんの?」

「考えてるよ、けどまだ二つしか思いついてないんだ。でもその二つの方法じゃどっちも犠牲が伴う。だから第三の選択肢を見つけないといけないんだ」

 森口は河崎から一度も視線を外さずに、しかし旧友のように優しく笑いながら話しかけている。佐々木には到底できない芸当だ。

だが第三の選択肢など、この期に及んで見つかるはずがない。佐々木でもわかることなのに、森口がわからないはずがない。河崎のそろった前髪の下の糸目が薄く見開かれる。

「第三の選択ってなんだよ。というか思いついた二つってなんだ、言ってみろよ」

「うん。一つは、この場では何もしないで、河崎君の家族が殺されること。もう一つは、河崎君が僕か佐々木君か、自分自身を殺すこと。あ、あと今思いついたけど、山神を殺しに行くとか、かな」

「バカじゃねえの? お前。俺が父さんと母さんを見殺しにするわけないし、山神に殺されにいくわけもないだろ」

 河崎は一度佐々木に視線を向けた。

「強いて言うならこの中の誰かを殺すことだけど、それも俺にはできないな……」

 首を横に小さく振った河崎は、柄にもなく悲しげな表情を浮かべている。そしてあろうことかナイフを手から放し、頭を下げた。

「佐々木、今朝はごめん。俺、お前の家族が本当に殺されるとは思ってなかったんだよ。……許してくれとは言わない。だからせめてこうさせてくれ」

 頭を下げた状態の河崎は、さらに姿勢を低くし、ついに正座の姿勢になった。佐々木の顔を申し訳なさそうな顔で見た後、手を前について頭を床につけた。

「……」

 ——何をしているんだろうこいつは。

見え見えの嘘をついて佐々木に頭を下げることに何の意味があるのか。もしかして油断を誘っているつもりなのだろうか。河崎の黒く反射する頭頂部を、佐々木は踏みつけたくなった。

「か、河崎君、やめてよ、土下座なんて」

 家族を殺された怒りの熱が、佐々木の中で温度を上げていく。もうそれ以上愚弄するような行為はしないでほしいという意味を込めて佐々木は言った。

「もういいから、そんなことしても意味ないから」

「ダメだ! 俺の気持ちが収まらねえ!」

 今ナイフを刺せば頭をかち割れる。そう考えた佐々木はナイフを逆手に持ち替えた。こめかみがピクピク動くのを感じる。

——いい加減にしてほしい。これ以上怒らせないでくれ。

いまだ頭を床に擦りつけて戯言を吐く河崎に、心底腹が立った。

「お願いだ、できることなら今俺を殺して、お前の家族に直接謝らせてくれ!」

「河崎君、何言ってるんだ! 佐々木君も絶対ダメだよ!」

 横から森口が割り込んでくる。佐々木は振り上げた右手を掴まれる。振り下ろそうとしたが、宙に浮いたまま動かせなくなる。佐々木は怒鳴った。

「こいつが殺してくれって言ってるんだ、邪魔しないでよ!」

「いったん落ち着いて佐々木君! 河崎君も、それ以上ふざけたことを言わないで!」

「ふざけてなんかいない! 俺は真面目に謝ってるんだ! 今すぐ佐々木の弟に、『ごめなさい』したいんだ~!」

 声色を変えて、ごめなさいと言った。嘲笑の声音で、言われた。それは、障害者である弟の悟志の真似だった。弟をバカにされたのだ。頭の中に刹那、河崎にからかわれて必死に謝る、幼いころの弟の姿が浮かんだ。

「かわさきぃいい!」

 今の一言で佐々木は完全にキレた。

 佐々木の大好きだった家族を殺した上に、さらに侮辱され、嗤われた。もう抑えきれなかった。

「絶対許さない!」

 森口に押さえられた右腕の先にある指を開き、ナイフを落下させ、左手でキャッチする。逆さに持った煌めく刃を、力任せに河崎の後頭部に向かって振り下ろす。——だが、

「ハッ、バ~カ」

 歯茎をむき出しにして笑う河崎が、上体を起こして身を引き、佐々木の攻撃をかわした。空を切ったナイフは床に勢いよく当たり、腕に痺れる痛みをもたらした。佐々木の手のひらから飛び出したナイフは、隣のグループの近くまで滑っていった。

痛みとナイフの行方に一瞬気が散った佐々木は、ナイフをわき腹に固定して向かってくる河崎への反応が遅れてしまう。

「——っ」

 河崎の歪んだ笑みと、迫りくるナイフの先端を目に捉えていながら、佐々木の体と心臓は恐怖でひるみ、硬直してしまった。

ナイフの先端が学ラン越しにチクっとした刺激を与えたのも束の間、猛烈な鋭い痛みが佐々木の土手っ腹を突き破って襲いかかってくる——

——その直前に、横から伸びる腕が河崎の腕を掴んだ。ナイフの軌道は横にずれ、佐々木の左腕をかすめていく。

河崎の体が横から来た森口によって倒され、肘から床に衝突した。二人の体は派手に転げた。

「森口君っ!」

 硬直が解けた佐々木は、紙一重で助けてくれたヒーロー、森口の名を叫ぶ。

「森口ぃ、邪魔すんなよ!」

「——邪魔するさ! 誰も殺させやしないよ!」

 力強く言い放った森口は、寝転んだ状態の河崎ともみ合っていた。河崎が森口を殴ったり蹴ったりして離れようとするが、森口は耐えていた。特に凶器を持っている河崎の右腕だけは絶対に動かないように両手で固定して、床に押さえつけている。

「森口、邪魔すんなよお前、俺の家族が死んでもいいのか⁉」

「——ああ、いいさ! ここでお前が佐々木君を殺すよりは絶対にいい!」

「ああ⁉ よくねえよ! 何言ってんだ!」

 激しく言い合いながら、森口は態勢を変えていく。ナイフを握りしめる河崎の右腕を両手で押さえつけたまま、無防備な腹の上に片膝を乗せた。

左手で抵抗して殴る河崎だったが、森口は腹の上で膝を突き刺すように跳ねた。それを二、三回繰り返すと、さすがに痛みに耐えられないようで、河崎は暴れられなくなった。

森口の体重が河崎の内臓にダメージを与え続け、ついに河崎が降参の意を表して森口の背中付近をタップした。

「もう無理、ゲロ吐いちゃうよ」

 涙目になって顔が赤くなっている河崎は、本当に気持ち悪そうだった。一方河崎の上に膝立ちになる森口は、依然険しい顔をしていた。

「じゃあ、ナイフを離すんだ」

「ナイフを離したら俺が殺される」

「殺さないよ! いいから早く手を離しなよ!」

 佐々木を殺そうとしたことに相当腹が立っているみたいで、森口は怒りの形相で河崎を睨みつける。まるでもう一度膝を入れるぞ、と脅しているように見えた。

「さあ早く!」

 怒気を帯びた声で言い、河崎の右腕を森口の両手が握りしめた。力いっぱい雑巾を絞るように握っているため、森口の五指と河崎の手首は黄色くなった。河崎はうめき声をあげ、手のひらを開きナイフを床に落とした。

河崎の腕から片手を離し、森口は落ちた凶器の柄を握り、カーリングのように床の上を滑らせて遠ざけた。ナイフを遠ざけたので、今度は両手をがっちりと固定した。

「僕はこのまま君を拘束し続ける。クラスメイトを殺そうとするなんて、正気じゃない。まだ君の家族が死んだほうがマシだよ」

「ふざけんな! 離せよ!」

 またもがこうとする河崎の機先を制し、森口は腹の上で膝をめり込ませる。

「ぐあっ」

「この三人組が決まったときから、河崎君、——いや河崎が佐々木君を狙うんじゃないかって予想してたよ僕は。最初は話し合いをしようとしたけど、あれはただの時間稼ぎのつもりだったんだ。僕はこの殺し合いが始まったときから、ゴールは河崎の家族が死ぬことだと決めていた」

「なん……だと」

 苦しそうに片目をつむる河崎に、容赦なく体重をかけ続ける森口。眼下の河崎を見る目は、ふだんの優しい目とはかけ離れており、激しい怒りに満ちていることがわかった。

「君は佐々木君の家族を殺したんだ。それも遊びのようにね。僕はそれを許さない。だから君の家族が殺されておあいこになればいいと思ってる」

 森口はさらに膝に力を入れて河崎を苦しませる。痛そうだが、苦しんで当然だ。佐々木の家族を殺し、さらには佐々木まで狙ったのだから。

佐々木は振り向き、壁掛け時計に目をやった。残り時間は三分ほどだった。このまま抑え続ければタイムアップだ。

ほかの生徒も誰も殺し合ってはいないようだった。睨んだままナイフを構えているグループも一部あったが、ほとんどが自分の家族を犠牲にすることを選んだようだ。残酷で難しいが、友人を自らの手で殺すよりも、家族が誰かに殺されるほうがまだ心が痛まない、と判断したのかもしれない。

それに、山神は最後の一人になるまで殺し合いをすると宣言していたので、どのみち最後に残った一人以外のクラスの人間と家族は死ぬことになる。どうせ死にゆく運命なら、友を手にかけることなく逝くほうがいい。

もうすぐこの殺し合いも終わる、そう思って佐々木は再び黒板の上にある壁掛け時計を見た。あと一分半ほどだった。

森口にあともう少しだということを伝えようと振り返ると、ちょうど森口も振り向き、時計に目をやるところだった。と、そのとき、一瞬の隙を見逃さなかった河崎が、掴まれていた腕を振り切り、背中と床の間から何かを取り出した。

学ランの黒い袖が素早く動き、その先の手が持っている鋼色のものが森口の横っ腹に迫る。

「森口君っ!」

 佐々木が叫んだときにはもう遅く、腰の横を切りつけられる瞬間だった。河崎の持つナイフの残像が弧を描くように真横に流れ、痛みに気づいた森口が声を発して前かがみに倒れた。やられた場所を反射的に手で押さえている。

「油断大敵~ぃ!」

 振り切った凶器から、血が二滴ほど床にこぼれ落ちた。森口は四つん這いの状態になり腰を押さえ、顔を歪ませている。拘束が解けた河崎は上体を起こし、ナイフを利き腕に持ち替え、笑った。

「佐々木ぃ、今から殺し合いやろうぜ~!」

 立ち上がった河崎は口もとを拭い、ナイフの先端を佐々木に向ける。糸目から覗く、狂気に満ちた瞳が佐々木を刺した。佐々木は恐怖を覚えた。思わず後ずさり、学ランのポケットに手を突っ込むが、アレの手ごたえがない。

——しまった! さっき落としたんだ!

 急いで転がったナイフのほうに視線を向けるが、そこにはもうナイフはなかった。口を開けた佐々木は、河崎の手に持ったナイフを見た。

「はいせいか~い。これ、俺の背中の下敷きになってたんだよね~。ちょうど森口に両腕抑えられたときに気づいたんだけど——さあっ!」

 河崎の糸目がさらに細くなり、頭が前に揺れた。目が見開かれると同時に、河崎は床を蹴った。

 襲い掛かってくるモーションが先ほどと同じだからか、佐々木は上半身を屈めて横にダイブして避けることができた。苦しんでいる森口の隣に滑り込んだ。

——今度こそ殺される! やばい! ナイフだ、ナイフを見つけないと! 

河崎のナイフは森口が奪って遠ざけたはず。それを探すため左右に首を動かすが、見つけられない。何しろ目を逸らしている時間がないからだ。

うつぶせに近い状態から、手を床について足を引き寄せて立ち上がろうとする。だがもう次の攻撃が襲ってきていた。

「死ねぇ!」

 今度は肩口から斜め下に向かって斬撃が放たれた。思いきり振りかぶってから攻撃されたので、後ろに一歩下がる猶予があった。おかげで学ランの裾が少し切れただけで済んだ。

しかし避けたはいいが、反撃しようがない。凶器に立ち向かうにはこちらも凶器を持つ必要がある。素手ではナイフには勝てない。

——素手では勝てない? ぼくは戦って勝つつもりなのか? つまり河崎を殺そうとしている?

佐々木は殺しを自分が許容しようとしていることに驚いた。

 ルール四『一定の距離から離れたと山神が判断したものについては、その場で殺す』を無視して教室中を逃げ回ることも考えた。だがそれでは河崎を道連れにできるかもしれないが、佐々木もルール違反で殺されてしまう。狭いスペースを攻撃に合わせ、ぎりぎりで避け続けなければならない。

腰を押さえてうずくまっている森口の後ろに回り込んだところで、三回目の攻撃が来た。手裏剣を投げるように水平にナイフが弧を描く。しゃがみ、避ける。頭上すれすれを刃物が切り裂き、逃げ遅れて斬殺された髪が目の前を落下していく。

——避け続けられているのは奇跡だ。これ以上はもうもたない!

しゃがんだ姿勢を立て直す暇もなく、振り子のように右腕が戻ってくる。ナイフの腹がゴルフスイングのような軌道で佐々木の横っ腹を切り裂きそうになる——そのときだった。

森口が自身の学ランの内に隠し持っていたナイフを、痛む腰を捻りながら渡してきた。迫る河崎の追撃をさらに床すれすれに回避した佐々木は、森口の震える手から反撃の力をもらった。

森口の腰から滲み出る血液や震える手を見て、こんなに優しい人を傷つけた奴は——、と一瞬にして怒りが沸き立つ。そして何より、大好きだった家族を殺した人間が今目の前にいることを、佐々木は再認識した。

ナイフを空振った河崎は姿勢を崩しており、背中ががら空きだった。こちらを振り返るときに合わせて首にナイフを差し込めば確実に殺せる。戸田を殺したあの感触が、今だけは佐々木に自信を持たせた。

——やるしかない、ここで殺さないと、今殺さないと……!

中腰の状態から一歩踏み出し、首を捌くだけ。いつもの魚を捌く作業だと思ってやればいい。そう考え、河崎がこちらに振り返るときを見計らった——今だ!


だが体はピクリとも動かなかった。ナイフを胸の前に残したまま、河崎の振り返り際の横顔から目が離せなくなった。その殺意を宿した瞳が佐々木の中の何かを怯えさせる。

迫りくるナイフが今度は確実に首に向かって飛んでくる。死が近づいているというのに、佐々木の心身は凍りついたように微塵も動かせない。何も考えられない。抵抗できない。

ナイフの切っ先が首に到達する寸前、なぜか昔飼っていた愛犬の顔が一瞬脳裏に浮かんだ。そして——、

「——そこまでだ」

 河崎の刃が届く前に、首と顔に横から風が当たった。同時に激しい金属音が響いた。

河崎の驚く顔が声の出所を向き、佐々木もつられて横を見た。無表情の山神が立っていた。佐々木の顎の下まで腕を伸ばしており、そこには白刃が握られているようだった。

今にも首を切られる、と佐々木は咄嗟に思ったが、ギチギチと鳴る金属音が自分の首の下から聞こえることに気づいて、助けられたことを理解した。山神の持つナイフの腹が河崎のナイフの先端を止めていたのだ。勢いのあるナイフを横から片手だけで止めていたことに佐々木は驚嘆した。

「今いいとこなんだからさ~」

 佐々木に視線を戻した河崎が、歯をすり潰しながら言った。

「もう殺し合う時間は終わった。時間切れだ、河崎」

 山神は感情のこもっていない冷淡な声音でそう告げ、空いているほうの手で佐々木の肩を後ろに押した。こわばって動けなかった佐々木の体の緊張がほぐれ、首もとにあった二つのナイフから離れることができた。

河崎は舌打ちをして佐々木を一度睨むと、肩の力を抜き、ナイフを懐にしまった。山神も腕を下ろした。

「時間切れってことは、俺の両親が殺されるってことですか~?」

「そうだ。無論お前の家族だけではないがな」

 悔しがるわけでも悲しい素振りを見せるわけでもなく、ただ事実を確認するように家族の死を口にした河崎に対し、山神も興味なさげに答えた。

お前の家族だけではないという言葉に反応した佐々木は周りを見回した。しくしく泣く女子や悔しそうに歯を食いしばる男子たちの姿が目に映った。全員結局自分の手を汚すより、家族の死を選んだということか。

山神がその場でスマホをいじり、電話をかける。

「河崎、三上、宮園、西山、相馬、中野、水谷の家族を殺せ」

 必要最低限の連絡だけ済ませ、山神はスマホをしまう。

あちこちから壁や床を叩く音や不満を発散する声が出た。たった今、理不尽に家族を殺された生徒たちのものだ。河崎だけは唯一家族を殺されたことに関心を示していないように見えたが。

腕時計をちらと見た山神は、陰鬱な教室の中を歩き、教壇に立った。その教壇の前の床に誰かが横たわっているのを、佐々木は今になって気づいた。

「いいかお前ら、特に不満のありそうな有権者ども。今お前らが泣いている原因は何だ? 家族を殺されて悲しくて悔しくて絶望しているのはなぜだ? 理不尽に友が傷つけられ、腹が立つのはなぜだ?」

「お前のせいだろ!」

「……そうだ、お前が全部悪い」

 宮園と水谷が鋭い目つきをして教師をにらみつける。だが山神はわざとらしく肩をすぼめて大きくため息を吐き、首を横に振った。

「ダメダメだなお前たちは……。この殺し合いをやった意味がないだろう。いいかお前たち、今日の授業は人間不要論だと言ったはずだ。殺し合いから学んでくれなきゃ困るんだよ俺は」

「何が人間不要論だ……」

 相馬が口をわなわなと震わせ、床を見ながら言った。山神は気にせず続けた。

「家族が殺されるのはいわば殺しを強要するためのただの脅しに過ぎない。星守教の教義、すなわち人間不要論を身につけていない未熟なお前らでも殺しができるように環境を整えてやっているだけだ。だから家族を失って泣いたり怒ったりしてるのは、人一人殺せないお前らの心の弱さのせいなんだよ。俺を憎むのはお門違いだよ、ひよっこども」

 相馬も宮園も水谷も、理解できない、意味がわからないといった表情を浮かべ、猛烈に山神のほうを睨みつけていた。一方佐々木は、山神の話などまるで耳に入っていなかった。

教壇の前に転がっていたのは三上で、どう考えても致死量の血が流れ出ていたからだ。

「え、えみ……ちゃん……、う、うそだ、えみちゃ……」

 佐々木は幼馴染の三上の名前を久しぶりに口にし、ふらふらと前に進んでいった。

「橋本を見習えよ。こいつは三上を殺したぞ。……お、どうした佐々木? 今ごろ気がついたのか?」

 山神は広げた両手を橋本に向け、まるでこれこそが正しいありかただというように喋った。

前方にいる誰かの背中と肩にぶつかるのも構わず、佐々木は三上のもとにたどり着いた。

首から血が流れた形跡があり、刃物で一直線に切られたことが見てわかった。きれいな黒い前髪が、眉にかかっておらず、おでこを露わにしている。整った眉の下にある目はすでに光を失っていて、開いたままだった。驚いたように口も開かれていた。

「なんで、どうして……。なんでえみちゃんが……。なんで⁉ なんでだよ!」

 佐々木は叫んだ。ありえない、なぜ、一体どんな理由があって三上が死ななければならないのだ。

 こんな別れ方って、ありえるだろうか。理不尽だ。こんな簡単に人が死んでもいいのか。もっとずっと、いっしょに生きていたかった。それに、まだ好きって伝えてない。

 さまざまな想いが、一気に佐々木の中に生まれた。それらが一瞬のうちに心に収まりきらなくなり、目から熱いものが溢れだした。

佐々木は三上のさらさらの黒髪を優しく撫で、目をそっと閉じてやった。

 隣にいた安藤も、声を出して泣いていた。顔面が涙と鼻水と血でぐちゃぐちゃだった。

止まらない涙が佐々木の視界をぼやけさせたが、耳だけはかろうじて働いていたのか、山神の声が聞こえてきた。

「佐々木、三上は死んだ。橋本に殺されたからだ。ただ、人間としての正常な反応として涙を流すのはいいが、橋本を恨むのは違うぞ? 橋本は正しい選択をしたからな。大事な幼馴染を失った悲しみはわかる。だが、それを憎しみとしてぶつけるのではなく、不要な人間を排除するという方向に思考をシフトしていけ」

 ——そう、そうだ。橋本が殺したんだ……。でも、恨むのは違う、恨むのは……。そうか、そうだよな……。

 佐々木は山神の声を聞きつつ、返り血を受けている橋本にゆっくりと首を向け、表情を見た。河崎のように憎たらしい顔つきではなく、どこか冷めた顔をしていた。

復讐——佐々木が戸田依梨夢を殺したことを恨んで——で三上を殺したわけではなさそうだった。どうだ、ざまあみろ、などの感情は一切なく、ただ目的のために殺さざるを得なかったというように感じた。

