あの日の色彩を7

     (三)


 横溢した水と共に投げ出されて、私の体は柔らかなクッションの上に落とされた。ようやく取り込めた酸素に喘ぎながら体を起こす。


「げほっ、ごほ……! ぁぁあもう最悪です! 可愛いドレスがぁぁ……!」


 つい、エドウィンやマスターと一緒にいると思って叫んでから、自身を取り巻く闃寂げきせきに気付いて唇を押さえる。クッションの上に座ったまま左右に目をやると、目を開けたまま放心したように倒れている少女と、死体のように眠る少女と、私に瞠若している少年がいた。


 一先ず袖の中の銃を確かめる。問題なくそこにあるのを確認してから立ち上がった。どうすべきか逡巡したのち、少年に投げかける。


「あの、貴方の横で寝てる子を叩き起こしてくれません? 脈を計って死んでるなら仕方ないです、置いていきます」


「えっ、脈って……えっと」


「首か手首に触って確かめてください。私は触りたくないのでやりません。で……そこの貴方は? 生きてるんですよね?」


 隣に横たわる少女の顔を覗き込む。精彩を欠いた瞳は力なく動いて私を見上げていた。少年の方を窺うと、彼は少女の手首を握りしめたまま泣き出しそうな顔で私を見ていた。どうやら、死んでいたようだ。


 水中に投げ出された人間が、三分間溺死せずにいられるかは五分五分だ。とはいえ箱の中を水がしていた時間はおよそ二分。三分よりは生存率が高い。主催者側も、全ての子供が死んだら意味がないと思っているのだろう。


 私は少女の袖をぐいと引っ張って起き上がらせようとした。


「逃げますよ。早く立って」


「──やあ君達! ゲームは楽しかったかな?」


 響いてくる革靴の音に心臓が跳ねた。廊下の向こうから歩んでくるのは燕尾服を纏った男。ホールディンの家令が、私達を連行しにきたのだと分かって焦燥が走る。


 この場で射殺する? それよりも、どこかへ連れて行かれてから撃ち殺すべきだろうか。過去のゲームで攫われた子供達にも出会えるかもしれない。


 袖の内側で、引き金にかけていた指の力を抜いた。従うのが利口だと判断し、拍手をしている温厚な顔を見上げた。


「怖いゲームに参加した君達には、心の治療が必要なんだ。君達をちゃんと治してからご両親のもとに返すから、安心してね。さあ、付いておいで」


 治療。まさか、子供の自我を壊して、魔女にすることを治療だなんてのたまっているのだろうか。メイさんも、こういう奴に優しい顔で誘われて、魔女にされてしまったのだろうか。


 不興げに歪んでいく顔を俯かせる。腕を引っ張られて喉が震えた。男が私の腕を掴んで、歩くよう促していた。


 危うく叫び出しそうになって堪えたら、悲鳴の代わりに涙が溢れそうだった。駄目だ、と自身を叱咤する。エドウィンもマスターも頑張っているのに、私が台無しにするのは、ダメだ。


 他人に触られるのは怖い。気持ち悪い。嫌悪を懸命に抑え込んで、男の歩を追いかけた。少年と少女もおずおずと付いてくる。亡くなっている彼女はそのまま置き去りにされていた。


 杲々こうこうとした照明が、長い廊下にいくつも取り付けられている。窓外の景色は黒一色で、庭の形すらようとして知れない。今が真夜中なのだと窺知することは出来た。


 男は廊下の先の階段を上り、上階にあった扉を開けて、中庭に出る。屋根のある通路を歩きながら夜音に耳を傾ける。庭園で揺れる草花が夜闇の中でも見て取れた。


 再び室内に入ると、今度は螺旋階段を上っていく。靴音ばかりが響く中、誰も言葉を紡がなかった。男は声に意味を見出さず、子供は恐れから緘黙している。


 階段を上って、上って、上って。辿り着いた部屋の扉を彼が開けた時、中から子供が飛び出した。


「っ出して!」


「今なら出られる!」


 男にぶつかる子供。男の脇をすり抜けて逃げ出そうとする子供。そのどちらも、容赦ない殴打を受けて部屋の中へ投げ飛ばされていた。


「大人しくしなさい。君達はまだ治療が終わっていないんだから」


 仄かな紅燭だけが灯る室内で、六人の子供が各々絶望したような面持ちでそこにいた。男は私達にも入るよう促す。私と一緒に連れられてきた二人は鬼胎で蒼褪めながらも室内へ入った。私もゆっくりと歩み入る。


