エピローグ

徒夢

 頭が痛い。昨夜、マスターにウイスキーを注がれ、酒におぼれたい気分だからまぁ良いか、と飲み干したのが間違いだった。未だに嘔吐感が喉奥を漂っているような、不快な錯覚に苛まれている。


 ユニスにはオレンジジュースで薄めた酒を入れてやった。おかげで彼女は全く酔わなかったようで、朝から元気にスイーツをねだられた。


 生クリームを睨めつけながら泡立てていれば、カレンがユニスに紅茶を出してあげていた。


「ユニスちゃん、どうぞ」


「あ、ありがとう、ございます」


「そんなに怯えなくても大丈夫よ。触られるの苦手なんでしょう? 触らないようにしてるから、安心して」


 靄靄あいあいとした室内は、陰惨な夜会と比べ物にならないほど息がしやすい。マスターはメイを迎えに行って、そのまま二人でどこかに出かけてから帰ってくるらしい。たった一日顔を合わせていないだけで、メイを心配するほど自分が甘くなっていることを自覚し、顰め面を浮かべた。


「カレン、さんは」


「カレンでいいわよ。なぁに?」


「いつまでここにいるんですか? エドウィンとは期間限定で付き合っただけなんですよね。そろそろ期間では?」


 ユニスの声遣いがやけに刺々しくて俺が動揺した。カレンは気付いていないのか、それとも気にしていないのか、小動物でも愛でるような笑顔で見返していた。


「ええ。でもまだここにいるわ。私がいたほうがお店だって助かるでしょ?」


 カウンターに頬杖をついていたカレンがこちらを仰ぎ見る。昨日、俺もマスターも外出するから店は休みにするつもりだったのだが、カレンが一人で店を回してくれたらしい。酒場として助かっているのは事実の為、「そうだな」と頷きながら生クリームにマスカルポーネチーズを加えていく。


 紅茶を飲み干したユニスがカウンターに項垂れていた。両腕を伸ばして俯伏する様はまるで暑さにやられた猫のようだ。


「はあ……メイさんが恋しいです。メイさんと恋バナしたいのに……」


「ユニスちゃん、恋してるの!? なになに、お姉さんに教えて?」


「貴方には絶対言いません! とっととエドウィンじゃない男でも見つけてどっか行ってください!」


「っわかった、ユニスちゃんエドウィンのことが好きなのね!」


「ばっっ、馬っ鹿じゃないですか!?」


 ユニスを揶揄って楽しんでいるカレンと、人見知りを克服したかのように普段通り応じているユニス。二人を微笑ましく思いながらメレンゲを泡立て、クリームと溶き合わせる。事前に珈琲に浸しておいたビスケットは、二つの容器に敷き詰められている。そこにクリームを入れようとして、一瞬、手を止めてしまった。


「……カレン。ティラミス、二人分出来てしまうんだが、食べるか?」


「いいの? 食べたい……! エドウィンの手作りスイーツ、お客さんも美味しいって言ってたわ。昨日はなくて残念だったって」


「そうか。今晩は用意しておかないとな」


 無意識の内に、メイの分も用意してしまっていた。僅かに目を伏せると、彼女が嬉しそうにスイーツを頬張る姿が思い浮かぶ。夜には、帰ってくるだろうか。彼女はユニスと同じく苺が好きだから、苺のケーキでも作っておこう。きっと喜んでくれるはずだ。


 ふと、話したいことがある、とメイが言っていたのを思い出す。その内容は想像も出来なかった。


 ティラミスを冷蔵庫に仕舞い込んで、顔を上げる。食器棚の硝子が、自身の面貌を薄らと映し出していた。その目色に、妹と母の面影が重なる。瞼を下ろして睫毛を絡ませた。


 全てを失った時に、弱さも未練も捨てようとした。それを、捨てきれたかどうかは、今も分からない。


 心臓が、熱を持って収縮している。巡る血液と魔力に、生を実感する。


 マスターは、普通に生きろと俺に言った。彼が帰ってきたら、それを断ろう。魔女狩りはまだ終わっていないのだから。まだどこかで、無辜の命が弄ばれているのだから。


 あの女アテナの息の根は止めた。それでも、その息がかかったものは、無数にある。胸臆で揺らめく怨嗟は、狩り続けなければ消えてくれない。アテナの痕跡が失くなるまで、悉皆しっかいに。