三上の亡骸に目を落とすと、涙が無限に出てきた。死は悲しいものだと魂が理解して反応している証拠だ。事実、悲しい。だが、山神の言っていることも理解はできた。

星守教によって人間はいずれ絶滅する。ここで生き残っても家族は死ぬし、一人以外は全員死ぬ。その生き残る一人になって山神に復讐するために橋本は三上を仕方なく殺したのだ。

「橋本さん……」佐々木は自分の考えが正しいかどうか、確認のために問うた。

「恵美を殺したのは、ぼくへの復讐じゃなくて、この教室から出るためだよね?」

 三上のそばにしゃがんでいる佐々木を見下ろしながら、橋本は答えた。

「……悪いとは思ってる。だけどあたしは山神を殺して家族の仇を取るって決めたから」

「……うん、わかった……」

 佐々木は目を伏せ、三上を見る。まだ温もりの残っている頬に指の甲を当て、三上の可愛い顔を、楽しかった記憶とともに心に刻みつける。

三上の遺体が運ばれていくまでの間、佐々木はずっとそうしていた。



——涙が枯れ果てるまで泣いて、泣いて、泣いた。体の中にもう一滴の水分もなくなった、そんな気がした。

すっぽりと心臓のあたりに空洞ができたかのように、魂が抜け落ちた感覚。父と母、弟と祖母を殺されたときと同じくらい、胸が痛い。

だが、時計の針は前にしか進まない。佐々木は三上の死を、現実を、受け入れていくしかなかった。


「有権者の中で殺しができたのは橋本だけだ。また一人しか減らなかった。人間不要論を非道な考え、悪いことだと決めつけて考えもしないのは愚かなことだ。だから人を殺せない。午前中の授業はこれで終わりだが、午後からはもっと死人が出るようにする。それまでに人間不要論について考えておけ。昼休みは一人一人にパンが配られるから、午後の授業に備えてしっかり食べておけ」

 口の端だけ吊り上げて笑みを作った山神は、涙と血と怒りと悲しみで満ちた教室に宿題を残し、さっそうと教室を出ていってしまった。

やがて四時間目の終了を告げるチャイムが鳴った。


〇昼休み


 1


チャイムが鳴り、昼休みに入った。

体が鉛のように重く、座り込んだまま動けそうにない。だが今だけは、考えることを放棄してはいけない。三上の死は、なぜ起こったのか。誰が三上を殺したのか。それを、考えなければならない。

佐々木はゆっくりと頭を切り替えていき、なぜ三上が死んでしまったのかを考え始めた。

三上を殺したのは橋本だが、そうさせたのは山神で、山神を動かしたのは人間不要論という考え方だ。人間不要論、それについてはまだ理解できていないが、もう世界が以前のように平穏ではなくなったことは受け入れよう。仕方のないことだ。三上が死んだのは世界が変わったから、つまり人間が不要になったからだ。

——人間不要論とは、いったい何なんだ……。ぼくはこれからこの教室でどうしていけばいいんだ……。

河崎に傷つけられた森口の腰を処置するために教室中が包帯を探していたが、そんなことに佐々木は構っていられなかった。

トイレに入り、いつもどおり一番奥で小便をしながら、人間不要論について考えていた。だがすぐに思考は中断された。そろった前髪と糸目が特徴の嫌いな奴が入ってきたからだ。

「よう、命拾いしたなぁ佐々木ぃ」

 小便器はいくつもあるというのに、わざわざ隣に来て顔を近づけてくる。

 命拾い、というのは、先ほどの授業で佐々木が河崎に襲われ、殺されそうになった件だ。正直三上が死んだショックが大きすぎて、忘れていたのだが。

「……そうだね」

「なんだよおい、楽しくねえな~」

 できるだけ反感を買わないように返したつもりだったが、河崎という異常者には意味がなかったようだ。

山神が決めた最初のルール四により、休み時間や山神のいないところで殺しをすると殺した本人も山神に殺されてしまう。だからたとえ河崎でも容易には佐々木を殺せない。

……という理論が河崎に通用するかはわからない。そのため、油断はしない。河崎なら何かは仕掛けてくるはず。と思っていたら、

「——」

肩に手を置かれ、後ろに向かって力を込められた。佐々木の体は個室のあるほうへと傾き、バランスをとるため数歩後退した。

小便をしている最中だったらズボンにひっかけるかチャックに皮が挟まるところだった。河崎がトイレに入ってきた瞬間からしまっておいたので何も起こらなかったが。

「ちっ」

 舌打ちをして佐々木を睨みつけた河崎は、水を流すボタンも押さずに歩いていった。手も洗わずに乱暴にドアを開き、出ていってしまった。

 これだけで終わってよかった。河崎も自分の命をかけてまで佐々木を殺すのは得策じゃないとわかっているからだろう。それでも何かしないと気がおさまらなかったので佐々木にちょっかいをかけてきた、というところか。心底気持ち悪いやつだ。 

「はあ、これでゆっくりトイレできる」

 窓の外に目をやり、まだちらちらと降っていた雪をなんとなく眺めながら用を足した。

 教室に戻ると、森口の父親が生徒一人一人にパンを配っているところだった。警察の帽子を被っていていかにも警察らしい表情で動き回っているが、やっていることは警察の仕事ではない。

水谷夏実、今野美紅、佐藤凛の元気女子トリオのもとへ行き、大きな袋の中から菓子パンを一つずつ手渡そうとしていた。

「いりません。食べる気分じゃありません」

「そう言うな。食べないと力が出ないぞ」

「……いらないです」

 頑なに拒む水谷は森口父の伸ばした手とパンを宙に残したまま、顔を背ける。今野と佐藤も無視して下を見ている。森口父はパンをしまい、今教室に入ってきた佐々木に気づいたのか、適当にパンを手に取って近づいてきた。

「ありがとうございます」

 適当に選ばれたバターと小豆の入った菓子パンを受け取り、佐々木は安藤のもとに向かった。佐々木は別に食べる気分ではない、とは感じていなかった。家族が殺され、大切な幼馴染も殺されたが、それと体の発する空腹感は別物だった。むしろ、頭を働かせるために必要だと思っていた。

 安藤はまだ三上のいた位置の隣に、ぺたんと座ってぐずついている。顔はもう覆っていなかったが、流れてくる鼻水をひっきりなしにすすっており、涙と三上の血の跡が頬に貼りついていた。赤縁の眼鏡がスカートの上に落ちていた。

「安藤さん、大丈夫?」

「……」

 隣に胡坐をかいて座り込んだ佐々木に、安藤は目を向けたが、すぐに逸らし、首をふるふると横に振った。目は充血し、唇はへの字に結ばれている。

「そうだよ、ね……」

 友人を目の前で殺されたのだ、恐怖もあっただろうが、守れなかった責任ももしかしたら感じているのかもしれない。

 安藤はポケットからティッシュを取り出し、鼻をかんだ。数枚を丸めた後、スカートの上に落としていた赤眼鏡をかけてから立ち上がった。

「お手洗い行ってくる」

 立ち上がって小走りでゴミ箱にティッシュを捨てに行き、それから廊下に出ていった。

 安藤は今ごろ鏡を見て驚き、血のついた手と顔を一生懸命洗っているだろうから、その間に食事を済ませておこう。

佐々木は胡坐をかいた股の上に乗せていた菓子パンを手に取り、包装ビニールの音を立てて袋を開けた。教室の中が静かだからか、袋を開ける音が気になって、佐々木は後ろに首を向けた。するとそこで初めて、教壇の前、つまり目立つ位置に自分がいることに気づき、なんだか恥ずかしくなった。

注目の的になっていることがわかったので、佐々木は視線から逃れるために窓際にあったスペースに逃げ込んだ。床に座って菓子パンにかじりついた。

バターと小豆のハーモニーを口の中で存分に楽しんだ後、最後の一口を食べ、手を合わせた。その間に、なんとなくだが人間不要論についての考えがまとまった。



パンの袋を畳んでいると、横から声をかけられた。

「ねえ佐々木、あんたよく食べられたね」

「え?」

 歯と歯茎の間に残っているパンの欠片を舌でとりながら、佐々木は振り向いた。

「この教室を見てみなよ、あんたと河崎、それと橋本くらいしか食べてる奴はいないんだよ」

 同じく窓際にいる水谷が、スポーティーな短髪を揺らしながら教室全体を指さしている。つられて佐々木も体を捻じって教室を眺めてみる。

たしかにパンを食べているのは河崎と橋本しかいなかった。それ以外の生徒はパンを持ってすらいない。

——そうか、食欲が湧かないんだ。

「なんで今この状況で食べものが喉を通るわけ?」

 水谷が少し怒気の混ざった声音で聞いてきた。

「だって、食べなきゃ力出ないし、考えもまとまらないから……あ、ごめん……」

 水谷と今野と佐藤が絶句し、化け物を見たときのような顔をするので、佐々木は自分が何か困らせるような言葉を言ったかと思い、癖で謝った。

「佐々木、あんたもう狂ってるよ……」

 水谷の狂っているという指摘に、佐々木は首をひねった。パンを食べないと力が出なくて殺されるかもしれない。三上が死んだ理由、そして人間不要論についての思考がまとまらない。だから佐々木はパンを食べたのだ。それのどこが狂っているというんだ?

 考えてもわからなかったので、佐々木は窓の外に体の向きを戻して、パンの袋を蝶結びにした。それから、プラごみは教室のゴミ箱に捨てていいのかを考えていると、背後にペタペタと歩く軽い音が聞こえ、安藤の声がした。

「佐々木君、隣、いい?」

「う、うん」

 目もとはまだ赤かったが、血はもうきれいに洗い流されていた。安藤は悲しげな瞳をして佐々木にそう告げ、佐々木の隣にスカートを畳んでから座った。

「パン、食べたんだね」

「うん、安藤さんは食べなくてよかったの?」

「私は……うん、おなか減ってなかったから大丈夫」

 目を伏せた安藤との間に、沈黙が生まれた。

佐々木は一度鼻から息を深く吐き、窓の外に目をやった。

「安藤さんはさ、恵美ちゃんが死んだのは誰のせいだと思った?」

「え?」

 聞き返すように安藤が声を発し、佐々木の視界の端で赤眼鏡が動いたのがわかった。

「恵美ちゃんはさ、悪いことなんてしてないよ、そりゃ。でもさ、殺した橋本さんが悪かったのかなって思うと、ぼくはそうじゃない気がしてるんだ」

「それは……」考えるように安藤は間を空けた。「私は佐々木君みたいにすぐ立ち直れなくて弱いから、まだそこまでは考えられないよ」

「そう、だよね……」

 二人の間に静寂が流れた。佐々木は、相談する相手を間違えたと思った。まだ安藤は三上の死を受け入れることができていない。三上が殺されたのは橋本や山神が悪い、としか思っていないのだ。安藤が話を切り上げるように言った。

「とにかく、こんなこと言うのはあれだけど、佐々木君は無事でよかったよ。もう私の友達にはいなくなってほしくないから。ね?」

「うん、そうだね。安藤さんも、死んじゃだめだよ」

 本心からの言葉だった。三上の死は考えさせられるきっかけにはなったが、大事な人が死ぬのは悲しく辛い。残った唯一の友達ともいえる安藤に、佐々木は優しく声をかけて立ち上がった。菓子パンのゴミを捨てにいった。

 ゴミ箱には丸まったティッシュや、血のついたハンカチなど、もう使えなくなった不要なものたちが捨ててあった。佐々木の手に持っているビニールの袋も、そこに放り込んだ。

——分別なんて、もう考えなくてもいいか。今日から人間は絶滅していくんだから。

 ゴミを捨てた後、あと昼休みは何分あるのか気になって、佐々木は黒板の上にある時計に目をやった。昼休みが終わるまでは、あと二十分ほどあった。

安藤の隣ではなく一人になれるところを教室内で探そうとして見回すと、ほぼすべての生徒たちが佐々木のほうを見ていることに気がついた。菓子パンのゴミを捨てただけなのに、動いているのが佐々木だけだからか、注目の的にされてしまっている。

橋本はもう食べ終わっていて、河崎はくしゃくしゃに丸めたパンの袋を床の上に散乱させてまだ口を動かしていた。本当にその二人と佐々木以外は食事をした形跡がなく、ただぼうっと立ったままだったり、床に座って下を向いたりしているだけだった。この先のことを考えているようにはとても見えなかった。

 佐々木は居心地が悪くなって、教室から出た。

廊下に出ると、深く息を吸い、吐き出した。まだ廊下の空気のほうが澄んでいるように感じた。生徒たちの口から出る暗く陰鬱な呼気が充満しているせいだろうか。

佐々木は廊下の奥、下に続く階段のほうを見る。やはりそこには兵士が銃口をこちらに向けてスタンバイしていた。反対側も同様だった。

銃口を向けられているのも落ち着かないので、教室と廊下以外に行ける場所、トイレに再度向かうことにした。

 トイレの扉を開けると、奥の窓に体を預けて、外をぼんやりと眺めている様子の森口の姿が目に入った。一人で歩くことはできるようだったが、体を捻るのは無理そうだった。誰かが入ってきたことを、首だけを回して確認しようとしていた。

「佐々木だよ」

「ああ、佐々木君だったか」

 腰が痛まないよう、佐々木は声をかけて安心させた。

「立ってて平気なの?」

「……うん、まあ大丈夫みたいだ」

「なんで——」

 なんでトイレで外なんか眺めているのか、と聞こうとしたが、思い当たることがあって質問するのを躊躇った。きっと森口は父親のあんな姿を見たくはなかったのだろう。

小学校のときから、森口は父親のことをよく自慢していた。立派な警察官になるんだ、父さんみたいにかっこよくなるんだ、と。それが今では星守教徒として山神の殺しのサポートをするだけの存在になってしまった。悪を捕まえることなく教室でパンを配る父親の姿を見て、ショックを受けないはずがない。

「——ごめんなんでもないや」

 つい癖でごめんと言ってしまったせいで、佐々木が考えていたことが森口にも伝わってしまった。

「いいよ、佐々木君。そうだよ、僕はあんな父さんの姿を見るのが嫌なんだ。だからここに逃げてきた。……僕のことを見る目も違っててさ。何がそうさせたんだろうね」

 森口は窓の外、雪の降ってくる空を見上げて言った。佐々木もなんとなく同じ気持ちだな、と思って森口の隣に立った。羽のようにふわふわと落ちてくる白い塵が、殺伐とした教室の空気とは違うと感じ、少しほっとした気分になった。

「星守教……。それに、人間不要論って、何なんだろうね……」

 ふいに森口が言った。

「ぼくも」佐々木は言った。「さっき三上さんが橋本さんに殺されたとき、なんで殺されなきゃいけなかったんだろうって考えたよ」

「……そうだね。山神に言わせると、人間は不要だからってことらしいけどね」

「うん。……でもさ、ぼくは山神や星守教とやらの教えは、あながち間違ってないとも思うんだよね」

 正直な気持ちをぽろっとこぼした佐々木の言葉に、森口は驚かなかった。

「地球を守るために不要な人間を排除するってことがかい?」

 まるで佐々木の話を促してくれるみたいに、森口は優しく呟いた。

「……言い方は悪いけどさ、実際地球が人間たちのせいで汚されてるのは本当のことでしょ? ぼくたちの生まれる前から地球温暖化の問題は叫ばれていたわけだし。頑張ってゴミを減らしたり二酸化炭素の排出量を減らしたり木を植えたり、いろいろなことをやってきたのは知ってるけどさ、それでも温暖化は進行し続けてるんだよね。人間以外のたくさんの生き物が被害を受けて、命を奪われているってのは覆せない事実だよ」

 でも、と佐々木は続けた。

「だからといって、人間を絶滅させるなんて、ぼくはやっぱり理解できないけどね。……絶滅って、ちょっとやりすぎじゃないかと思うんだ。だって環境のことを考えて地球に優しい活動をしたり、生き物のことを大事にしている人だっていっぱいいるじゃないか。その人たちまで殺されなきゃいけないのは、ぼくは違うなって思う」

 自分がこんなにスラスラと意見を言えることに、佐々木は驚いていた。ふだんあまり人としっかり話すことがないため、反応が気になって森口のほうを見てみた。うんうんと頷きながら、森口は笑みを浮かべていた。森口は佐々木を見て言った。

「驚いたよ、佐々木君、君がそんなに真剣に考えていたことにね。……うん、でも、僕も大体同じことを考えてた。たしかに人間がいなければこの地球はこんなにも汚れてはいなかったと思う」

 森口は窓の外に目をやっている。佐々木には『汚れてしまった空気』を見ているように思えた。

「死ななくてよかった生き物だって、いっぱいいるよ。でも、だからといって、今の人間を殺す必要はないと思うんだ。山神はさ、もう二〇三〇年なんだ、もう地球は限界なんだっていうけどさ、そんなの正確にわかるはずがないんだよ。自然のことなんて、誰にも予測できないんだから。ゆっくりとだけど、人の意識は変わってきているよ。昔と今の人間の環境に対しての意識は全然違う。だから僕たちが、これから頑張って地球をきれいにしていって、それを後世に繋げていけば、いつかは人間とほかの生き物が真の意味で共存できる世界になるんじゃないかって思うな」

 真っすぐな目でそう言われると、佐々木はやっぱり森口はすごい人だ、と感じざるを得なかった。佐々木以上によく考えている。

人間を絶滅させるのはやりすぎだ、とまでしか考えられない佐々木と比べ、森口は未来の地球のことまで考えて話している。

「森口君は、やっぱりすごいね」

 純粋に褒めるような、自分とは違ってすごい、と言いたいような、二つの意味が半々に混じった言葉を佐々木は吐いた。森口はふっと笑って首をゆるゆると振った。

「僕なんか全然すごくないよ。……僕は、何も守れない臆病者だよ」

 そう言った森口の横顔からは、諦念が見え隠れしているように思えた。謙遜のようにも聞こえたが、どちらかというと自分のことを理解しているから出た自然な言葉のように感じた。

「さっきだって、僕は何もできなかった。ただ暴走する河崎君を止めようとしただけで、実際には止められなかった。戸田さんが殺意を持ったときだってただ傍観することしかできなかった」

「それは……!」

 佐々木は反論しようとしたが、被せるように森口は続けた。

「僕には決断力がない。どちらかしか救えない状況に陥ったとき、僕は判断を下せない。どちらも救う方法を探すふりをして、どちらも救えないで終わるんだ」

 そんなことはない、と口から出かかったが、森口の沈んだ横顔を見て佐々木は思いとどまった。今、佐々木がどれだけ否定しても意味はない。森口はただ話を聞いてほしいんだ、と悟った。

「その点佐々木君はすごいよ」森口は優しい笑みを作り、佐々木のほうを一度見て、再び窓の外に目を向けた。「佐々木君は、戸田さんが安藤さんを殺そうとしたとき、瞬時に判断したんだ。守らなければならないのはどっちか、ってね。そしてそれを考えるだけじゃなく、あの場で唯一行動できた。すごいことだよ、本当に。結果的に戸田さんを殺してしまったけど、僕はあの判断は間違っていなかったと思うよ」

 森口の優しい声音が、佐々木の胸を震わせる。それから森口は、自らの負傷した腰に視線を送り、手を添えた。

「河崎みたいな狂った人間でも、僕は鉄槌を下せなかった。ただ誰も傷つかないように、ただみんなが仲良く平等に生活できたらって、そんな幻想を抱いたまま捨てられなかった。だから佐々木君は僕の何倍も、いや何十倍も何百倍も、比べられないほどすごい人なんだ。だって僕がナイフを渡したとき、佐々木君ならやってくれるって無意識のうちに期待しちゃってたくらいなんだから。狂人を殺してくれるってね。時間切れになってダメだったけど、その勇気と決断力は誇っていいよ、佐々木君」

 人を殺したことを褒められるのは何だか変な気分だったが、自分がやったことを肯定されたような気がした。佐々木は嬉しさを覚えた。温かい感情が目もとにぐっと昇ってくる。佐々木はそれがこぼれないように必死に目を大きく見開いて我慢した。

「ありがとう。森口君にそう言ってもらえて、少し気分が軽くなった気がするよ。……でも、河崎を殺せなかったのは時間切れのせいじゃないんだ」

「え?」森口は佐々木の顔を見た。「躊躇ったってこと?」

「いや、躊躇はしなかったよ。もしあの状況で一瞬でも迷ってたら、ぼくも森口君も殺されてた。そうだよね?」

 佐々木も森口を見て問う。

「うん、間違いなく殺されてたよ。河崎は佐々木君を本気で殺そうとしてた。……でも、じゃあなんで佐々木君は手を出せなかったの?」

 佐々木は一度黙り込んだ。絶体絶命、命の危機に瀕しても反撃できなかった、その理由を考える。

たしかあの場面では、ナイフを持って、振り返り際の河崎の首に狙いをつけたはずだった。河崎を確実に殺せるとあのとき佐々木は思っていた。

だが体は言うことを聞かなかった。河崎の振り返る横顔を見て恐怖し、固まってしまった。そして、死に際に佐々木の脳裏に何かが浮かんだのだった。何だったか……。佐々木は顎に手を添えて考えた。