 先程殴られていた少年が、果敢に男へ掴みかかった。


「治療なんて嘘だ! 僕達に治療なんて必要ない! この前オリヴィアとトレイシーを連れてったのはバケモノにする為なんだろ!?」


「子供は想像力が豊かだね。バケモノなんかを信じてる気狂いにはやっぱり治療が必要だ。二人は治療が終わってご両親のもとに帰ったんだよ。君達も順番を待ちなさい」


 少年曰く、『この前』いなくなった二人。オークションに出されていた少女、オリヴィア。恐らく子供達はこの部屋に閉じ込められ、順番が来たら魔女にされてそのまま出品される。とすれば、今生き残っているのは彼らだけ。


 このまま部屋の扉を閉められたら、出られなくなる。それは御免だ。


 少年が男に腹を殴られていた。よろめく小さな体に靴を沈めて、蹴り飛ばす男。少年の悲鳴と、怯える子供たちの声が深閑を埋める。


 私は男に歩み寄った。彼が私を瞰下かんかする。その顔を見上げて両腕を持ち上げ、袖の中で引き金に手を掛ける。彼の太腿に魔力を撃ち放った。


「ぐっ……!?」


「アタマの治療が必要なのは貴方方のほうです。平気で子供を虐げられる下卑た思考……死んで治ればいいですね」


 片足を庇って前屈みになった男の吃驚が目の前にある。真っ向から、銃口を突き付ける。彼に武器を抜かせはしない。髪筋ほどの隙も生まずに、そのまま筒音を響かせた。


 立ち上る硝煙と血煙。男が倒れた音はけたたましく響いたが、銃声の余韻は消えずに残っている。顔にかかった血を拭って私は粛然に踵を鳴らした。


「よかったですね。逃げられますよ」


「き、君は……なんで、銃なんか……」


「護身用に武器を持ち歩くのは当然のことです。逃げないんですか? 扉は開けておきますから、あとは勝手にしてください」


 少年と、他の子供にも聞こえるように吐いてから部屋を後にした。出口が開いたのだ、勝手に逃げるだろう。彼らに触れられない私では連れ出してやることなんて出来ない。


 次に突き止めるべきは、魔女の実験がどこで行われているかだ。この一棟にもう用はない。中庭を通って屋敷に戻る。扉を開けた先に長身の人影が見えて背筋が粟立った。


 出し抜けに銃を構えるも、そこに立っていたのはマスターだった。


「ユニス、無事でよかったよ!」


「ま、マスター! どうしてここに?」


「適当に商品を購入したら別室に案内されてね。そこで魔女に接触出来たから、魔女も使用人もまとめて殺しておいた。それで会場に戻ろうかと、通りかかった廊下に濡れた靴跡があったから、それを辿っていたんだ」


 かわらかに笑う彼は、よく見れば返り血を浴びていた。腕にも血が滲んでいるように見える。怪我をしたのだろうか。心配しながら見つめていれば、私を撫でようとしてきたため即座に身を引いた。


「じゃあ、あとは魔女の魔法陣の在処を突き止めればいいんですね? エドウィンはそちらに?」


「いや、エドウィンはホールディンと接触してくれてる、か、ら……迎えに行かないとだね!? 私が行くまで戦うなって言ってあるんだ! 魔法陣の在処は合流してから三人で探そうか」


 エドウィンが、一人であの悪趣味な男と対峙してくれている。それを想像しただけでグリップを握る手に力が込められた。


 足早に廊下を進んでいくマスターに追従する。廊下の先で笑い声と音楽が聞こえた。まだパーティは続いているのだろう。いや、主催者であるホールディンが戻ってこないから、終わらせられずにいるのかもしれない。


 マスターに袖を引かれて壁際へ引き込まれた。彼の視線の先を窺えば、使用人が慌ただしく廊下を歩いていた。ホールディン側の人間に見つかったらまずいというマスターの機転に胸を撫で下ろした。