 ──その日、マスターとメイは帰ってこなかった。その翌日も、翌日も。手紙すら届かぬまま。二人の踪跡そうせきは掴めなかった。


     *


 ブラウスの上にストールを羽織って、魔女の紐をほんの少し隠す。エドウィン達がパーティの準備をしている中、僕はオッサンに言われた場所へと向かっていた。


 街の端にある教会は廃れており、すれ違う人もいない。茜空の眩しさに目を細め、木々の間を進んで教会の敷地内に踏み入る。


 豁然かつぜんと現れた庭は、心寂うらさびれていた。折れた百合が地面に落ちている。教会の外壁には蔓が絡みつき、傍の木々も嬋媛せんえんと枝葉を絡めていた。


 人気のない教会に近付いた時、馬の走る音が聞こえて振り返る。一台の馬車が僕の前で留まった。それが恐らく、オッサンに会いに行けと言われた相手のものだ。


 馬車から降りてきたのは燕尾服に身を包んだ男。柔らかな金髪を靡かせて僕の前まで来ると、彼は恭しく頭を下げた。


「メイ様、お待たせ致しましたことを深くお詫び申し上げます」


「い、いえ。そんな待ってないし……っていうか、会いに行けって言われただけで詳細を聞いてないんだけど、とりあえず……これからどこに行くの?」


「王子殿下の保有している宮殿です。メイ様のお部屋やお食事のご用意も済んでいます。ご案内いたしますので、馬車にお乗りください」


 点頭して相槌を打ちながら、硬直する。王子殿下、と唇の裏で繰り返して、上下に振っていた首を勢いよく左右に振り直した。


「待ってください、メイ様って、僕じゃなく同名の人違いかもしれないです。だって王子様と僕が会う理由がない」


「……失礼いたしました。殿下がお話しされているとばかり……。殿下は、街ではリアム・ブライトマンと名乗っています」


 今一度、硬直した。わけが分からないまま腕を引かれ、馬車に引き込まれる。右に首を傾げ、左に首を傾げ、馬車の扉が閉まった音に肩を跳ねさせた。現実逃避のように、窓の外を見霽みはるかす。


 つまりオッサンは、豪奢な宮殿に僕を招いて、僕に美味しい物を沢山食べさせるつもりなのだろう。楽観的に考えてから、現実を受け止めて奥歯を噛み締めた。


 初めて会った時、オッサンあのおとこはなんて言っていた? 魔女の存在を、実験を、上の奴らは肯定している、だから酒場で情報を集めて魔女狩りをしていると、そう言った彼のことを思い出す。


 今、目の前にいる従僕らしき男も、これから向かう宮殿とやらも、彼の言う『魔女の実験を肯定している』存在であり、そういった場所であるのではないか。


 酒場のマスターではなく、王子という地位を使って僕を連れ去る。これが芳しい状況ではないことくらい、世間知らずな僕でもわかる。


 遠い夕轟きに胸を押さえて、唇を噛み締めた。帰ったら、エドウィンに僕のことを明かしたい。だから、僕は帰らなければならなかった。


「あのさ、明日には帰れるんだよね。宮殿では、美味しいご飯を食べて休んでればいいだけ?」


「いいえ。これからメイ様には、成功作の魔女として研究にご協力をお願いいたします。本日は後ほど採血を行い、明日からは生命力や魔力を確かめる為の実験が行われますが、命に関わるほどのことではありませんのでご安心ください。ただ、手足が一時的に切り離されることはあるかと思いますが、一時的ですので、ご了承くださいますようお願い申し上げます」


「……オッサン──王子サマには、会えるのか。訳の分からない実験なんてされる前に、話したいんだけど」


「殿下は今晩、あるいは明朝にお越しになるそうです」


 ふざけるな、と吐出したいのを必死に堪えた。この体を、妹を、魔女だからなんて理由で傷付けさせて堪るか。研究材料になんか、されて堪るか。


 エドウィンもユニスも、きっとオッサンが王子だなんて知らない。僕がこんな場所に送り出されていることも、彼しか知らないのだろう。


 あの男マスターを説得して絶対に帰る。これからずっと梏桎こくしつされて、エドウィンに会えないのなら、彼を殺して逃げだしたっていい。


 躊躇うばかりで名前や性別を明かせない僕を、優しく待ってくれている彼が、脳裏に浮かんだ。いつでも声を掛けてくれと、柔らかに微笑んだ彼。あれが最後になるなんて、御免だ。


 牙噛んだまま窓に凭れる。空が、燃えていた。紅霞は夜を目指して泳いでいく。黒紅の気配へ沈んでいく夕紅ゆうくれない。そこに佇む太陽は、柘榴石のように赤かった。それがエドウィンの瓊玉ひとみを想起させるものだから、彼に焦がれて目の前が掻き曇った。


 僕をメイナードと呼ぶ彼。そんな幻想を何度も抱いた。これを夢のままで終わらせたくはない。


 洋紅に明滅して燃え尽きる夕景を、瞼の裏に閉じ込めた。

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誅戮のヘイトレッドⅡ 藍染三月 @parantica_sita

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