たしかあのとき一瞬何かが頭に浮かんで、それで……、

「豆太だ!」

 佐々木は思い出し、懐かしい名前を叫んだ。

「豆太?」

「そう、豆太だよ。ナイフが迫ってきて、『もう死ぬ』って思ったとき、豆太がぼくの前に現れたんだ」

「豆太って、もしかして小学校のときまで佐々木君が飼ってた犬のことかい?」

 森口が眉間にしわを寄せながら、思い出すように目を細めてから言った。

「よく覚えてるね、そうだよ、その豆太だよ」

「佐々木君ちの魚屋さんの前で、よく看板犬をやってたよね。僕もよく母さんといっしょに買い物に行ってたから、覚えてるよ。……でも、たしかにいつからか見かけなくなったね。何かあったの?」

「うん……。死んじゃったんだ……」

 思い出すのが嫌でいつの間にか封じ込めていた記憶が、佐々木の頭の奥でだんだんと色をつけて蘇っていく。小麦色の毛の感触がふわふわで、片耳だけ垂れていて、おでこはものすごくはっきりした富士額で、ほかのどんな犬よりもつり目だったが、人懐っこい顔をしていた。豆太のことを想うと泣きそうになった。

森口が声のトーンを落として言った。

「……そうだったんだ。でも、どうして豆太のことを佐々木君は、河崎の顔を見て思い出したりしたん——」

 ハッとした表情を浮かべ、森口は一度佐々木の顔を見て、唇を噛み、眉を寄せてから続けた。

「——まさか豆太が亡くなったことに、河崎が関わっているとでもいうのかい?」

「……うん。実はそうなんだ……」


 ——佐々木は小学校に入ってすぐ、当時から悪ガキだった河崎や吉田たちに目をつけられてちょっかいを受けていた。

周りより一回り二回りも背が低く、弱気な性格で泣き虫だったことが原因だったかもしれない。

初めはわざと肩をぶつけられたり、ちびと言われたりする程度だったのが、だんだんとエスカレートしていき、突き飛ばされたり髪を掴まれたりするようにもなった。魚屋の息子ということもあって、臭いと鼻をつままれることもしょっちゅうだった。

気づけば『ちょっかい』は『いじめ』に変わっていた。

もちろん先生や親に相談して一時はいじめが止んだときもあったが、隠れたところでまた始まるいじめには、限度がない。佐々木は小学校生活のほとんどをいじめられて過ごした。

だが小学六年生のとき、一度だけ復讐しよう、という気持ちになったことがあった。

偶然か必然か、佐々木は『筋肉漢の復讐』という漫画に出会った。読んでのめり込んでしまった佐々木は、主人公に自分を重ねて筋トレに励んだ。

「これならいける。もういじめられないで済む!」

一か月後、根拠のない強さに溢れた佐々木は、ついに河崎たちを返り討ちにしようと画策したのだった。


放課後の帰り道に河川敷に連れていかれたところで、ここならちょうどいいと思った佐々木は、河崎たち数人を相手に無謀な攻撃を仕掛けにいった。一番強い吉田が部活で不在だったこともあり、佐々木は強気だった。

漫画では鍛え上げた主人公が相手数人をなぎ倒し、いじめの復讐に成功する場面だったが、当然佐々木はそううまくいかなかった。

ふいを突いたおかげで河崎の頬を殴ることには成功したが、二発目の拳を放つ前に周りのやつらに体を取り押さえられてボコボコにされた。

佐々木の弱いパンチが効くわけもなく、河崎は頬を撫でながら佐々木の上に跨った。容赦のない鉄槌を顔面に振り下ろされ、佐々木はあえなく気絶した——。

——あちこち痛むところを押さえながら、佐々木は体を起こした。ちょうど河崎たちの後ろ姿が土手を上がっていくところだった。

鼻血が出ていることに気づき、たまたま持ち歩いていたティッシュを鼻に詰めた。それから、胡坐をかいたままぼーっとして、隣に流れる川を眺めた。痛みと悔しさで目から粒が落ちてきた。佐々木は気持ちが落ち着くまでしばらく河川敷に留まった。


帰る途中ですれ違ったおじさんやおばさん、学生に顔をじろじろ見られることに気づいた佐々木は、店の窓で自分の顔を確認した。ボロ負けしたボクサーみたいだった。家についたらどう説明しようか、考えながら歩いた。

良案が何一つ浮かばないなか佐々木は家につき、裏の玄関をゆっくりと開けた。

裏というのは、裏口という意味ではなく、家族が出入りする用の玄関のことだ。表通りでは鮮魚店を営んでいるので、そちら側からは出入りしない。佐々木の家は一階の三分の二ほどが鮮魚店なのだ。

玄関に置かれた靴を見ると、母はパートに行っていることがわかった。弟と祖母の靴はあったので、佐々木は音を立てないように靴を脱いだ。父は表の鮮魚店で仕事をしているはずなので、弟と祖母だけには見つからないように、そーっと二階への階段を上がった。

部屋に入り、殴られて疲労した体をベッドに投げ出した。佐々木はボコボコに腫れて紫色になっている顔のことを、家族にどう説明しようか考えていた。

転んだとか喧嘩したとか、思いついた理由を話すための嘘エピソードを考え始めたとき、一階からドタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。続いて父の大きな声が聞こえてきた。

なんだろう、と耳を澄ませて聞こうとすると、階段を昇って来る足音が近づいてきて、佐々木の部屋のドアが勢いよく開いた。父の額には汗が浮き出ていて、表情からは何やら緊迫した雰囲気を感じ取れた。父は言った。

「高志、豆太知らないか」

「豆太がどうかしたの」

聞き返すと、「いなくなったんだよ」と強い口調で言い返された。

豆太は看板犬として、店の前に置かれた犬小屋に常駐しているはずだった。首輪にはリードがしっかりとついて固定されている。だから佐々木は、豆太がいなくなった、という父の発言の内容が少しの間理解できなかった。

「悪い、俺店あるから、高志、お前探しに行ってくれ。……って、お前、どうしたその顔⁉」

 汗を額に浮かべた父が前のめりになって言ってきた。

ふいを突かれ、言い訳を思いついていなかった佐々木は、できるだけ顔を見せないよう下に向けて早口で言った。

「なんでもない、転んだだけだよ」

俯いたまま素早く歩き、父の脇の下を通って佐々木は部屋を出て、階段を降りていった。階段の途中で、豆太探してくる、と大きな声を響かせてから玄関に行き、コート掛けにかかっていた帽子を深くかぶり、サンダルを履いて外へ出ていった。

 夕陽はもう沈みかけていて、夜の色と混ざっているような空模様だった。まだ汗が滲む気温で、風が生温かい。

まずは表の店前に行って本当に豆太がいないのかをこの目で確かめたかった。佐々木は隣の家との間にある、車一台がやっと通れるほどの道を通って表通りに出た。

自動ドアの斜め前にある、父が手作りした木製の犬小屋を見た。庭として作られたスペースに設置してあるので、杭が土に埋められるようになっている。杭から伸びたチェーンは犬小屋の向こう側に隠れていて、いつもならその日陰となる位置に豆太は寝そべっている。

佐々木は犬小屋のすぐ近くまで歩いていき、豆太、と呼びながら首を伸ばして覗いてみた。だがチェーンの先に豆太はいなかった。もちろん小屋の中にもいない。

父の言うとおり、豆太はいなくなっていた。佐々木が生まれてから一度も豆太が逃げ出したことはなかった。そもそも、力が強いわけでもない小型の柴犬である豆太がチェーンを破壊して脱走、なんてことは考えられなかった。

一瞬佐々木は、障害のある弟が豆太を逃がしたのかと考えたが、犬が恐い弟は豆太に近寄ろうともしなかったことを思い出し、違うと判断した。

「誰かがチェーンを外したってこと……?」

 そうじゃなければ、豆太が忽然と姿を消すなんてことはありえない。豆太はうちの店のマスコット的存在で、お客さんみんなからの人気者。ここ南幌町の人柄からしても、可愛がることはあっても、勝手に鎖を外して拉致するような輩はそうはいない。そんなことをする奴は……。

 と、そこまで考えたところで、頭の中に佐々木の大嫌いな人間が現れた。もしそいつが豆太を拉致したのだったら大変なことになる、と佐々木は心配になった。

「河崎っ……!」

 先刻佐々木に殴られた腹いせに豆太に何かしようとしている、という想像が容易についた。佐々木は俯いていた顔をハッと上げ、今すぐ豆太を探しに行かなければ、と左右に伸びる通りを見た。勘ではあるが迷わず河崎の家の方角にへそを向け、急いで走っていった。

 豆太、豆太——! シャッターの閉まってしまった商店街通りを佐々木はひたすら走っていく。途中で何人かとすれ違った後、豆太のことを見なかったかと聞けばいいんだ、と思いあたった。前から歩いてくる、ネギをエコバッグから突き出したおばさんに話しかけた。

 そのおばさんはよく佐々木の家の鮮魚店で買い物してくれていた人で、豆太のことを知っているようだったが、誰かに連れ去られた豆太を目撃してはいないとのことだった。

頭を軽く下げ、佐々木は走り出した。

——そうか、ぼくは河川敷で時間を潰しすぎたんだ。河崎はぼくを殴った後真っすぐうちに来て豆太をさらった。だから目撃者がいたとしても、今からすれ違う人のなかにはいない可能性が高い……。

 と、地面を強く速く蹴りながら思考していると、ふと思ったことがあった。河崎が豆太を抱えて、こんな誰かに見られる可能性の高い道を通るだろうか。

佐々木は速度を落とし、やがて立ち止まった。本当に河崎が豆太を連れ去ったのなら、途中ですれ違った誰かが絶対にいるはずだ。ここらの人は豆太のことも河崎のことも大抵は知っている——豆太は鮮魚店に来たことのある人なら誰でも知っているし、河崎は悪ガキで有名だからだ——から、その組み合わせはおかしいと思って、父に報告しに来てもいいはず。

それなのに父のもとには誰も報告に来ていない。つまり、誰にも見られないで河崎は豆太をさらい、この道を誰にも見られないで通った……?

「いや、ありえない……」

 呟いた佐々木は後ろを振り返り、今来た道を眺めた。

 佐々木は河崎がとるだろう最悪の可能性を考えていなかったことに、今さら気がついた。

さらって監禁、あるいは傷つけるなんてことは甘かったのだ。河崎なら……。

 想像して怒りがこみあげ、同時にそんなわけない、と激しく信じながら佐々木はもと来た道をさっきよりも全力で走っていった。河崎の憎たらしく嗤う顔と豆太の愛くるしい顔が交互に浮かび、より一層足が速く回る。

 鮮魚店の前についた佐々木は、顎から滴り落ちる汗を拭い、息を切らしながら、豆太を探した。河崎が豆太に危害を加えるとしたら、誰かに見られるリスクは冒さず、その場でやるに違いない。そうであるという確信を持ちながらも、ただの思い違いだと信じたい気持ちも心の中にあった。

 豆太の小屋の前に立った。そこから河崎が誰の目にも止まらずに事を起こせるとしたら、と考え、視線を家と家の間の暗くて狭い路地に向ける。

佐々木が先ほど裏の玄関から表通りに出てきたときは、比較的広いほうの、歩行者なら普通に通れる道を歩いてきた。だが、反対側の今見ている狭い道は、道ではなく、ただ家と家の間に空いた狭い空間に過ぎなかった。完全に佐々木家の敷地内で、一般の人が通るような場所ではない。

だからそこには魚を廃棄するための大きなゴミ箱が設置されていて、父はよくその中に魚の余った部位を捨てていた。近づくと腐臭がするし、別に魚を廃棄する以外に通る意味がないので、佐々木もしばらく通っていなかった。

ゴクリと唾を飲み込んだ佐々木は狭くて暗い空間へと歩を進めていった。魚の強烈な臭いが鼻に入ってくる。慣れているとはいえ、嫌な気分になった。

薄黄色の、上にずらして開けるタイプのゴミ箱が近づいてきた。前に立つと、鍵はかかっていないが、金具がしっかりと下ろされている状態だった。ゴミ箱からは強い臭いが放たれており、佐々木は思わず吐き気を催した。

後ろを向いて口を押さえると、隣の家の塀が目に入った。灰色で埋め尽くされているはずのその塀には、なぜか赤い跡がついていた。

トマトを壁にぶつけたような赤い大きな染みがあり、その丸い染みの周りには飛沫が飛んでいた。大きな染みからは三、四本の筋が垂れており、それは地面にまで到達していて、塀とアスファルトの間にあったコケを赤く染めていた。

佐々木は吐きそうになりながらも赤い跡を目で追った。コケからは、点々と赤が続いていた。地面を通り、それはゴミ箱の下半分にも付着していて、暗闇に目が慣れてきたのか、さっきまでは見えていなかった赤いものが、ゴミ箱の金具の周りを染めていることがわかった。

呼吸が荒くなりながらも、そんなわけない、そんなわけない、と佐々木は念じた。念じながら佐々木は勇気を出してゴミ箱の金具を外し、蓋を開いた。

刺すような悪臭が体を貫いたことなど、佐々木は感じなかった。鈍く光る魚の頭や内臓のピンク色に囲まれた、小麦色のふわふわした三角の耳が目に映ったからだ。

「うおぇ」

 目と目が合ったおかげで、佐々木は盛大に吐しゃ物をぶちまけた。光を失った二つの目玉が、豆太がもう死んでいることを正確に伝えてきていた。

 吐いて吐いてもう中身がすっからかんになった佐々木は、もう一度ゴミ箱の中の小犬を見た。似たような犬ではなく豆太だということは、首輪から見ても確定だった。

「なんで……」

 なんで関係のない豆太が犠牲になったのか。なんで河崎はこんなひどいことを平気でできるのか。なんで佐々木をいじめるのか。なんで……。

 なんで、という三文字が佐々木の中で渦を巻いて、涙がポロポロとこぼれ落ちていった。

 しばらく泣き続けた後、このままにはしておけないと思った佐々木は、手や服が汚れるのも厭わずにゴミ箱の中に手を突っ込んで豆太を持ち上げた。まだ生温かい体を抱きしめ、ごめん、と言った。


 ——その事件の次の日、学校で佐々木は河崎に声をかけられた。

「佐々木、どうした? 元気ないみたいだけど」

「……っ、お前がやったんだろ……」

 憎たらしく嗤う河崎の表情を見るまでもなく、佐々木は河崎が犯人だということはわかっていた。だが——、

「お前がやった? 何のことだ?」

 なあ、と取り巻きの連中にへらへら笑いながら問いかける河崎は、白々しくとぼけだした。取り巻きの反応が鈍いことから、河崎が単独で豆太を殺したことは確定した。

それから河崎は上体を屈め、佐々木にだけ聞こえるように耳打ちした。

「もしかして、あのクソ犬のことか?」

 佐々木はカッとなり、河崎の腕を掴んだ。

「お前がやったんだ! お前が——!」

 握りこぶしを作り、立ち上がった佐々木が腕を引いて殴ろうとしたとき、河崎の取り巻きに瞬時に押さえられた。目の前の河崎のことを殴りたくて仕方がなかった。

「言いがかりはよせよ、佐々木ぃ。何があったかは知らないけど、証拠もないのに俺がやったって決めつけるのはよくないと思うな~」

 ニタニタと笑顔を向ける河崎に、佐々木は心底腹が立った。先生が教室に入ってきたことで騒ぎは収まり、いったん話は打ち切られた。

 放課後、佐々木は河崎に呼びつけられ、校舎裏に行った。そこには河崎と取り巻きたちが待ち構えていた。このとき佐々木は、たとえ死んでももう一度河崎を殴ると決めていた。

「佐々木ぃ、朝は言いがかりつけてきたよな~。続きやろうか? というか、やろう?」

 ポキポキと指を鳴らしながら河崎は挑発してきた。後ろに控える取り巻きたちも首や指を鳴らしていた。

佐々木はカバンを乱暴に地面に捨て、同じように指を鳴らして戦闘準備に入った。もう言葉の応酬なんかどうでもいい、一発殴る、絶対に。

 河崎たちはまだ動かないようなのでこちらから仕掛けようとすると、出鼻を挫くように河崎が口を開いた。

「まだ理解してないみたいだね~、佐々木君。なんで一つの尊い命が奪われることになったのか、考えてはこなかったのかい?」

 ふざけた口調で話す河崎は、肩をすくめ、眉を上げ、唇を前に突き出している。

「わからないみたいだから教えてあげるよ」ひょうきんな顔から冷めた顔つきに一変した河崎は言った。「お前が歯向かってきたからだよ」

 歯向かってきて生意気だから、佐々木の代わりに豆太が犠牲になった。それは、理解できないにしても、わかってはいる。いかれた化け物のセリフに、佐々木の怒りは増していく。

「まだやる気? 本当にバカだよなお前。わからないなら教えてやるよ、次に歯向かってきたら、今度はお前の弟をいじめる。いじめるどころじゃ済まないかもな、事故と見せかけて……、なんてことも起きるかもな」

 狂気を宿した冷たい瞳が佐々木に突き刺さる。

「……その拳、早くおろしたほうがいいよ? 反撃してきたらマジでやるから、俺」

 その目に宿る悪に、佐々木は屈服したと言ってもいいかもしれない。

『反撃したら次は弟がやられる』という意識が、佐々木の中に大きな棘として刺さった。結局佐々木はその場から動けず、ただ固まって殴られるのを待つしかできなかった。

 ——それからも佐々木は、毎日のようにいじめを受け続けた。中学に入っても、高校生になっても。時には相談したり、やり返したりしようと思ったこともあった。だがそのたびにゴミ箱の中の豆太の、あの悲惨な姿を思い出し、自身の反抗する気持ちをへし折ってきた。

その内、やり返してはいけない、やったら家族がやられる、という十字架のような、規律のようなものが佐々木の中に生まれ、佐々木は何をされてもやり返せない体になってしまった。家族を殺されるなど、我を忘れるほどの出来事がない限り、佐々木はやり返すことができなくなったのだ。


「……ってことがあったんだ。だからぼくはやり返せなかった。河崎を殺せなかった」

 幼少期の嫌な記憶はトラウマとなり、本人も知らず知らずのうちに蓋をしている。豆太を殺された記憶は佐々木の心の奥底に封じられていたのだ。飼っていたことも忘れるくらい、当時の佐々木にはショッキングな出来事だったのだろう。

「そっか……」

 言葉には出さずとも、話を聞いた森口が相当怒っているのが佐々木にはわかった。森口は言った。

「いつも佐々木君がいじめられているとき、僕、なんでやり返さないんだ、とか言ってたよね、ごめん。そんな辛い過去があったのなんて、想像すらしてなかった。本当にごめんよ」

 森口は申し訳なさそうな顔をして佐々木の横で頭を下げた。

「いいっていいって! ぼくがいくじなしなのは別に豆太のことがなくてもそうだったと思うし、それに、いつも助けてくれるのは森口君くらいだったから、ぼくが言えるのはありがとうだけだよ。……ね?」

 本当に落ち込んでいる様子の森口の肩を佐々木は優しく撫で、ありがとう、と感謝を伝えた。頷いた森口は一度佐々木から顔を逸らして、手で目もとを拭うような素振りをしてから深呼吸をした。それから、窓の外を見て厳格な声音で言った。

「河崎は絶対に許せない」

 それは、佐々木も同じだった。

「そうだね、ぼくも豆太のことを思い出して、さらに憎しみが増した気がする。家族のこともある。絶対に許さないよ。……それに、ぼく気づいたんだ。やり返されるのは、相手が生きているからだよ。殺せばもうやり返されることはない。殺せば終わりなんだ」

 もう迷わない。佐々木は決意を固めた。

 森口の腕時計の針が、話している間に結構進んでいたことに気づいた佐々木は、教室に戻ることを提案した。

 二人で水飲み場に寄ってのどを潤してから、戦場へ向かった。

 教室に入ると、先ほどより空気が重くなっていると感じた。人間の負のオーラのせいなのか、陰鬱な雰囲気が教室内を満たしていた。

佐々木は森口と別れ、窓際にいる安藤のところへ移動した。佐々木は静かに隣に腰かけた。

「佐々木君」佐々木が隣に座ったことに気づいた安藤が、横を向いて言った。「私、決めたの。恵美ちゃんの分まで、しっかり生きる。……でもそれは、ここにいるクラスメイトを殺して生き残るって意味じゃなくて、何というか、まだうまく考えがまとまってないけど、とにかく恵美ちゃんに情けない姿を見せたくないの。だから、私頑張る」