「あの様子だと使用人はホールディンを見つけられていない……真っ先に確認するのは彼の部屋や寝室だろうが、そこにいないとなると……ホールディンはエドウィンとどこに……」


「マスター。エドウィンがホールディンに接触しているということは、魔女と関係がありそうな、いわゆる秘密の部屋を聞き出そうとしているんですよね。私達が落とされたのは地下ですが、逃げられないようにか、一方通行でした。こんなに広い屋敷で、地下のスペースがあの狭い範囲だけなんて違和感があります。人に見せられないものを、いくつかの地下室に隠してるんじゃないでしょうか」


「地下室か……探してみよう」


 遠くから聞こえる楽団の演奏と、使用人たちが周章して主人を探す声。それから遠ざかるように私達は廊下を巡った。地下室に繋がる階段は見つけられない。マスターが悩みながら指で空空くうくうをなぞる。彼は脳内で屋敷の間取り図を組み立てているみたいだった。


 廊下の端にある扉をマスターが開ける。そこはオークション会場に繋がっていた。オークションが終わった場内は閑散としている。明かりも乏しく、燭台の蝋燭が消えかかっていた。暗らかな舞台を横切って、彼は観衆がいたスペースを見遣り、カーテンの間にある扉を指さした。


「エドウィンはあのあたりでホールディンと接触した。会場から出たのならあの扉からだろう。きっとあの先だ」


 戛々かつかつと靴を鳴らし、目指した扉へ。その向こうは月白に塗られた廊下があった。廊下の奥で、蒼白い光が血痕を浮き上がらせている。点々と続くそれを、マスターも視線で追いかけていた。


 革靴の影が、血紅色の斑点模様を踏んでいく。血の跡は地下に続く階段にもあった。マスターは地下へ進もうとして、上衣の裾を翻す。彼は、階段よりも手前の廊下を曲がった。そのままナイフを抜いて通路の先へと歩んでいく。


 血痕が途切れている部屋。その扉は鉄製で、重たそうに見えた。マスターはそれを引き開ける。


 暗然たる室内で、美しい貴婦人が亡骸を放り捨てていた。殊色たる美貌が月桂に照らされて仄青く見えた。その貴婦人──エドウィンは、崩れ落ちた使用人に向けていた懸珠で私達を映す。


 使用人は恐らく、ホールディンを探していたのだろう。彼がそれを空室に引き込んで殺害したものと見られた。


 乱れた髪に、血が滲むドレス。エドウィンはナイフの刃を柄の中に収め、靴を失くした足で血の海を踏み付ける。彼は、虚ろなほど冷え切った声貌をしていた。


「魔女は、仕留めたのか」


「ああ。エドウィンは……戦ったのかい。ホールディンも殺した?」


「遺体は地下にある。それと、魔女が造られていた部屋はここみたいだな。ホールディンがここの鍵を持っていた」


 エドウィンの足元に目を落とす。木造りの床には、円形を組み合わせた魔法陣が描かれていた。使用人の男の血で濡れ、亡骸が伏せているものだから細部までは見て取れない。


 マスターがエドウィンに何かを言おうとして、一度、言葉を飲み込んだみたいだった。幽閑には淡々と、エドウィンの低声が響く。


「このあたりには隠したいモノをまとめて置いてたんだろうな。隣室には麻薬の粉が大量にあった。リアム、ライターは持ってるな。二つあるか? 貸してくれ」


「あ、ああ。どうするんだい」


「二人は先に屋敷を出ていてくれ。俺はこの部屋と、地下室を爆破してから行く」


 懐からライターを取り出したマスターが、それをエドウィンに渡す前に留まっていた。困り顔を浮かべた彼はエドウィンに優しく語りかけていた。


「それなら、私がしておくよ。ドレスで逃げるのは大変だろう。ユニスと先に出ていてくれ」


「……地下室なら、放り込むだけだ。そっちは俺に任せて欲しい」


 マスターに突き付けられている赤い炯眼は、懇願の色を宿していた。自分の手でそうしなければならないのだと、彼は言外に訴える。白らかな月明りに、ライターの金具が光っていた。マスターはライターを一つ、彼に渡していた。


 彫塑のような玉貌が、窅然ようぜんと憂わしげな影を落とす。形のいい翠眉を顰めた彼が隣室へ向かった。彼は麻薬の粉が入った紙袋を抱えて廊下を進む。私がマスターを見遣れば、行けと言わんばかりに頷かれた。


 パンプスを鳴らして豪奢なドレスを追いかける。編み込まれていた彼の髪はほどけており、柳髪が歩みに合わせて靡いていた。迷うことなく直進する背中に、問いかけずにはいられなかった。


「地下室に、なにか、あったんですか? エドウィン、顔色が……」


「魔力を使いすぎただけだ。心配するな」


「っでも」


「向こうの窓際に行ってろ。コレを投げ込んだらお前を抱えて窓から外に出る。いいな」


 地下室に続く、薄暗い階段を前にして、彼が振り向いた。私を見下ろす眼差しは鋭い。けれど、それは研ぎ澄まされた刃、と形容できるものではない。細い枝の先を削って、どうにか形成したような、ひどく脆い刃物だ。


 気付けば、彼にしがみついていた。ドレスの裾を握りしめて、彼の胸に額をぶつける。


 泣いてしまいたかった。壊れそうな彼が、泣かない代わりに。


 幽咽を唾とともにのみこんで、彼の背中に腕を回した。


「ねえ、エドウィン。辛い時は、吐き出してもいいんですよ。私だって、一緒に背負いますから、弱音を吐いたっていいんですよ」


 哀傷を分けて欲しかった。どうすればエドウィンの傷を塞いであげられるのか、分からない。それが悔しい。彼の力になりたくて涙があふれる。彼を傷付けるものに怒りが込み上げる。どうしようもなく、彼へのあいが零れていた。


 私は、この人の拠り所になりたいのだ。


 まだ弱くて、彼のように強く立てないから、凭れるには頼りないかもしれないけれど。それでも、抱きとめさせて欲しかった。


 彼を受け止める強さが欲しい。彼を支えられるようになりたい。彼に、笑っていて欲しい。


 震えた息が、彼の衣服に溶けていく。優しい手の平が、私の頭に触れていた。壊れ物でも触るみたいに、力のない柔らかな接触。彼の体温が、彼の手のひらが、好きだ。彼のことが──好きだ。


「ユニス。帰ったら、甘い酒を入れてやる。度数は低めにするから、大丈夫だ。一緒に呑まないか」


 愛染がどれほど自身の胸を侵しているか、思い知った。それに気をとられていたせいで、反応が遅れる。彼の声を反芻して、瞠目しながら首を持ち上げた。


「ど、ど、どうしたんですか!? エドウィン、お酒飲むの好きじゃないでしょ。それに、私はちゃんと成人してから、エドウィンのお酒を飲みたいんです!」


「わかってる。でも、今日だけ、我儘をきいてくれないか。今でも叶えられる約束は、叶えさせてほしい。お前に……なにもしてやれなかったと、悔やみたくはないんだ」


 優しく撓んで、彎月わんげつを象る花唇。微笑んでいても、彼が伏し沈んでいるのが分かる。私を見下ろす彼にしがみついたまま、同じ影の中でじっと見交わした。蒼黒い夜暗に包まれて、だけど彼の悲傷がよく見える。心細うらぐわしい麗容を、ひたすらに打ち守った。


 どうして、そんなことを言うのだろう。まるで、私が成人する頃には、彼がいなくなってしまうみたいで。胸が、痛い。


 成人するまでがいいと駄々をこねたかった。そうすることで、彼を、その日まで繋ぎ止められるような気がしたから。


 けれど、弱音など吐かない彼の、我儘だ。それを拒むことはしたくなかった。


 カレンの話をした時──私から彼が離れて行ってしまいそうで、怖いと打ち明けた時。いなくならないって、彼は言ってくれた。今は、それを信じたかった。


「……分かりました。美味しいお酒、入れてくださいね」


「ああ」


 離れてろ、と彼がささめく。私は彼から遠ざかって、月光の満ちるあたりまで歩んだ。


 窓硝子に手を突いて、彼を待つ。


 轟音が二つ、夜の蕭条しょうじょうを震撼させた。

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