「うん、すごくいいと思う。ぼくも生きるよ。頑張ろう」

 首を縦に振った安藤は、嬉しそうに口元を緩めていた。

 正直その考えは甘いと思ってしまったが、それは口に出さないでおいた。

 ふと、安藤の赤眼鏡の奥の瞳が、きれいな二重だということに佐々木は気づいた。ふだんまともに話すことがなかったから気づかなかったが、近くで見ると意外と可愛い顔をしていた。

まじまじと見すぎたのか、安藤が「どうしたの?」と上目遣いでうかがってきた。

「ごめん、何でもないよ」

 顔を逸らし、ごまかした佐々木は、壁掛け時計を見た。あと五分ほどで五時間目の授業が始まる。

ホームルームから四時間目までの間にすでに六人死んでいるから、今生き残っている人数は十九人。何時間目までやるか知らないが、これからはさらに人数の減るスピードが上がっていくだろう。

 三上が死ぬまでは人間不要論について考えることもなかったが、今は考えて、自分の意見を持っている。佐々木の考える人間不要論では、悪人だけを排除するのが正しい。悪いことをしない人間は、これから地球をきれいにしたり、昔のような自然豊かな星に戻そうと努力したりする可能性がある。だから人間すべてを殺す星守教のやり方は間違っている。

 ——なんて、真剣に考えてるのはぼくだけだったりして……。

 人間不要論については真剣に考えたが、自身がこの教室で生き抜く方法については考えていなかった。つい今しがた、佐々木は安藤に『ぼくも生きるよ』と言ったが、あれは嘘だった。佐々木にとって大事な家族はもういない。だから佐々木一人が生き延びることには、意味なんてないのだ。

あと二分。時計を見て佐々木は、もうすぐ来るであろう山神の姿を想像する。三上を橋本に殺され、亡骸を前に涙を流しているときに聞こえた言葉を思い出す。

『憎しみとしてぶつけるのではなく、不要な人間を排除するという方向に思考をシフトしていけ』

 なぜだろうか。あのとき、佐々木は三上が殺されたことにあまり腹が立たなかった。もちろん悲しくはあったし、理不尽だとも思った。だが、怒りは大して湧いてこなかった。それどころか、仕方ないことなんだと、納得した自分がいた。憎しみで殺すのは間違いで、不要な人間を排除するのが正しい……。あのセリフが、いったい何に三上が殺されたのか、人間不要論とは、星守教とは、地球とは何なのかを考えるきっかけになった。

 佐々木は教室後方にいる河崎をチラと見た。あぐらをかき、後ろに手をついている。長年いじめられてきた奴だ、憎い。家族を殺した奴だ、憎い。河崎を一瞬見るだけでも、心はどす黒く染まっていく。

だが人間は、憎いという感情に任せて他者を殺してはいけない。佐々木はそれを心に言い聞かせる。憎しみで殺すのではなく、不要な人間を排除するのだ。

 不要な人間、とりわけ河崎を消すことを決めた佐々木は、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出し、気合を入れた。ちょうど五時間目の始業のチャイムが鳴り、汚れ一つない真っ白な白衣を着た山神が教室に入ってきた。


〇五時間目


 1


 昼時も過ぎ、太陽は西に傾いてきている。教室内に飛び散る赤黒い血痕のことなど知りもしないように、外の景色は真っ白だ。外に出られたらどんなに気持ちいいのだろう、という思いが自然と湧いてくる。

 山神が教卓に手のひらをつき、残った十九人の生徒に向かって発言した。

「これから五時間目の授業を始める。だがその前に、昼休みに出した宿題を提出してもらおうか」

 片方の口角を吊り上げた山神は、三年間受け持ったクラスメイトたちを、教師ではなく狂人の眼差しでぐるりと見渡した。

 山神のいう宿題とは、人間不要論について考えるというものだった。

 端にいた橋本から順に一人ずつ聞かれていき、最後に反対側の端にいた佐々木が答えて宿題は終わった。橋本と河崎だけは『考えていない』という不敵な回答をし、そのほかの生徒たちはそれぞれ人間不要論について考えたことを発表した。全員の考えを聞き終わった山神が言った。

「いい考えを聞けた。星守教徒は洗脳されているから同じ答えしか出さないのに対し、お前らはまだ染まっていないからいろいろな意見が出る」

 満足そうな表情を浮かべた後、山神は少し不機嫌そうになった。

「まあ、まだ俺に敵愾心を向けている愚かな人間もいたことは残念だったが」

 佐々木の聞く限りでは、自身を含めても森口と宮園くらいしか、真剣に人間不要論について考えている生徒はいなかった。しかしながら明らかなのは、山神や星守教だけを悪者と定めている生徒が大半だということ。話しながらも憎悪を向ける生徒がほとんどだった。

「ここからの授業は死ぬ人数を増やすつもりだ」

山神はそう言い、生徒たちに背を向け、黒板にチョークで次の『ルール』を書き出していった。


ルール一 二人一組になり、お互いにナイフを首の前に置いた状態でスタート。制限時間五分以内にペアの相手を殺す

ルール二 避けるなど姿勢を崩したとこちらが判断したものは、山神が即座に殺す 

ルール三 殺せなかった場合、山神が二人一組のうち一人をランダムに選び、殺す


「シンプルだろう? 実にわかりやすい殺し合いだ。今から二人一組をこっちで勝手に組んでいくから」

 山神はニヤっとした後、再び黒板に向き合った。黒板に書き出された几帳面な字を眺め、佐々木は念じた。

——河崎と組ませてくれ。

 ペアを組み、首の前にナイフを持った状態で始めるというこの殺し合いは、佐々木にとって絶好のチャンスだった。

河崎と組めば、向こうも迷わず腕を引くだろうが、こちらも一瞬で勝負をつけられる。相打ちにしろ、確実に河崎を殺すことができる。

 願ってもない河崎を殺すチャンスだったのだが、残念ながら河崎はすでに違うペアと組まされてしまった。『河崎拓也、西山涼』と書き出されていた。

西山涼は、佐々木に劣らず地味な生徒である。クラスの中心からはほど遠く、久保寛太、渡辺修一との地味トリオの一角を担っている存在だ。

 チョークが奏でる音が消えた。黒板にすべてのペアが書き出されたようだ。


『太田正人、森口翔太』『河崎拓也、西山涼』『佐々木高志、中村・スジーキー・海人』『清水達樹、小林継美』『相馬唯斗、中野瑠香』『藤川優佑、安藤咲花』『宮園洋、佐藤凛』『渡辺修一、水谷夏実』『今野美紅、橋本杏奈』『久保寛太、山神太一』


「このペアは互いに殺しやすい相手を選んだつもりだ。もちろん俺が三年間担任として見てきた限りの判断だが。友人と呼べるほどは仲良くなく、接点があまりない相手をペアに設定したから、気兼ねなく殺せるはずだ。……質問がなければ殺し合いを始めようと思うが」

 山神がさっさと殺し合いを始めようとするが、それを阻止するように森口が手を挙げた。

「ルール二の姿勢についてですが、相手の攻撃を避けるのではなく、過って体勢を崩してしまった場合なども、殺される対象になるのでしょうか」

「避けるはただ一例として書いただけだ。いかなる理由があったとしても、姿勢を崩したとこちらが判断した場合は殺す。例えば恐怖心に負けて相手の腕を握ってしまう、とかな」

 つまり、刃を引く動作以外はするな、ということだろう。避けようと後ろに一歩退くのも、相手が刃を引けないように腕やナイフを触ることも禁止。どこにも逃げ道は残されていない、と佐々木は感じた。

 それにしても……と気になった佐々木は、人数合わせのため山神とペアを組むことになった久保の様子をうかがってみた。残ったのが十九人の奇数なので仕方のないことだったが、同情せざるを得なかった。久保は床の一点を見たまま動かずにいた。

「ほかに質問がなければこのまま始める」首を左右に軽く動かして手が挙がらないことを確認し、山神は続けた。「二人一組になり、互いに向き合って立て。俺が一組ずつ指示して回るから、ナイフは手に持っておけ。場所はそれぞれに任せる」

 生徒たちはまばらに動きはじめた。佐々木は相方の中村のところへ移動しようとしたが、中村のほうからこちらへ歩いてきたので、場所を変えずに済んだ。

中村・スジーキー・海人はブラジル人とのハーフで、肌の色が茶色い。身長も高く、恰幅も良い。レスラーと言っても信じられるような迫力だ。中村は吉田和真の舎弟みたいなものだったが、佐々木をいじめることは滅多になかった。そのため佐々木は、中村には怒りなどの負の感情を抱いてはいなかった。

「よ、よろしく」

「……」

中村は意思のなさそうな瞳で佐々木を見下ろして、何も言わずに窓の外に視線をやってしまった。

 ペアを組んだ生徒たちは教室に散らばっている。山神はナイフを手に持った生徒の腕を持ち上げ、すぐ目の前にあるペアの相手の首もとに持っていく。

鋭利な刃先が生身の肌のすぐ手前に置かれ、その人生で一度も感じたことのない圧迫感から、ナイフを持っているほうもあてられたほうも身動きが取れなくなる。

「いいね。思ったとおりこの絵面は面白い。……いいか、俺が開始の合図をするまでは絶対に早まるなよ。ルールにはしなかったが、開始前に動いたものは殺すからな」

 言いながら、山神は次々と生徒たちの準備を進めていく。思ったより相対する生徒の顔の距離が近い。

佐々木と中村も同様に構えさせられ、山神は教壇を鳴らして教卓の前に立った。山神のペアの久保寛太も教卓の上に緊張した様子で立っている。向かい合った山神が久保の腕を自身の首もとに近づけて、すぐに言った。

「はい」まるで何回も繰り返された試験開始の合図のように、気軽な声が発せられる。「始め」

 始め、という号令がかけられたと同時に、佐々木の目には壊れた蛇口のように吹き出る鮮血が映り込んだ。思わず目と喉が固まって、後ろに一歩下がりそうになってしまった。

白衣と黒髪が一瞬のうちに汚れた山神がいた。

前に立っていた久保が、力なく黒板に向かって倒れていった。側頭部がチョーク受けにぶつかり、首がぐにゃりと曲がる。それから膝がくずおれ、斜め後ろにパタンと倒れてしまった。

 山神が始めの合図とともにやったのだ。心臓の音が大きくなるのを佐々木は感じた。呼吸が荒くなる。

山神は教え子を殺したというのに、道端の小石を蹴っ飛ばしたくらいに何も気にしてはいない様子だった。おそらく、人数合わせは終わった、さあ殺し合いの始まりだ、としか思っていない。山神はルールを破るものがいないか監視する姿勢に入った。顔と目を鋭く動かし、教室全体を隙なく見渡している。

 佐々木が目線を正面の中村に戻そうとすると、また別のところで血しぶきが上がったのが目に入った。

天井に赤い染みがいっせいに付着した。見ると、男子生徒が力なく後ろ向きに倒れていくところだった。一瞬見えた顔から、それが西山涼だったことがわかった。ペアの相手の後ろ姿を見た瞬間、佐々木の中の血が沸騰したかのように熱くなった。

「っは~!」

 両手を広げ、上体を反らして高笑いをしている河崎がそこにはいた。

——許せない、何の罪もない人をまた殺した。しかも笑いながら!

 自分の家族や身近な人が殺されたわけではないのに、佐々木は無性に腹が立った。今そのがら空きの背中から刺し殺してやろうかという気持ちも生まれた。目が意図せずにこれ以上開かないほど全開になり、自分で自分の顎を砕くほどの力が歯にかかった。

 女子の悲鳴が響き、河崎に対する憎悪や怒りの声があちらこちらから聞こえた。

 死人が出た恐怖心は教室中をとたんに支配し、伝染していく。佐々木も例外ではなく、腕や足が痙攣するようにピクピクと震えだしていた。

「みんな! 怖いけど、絶対に動いちゃダメだよ! たった五分だ、たった五分我慢すればいいだけだ!」

 河崎の列にいた森口がクラスメイトの恐怖を取り払おうと、必死に声をあげる。だがそんな声掛けを鼻で笑うようにまた教室の壁が赤く染まった。佐々木が刃を当てている背の高い中村の脇の下から、壁に飛び散った血液が見えた。

「美紅!」

 喉が千切れるほどの大声が、近くから聞こえてきた。ちらと顔を横に向けると、水谷が鬼のような形相で怒り狂っていたのが見えた。

水谷の親友だった今野美紅を殺したのは、橋本だった。

「水谷、お前動きすぎだ。それ以上取り乱すようなら殺すぞ」

 親友が殺された状況だが、山神は監視の目を緩めはしない。冷酷な言葉を水谷に突き刺す。水谷は山神を思いっきり睨みつけた後、歯を食いしばってその場に留まった。

 水谷のほうを向いていると、隣の安藤の肩が小刻みに震えていることに気づいた。無理もない、五時間目の授業が始まってもう三人も死んだのだから。

佐々木は正面の中村に視線を戻し、自身の首のすぐ前に当てられたナイフを見下ろした。妖しく光るナイフがいつ首をはねてもおかしくない状況だ。すべては中村の心情次第。

佐々木は『絶対に殺さないで』という意味を込めた視線を送ろうと中村の目を見たが、視線が合うことはなかった。その様子を見るに、中村はこの五分間を何もしないで終えようとしているのだろう。佐々木と同じ考えで、ランダムで山神に殺される選択をしたということだ。

あと三分くらいだろうか、掲げている右腕が疲れてきた。身長差のあるペアなので、佐々木は余計に腕を高く上げている。

山神、河崎、橋本と続いた殺人が止み、束の間の静寂が訪れ、教室内は膠着状態となっていた。誰も彼もが、二分の一の確率で降りかかる死を受け入れた、ということだろうか。否、目の前のクラスメイトを殺すという選択肢は常人にはもともとないのだ。

「あと二分だ」山神が唐突に言った。「その腕を引くだけで死を免れることができる。クラスメイトは死ぬが、お前は生き残れる」

 誰に言うでもなく、教室全体に浸透させるようにゆっくりと喉を震わせた山神。

「殺すのが恐いのか? ……大丈夫だ、目をつぶって腕に少し力を加えるだけでいい」

 声に導かれて勝手に脳が想像してしまう。

「人を殺すのがいけないことだから殺さないのか? ……安心しろ、いずれ全人類が人間不要論によって死に至ることになる。今目の前の一人を殺すことが、地球を救うことになるんだ」

 ——だめだ、人を殺すのは狂った人間のすることだ。それに中村は河崎のような悪人ではない、絶対に殺せない……。

「あと一分」

 あと一分後にはこの殺し合いが終わり、ペアの内一人が、つまり佐々木か中村のどちらかが山神に殺される。二分の一の死が、避けようのないことだと頭が理解してしまう。

惨たらしく殺されていったクラスメイトの最期、特に山神に首を切られて血を噴き出すシーンを次々に思い出してしまい、佐々木の心を恐怖が支配し始めた。とそのとき——、

「俺は死にたくない——!」

 耳にそのセリフが聞こえてきたと同時に、佐々木の視界の端を人影が駆け抜けた。瞬時に目で追うと、その人物は水谷のペアの渡辺修一だということがわかった。

同列の驚く水谷と安藤が目に映り、次いで佐々木の後ろ、窓の方向にクラスメイトの視線がいっせいに集まった。

「バカが」

 呆れるように言い捨てた山神の声が聞こえた後、佐々木の後ろから、窓を勢いよく開ける音が聞こえた。次いで、渡辺の「うっ」という声が少し遠くから聞こえてきた。渡辺は外に出たのだ。

ここは二階。雪が積もっているとはいえ、落下したら痛いだけでは済まないかもしれない。だがそれ以上に、今日窓から誰も逃げなかったのは、外にも銃を持った兵隊が待ち構えているからで——、

「——っ!」

 パアン、という日常生活では聞き慣れない音が耳に入り、佐々木の体は自動で肩をすくめた。

——撃たれたんだ、渡辺は今撃たれて殺されたんだ。

「あと三十秒」

 逃亡を図った生徒が一人死んだことに何ら興味を示さずに、山神は腕時計を見ながら淡々と言った。

「いいのか? このまま時間切れになればお前の命だけではなく、愛する家族の命も失うことになるんだぞ。今目の前の他人を殺せば救える命もあるんだ」

「山神の話に耳を貸しちゃダメだ!」森口が怒声を発した。「殺すなんて、絶対に考えちゃダメだ!」

「あと十秒」

 山神の話に耳を貸すなと森口は言うが、佐々木は山神の発した言葉の中で、一つだけ心に引っかかるものがあった。愛する家族の命も失うことになる、という部分だ。

佐々木は目をつぶり、大切だった家族を想起した。真剣な眼差しで魚の腹に包丁を差し込んでいる父、佐々木のために毎朝早起きし、お弁当を作って手渡ししてくれる母、もらったお菓子をいつもわけてくれる優しい弟、食卓でみんなに笑顔をくれる祖母。

 もうこの世にはいなくなってしまったが、今佐々木が生きていられるのは、愛する家族のおかげだ。

 だがその家族を殺したのは……。

人間不要論という名の殺し合いが勃発したことは確かに要因の一つだ。佐々木が死んだら家族もともに殺されてしまうから。

でも、と佐々木は考える。

——ぼくは今生きている。にもかかわらず家族はもう殺されてしまっているじゃないか。

佐々木はグループチャットに送られてきた家族の悲惨な姿を思い出し、同時にそれをもたらした悪の顔を脳裏に描き出した。

——河崎だ。河崎が殺したんだ。

「五……四……三……」

 目を開き、中村の顔を見上げ、しっかりと目に焼きつける。それから目線を横にずらし、憎い家族の仇——否、不要な人間か——の横顔を一瞥して、佐々木は覚悟を決める。

——あいつはぼくの手で殺す。そうしなければならない……!

「二……一……」

 ズシャ、という肉を切り裂いた音が耳に届き、魚とは違う嫌な感触が手を通して全身に行きわたる。髪に生温かい液体がかかり、眼前の生き物が後ろに倒れていく。傾きながらも黒目は最後までこちらを捉えて離さずにいた。重力に逆らわず後ろに倒れていく肉体が、冷たい床に後頭部を打ちつけた。中村・スジーキー・海人は短い生涯を終えた。

前髪を伝って落ちたものを呆然と眺め、それが汗でも雨でもないことに驚かない心を理解し、佐々木は、罪のない人を殺めたことを魂に刻みつける。

「——終了だ」

「キャアアァッ——!」

 殺し合いを終える合図が教壇の上から発せられ、同時に女子の悲鳴が上がった。

「ナイフを下ろせ。それと宮園、まだ相手は死んでないぞ」

「——えっ」

 教室後方の窓際にいた、血の滴るナイフを手に持った宮園の前に、首を押さえてもがき苦しんでいる女子生徒がいた。水谷の友人、佐藤凛という女子生徒だった。

宮園が腰を抜かして後ろの壁に背中を当てている状況を見て、佐々木は足を動かした。なぜそんな残酷な、中途半端なことをしていられるのか。

安藤と水谷の後ろを通り、宮園のすぐ脇に立った。

「佐藤さんに、とどめを刺さないと」佐々木は言った。「中途半端に相手を傷つけるのはよくないよ。苦しんでるじゃないか」

 喉から出る血を懸命に抑えてのたうち回る佐藤は、どう見てももう助からない状態だった。親友の水谷が駆け寄り声をかけるが、聞こえていないようだ。

ちゃんと殺すよう促しても動こうとしない宮園の怯えた目は放っておいて、佐々木は仰向けに倒れる佐藤に近寄った。

「殺すよ」

「——待って!」

 隣にしゃがむ水谷が悲壮な顔つきで、手のひらを佐々木の胸の前に突き出してきた。だがその意味を無視して払いのけ、佐々木は佐藤の喉を切り裂いた。

 ——うん、これで佐藤さんは救われた。

完全に息の根が止まったことを確認した佐々木は、ほっと息を吐いた。

「よくやった佐々木。いい判断だ。わざわざ苦しませて殺す必要はないからな」

 固まる水谷の背後から、山神が笑みを浮かべながら近づいてきて、ポケットに手を突っ込んでスマホを取り出した。

 通話を終え、少しすると森口の父たちが到着し、複数の死体を何回か往復して持ち去っていった。殺し合いの時間よりも後処理のほうが時間かかったな、と佐々木は思った。

 しばらく水谷やほかの友人を失った生徒たちの泣く声が教室の中をこだました。安藤も恐怖からか涙を流しており、佐々木とは目が合うことはなかった。

この五時間目の授業で死んだのは、久保寛太、西山涼、今野美紅、渡辺修一、中村・スジーキー・海人、佐藤凛の計六人だ。

山神の宣言どおり、かなり人数が減った。特に今野と佐藤の二人の親友を一気に失った水谷の心的負担ははかりしれないものだろう。いつもの快活な姿は消え失せ、水谷はぺたんと座ったまま誰よりも泣き続けていた。

その悲しみに満ちた声の上から、山神の感心したような声が覆いかぶさった。

「いいねお前たち。特に殺しをやってのけた河崎、橋本、佐々木は素晴らしい。いい人材となりそうだ。宮園は中途半端だったが、殺そうとしたことは褒めてやる。次は失敗するな」

 教卓の上の定位置に戻った山神は、細長い指を伸ばし、あちこちを指さしている。

「今死んだのは六人か……。これで残りは十三人だ。だがまだ五時間目の授業は終わっていない」

 黒板をコツンと叩いた山神の手もとには、五時間目の殺し合いのルールが書かれていた。

「ルール三に則り、殺せなかったペアの内一人を、今からランダムで選んで殺す。ランダムと言ったが、要はただの気まぐれだな」

 教卓に手をついて教室を見回している山神は、まるでどのおかずから食べようか迷っている子供みたいに、爛々と瞳を輝かせていた。

佐々木も教室を見渡した。ペアのいなくなった河崎、橋本、佐々木、安藤、宮園を除けば、殺される可能性があるのは八人だった。太田正人、森口翔太、清水達樹、小林継美、相馬唯斗、中野瑠香、藤川優佑、水谷夏実の中から、計四人殺されるということだ。

 血まみれになってべとべとする髪と顔を早く洗いたいと思っていると、早速一人目が指名された。

「藤川、前に出ろ」

 呼ばれた藤川は、一度その場で息を吐いてから、覚悟を決めたような表情で教壇に向かって歩いていった。

藤川は吉田といっしょにいることが多かった生徒だ。そして、高校二年生のとき、柔道で全国三位をとった男。高校を卒業した後は吉田と同じく、県外の大学に進むことになっていた。そんな彼の未来が、たった今無慈悲にも摘み取られようとしている。

「最後に言いたいことはあるか」

 山神がナイフを懐から取り出し、くるくると手もとで回転させながら教壇から降りる。一メートルほど距離を置いて、藤川と向かい合う。

細身の山神に対し、藤川の体格は一回り二回りも大きい。身長も藤川のほうが若干高く、普通に戦ったら藤川が勝てるかもしれない。藤川は首を鳴らして言った。

「俺はここで死ぬわけにはいかない。……お前を殺してここを出ていく」

「ふっ、なるほど……。そうくるか」

 回転させていた刃物をピタッと止めて構えた山神は、しかし不敵な笑みは崩さない。藤川は手に持っていたナイフを床に投げ捨て、柔道の構えをとった。集中力を高めた様子の藤川からは、闘志が滲み出ているようだった。

横から眺める佐々木には、よもや本当に藤川が山神を倒してしまうのではないか、という考えさえ浮かんだ。それほどの気迫と集中力だった。

どんなに山神がナイフさばきに秀でていても、洗練された柔道には敵わないはずだ。高速の突きだろうが、その突き出してきた腕そのものを捉えて凶器を捨てさせれば、あとは素手同士の戦い。そうなれば体格差もあり、藤川が勝てる。

——と、思ったのも束の間。勝負は一瞬でついてしまった。

 両手を胸の前に構えて山神の動きに反応しようとしていた藤川だったが、反応する間もなく、いきなり両手首が切り裂かれた。鮮血が真一文字に吹き出す。

普通人間は力を出すとき、踏み込みや腰の捻り、腕の引きなど、予備動作があり、それが相手に伝わるものなのだが、山神にはその予備動作がまったくと言っていいほど無かった。何も力んでいない自然な姿勢から最高速の攻撃が繰り出されたのだ。たとえ柔道の腕が確かな藤川でも、反応できないのであればおもちゃ同然だ。

 構えた両手首が切られたことで出血し、反射で腕を下ろしてしまう。背中が丸まり、苦悶の表情をした藤川の首筋に、赤い一筋の線が浮かび上がる。

山神はもうナイフを振り切って、藤川の背後に移動していた。口角が上がり、白い歯が見えた。

一瞬遅れて自身の首が切られたことに気づいた藤川は、血だらけの指で首をなぞり、カハッと吐血した後、目を見開いて前に突っ伏した。

タイル張りの床の上に額から落ち、藤川の命の源が飛び散った。床がみるみるうちに赤く染まっていく。すぐさま山神は、血が跳ねて靴と白衣を汚さないように教壇の上に乗り、教卓の後ろに立った。

 藤川が殺された。だが佐々木はその事実よりも、恐るべき速さと技量を持つ山神を見て、やはり凄すぎる、と一種の尊敬のような感情を抱いていた。どんなに修行してもあの域には達せられないだろう、と無自覚に自分と比較してしまうくらいに。

 山神は血のついたナイフを空でひと振りしてから、廊下に向かって言った。

「おい、出番だ」

 死人が増えると予告していたからか、ドアのすぐ外で待機していた森口の父たちが入ってきて、生物だったものをさっさとかたづけていく。床の血がきれいに拭き取られ、救急隊員が出ていくと、山神は次の犠牲者の名を呼んだ。

「森口、来い」

 森口も覚悟を決めたような顔で歩いていく。手にナイフが力強く握られている。もしかすると森口も山神と戦うつもりなのかもしれない。

「山神、僕はお前を許さない。例え一瞬で死ぬとしても、最後の最後まで抗わせてもらう」

 山神の正面に立った森口が言った。それに対し山神は残念がるように少し眉間にしわを寄せ、「お前もか……」と呟いた。佐々木には山神が面倒くさがっているように見えた。

事実、山神は藤川のときのようにすぐに教壇を降りるわけでなく、ナイフも回さずに腕を組み、教壇の上で首を捻っていた。緊張感に包まれた教室の空気が一寸弛緩し、ほぼ全員が山神の態度を不審に思う眼差しで見つめていた。

「殺されたくない気持ちがあり、俺に向かってくる力も残っている……。それを殺す俺、もったいないな……」

 そうぼやいた山神は、首を交互に左右に倒して、何かを考えている様子を見せた。やがて斜めに倒していた首をもとの位置に戻すと、何か閃いたような顔をして、口を開いた。

「いい考えが浮かんだ。今から指名する奴らだけで、殺し合いをしろ。それで生き残った一人は、再び生き残る権利を得られることにする。つまり敗者復活戦だな」

 誰もが「は?」という口をして山神の言葉を聞いていた。

「今から死ぬ予定だった奴らはまだ余力が残っていて、殺されたくないと思っている。ならば、それを有効利用しない手はない。死んだ藤川には悪いが、ルール変更だ。……森口、水谷、中野、小林、清水……それから——」

 いったん言葉を切り顎に手を添えた山神が、目を左右に動かしてから言った。

「——宮園だな。その六人は教室に残り、呼ばれなかった六人は教室の外に出ていろ。安心しろ、休み時間同様、教室から出ても家族や親類を殺すことはないと約束しよう」

 殺伐とした空気を纏う生徒たちとは反対に、和やかな笑みで約束をした山神は、廊下の先に指をさし、佐々木たちを出ていくように促した。

「先生、なんで僕が残る側なんですか⁉」

 佐々木たちが教室から出ようと歩き始めると、壁からやっと離れて立ち上がった宮園が発言した。

たしかに、宮園はペアだった佐藤を殺そうとした。山神にもその姿勢は褒められ、次は失敗するなと言われていた。だが今の佐々木にはわかる。殺そうとするのと、実際に殺すのは、まるで違うことなのだ。山神は返答した。

「宮園、悪いな。ルール三——殺せなかった場合、山神が二人一組のうち一人をランダムに選び、殺す——に則り、お前を選ばざるを得なかった。佐藤は佐々木が殺したからな」

「そんな……」

 落胆して声を震わせ、わなわなと再び立っていられなくなる宮園。もしあそこで佐々木の言うとおりに佐藤にとどめを刺していたらまだ生き残れたのに、と佐々木は少し同情した。

 敗者復活という名の殺し合いが始まるのをよそに、佐々木、河崎、橋本、安藤、太田、相馬の六人は教室を後にした。

「藤川の家族を殺せ」

 そんな聞き慣れてしまったセリフを耳にしながら。


 2


 教室の中に残されたのは、森口翔太、水谷夏実、宮園洋、小林継美、清水達樹、中野瑠香の六人だった。山神はその面々を見て、偶然にも男女比が五・五だということに気がついた。そのため、六人全員でいっせいに殺し合うよりも、断然殺しやすい状況を作りだせると考えた。

新品同様の長いチョークを容器から取り出し、新たなルールを黒板に書いていった。


 ルール一 男子三人、女子三人で輪を作り、殺し合う。生き残った一人同士で、最後にもう一度殺し合う

 ルール二 逃げた、あるいは殺し合いを放棄したと判断した場合、そのものからナイフを奪い、拘束する


「生き残りたいのなら、殺せ。本来お前らの命はもうないものだ。それを取り返したいというのなら、他者を葬れ、人間を排除しろ。そして人間不要論を理解しろ」

 勇ましく山神を睨みつける小林と清水と水谷、ルールにしっかりと目を通す森口と宮園、怯える中野。命がかかった場面というのは、そのものの真の性を見ることができる。山神はそれが楽しみなのだ。

森口が手を挙げることもなく、山神に背を向けてほかの生徒たちに言った。

「みんな、正直に言うんだ。本当に生き残りたいのかを。……僕は別に生き残りたいとは思わない。ただ、理不尽に殺されるのが嫌なだけだ」

「あたしもそう。どうせこの状況からは逃げられないんだし、最後に生き残ったとしても、その後星守教とやらに入らなきゃならないんでしょ。なら、ここで生き残る意味なんてない」

「わたしもそう思う。どうせ死ぬんだし、だったら最後はみんなであいつを倒しにいったほうがいい」

 小林と水谷、二人の女子も強気に発言した。それに続くように清水、宮園が同様のセリフを口にした。

「中野さんはどう思う?」

 山神はとりあえず様子を見たまま放置し、この後どんな反応を見せるかを待っていた。この流れだと、ルールに従って殺し合いをする生徒は誰一人としていないという、ため息の出る結果になりそうだが……。

 中野瑠香は俯きながらもじもじして言った。

「私は……」

 私は? 山神は言葉の続きを勝手に都合よく考えた。

——私は家族のためにも生き残りたい。だからルールに従ってみんなを殺します!

 だが、それは山神の妄想にすぎず、現実は甘くなかった。この教室からは優秀な星守教徒は選出できないな、と肩を落とした。

「私は……、死にたくはない、けど……、殺すなんて絶対に間違っていると思う!」

 セーラー服の裾を握りしめ、勇気をもって自分の意思を伝えた中野に対し、森口はよく言った、とでも言いたげな表情をして頷いた。

「そうだよ、中野さん。殺すなんて絶対に間違ってる。小林さんも水谷さんも、清水君も宮園君も、ここにいる全員はみんな同じ意見だ。敗者復活なんて望んでないし、殺し合いをするのなんて馬鹿げてる! ——みんなであいつを倒してここから脱出するんだ!」

 まるで勇者含む冒険者たちが、魔王に挑む前に気持ちを奮い立たせているような感じだ。

仲が良いとは言えないこの六人が、山神という悪を前に一致団結したようで、全員がうんうんと首を縦に振っている。それから生徒たちは山神のほうを見て、懐から刃物を取り出した。

やはり一日で人間不要論を理解させ、殺人者を作るというこのプロジェクトは無理がある。山神は明日からのことがますます不安になった。

——ともあれ、仕事だからな。やらなくてはならない。

 山神は廊下のほうに視線を向ける。教室の外にいる奴ら——特に佐々木、橋本、河崎の三人——には期待できる。こちら側で無理に生き残りを出す必要もないか。

 ——いや、でもな。この六人全員を俺の手で殺したら、もったいないんだよな。どうにかして有効利用できないものか……。

「みんな、準備はいい?」

 山神が思考を巡らせながら凶器を手でもてあそんでいるなか、森口ら勇者パーティーは最後の意思確認をしているようだった。

「僕たちは、絶対に山神を許さない。相手も人間だ、絶対に負けるとは限らない。……勝つ気でいくよ、みんな——!」

 鬨の声をあげた生徒六人が、ナイフを手に持っていっせいに襲いかかってきた。全員決死の覚悟で煌めく刃の先端を山神に向けて走ってくる。

教卓を挟んで正面に走ってきているのが森口で、その両脇に水谷と小林、清水と中野が左から、右からは宮園が突っ込んできていた。山神は頭の中で一瞬のうちに全員の首を切り裂いた。無論、実行に移せばたやすく狩れる。だが、どうにかこの命を上手く使いたいと考えている途中だったので、迫りくる六本の凶器をとりあえず避けることにした。

「——っ!」

 腕を伸ばし、虚空にナイフを突き刺す生徒たちの様子が眼下に見える。息をのみ、遅れて山神のほうを見上げてくる。

後ろに跳ねて攻撃を避けた山神は、顎に手を当て、首を捻りながら、黒板に足の裏をつけてしゃがんだ姿勢でピタッと止まった。

 ——どうしたものか。あいつらの狂気を研ぎ澄ませるために使いたいんだが……。

 山神も地球の住人なので、重力には逆らえない。落下する前に黒板を強く蹴り、教室後方に向かって飛び、前に一回転して着地した。

 驚愕の表情を浮かべている面々だったが、森口が声をかけることによって、再びナイフを腹の前に構えてじりじりと近づいてきた。山神を取り囲うように扇形に陣取っている。

森口が最初に突撃してきた——のをひょいと避け、持っていたナイフで軽く腕を傷つける。続いて清水と宮園と小林が同時に、憎悪に満ちた目で襲いかかってくる——のを地面すれすれに伏せて避け、三人のすねの下付近を、半円を描くように捌いた。倒れる三人と腕を押さえる森口から離れるように後ずさると、勇気を出した中野が遅い走りで、片膝にサポーターをつけている水谷が素早い動きで刺しにきた——が、中野の首に峰でナイフをめり込ませ、個人的に好きではない水谷の壊れかけの膝を横から蹴り、六人全員を冷たい床にひれ伏せさせた。

それぞれが痛みに吠え、苦しみ、歯を食いしばっている。

「くそ!」

 清水が足を押さえて山神を睨む。腕っぷしには自信があったのかもしれないが、山神にとっては子供同然、相手にならない。

下からこちらを睨みつける生徒を上から眺めていると、その一人一人の表情から、山神は何か思いつきそうになった。

 ——なんだ、何が今閃きかけたんだ? 何が……。

 山神は傷を負わせた一人一人の顔をもう一度右から左へと順に見ていった。すると、あることに気づいた。

——怪我の度合いが違うから、俺は今、誰から殺そうか無意識で考えてたのか。つまり、命を秤にかけた、ということだ。


 ——日本では珍しく傭兵を職業にしていた山神は、昔海外の戦場でともに戦った兵士たちのことを思い出した。

あの時は紛争が長引いたせいで、食糧不足になってしまった。もともと慢性的に食糧不足に陥っていた国だったこともあり、特に山神のような他国からの派遣の傭兵には、国の兵士とは違い、食糧や武器が回ってきづらかった。山神と部隊を組んでいたのも同じく他所からの派遣の傭兵たちで、その数は二十人ほど。

紛争は終盤にさしかかり、あとは最前線で戦っていた山神の所属する部隊が残りの敵を突破するだけ、という状況になった。だがそのとき、山神たちは三日三晩絶食状態にあった。最後の攻撃をかけようにも、空腹で力が出ない。食糧のないなか、待機という選択肢もとれない。それどころか、疲弊した傭兵たち全員が餓死してしまう可能性もあった。

しかしその日の夜、幸いにも後方から食糧が回ってきた。助かった、と全員が思った。一番腹を空かせていた白人が、食糧袋に飛びかかり、中を覗いた。だが——、

「……少ない、少なすぎる……」

その言葉どおり、袋の中の食べ物は、どう見繕っても十人分しかなかった。普通に分けて五人分、精々十人分が限界といったところだった。どう考えても二十人の命は持たせられない。

頭の回る兵士たちだけで話し合い、やがて黒人の兵長が英断を下した。生き残る確率の高いものには食わせ、負傷していて死ぬ確率の高いものは食わせるな、と。つまり、食べない十人は明日の戦いで特攻し命を散らせ、という意味の指示だった。

山神は負傷度合いが少なかったので、飯にありつけた。必要な人間だと判断されたのだ。

翌日、負傷し、体力の残っていない兵士たちは、餓死寸前のまま特攻し、そして死んだ。そのおかげで結局、戦いには勝利できた。だがもし十人分の食糧を二十人で分配していたら、山神も含め、部隊は全滅していたかもしれない。

 

——そんな懐かしい思い出に少しの間浸った山神は、同じ決断を佐々木たちにもさせてやろう、という気になった。

「いい案を思いついた。これから三人は殺し、三人は生き延びさせてやろう。早い者勝ちだ、生き残りたい奴は声を挙げろ」

 誰が声をあげるのかが楽しみで、山神の口角は自然と上がってしまう。

さっきまで生き残ることに意味はないなどとほざいていた連中の、手のひら返しが楽しみだ。すると——、

「俺は生き残りたい!」

 ずれた眼鏡を直しながら、宮園が挙手して声を張りあげた。束の間宮園に顔を向けたほかの五人の間に沈黙が流れ、続いて清水と中野が俺も、私も……、と声をあげた。

「いい判断だ、お前ら。早い者勝ちだからな、もう受けつけないぞ。……いつもみたいに真っ先に手を挙げるかと思ったが、よかったのか森口?」

 森口は学ランの袖から血を垂らし、痛みに歯を食いしばりながらも山神を強い眼差しで射抜いていた。

「生き残る必要なんてない。ただ僕はお前を殺したかっただけだ」

「……だそうだが、水谷、小林も後悔はないのか?」

 笑みを浮かべながら、威勢のいい女子二人にも話を振る。

「……わざと膝蹴ったろ。いった……」

「ざけんな、死んだほうがマシだわ」

 水谷は壊された膝のことで頭がいっぱいのようで、俯いて涙を落としていた。小林は対照的に、切られた足を押さえながらも肝の据わった目で睨みつけてきた。

「いい答えだ、お前たち」山神は教卓の前まで歩き、振り返ってから手招きした。「宮園、清水、中野、こっちへ来い」

 一瞬、申し訳なさそうに残った三人を見る宮園、清水、中野だったが、生きるためだ、仕方ない、といった決意の目をして立ち上がり、山神のもとへ歩いてきた。生き延びたいといった三人が山神の正面に並ぶと、性格の悪さがつい口から滑り出てしまった。

「お前たち、最初は森口たちの意見に賛成してなかったか? あれは嘘だったのか?」

 生き残りたいなら殺し合えと山神は最初に言ったが、それに対して森口や小林、水谷は生き残ることを望んではいないと答えた。追従するように俺も僕も私もと吐いたセリフが嘘だったのか、山神は聞いた。だが口を開けるものはいなかった。

「そうだよなあ、生き残りたいってのは本能だから仕方ないよなあ。生き延びるチャンスがあるなら普通は『生きたい』と手を挙げるのが普通だ。……だから気に病むことはない、安心して——死ね」

 やや俯いた三人の心臓に、蜂のように連続で突きを入れた。首を切るのがやはり一番殺した気がして気持ちいいのだが、その分返り血を食らう可能性が高いので今回は心臓にしておいた。

 理解に苦しむ表情を浮かべた三人の頭が徐々に前に倒れていき、顔の骨と床がぶつかった。音を鳴らして盛大に命を散らしていった。

 ふぅと一息入れ顔を上げると、死ぬことを選んだと思っていた残りの三人が、鬼でも目にしたような顔をして山神のほうを見ていた。

「どうした?」

 山神が歩きながら聞くと、これから死ぬと思い込んでいた愚か者三人がそれぞれ反応した。

「この外道が……!」「最悪……」「マジ最低」

「別に俺は生き残りたいほうを生き残らせるとは一言も言ってないからな」

 憎しみで焼くような視線で睨みつけてくる三人に山神はスマイルで返し、真っ白な白衣の袖をまくって腕時計を見た。それから床の上に座っている三人に目を向けた。

「五時間目の授業はあと十分。生き残るほうはお前らだ。ただし、ちょっとだけスパイスが必要だから、お前らには俺の遊びにつき合ってもらう」

 ナイフをわざと三人に見えるように持ち、山神は笑みを深めた。


 3


 敗者復活戦が終わるのを待っていた佐々木は今、廊下の冷たい床に尻をつき、壁に背中をつけて静かに一人座っていた。

安藤と話そうと思っていたのだが、話しかけようとするとトイレに駆け込まれてしまった。罪のない中村を殺したことと、死にかけの佐藤にとどめを刺したことが原因かもしれない。

 廊下には現在佐々木のほかに、橋本と相馬がいた。橋本は女子トイレの横の壁を背にして立ち、腕を組んで目を閉じていた。相馬は男子トイレの隣にある水飲み場の近くに座り込んでいた。安藤は女子トイレ、河崎と太田は男子トイレに行っている。

山神が教室から退出しろと命じてからすぐに、佐々木は血を洗い流しにトイレに入り、洗面台で髪と顔、手を入念に洗った。それから廊下に出て、一人で静かに座っていた。

教室のドアは前も後ろも閉められており、中の声はほとんど聞こえてこない。今、廊下で待機していた森口の父たち死体運搬係が教室に入っていき、遺体を運び出していったところだった。中野、清水、宮園の三人の血にまみれた体が順に一人ずつ廊下を運ばれていき、廊下の端にいる兵隊のそばを通って階下に消えていった。

 敗者復活戦で三人が死んだ。どういうルールでやっているのかは知らないが、残りの三人の内誰かが殺人をした、ということだろうか。佐々木は想像してみるが、森口も水谷も人を殺せるとは思えなかった。小林だけは勢いで殺せるかもしれないが、三人も死んだとなれば、おそらく山神が殺したのだろう。

これから残った三人と何をするんだろう、と考えていると、相馬唯斗が佐々木の隣に来て話しかけてきた。

「なあ、佐々木、聞いてもいいか?」

 優しい声音で相馬は言った。佐々木はうんと頷き、続きを聞いた。

「佐々木はさ、なんで中村を殺したんだ? ……いや、別に責めてるわけじゃないんだ、ただ理由が知りたくてな」

 やはりそのことか。佐々木は逡巡した。他人に話すことでもないと突っぱねることもできたのだが、相馬には三上と安藤を戸田から守ってくれた恩もある。ここは話しておくことにした。佐々木とは反対側の壁に背を預けている橋本に聞かれてしまうおそれもあったが、気にせず話した。

「ぼくも、最後の最後まで自分が中村君を殺すとは思ってなかったんだ。でも、このままぼくが死んだら、家族を殺した河崎に仇が取れなくなるって気づいたんだ。それが嫌だった、だから中村君を殺したんだ。……ぼくって自分勝手だよね」

 言いながら佐々木は、まだ本心では家族の仇をとるために殺そうとしているのだ、と気づく。不要な人間だから排除するという殺しの理由を、頭では理解していても、心はまだついてきていないのだ。河崎だけはどうしても復讐心で殺してやりたくなる。

「そんなことないよ、全然自分勝手じゃない。……でもそっか、そうだよな」

相馬は首を伸ばしトイレのほうを見て、河崎が聞いていないか確認したようだった。

「仇を討ちたいって気持ちは俺もよくわかる。河崎は絶対許しちゃいけない。……うん、それに、いずれにせよこの教室から出られるのは一人だけなんだ、こんなこと言うのはあれだけどさ、きっと中村は最後の一人にはなれなかったと俺は思うし」

 その発言に驚いた佐々木が隣の相馬のほうを向くと、相馬は力なく口角を上げて佐々木の目を見た。

「俺の見立てでは、最後に残るのは河崎か橋本、それか佐々木だと思ってる」

「どうしてそう思うの?」

「まあ、明確な根拠なんてないけど……なんとなくだよ、なんとなく!」

余計に白く見える歯を見せて笑った相馬は、佐々木の肩を叩いた。 

なんとなくだよ、とごまかした相馬の言いたいことはおおよそ想像がついた。佐々木と河崎と橋本が生き残る確率が高いのは、たとえ復讐のためだとしても、他人を躊躇なく殺せる才能があるからだ。

「おおお——!」

 突然、雄叫びが廊下に響き渡った。教室の中にいる、おそらく森口の声だろうか、閉まっているドア越しにこれだけ聞こえてくるとは、物凄い声量だ。殺し合いが佳境を迎えたのかもしれない。

佐々木は相馬と顔を見合わせ、お互いの友人である森口の心配をした。その後しばらくの間は叫び声や悲鳴が聞こえた。水谷と小林の声も聞こえた。覗き見したかったが、もしその行為でペナルティを食らったら、と考えると迂闊なことはできなかった。

教室の中から聞こえてくる声は徐々に小さくなっていった。数分後、ついに音がしなくなった。

「何があったんだろう」

 息をひそめて音を聞いていた相馬が、静まり返った教室を壁越しに見つめ、呟いた。すると突然ガラガラと勢いよくドアが開き、白衣を血で汚した山神が出てきた。

「お前ら——ん? 少ないな、トイレか?」

廊下にいる人数が少ないと思ったのだろう、山神は佐々木たちを一瞬見てから続きを口にした。

「まあいい、いないものにはお前らから伝えておけ。中にいる奴らは虫の息だが、『苦しんでいるから殺してやる』なんて真似はするなよ、あれは次の授業で使うからな。特に佐々木、わかったな」

「……はい」

 虫の息、次の授業で使う、というフレーズを訝しく感じながらも、佐々木は返事をした。

山神は廊下をすたすたと歩いていき、兵士と何事か話をしてから階下に消えていった。同時に五時間目の授業が終わるチャイムが鳴った。

 チャイムを聞き、トイレから出てきた河崎と太田、安藤に、相馬が山神からの話を伝えた。佐々木は安藤のほうをじっと見ていたが、やはり目は合わせてくれなかった。

 急いで三人に話を伝えた相馬が、早く中の状況を知りたいとばかりに力強く教室後方のドアを開けた。相馬は何を見たのか、口と目を大きく開いて固まってしまった。

 佐々木も中の様子が気になったので、相馬の隣に行き教室内に目を向けた。

床に飛び散った血液の量が尋常ではなかったことにまず驚愕し、それから仰向けに倒れている森口や小林の顔面がボコボコに腫れて紫色になっていることにも気がついた。

かろうじて、本当にかろうじて薄い息をしている森口は、山神の言っていたとおり虫の息だった。水谷はうつ伏せに倒れており、生きているかも怪しかった。

心配した相馬はいち早く森口のもとへ駆け寄っていき、ズタズタに切り裂かれた肌を近くで見ながら、唇を噛みしめて言った。

「翔太! 大丈夫か!」

 佐々木も続いて森口のもとへ向かった。口をパクパクと開け、ほとんど開いていない目を頑張ってこちらへ向け、森口は言った。

「……へ、……ぃき」

 かすれた息に薄い声が乗った。平気、と言ったのだろうが、とてもそうは思えない。まるで今にも消えてしまいそうな一本のろうそくみたいに思えた。それほど森口の状態は悪かった。

 水谷には安藤が、小林には橋本が寄り添って、佐々木たちと同じように重症の友達を心配していた。だが誰の目にも明らかに、『心配』などしてももうどうにもならない状態だということが理解できた。

 消えそうな命を目の前にしながら、佐々木は考えていた。

 ——いったいこれをどう使うんだろう?


〇六時間目


 1


 佐々木は観察していた。

橋本が、唯一残った友人である傷だらけの小林に対して涙を流しているところを。安藤が、うつぶせの水谷をなんとか横向きにし、息をしていることを確認して泣き出したところを。隣にいる相馬が、親友の森口の手を握って嗚咽しているところを。そして、友人が死にそうになっている状況で周りを観察している自分自身を。

 観察して気づいたことがある。自分は、中村を殺したせいなのかわからないが、もはや前までの佐々木高志ではなくなっているということだ。佐々木のヒーローであり友人でもある森口が目の前で息も絶え絶えの状態なのに、微塵も心が動かない。

それどころか、山神の言っていた、次の授業で使うという言葉の意味を考え始める始末だ。本当に、自分はどうかしてしまったようだ。

 後ろの二人は、と気になった佐々木は、振り返ってみた。河崎の隣には太田がいた。

太田は河崎のゲーム友達だった。河崎と放課後いっしょに帰るところや、ゲームの話を楽しそうにしているところを見たことがある。いじめに加担することはなかったため不良とまではいかないが、河崎の友人だ。それなりに河崎の色に染まっていると思っていたが、全然違ったらしい。太田はクラスメイトが残酷な姿で横たわっているこの光景を見て、腰を抜かしていた。

その隣の河崎はというと、この状況を前に、どうでもよさそうな、自分には関係がない、といった顔をして壁掛け時計をじっと見ていた。さっきトイレに行っていたとき、もしかしたら太田に一方的にゲームの話でもしていたのかもしれない。

時計の針が進み、二時四十分になった。六時間目の始まりを告げるチャイムが鳴ると、血のついていない新しい白衣を着た山神がすぐに入ってきた。

 虫の息である三人の生徒や寄り添う生徒たちを見ても、それについては何も言わずに山神は黒板を消し始めた。

最初に書かれた五つのルールだけを残した山神は、次の『ルール』を書き始めた。

 いったいこの死にかけの三人を、どうやって殺し合いに利用するのだろうか。佐々木は気になって黒板に書かれる一字一字を目で追った。好きな漫画の次のページを繰るような気分になっていた。

「さあ、六時間目の授業を始めよう」

 やがて几帳面に書かれた字の羅列は意味を成し、佐々木の頭に吸い込まれていった。


 ルール一 選択者一人が、重傷の一人か無傷の一人の内、どちらかを選んで殺す

 ルール二 選択者以外の人間は縛られ、全く抵抗できない状態になる

 ルール三 選択者が誰も殺せなかった場合、選択者を山神が殺す


「選択者に指名されたものが、目の前にいる二人の人間の内、どちらかを選んで殺すだけの簡単な殺しだ」

 山神は教壇から降り、黒板消しクリーナーをかけ始めた。

このルールを見る限り、『選択者』が誰になるのかが非常に重要なことがわかる。佐々木は教室内の生徒を見渡した。

今生き残っているのは、佐々木、河崎、橋本、安藤、相馬、太田、森口、水谷、小林の九人だった。森口と水谷と小林は生き残っていると言えるか怪しいところだが。

重傷の三人は最初から殺される側に指定されているので、選択者に指名される可能性はない。よって、残りの六人の内から三名が選択者として指名される。三人が選択者、三人が縛られる側になる、ということだ。

どうやって選択者を指名するかは不明だが、どんなことをしてでも選ばれなければならない。縛られて殺されるのを待つ側になった場合、選択者側に河崎が回ってしまうとどうにもできないからだ。ただ殺されて終わる。仇も討てずに終わってしまう。それだけは避けないと、と考え、佐々木は全神経を集中させ、山神が話しだすのを待った。

「——佐々木、そんなに心配しなくても大丈夫だ、選択者はこちらですでに決めている」

 佐々木の前のめりになった姿勢と表情を見て山神がニヤッと笑った。

「選択者は『河崎、佐々木、橋本』の三名だ。これは俺が独断で決めたことだ。何か意見があれば言ってくれても構わないが、変更する気はない。……質問を受けつけようか」

 選択者、つまり殺す側に指名されたことに安心した佐々木だったが、河崎も選択者になってしまったのは残念だった。どうせなら縛られる側にいってほしかった。そうなれば迷わず河崎を殺せたのに。

「神セン~、どっちか一人だけなの~? どっちも殺したら反則になる~?」

 河崎の思考は、完全に異常者のそれとなっていた。もはや河崎は殺すことに愉悦さえ感じているのだ。

山神は不機嫌そうに眉根を寄せて言った。

「どちらか一人を選んで殺してもらう。ルール違反をした場合、俺が即座に殺す」

「は~い」

 ニヤニヤと笑って頭の後ろに手を組む河崎は、試しに言ってみただけ、という雰囲気を出して沈黙した。山神は少し河崎の表情を見てから、再び口を開いた。

「河崎、お前のように殺すことを好む輩は星守教徒の中にも大勢いる。だが俺はそういう狂いすぎた人間のことは信用しないようにしている。なぜなら、狂いすぎた人間は仲間の命まで無差別に殺すからだ。別に仲間の命が大事だと言っているわけではない。星守教徒は地球を救うために、迅速に人を殺していくのが使命だ。その邪魔になる狂人は、この先もし生き残ってもすぐに本質を見抜かれ、早いうちに殺されるだろう。……まあ、それだけ忠告しておく」

 山神は河崎から視線を切り、「ほかに質問はないか」とあらためて生徒たちに聞いた。

佐々木が思うに、ルールに関してはこれまたシンプルで、あまり疑問を投げかけるところがない。選択者が無傷の一人か重傷者のどちらかを選んで殺すというもので、いわゆる命の価値を天秤にかける殺し合いだ。質問があるとすれば、殺す対象を誰が選べるのか、ということくらいだろう。

 顔面を蒼白にさせた相馬が、震えた手を挙げた。山神が顔を向けて当て、喋らせた。

「先生……、この殺し合いは、いったいどんな意味があるっていうんですか? 選択者じゃない俺と安藤と太田は何も行動できないんですよ?」

「いい質問だ。そう、この殺し合いはもはや殺し『合い』ではない。選択者が誰を殺し、誰を生かすかを決めるだけのシンプルなゲームだ。お前ら無傷の一般市民には悪いが、ルールの生贄になってもらう。そういう意味では相馬、安藤、太田の三人には意味がない殺し合いということになるな。……ああ、喋ることは許すつもりだから、せいぜい命乞いをするくらいはできるな」

 嘲笑するように話す山神の声を聞き、相馬は落胆した様子だった。

確かにそちら側に選ばれた人間は今回何もできない。唯一救いがあるとすれば、天秤にかけられる相手が虫の息の重傷者であることくらいだろう。健常者か重傷者、そのどちらを生かすかを考えれば、普通は誰でも健常者を生かすことを選ぶはずだからだ。

 橋本が、「誰も聞かないみたいだから」と言って手を挙げた。

「多分あんたが勝手に決めてるんだろうけど、殺す対象ももしかしてあたしら選択者が決められるの?」

「ああ、言い忘れていた、実にいい質問だ橋本。それは公平を期して、俺が決めさせてもらった。今から発表しよう」

 黒板の空いているスペースに、河崎、佐々木、橋本と書かれ、その上のほうに天秤の図が描かれた。佐々木の上の天秤の左側には、相馬、右側には森口の字が置かれた。


『選択者——河崎拓也、健常者——太田正人、重傷者——小林継美』

『選択者——佐々木高志、健常者——相馬唯斗、重傷者——森口翔太』

『選択者——橋本杏奈、健常者——安藤咲花、重傷者——水谷夏実』


「我ながらいい塩梅だと思っているが、何か言いたいことはあるか?」

 いい塩梅なのかどうかはわからないが、少なくとも選びにくそうな配置だということは感じ取れた。

佐々木は相馬と森口のどちらにも恩があるし、河崎は太田と友達で小林とも不良同士接点があったはず。橋本は水谷と対立していたし、安藤をいじめることもあった。それぞれになんらかの接点があるので、どちらを殺し、生かすのか、迷ってしまうかもしれない。

「ほかに質問がないのなら始めるぞ」

 そう言って質問時間を終わらせた山神は、懐からビニール袋を取り出した。細い黒いものが入っているのが見えた。中身を取り出して山神は言った。

「この結束バンドで手と足を縛る。重傷者は縛る必要はないだろう。……相馬、安藤、太田、こっちへ来い」

 三人は重い足取りで山神の前に行き、後ろ手に縛られた後床に座らされ、両足もしっかりと結束バンドで固定された。立つことはかろうじてできるかもしれないが、せいぜい跳ねて移動することしかできない状態だ。殺すときに抵抗されることはないだろう。

「河崎、佐々木、橋本は重傷者を配置のとおりに並べろ」

 黒板に書かれた天秤の配置に従い、佐々木たちは重傷者を引きずって自分たちの前に用意した。佐々木の前には死にかけの森口と身動きの取れない相馬がいる。

「時間制限はないが、まあ、お前ら三人ならすぐに殺せるだろう。……はい始め」

 教壇の上から山神が殺し合いの開始を宣言した。佐々木は懐からナイフを取り出し、どちらを殺そうか考え始めた——

 ——というのはふりで、実際はもう殺すほうを決めていた。だがほかの二人の選択者の動向を見ておくのも参考になるかもしれない。佐々木は横に目をやった。

 隣には冷淡な目をして、ナイフを持って二人の人間を見下ろす橋本がいた。見下ろした先には水谷が今にも死にそうな虫のように転がっており、その横にはガチガチと歯を鳴らして床の一点を見つめている安藤の姿があった。

橋本は無言のまま立ち尽くしていた。だがやがて殺すほうを決めたのか、一歩前に踏み出してしゃがみ込んだ。水谷のほうだった。

「まあ、冷静に考えてこっちを殺すでしょ、普通は。それにあたし、こいつ嫌いだったし」

 水谷の髪を片手で持ち上げながら一人呟いた橋本は、凶器を首に当て、ゆっくりと腕を引いた。

息を喘がせることしかできない水谷は何も発することなく静かに命の灯を消した。ゆっくりと静かにナイフを滑らせたことと、すでに大量に出血していたことが原因で、ほとんど血は出なかった。

 隣に正座する安藤は一瞬だけ死に至る水谷のことを見たが、すぐに俯き、目をがっちりとつぶって深く息を吸った。クラスメイトの死に対する恐ろしさと、自分が殺されなくてよかったという安堵の気持ちが、おそらく今安藤の中に生まれたのだろう。

 佐々木は、髪をかき上げ立ち上がった橋本が見つめる先、河崎のほうも観察し始めた。

一番早く殺しにかかると予想していたのだが、意外にもまだどちらの首も刎ねていなかった。河崎はしゃがみ、ズタボロになって動かない小林と、脇に正座させられている太田の正面で、何やら喋っている様子だった。

「だからさ~、どっちを殺せばいいと思うって聞いてんじゃ~ん、太田っち~」

「そ、それは……やっぱり小林、かな……?」

「え~? 友達を売るんだ~。太田っちってそういう奴だったんだね~」

「いや、違う違う。ご、合理的に考えてだよ、拓也」

 笑顔の河崎はしゃがみ込んで目線を合わせ、首の前にナイフをちらつかせて、太田の反応を楽しんでいるようだった。

「合理的? じゃあ、太田っちを殺したほうがいいってなっちゃうけど~、いいの?」

「いや、な、なんで? 俺より小林のほうが、どう見ても傷だらけで、生き延びる確率が低いじゃん。だから小林を殺したほうがいいって、ね?」

 そう、それが普通の人の考え方だ。死にそうなほうを殺し、元気なほうを助ける。人の命を助けるのが善とされる今までの世界だったのなら、正しいのは太田のほうだ。だが、星守教が支配するようになるこの世界では、いかに効率よく人間を排除していくかが重要になってくる。そうなればより合理的なのは、健常者を先に殺すことなのだ。

 河崎は興味を失ったように太田に向けていた笑顔を消し、一応友人の括りに入っているはずの小林の、床についていた頬を乱暴につまんで持ち上げた。そのまま小林の顔面を眺め続ける河崎。

「河崎! やるなら苦しめないで早くして!」

 友人のボロボロの体にさらに追い打ちをかけるような行動をとった河崎に、橋本が怒声をあげた。

「ん~? 今小林と話すとこなんだからさ~、邪魔しないでよ橋本ぉ」

 舌打ちをした橋本は、教卓に手をついてただ眺めているだけの山神を睨みつけた。山神は口を開いた。

「そんな目で見ても、河崎を止めたり、小林にとどめを刺したりするのはダメだぞ橋本。河崎は別にルール違反しているわけではない、ただどちらを殺すか考えているだけだ」

 あくまでほかには手出しできないと忠告され、橋本は靴の裏を床に叩きつけて憤怒した。まだ友人を思いやる心が残っているようだ。

 河崎に頬を挟まれて無理やり持ち上げられた小林の口から、「ころ……せ」というかすれた小声が聞こえた。河崎はそれを聞いて楽しそうに頷き、小林の顔から手を離した。力の入らない小林は頬から床に落ちた。

「うん、決めたよ。俺はやっぱ、こっちをコ・ロ・ス!」

『コ』で凶器を振りかぶった河崎が、『ス』と同時に無抵抗の太田の首を荒々しく切り裂いた。

白目が広がって横に倒れていく太田の首から、公園の蛇口を指で押さえたときのような勢いで血が噴き出し、河崎もろとも教室を汚した。

「あんた……!」

 早く友人を楽にしてあげたいと願っていた橋本が、肩と拳を震わせていた。

 河崎はそんな橋本のほうを返り血まみれの顔で振り向き、嗜虐的な笑みをわざと見せた。その表情にどんな感情が隠されているかはわからないが、橋本から見たら、『虫の息の友人をわざと生かしてやったぜ。どうだ面白いだろ? なあ橋本ぉ』と挑発されているふうに見えたであろう。河崎に腹が立つのは必至である。

「——っ! 許さない!」

キレた橋本が河崎のほうにナイフを構えて向かっていった。だが河崎は瞬きもせずにその場に留まっていた。山神が止めに入ることを予想していたからだ。

「橋本、落ち着け。さもないとお前を殺すぞ」

 いつの間にか教壇から降りて移動した山神が橋本の肩を掴み、首に刃物を当てていた。

そのまま橋本が河崎を殺していたらルール違反となり、山神に殺されていた。だが山神はルールを破る前に止めに入った。

それは、橋本も河崎も有望株で、今日卒業する一人になるかもしれない人材だからだろう。やりたいなら勝手にやらせておけばいいのに。山神が言う。

「お前は俺を殺したいんだろ? なら、今はルールに従うことをすすめる」

橋本は頭一つ高い位置にある山神の顔を睨みつけ、歯をすり潰すように顎を動かした。

「——ちっ」

 至近距離、今にも橋本が殴りかかろうかという空気になるが、今の力じゃ山神を殺せないとわかっているからか、橋本はもとの位置に戻った。

「くそっ!」

 地団太を踏み、虫の息の親友をわざと生かした河崎と、家族を理不尽に殺した山神の双方を橋本は睨みつけた。

 橋本、河崎の順に殺しが行われ、残すは佐々木だけになった。二人が選び、殺したのを観察していた佐々木の結論、つまり森口と相馬のどちらかを殺すのかが、今はっきりと決まった。

——やはり無傷の相馬を殺すべきだな。


 2


 佐々木の足もとに横たわる森口と、その隣で正座している相馬に視線を向ける。森口の出血はひどく、本当に死に近い状態だ。一方の相馬は傷一つついていない健康体。その相馬の首に刃物を当てるのが正しいのか間違っているのか、佐々木はふいに相馬に聞いてみたくなった。

「相馬君、この状況で、ぼくはどっちを殺すのが正解かな」

「……は?」

 両手両足を結束バンドで縛られた状態で正座する相馬が、上目遣いで佐々木を見た。

「そんなの、森口に決まってるだろ!」

「理由は?」

 冷たくなった瞳で即座に返すと、相馬は少し口もとを震わせた。一度横に転がっている森口を見た後、弱々しく声を出した。

「苦しそうだろ……翔太は。……もう楽にしてやってほしい。佐々木、頼むよ、森口を早く楽にさせてやってくれ」

「ごめん、それはできないよ」

「えっ?」

「でもそっか、相馬君は親友の苦しむ姿がかわいそうだから、森口君を殺してほしいんだね」

 そう言いながら佐々木はしゃがみ込み、床の上にある森口の顔を覗き込んだ。

「森口君、大丈夫?」

「……あ……」

 森口は微かに開けた口から懸命に言葉を発しようとした。

「喋らなくていいよ。森口君、森口君は殺されたい?」

 ゆっくりと首を縦に動かし、森口は殺しやすいように顎を上げた。どこから出た血かわからないが、赤く濡れた首が佐々木の前に露わになった。

「わかったよ。じゃあ、あとで殺してあげるから」

 残酷な一言を森口に残し、佐々木は隣に座る相馬のほうに向き直った。ナイフを胸もとに平行に構え、口を開きかけた相馬のもとににじり寄る。

「お、おい、やめろ、やめろって佐々木、意味わかんねえって!」

「うん、そうだよね、ぼく、もう狂っちゃってるんだよきっと」

 言いながら抵抗できない相馬の前髪を鷲摑みにして、首がちゃんと見えるようにした。そのままナイフを首に当て、

「ごめんね、相馬君」

「あ——」

 一瞬であの世に行けるよう、力強く腕を引いた。飛び散った血が佐々木の顔にかかり、もう何度目かも忘れた嫌な臭いが佐々木の鼻を襲った。

 ——あ、ちょっと気持ちいいかも。

 ナイフで生身の人間の首を切る感触に、佐々木は快感を覚えた。命を奪うことに対する心の動揺は、すでになくなっていた。

相馬は床に倒れ伏せ、驚愕した表情のまま痙攣し、それから動かなくなった。

「はい、終了」一度手を叩いた山神が言った。「非常にいい結果となったな、橋本以外は」

 場違いの笑みを浮かべながら、パチパチと拍手をしだした。佐々木と河崎に目線を向け、褒めてくれているようだった。

 佐々木は別に嬉しくはなかったが、『橋本以外』というセリフの意味は理解していた。だが橋本は理解できなかったようで、不満げに声を出した。

「は? どういうこと⁉ あたし以外はいい結果って、あたしは悪かったってこと?」

「なんだ、わからないのか? ……じゃあ教えてやる」

 山神は教卓についていた手のひらを持ち上げ、白いチョークを懐の容器から取り出した。教壇を鳴らし、天秤の図が描かれた黒板の前に立った。

「この殺し合いで俺が求めていたのは何だと思う?」

「求めてたもの~? ん~っと、普通かどうかってことかなあ」

 河崎が能天気に答えた。少し曖昧だが、佐々木も同意見だった。つまり、普通の考えを捨てられているかどうか、ということだ。

「そう、お前らがまだ普通なのか、それとも狂っているのかを見せてほしかったんだ」

「は? どういうこと?」

「これまでの平和な世の中、つまり普通の状態なら、橋本、お前の選択したとおり、重傷者の水谷を殺すのが正解だった」

 山神は天秤に書かれた水谷という文字を上から罰印でかき消した。

「だが人間不要論を掲げた星守教が支配するようになるこの世界では、その普通は通用しない。生きる確率の高いほうを殺し、死にそうなほうを生かす、そんないかれた考えがこれからは必要なんだよ」

 健常者は後で殺すときに抵抗される可能性があるが、重傷者は抵抗できないからいつでも簡単に殺せる。だから佐々木は森口ではなく相馬を殺した。

 橋本は理解したようで、苛立たし気に歯をすり合わせている。

「わかったようだな橋本。お前は俺に復讐するために生き残りたいようだが、そいつらには今のままでは勝てないぞ」

 山神が佐々木と河崎にそれぞれ顎を向け、橋本を焚きつける。

「人間不要論を体に叩き込み、どう行動するのが地球のためになるのか、人間を効率よく消していくにはどうしたらいいのか、それらをしっかり考え、ちゃんと狂え橋本」

「——っ」

「でなければこの教室からは出られない」

 凶暴な目をギラつかせた山神が首に親指を滑らせ、橋本に忠告した。

 それからすぐに死体が教室から持ち出されていき、床に流れた赤い水たまりもきれいに拭き取られた。

ずいぶん広くなったと感じた佐々木は、教室の中にいる残った生徒を数えた。佐々木、河崎、橋本、小林、安藤、森口。二十五人いた生徒が、もう六人になってしまった。小林と森口は瀕死の状態のため、四人といっても過言ではないが。

 山神が白衣の袖をまくり、腕時計を見た。佐々木も壁掛け時計を見ると、三時十分になったところだった。六時間目はまだ二十分ほど残っていた。

「うん、ちょうどいいな」山神が頷きながら言った。「瀕死のやつが死なないうちにこのまま七時間目の授業に入るとするか」

 次はどんなルールで殺し合うんだろう、と佐々木は山神に注目したが、毎度のように黒板にルールを書くわけではないようだった。教卓の上からそのままの姿勢で口を開いた。

「最後の授業はフリーだ。そこにいる六人で好きなように殺し合え。最後にこの教室に立っていた一人だけが勝者で、唯一の卒業生で、新米星守教徒になる。——始め」

 始め、と言い終わるかそこらで、佐々木の横から影が飛んできた。殺人鬼のような狂った目を光らせて迫ってくるのは、もちろん河崎だった。

「佐々木ぃ~!」

 煌めくナイフが一直線に佐々木の脇腹へと突き出される——が、佐々木もそれを予測しており、瞬時に体の前にナイフを出して攻撃をいなした。


〇七時間目


 1


「なんでぼくにそんなに構うんだ」

「あ? そんなの、お前をぶっ殺すのが一番楽しいからに決まってるだろ」

 攻撃をいなした佐々木は、河崎に質問してみる。突っ込んできた河崎は今、教室後方にいる。

相手は、家族の仇で、いつもいじめてきた自分の仇でもある。

——憎い、殺したい。

 だが憎しみで殺してしまえば、心までただの殺人者になってしまう。あくまで人間不要論に則り殺さなければならない。だから佐々木は質問をして自分を落ち着かせるための時間を稼ごうとした。

「ぼくを殺すのが楽しいって、どういうこと?」

「いつもいじめてる奴をついに殺せるんだぜ? しかもこの世界ではそれが許されるんだ、そんなのやるしかないだろ~?」

 河崎は舌を出しながら卑しく嗤い、ナイフの先端を佐々木に向ける。

 狂人の言っていることは理解できないが、彼の中では殺すことが楽しいと感じるようになっているらしい。

——ああ、こいつは危険だ、生きていてはいけない人間だ。殺そう、いや、排除しよう。ほかの人間のためにも、地球のためにも。

「俺はこの教室を出て、人間をぶっ殺しまくるんだよ。ああ、楽しみでしょうがない——ハァッ!」

 再び河崎が襲いかかってきた。時間稼ぎにはならなかったが、狂った心情を聞いたおかげでなんとか頭をシフトできた。

河崎はこの教室において、この世界にとって不要な人間だ。狂いすぎているから、山神の言ったとおり、もし星守教に河崎が入信したとしても、仲間まで殺してしまうだろう。

 佐々木はナイフを胸の前に構え、迫りくる狂人と凶刃を迎え撃つ準備をする。河崎は、今度は肩口から斜めに切り下ろしてきた。刃が煌めき、佐々木の腹のすぐ手前を通り過ぎる。

ひょろガリとはいえ、河崎は佐々木よりも体格が上だ。真正面から受け止めようとすると力負けし、やられてしまうかナイフを手放してしまうことになる。

振り下ろされた凶器が裏拳の要領で横薙ぎに返ってくる。水平に流れてくる軌道に縦にナイフを構えて弾き、後退しながらもなんとか攻撃を防いでいく。窓際にだんだん追い詰められていく。

「なかなかやるじゃねえか~、さすが魚屋の息子ってか? 毎日包丁握ってるだけはあるなあ!」

 ニタっと笑みを深めながら猛進してくる河崎には、無駄な動きが多い。佐々木よりリーチの長い腕をビュンビュンと振り回しているから、殺せる隙がたくさんある。おそらく佐々木相手に油断しているのと、殺しを楽しみたいという狂人の思考から来ているのだろう。

河崎が次にナイフを振り下ろし、返す刃が放たれるまでの間に首を刎ねようと佐々木は決心した。

 河崎の強烈な突きを寸前でかわすと同時に、教室窓際の壁に背中がぶつかる。追い詰めた、といわんばかりの獰猛さを浮かべた河崎の瞳孔が大きく開き、ナイフを思いっきり振りかぶった。

——ここだ、これをかわして首もとにナイフを滑り込ませる!

 そう思い、河崎の力の込められた腕とナイフに集中していたのだが、それは振り下ろされるどころか、一瞬止まり、脱力したように手のひらから落下していった。

「え?」

 視線を河崎の右腕だけに集中させていたことで遅れて気づいたのだが、よく見ると腹の中心から何か尖ったものが突き出ているのが目に入った。——ナイフの先端だった。

苦悶の表情を浮かべ後ろを振り返ろうとする河崎は、何か言葉を発しようとしながら、されど「あ……あ……」としか言えずに横向きに倒れていった。

佐々木は倒れた河崎の体の後ろに立っていた生徒を見て、驚いた。ナイフを背後から突き刺したのは、安藤だったのだ。さっきまで避けられていたはずなのに、助けてくれた。なぜだろうか。

「あ、安藤さん……」

 安藤が距離を詰めてきた。

「佐々木君、大丈夫?」

「あ、うん、大丈夫だよ……。ありがとう。おかげで助かったよ」

 どういう心境の変化なのかと困惑するなか、安藤が手を差し伸べてきたので、佐々木も手を伸ばし、掴んだ。両手とも濡れていた。べとっとした嫌な感触が佐々木の手のひらについた。

 安藤は残った唯一の友人である佐々木が殺されるのが嫌で、河崎を刺した。理屈はわかるのだが、あのか弱い女子の安藤が、という衝撃が佐々木の頭から離れなかった。

串刺しにされて身動きのとれない河崎を跨いだ佐々木は、安藤に近づき、表情を間近で見てみた。安藤は、眉間にしわを寄せ、歯を噛みしめるような口をして憎々し気に河崎を睨みつけていた。

「佐々木君を殺そうとしたクズだ。死んで当然だ」

 大人しい安藤から出た言葉に、佐々木の脳は一瞬混乱した。今目の前にいる少女から発された言葉とは思えなかったからだ。

河崎を見ると、まだうめいており、完全に息の根は止まっていないようだった。

「ありがとう安藤さん。正直びっくりしたけど、ぼくのためにやってくれたんだね」

「う、うん……」

佐々木と目を合わせた安藤は恥ずかしそうに俯いた。

「とどめはぼくが刺すよ」

 そう言って安藤から離れ、河崎のもとへしゃがみこんだ。河崎はうめき声をあげて背中を丸めている。

河崎の背中に刺さったナイフを強引に引っ張り抜き、それを傷口のすぐ横に深々と刺し、貫通させた。河崎の苦しげな声が鳴る。お構いなしに佐々木はもう一度引き抜き、今度はざくざくと、二連続で新しい穴を作る。

最初に戸田を殺したときに感じた罪悪感などは微塵もなく、むしろ悪人を成敗する一種の喜びが佐々木の中に芽生えていた。

「あは、あはは」

 佐々木は無我夢中になって河崎の腹に穴をあけ続けた。ざくざく、ざくざく。感触は違うが、その楽しさはまるで梱包のプチプチを一つずつ潰していくような感じだった。

 ——河崎、死ね、河崎、殺す、死ね、ゴミ、死ね、カス、死ね死ね死ね死ね——

「佐々木君、もう……」

 後ろから聞こえてきた安藤の声で我に返った佐々木は、凶器を持った腕の動きを止めた。河崎がもう息をしていないことに、今やっと気が付いた。

回り込んで河崎の顔を観察すると、一瞬、家族の顔や豆太の姿が脳裏に浮かんだ。もしかしたら自分は今、憎しみで人を殺してしまったのかも、と少し後悔が過った。

——でも、もう死んじゃってるし。なら、どうでもいいや。

佐々木は最後に首を思いっきり傷つけた。汚い血が顔に跳ねた。

「仇はとったよ、父さん、母さん、ばあちゃん、悟志、豆太……」

 立ち上がり安藤の顔を見ると、少し怯えている様子だった。

「どうしたの?」

「……ううん、なんでもないよ」

 佐々木は血にまみれたナイフを安藤に返し、教室の残りを見渡した。山神は教壇からこちらを見て口もとを綻ばせていた。橋本は立ったまま佐々木のほうを見ており、その目からは若干の恐怖が感じられた。死体寸前の森口と小林は、もうピクリとも動いていなかった。自然に死んだか、それとも橋本がとどめを刺したのか。

「橋本さん、二人を殺したの?」

 佐々木は床に転がっている森口のもとに近づきながら言った。

「ああ、殺したよ。こいつらもそれを望んでいたからな」

「そっか」

 佐々木は死亡を確認しようと、うつぶせになっていた森口の髪を無造作に持ち上げ鼻の下に指を置いた。呼吸は間違いなくしていなかった。小林のほうにも目線を向けたが、橋本が前に立ちふさがったので、確認するのはやめておいた。親友だからこそ、確実に殺したことだろう。

「これで残るは三人だね」

 佐々木、橋本、安藤の三人が残った。

「いいものを見せてもらったよ、佐々木、安藤」

 唐突に山神が言った。相変わらずニヤついていて、殺し合いを見るのが楽しいようだ。

「まさか河崎が殺されるとは思ってなかったからなあ。しかも安藤に後ろから刺されるなんて」

「後ろからなんて卑怯とでもいうつもりですか」

 なんだか安藤のことを揶揄されたような気がして、少し苛立って言った。

「いいや? この殺し合いはフリーだからな、何でもありだ。むしろよくやったと思っている」

 本当にそう思っているのかはさておき、安藤には感謝しなくてはならない。

逆の立場であれば、友達を守るために佐々木も同じように後ろから刺していたかもしれない。だが安藤の性格を考えると、とても勇気のいる行動だったことは疑いようがない。

「ありがとね、安藤さん」

 佐々木はもう一度お礼を伝えた。安藤は顔を赤らめながらうなずいた。

「さあ、あとは己以外の二人を殺せばいいだけだ。続きをやってくれ」

 山神はそう言うと、教壇の上で腕組みをして、佐々木たち三人を観察する態勢に入った。三人で最後の殺し合いをしろ、ということだろう。

 佐々木は正直、この三人の中に不要な人間はいないと考えていた。人間不要論によって排除されるのは、悪人に限ると思っていたからだ。悪い人間は地球を汚し、再生しようとは思わない。地球を大事にするいい人間だけが生き残れば、次第にいい社会になっていくだろうという結論にいたっていたからだ。

安藤は言うまでもなく、橋本だって、家族を殺されて復讐のために勝ち残ろうとしているだけだから、佐々木が殺せる人間はこの中にはいない。

「橋本さん、ぼくはこの中の誰も殺せないよ。ぼくは、悪人ならいらないと思うけど、そうじゃない人間はこの世界に必要だと思ってるんだ」

「いきなり何? あいつのいう意味のわからない思想のこと?」

 橋本は佐々木に訝しげな目を向けた。

「そんなこと、どうでもいいんだよ。人間不要論とか星守教とか、そんなことはどうでもいいんだ。あたしはただ、こんな状況を作り出して、理不尽にあたしの家族を殺したあいつを殺したいだけ。だから悪いけど、あたしは容赦なく殺す」

 ナイフを手に構えた橋本が殺気を放つ。だが佐々木は構えない。ナイフをポケットに入れ、腕をだらんと腰の横に下げた状態で待つ。

「あんた、どういうつもり?」

「ぼくは、もう死んでもいいんだ。河崎っていう家族の仇は殺せたからね。それに帰る場所だってないし。橋本さん、好きにしていいよ」

 不要な人間がいないのなら、佐々木は人を殺したくない。仇を討たなければならない悪人がいなくなったのなら、殺す必要はない。それに、佐々木は罪のない中村を殺してしまった。だから、この中で一番悪い人間は佐々木だということになる。死んで当然だ。

 佐々木は橋本の前に一歩進み、顎を上に向かせて首を切りやすいように差し出した。だが、

「——だめぇっ!」

 安藤が横から滑り込んできた。

佐々木の前に立ち、橋本から守ってくれるように手を広げている。佐々木は安藤の小さな背中で後ろに押された。

「安藤さん……どうして?」

「私は、もう友達を失いたくない。恵美ちゃんもいなくなって、あとはもう佐々木君しかいないの! 絶対に死なせない!」

 やはり安藤は友達を失いたくない、という一心で行動しているのだろう。絶対に死なせない、と言われて、佐々木は少し嬉しくなった。

 しかしその隙を突かれ、橋本に安藤を奪われてしまう。

「じゃあ、あんたから殺すわ」

 橋本が安藤の手を掴み、引き寄せた。抵抗するも、安藤の小柄な体格では橋本には敵わない。安藤は羽交い絞めにされ、後ろから手を回され首もとにナイフを置かれた。下げられないように顎を左手で持ち上げられ、もうあとは腕を引くだけで絶命させられる。

「佐々木、殺すけどいいよね?」

 橋本が無表情のまま佐々木に言った。

 安藤は友達だ。それに、助けてくれた。今だって、庇ってくれた。だから安藤は、いい人間だ。

だが、橋本だって同じだ。一人しか生き残れないルールだから殺すだけで、河崎のように楽しいから殺しているわけではない。これは、仕方のないことなのだ。どうせ遅かれ早かれ一人を除いて死ぬ運命なのだから。この教室からは橋本が卒業し、佐々木と安藤は殺される。佐々木が先か安藤が先かだけの、考えるだけ無意味なことなのだ。だから、

「うん、いいよ」

 佐々木は、受け入れた。友達の死を、そして自分の死を。

——と、そう思っていたのだが、

「佐々木君、好きだよ」

 突然、死を覚悟した安藤が、可愛らしい表情を浮かべて言ってきた。

「え……?」

 好き、という言葉に佐々木はまだ頭が追いついていなかった。

 ——すき、スキ、隙、……好き? 好きって、え? どういうことだ?

「マジかこいつ……。てか、死ぬ間際になって告白とか、ウケるんですけど。でもまあ——」

『告白』という言葉を聞いた佐々木は、まだ信じられないながらも、意味は理解した。

 橋本が水平に構えたナイフを、安藤の首に当てようと腕を動かした。その刹那、佐々木の足が勝手に動き出した。自分でもなぜだかわからないが、安藤を守らなければ、という強い衝動に駆られた。

 腕を動かす橋本が佐々木の行動に気づき、ナイフの動きを速くしようとするが、それは間に合わなかった。佐々木の振り下ろしたナイフが、橋本の腕を縦に切り裂いていたからだ。

「——!」

 声にならない声をあげてナイフを落とし、膝をつく橋本。

佐々木は安藤を橋本から引き離し、自分の背後に移動させた。橋本の腕からは血が出ており、佐々木の手には血まみれのナイフが握られていた。そのことに、佐々木は遅れて気づいた。

——あれ、なんで、なんでぼくは安藤さんを助けたんだ?

 自分でもよくわからない行動をした佐々木だったが、後ろから抱きつかれる感触を全身に感じたとき、本能で理解してしまった。子孫を残そうとする本能なのだろうか、今、一瞬の間に『愛』が生まれたのだ。

 後ろから回された安藤の手に自分の手を重ね、人肌の温もりを佐々木は感じた。冷たくなっていた心の中心からじんわりと温かさがにじみ出てきた。

「ありがとね、佐々木君」

「……うん」

 背中から伝わってくる体温がこんなにも良いものだということを、佐々木は初めて知った。

 しかしこの状況では、それをずっと堪能しているわけにはいかなかった。佐々木から三歩程離れたすぐそこに、橋本がいるからだ。橋本は細い腕から流れ出す血を必死に手で圧迫していた。それでも血は止まらないようで、自身のスカートを歯で食いちぎり、患部に巻きつけていた。

「佐々木、絶対許さない……」

 かなり怒らせてしまったようだ。佐々木は危機感を覚えた。

橋本が歯を食いしばりながらゆっくりと立ち上がる。利き手でないほうの手にナイフを握り、鬼の形相で睨みつけてくる。

——避けなければ、ぼくは死ぬだろう。善悪で言うと、橋本さんは善だ。家族の復讐のために生き残ろうとしているだけだ。瀕死の小林さんに対する態度からも、友達想いであることもわかる。周りの人を大切に思う心が人より強いからこそ、敵討ちの途上で人を殺しているだけなんだ。

ぎらりと光る刃の先端が、迫ってきた。凶器が橋本とともに佐々木に向かってくる。

——でも、ぼくの後ろには守るべき人がいる。ぼくがやられたら、安藤さんも殺されてしまう。

 善人を殺したくない心と、大事な人を守りたい心が佐々木の中でせめぎ合い、葛藤する。

だが自分では出せない答えを、代わりに後ろの安藤が出してくれた。ナイフを握った佐々木の手を包み、「私、死にたくない」と呟かれた。その瞬間、佐々木は男としての本能に突き動かされ、眼前に迫る善人を敵とみなし、排除する頭に切り替えた。

橋本のナイフが学ランに触れようとする刹那、佐々木は半身になって避け、同時に刃を相手の首もとに添えた。

「ごめん、橋本さん」

 前進する勢いのまま橋本の首にナイフがめり込み、佐々木の手と頬に返り血が跳ねる。

命を奪った実感が嫌に手に残った。振り返ると橋本はうつ伏せに倒れており、壊れたおもちゃのように転がっていた。床にたまっていく血液だけが、じわじわと動いていた。



橋本を殺してしまった感触が、河崎という悪人を殺したときとは全然違う形で佐々木の内に染みつく。罪悪感がまるで違うのだ。

 佐々木は、後ろにピタッと抱きついたままの安藤に聞いてみた。

「安藤さん、ぼく、いけないことをしちゃったよね……」

「ううん……佐々木君は、私を守ってくれた。いけないことなんて、何もしてないよ」

 背中越しに、安藤が首を横に振っているのが伝わってきた。

「でもぼくは、やっぱり、いけないことをした……。今だけじゃない。罪のない相馬君を殺して瀕死の森口君を生かしたり、河崎を殺すために中村君を殺したりして……。ぼくはなんてことをしてしまったんだろう!」

 橋本を殺したことで突如として湧き出てきた後悔の念が、佐々木を苦しめてきた。声は震え、涙が出てくる。自分はなんて非人道的な行為をして、他人の人生を容易く奪ってきたのだろう。河崎と同じことを佐々木もやっているではないか。そう考えると、胸が苦しくなり、息もしづらくなってきた。

 ——怖い、怖い……。

 自分が、怖い。何かが変わった自分が、怖い。悲しいわけではないのに、頬に伝うものが、顎の先から滴り落ちていくのを止められない。後悔、自責、怒り。そういうものが混ざっているのかもしれない。

「大丈夫だよ佐々木君」

 しかしそんな後悔の涙を、安藤は許してはくれなかった。佐々木の前に回り込むと、彼女は小さな手で肩を掴んできた。顔を近づけ、息のかかるほどの距離で喉を震わせた。

「佐々木君は、たしかに人を殺したよ? ……でもね、それは誰かのためなんだよ。佐々木君は優しい。優しいから、家族の仇をとれたし、私も守ってくれたの。だから後悔なんてする必要ない。しちゃだめなの」

 佐々木は下を向いていた顔を上げ、すぐ近くにある安藤のきれいな目を見た。安藤も佐々木の目を見つめ返す。真剣に言ってくれている、お世辞で慰めの言葉を口にしているわけではない。佐々木はそれを感じ取った。安藤の瞳にも涙が溜まっていた。

「だから、胸を張って、最後まで一緒に生きようよ」

「……うん、うんっ……」

 溢れ出る涙を袖で拭きながら、必死に伝えてくる安藤の顔を見る。

——ありがとう、ありがとう、ぼくに優しい言葉をかけてくれて。

「佐々木、よくやったな。あとは目の前の安藤を殺して終わりだな」

 だが無慈悲にも、慰めの言葉を上書きするかのように、教壇の上から山神の声が聞こえてきた。佐々木は苛立ちを隠すことなく、視線を山神に向けた。鼻をすすりながら言った。

「先生、もうこれ以上ふざけたことを言うのはやめてください。安藤さんは殺しません。ぼくらは、このまま先生に殺されるのを待ちます」

「へえ。ここまで来てそんなつまらない結論を出すのか? お前は今まで何人殺してきたんだ? 一人や二人奪う命が増えたところで何も変わりはしないだろうに」

「——っ、そういうことじゃないんですよ!」佐々木は怒鳴った。「ぼくは友達を殺しません! 殺したくありません!」

「だから、安藤を殺さない。……そういうことか? それが結論か?」

 意味深なセリフを吐く山神。だが、佐々木には言いたいことがわかった。佐々木もここまできたら、山神に自分の意見をぶつけたいと思った。そして山神が間違っているということをわからせたかった。

「……人間不要論について、ぼくなりに出した答えがあります。それを、聞いてください」

 佐々木は呼吸を整えるため、一度大きく息を吸って、ゆっくりと吐いてから話し始めた。 

「人間不要論では、この世の人間すべてを殺そうとしています。でもぼくは、それは間違っていると言いたい。動物を殺し、空気を汚し、地球を破壊する人間は、たしかに悪いです。でも、全員が全員そうじゃないんですよ。なかにはこれから地球をきれいにして、恩を返していく善の心を持つ人間もいるんです。だからぼくは、善人は殺すべきではないと思います。それが、結論です。星守教の考えは、間違っています」

 佐々木の答えは、森口と昼休みに話し合ったときと何ら変わっていなかった。良い人間は、生きるべきだ。それが佐々木の出した結論だった。

「クック……。佐々木、お前は勘違いをしているぞ。まあ、答えはもうすぐ出るさ」

 ——勘違い? どういうことだ?

山神は腕時計をちらと見て薄く嗤った。

「鐘がなるまであと十分弱だ。それまでに一人になっていないと、どちらかを殺すからなあ。せいぜい芽生えた愛を感じ合うんだな」

 そういった山神はくるりと体勢を変え、佐々木たちに背中を向けてしまった。安藤が小声で「がら空きだよ」と囁いてきたが、佐々木は首を横に振った。

後ろを向いていても、山神には隙がない。後ろからでもとても殺せそうには見えなかった。佐々木は鼻をすすり、あらためて安藤に向き直った。

「安藤さん、ぼくはこのまま、どちらかが殺されるのを待とうと思うけど、いいよね」

「うん、私もそれでいいよ」

 あと十分の命かもしれない。そう思うと余計に目の前の安藤のことを意識してしまう。

トレードマークの赤縁眼鏡はどこかへ行ってしまっていて、パッチリと大きな瞳が間近にある。佐々木は吸い込まれるかのように釘づけになった。

死を目前にした生物の本能なのだろうか、今まで好きだったのは三上で、安藤のことはただの友達としか認識していなかったのに、今はすごく魅力的な女性に見える。まじまじと見ていると、だんだん安藤の小さい顔が近づいてきて——

「——あっ、ご、ごめん」

 唇に柔らかい感触が当たったことに気づくと、佐々木は自分の唇に手を当てて驚いた。

——何をやっているんだぼくは!

「ごめん、ほんとにごめんっ! 無意識だったん——あ」

 自分が今してしまったことに恥ずかしさと申し訳なさを感じて顔から火が出そうになった——ところにまたさっきの感触がきて、佐々木は硬直した。

「いいよ。これでおあいこだね」

 顔をほんのり赤らめた安藤が、唇の前に指をあててほほ笑んでいた。

 愛おしさを我慢しきれなくなり、佐々木は安藤を力強く抱きしめた。

「安藤さん、ぼく、安藤さんのこと、好き、になっちゃったみたいだ」

「……いいのそんなこと言って? 恵美ちゃんに怒られるよ?」

 安藤も手を佐々木の背に回してくる。佐々木の胸の前に安藤の頭があり、笑いながら喋られるとくすぐったく感じる。胸の鼓動が、はじけそうなくらいうるさくて、でもそれ以上に安心する感じがして……。

——これが抱擁、愛を感じるってことか。

 佐々木は華奢な安藤の体を抱きしめ、しばらく幸福の味を堪能した。


 命の危機が迫ってきていることを急に思い出した佐々木は、壁掛け時計を見た。それほどまでに甘美な時間だったのだ。残りは……、

「あと、一分」

 佐々木が呟くと、安藤も言った。

「あと一分、か……。ねえ、佐々木君、もし私が生き残ったら、私、たくさん人を殺さなきゃならないのかな?」

「そう、だね……。星守教に入って、地球のために働くことになるんだ、きっと。……でも、嫌だったら逃げちゃえばいいよ。ぼくだったらそうするな」

 胸の前が、安藤の笑った吐息で震えた。

「バカだね佐々木君は、そんなことしたら、私山神に殺されちゃうよ」

「ハハ、そうだね。ごめん、じゃあどうすればいいんだろうね」

 佐々木も笑って答えた。もうどうにもならない状況なのに、冗談を言い合って笑えることがすごく幸せだと感じていた。

 残りはおそらくもう十秒とない——そう思って佐々木が最後に壁掛け時計を見ようと黒板のほうに顔を向けたとき、後ろを向いていた山神が振り返ってこちらを見ていた。鋭く光る目と残虐に開かれた口が佐々木の瞳に写った。

 いったい何を笑っているのかという疑問が浮かび、その直後に佐々木は理解した。山神の視線の先にいたのは佐々木ではなく安藤だったのだ。

背中に回されていた安藤の手の感触と、ポケットに入れておいたナイフの重みがなくなった。佐々木は戦慄した。

 ——うそ、だろ。

 佐々木は背中側に手を回し、手探りで安藤の腕を掴んだ。抱き合っていた体を離し、握った腕のほうに振り向くと、そこには煌めくナイフを逆手に持った安藤の手があった。佐々木の背中に突き刺そうとしていたのだ。

安藤は気づかれたことに動揺したのか、腕に力を込めてきた。ナイフの先端が佐々木の体内に侵入してきそうになる。

「安藤さん、なんで⁉」

 俯いていた安藤の前髪の隙間から、狂気を宿した瞳が見えた。

「だって、死にたくない——! 私、死にたくないんだもん!」

 彼女は見たことのない顔をして、ナイフを握った腕にさらに力を込めた。完全に佐々木を殺そうとしてきている。間違いなかった。

裏切られたことに驚きを隠せない佐々木は、防衛本能だけで安藤の腕を抑え込んでいた。

「残り五秒」

 山神の冷たい声が耳に入ってくる。

「嫌だ! 死にたくない! 私は死にたくない——!」

 叫びながら安藤は佐々木のすねを蹴ったり、がむしゃらに殴ってきたりした。逆の手で自身の懐からナイフを取り出して切りつけてもきた。佐々木は悲しくて泣きそうになりながらも、飛んでくるひ弱な腕を抑え込んだ。

 ——なんでだよ安藤さん……。

 山神のカウントダウンは無慈悲に進んでいく。四、三、二、一……。

「終了だ」

 殺し合い終了の合図が告げられると、安藤は入れていた力を抜き、膝から床に崩れ落ちた。カランとナイフが二本、床に接して音を鳴らす。同時に、チャイムが鳴った。

「二人の愛とやらは確かめられたか、佐々木」

 状況をすべて見ていた山神が、嫌味を飛ばしてくる。

「……」

 佐々木は答えるのを拒んだ。

「……まあいい、答えなくても」山神は凶暴な笑みを浮かべた。「この教室から出られるのは最後に残った一人だ。二人いるのはルールに抵触する。よって、俺がランダムに、いや、俺が個人的な評価で殺すほうを決める」

 教壇から降り、山神が歩いてくる。

 佐々木は、もう戦意を失って床の一点を見つめている安藤に目を向けた。

安藤がやけになった理由が、今ならわかる。きっと、佐々木と安藤が残った時点で、安藤は察していたのだ。どちらも殺さずに二人が残った場合、殺されるのは自分なのだと。

 山神の足が佐々木の隣で止まった。

「お前らのどちらを殺すかを発表する」

 最後に佐々木を殺しきれば安藤は生き残っただろうが、結果、安藤は河崎を後ろから刺しただけで、誰一人として殺せていない。対する佐々木は小林、中村、相馬、河崎の四人を殺している。それに相馬に関しては、重傷の森口のほうがあとで殺しやすいからという理由で殺したのだ。どちらを選ぶかは火を見るより明らかだ。

「——安藤、お前を殺す」

 そういった山神は、床に手をついて震えている安藤の横にしゃがみ込み、前髪を乱暴に掴んだ。顔を上げ、首にナイフの刃を当てた。

「最後に言い残すことはあるか?」

 安藤は泣いていた。答えず、ただ涙を流していた。生き残れなかった悔しさか、あるいは死への恐怖か。巻き添えを食らう家族への申し訳なさもあるだろうか。

 そんな安藤の表情を見て、佐々木は口を開いた。

「先生、ぼくがとどめを刺してもいいでしょうか」

 なぜだか、山神に殺させたくはないと思ってしまったのだ。

「……ああ、いいだろう」

 佐々木を見上げ返答した山神は、手のひらに凶器を渡してくる。それを握り、佐々木は山神とは反対側にしゃがみ込む。安藤の瞳を横から見ながら佐々木は、殺す前の最後の話をした。

「安藤さんがぼくのことを好きって言ってくれたこと、ぼくは忘れない。生き残るための嘘だったのかもしれないけど、ぼくは違うと思ってる。いや、違うと思いたい。嬉しかったんだ、好きって言われて、頼ってもらえて。最後に抱き合ったときも、本当に幸せだった。安藤さんのおかげで幸せな気分を味わうことができた。……でもね、最後に安藤さんは生きたいという人間の本能に突き動かされてぼくを殺そうとした。ショックだったけど、それで山神先生の言っていたことが理解できたんだ」

 一度山神のほうを見て、それから安藤の首に刃物を置いた。

「ぼくは地球を守るためには、悪人は殺すべきだけど、善人は生き残るべきだと考えてた。地球上に残った良い人間だけで、環境のために、地球をもとに戻すために頑張ればいいんじゃないかって。でもね、それは間違いだったんだ。安藤さんが最後の最後で自分の命を守るためにぼくを殺そうとしたように、善人でも時には悪人になりうるんだ。ぼくたち人間側の視点で見れば良い人間でも、地球から見たら悪なんだよ、人間そのものが。生きのびるために人は他者を殺す。自分が楽に生きるために木を削り、土をえぐり、空気や水を汚す。人間は生きているだけで地球に悪いことをしているんだ。結局人は、自分さえよければいいんだよ。そういう生き物なんだ。だから全人類は、滅ばなきゃならない。……そうですよね、山神先生?」

 佐々木の腕はすでに引き終わり、血を噴き出した安藤は床に伏していた。山神は佐々木と目を合わせ、「よくたどり着いたな」とだけ言った。

 人間不要論、その真の意味を理解し、それを褒められたことに、佐々木は感激した。


〇卒業


 1


 教室に残された死体が森口の父らによってきれいにかたづけ終わると、教室の中には教師と生徒、一人ずつが残された。

 山神は教壇の上に立ち、白衣の内側から一枚の紙を取り出した。

「卒業おめでとう、佐々木」

 近づき、教卓を挟んで正面に立った佐々木は、山神が手にしていた紙が卒業証書だということに気づく。

「ありがとうございます」

 恭しく受け取り、それを小脇に抱える。山神は三年間見せ続けてくれた優しい笑みを浮かべていた。

「質素だが、これで卒業式を終えようと思う。いいな?」

「はい」

 南幌町立美園高等学校の三年一組の代表として、佐々木は卒業した。二十五人いた中でたった一人最後に生き残ったのが、佐々木高志。

その事実に嬉しさと誇りが沸き上がり、高揚した気分になった。

「先生、どこ行くんですか?」

 教室前方のドアを潜り抜けようと歩く山神に、佐々木は問いかけた。山神は振り返り、ニヤッと笑って言った。

「外だよ、外」


教室を出て、廊下を歩き、山神に続いて玄関のドアを潜った。佐々木は閉塞感のない冬の世界に飛び出した。

玄関の外には二台のパトカーと救急車一台が止まっており、森口の父ら警察官と救急隊員、屈強な兵士たちが乗り込んでいるところだった。

 今朝から降っていた雪はもう止んでいて、雲の狭間から西日が顔を出しているのが見えた。深呼吸すると、空気が美味しかった。

「そんなにいいか? 外」

「——はい! 前より地球にありがたみを感じる気がします!」

「フッ。そうか。……悪かったな、狭い教室で殺し合いなんてさせて」

 山神と佐々木は二台のパトカーの内、玄関のすぐ前に止めてあったほうに乗り込んだ。

 まもなく警察官の格好をした運転手がアクセルを踏み、パトカーが動き出した。

窓から流れる景色をぼんやりと眺めていると、夕方だというのに、町には人一人歩いていないことに気づいた。

玄関や窓が開きっぱなしになっている家が大半で、あちこちのアスファルトや土に赤い染みがついていた。

「先生、質問してもいいですか?」

 ずっと気になっていたことを、今なら怒られないかもしれないと思い、聞いてみた。

「先生は星守教の幹部なんですよね?」

「ああ」

「で、人間不要論を短時間で教えるのが山神先生の仕事、でしたよね?」

「ああ、そうだが?」

「でも、実際先生は人間不要論なんてどうでもいいと思ってないですか?」

 恐る恐る横を見ると、山神は口もとを手で押さえて震えていた。前髪で目が隠れてよく見えないが、この反応はおそらく……

「いい、いいね佐々木!」佐々木を見た山神は肉食獣のような獰猛な目をして笑っていた。「お前は実に面白い。卒業した褒美だ、教えてやろう。おい、運転手、このことは他言無用だからな」

「は、はい!」

「佐々木、お前の言うとおり、俺は星守教だの人間不要論だの、そんなことはどうでもいい人間なのさ。ただ命あるものをぶっ殺すのが好きなだけの、狂った人間、それが俺だ」

「ハ、ハハ……」

 思わず笑い声が出てしまった。佐々木の予想は見事に的中した。

あの獰猛な鋭い目つきを見たときから、この人は殺しを見るのが楽しそうだと思っていた。殺し合いの内容も、仲間同士の友情や裏切りを鑑賞するために考えたのかもしれない。

「安心しろ佐々木。これから行く本部には、俺なんかよりもっと狂ったやつらが大勢いる。もちろんそいつらも表向きは教義を信仰しているが、俺にはわかる。あいつらも俺と同類、ただ他者の命を奪うことに生き甲斐を感じるサイコ野郎どもだってことがな」

「サイコ野郎、ですか……。その人たち、後ろから刺してきたりしませんよね……?」

「安心しろ、狂人といっても河崎のようなタイプは事前に見抜かれて入れないから、仲間を殺すような奴は一人もいない。……ところでお前、今の発言だと、まるで命が惜しいみたいに聞こえたが?」

 佐々木は「いや」と呆れるように微笑し、山神に返答した。

「何言ってるんですか、先生。命が惜しいなんて、当たり前じゃないですか。だって、ぼくが死んだら人間を殺していく速度が落ちちゃうんですよ? それじゃあ地球を守れなくなっちゃうじゃないですか」

「いい答えだ佐々木」山神は笑った。「お前はもう立派な星守教徒だ」


おわり

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殺人教室 ——今日の授業は人間不要論—— 畑中雷造の小説畑 @mimichero

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