あの日の色彩を6
「ここが、私が一番気に入っている部屋だ」
地下室の扉が悲鳴じみた
すぐ傍にある容器を覗き見た。そこには、まるで靴でも飾るように、足首から先の両足が収められていた。切断面は鮮らかな赤。触れれば血が付着しそうなほど、その血肉は真新しいものに見えた。流血こそしていないものの、血が凝固しているようには見えなかった。切り離された直後の状態を模した造形物のようだ。
立ち止まって細見していたら、ホールディンの息遣いが耳殻に触れた。
「どうだい? 素敵だろう」
「……ええ、とても」
「ある人が朽ちない肉体を欲しがってね。その研究を進めていたんだが、これがなかなか難しい。だが、一つだけとても綺麗に保たれてるものがあるんだ。君もきっと気に入るよ」
彼にとってお気に入りのものを自慢したいのだろう。急かすように腰を抱かれ、部屋の奥へと進ませられる。歩きながらも一つずつ流し見していく。朽ちない肉体の研究というのは、魔女と関係があるのだろうか。
眉間に皺を寄せて展示物を
刻まれている文字は年月日。手前にあるものが新しいみたいだ。進めば進むほど、古い日付になっていた。それでも肢体の状態は良い。紅血が付着した臓物は脂でつやめいており、取り出されたばかりに見える。
「これは……なにか薬品を注射して鮮度を保っているのですか?」
「ああ、薬品も試したが、効果的なのは魔法陣だね。ある程度寿命を延長出来るんだ。死体が朽ちるまでの期間も伸ばせる」
言われて、展示台の上──展示物である人体と接している面──を覗き込んだ。確かにそこには魔法陣が刻まれていた。これを刻んだのがこの男であるのなら、こいつは魔法を扱える。寿命を延ばせる魔法の系統として可能性が高いのは、
ホールディンが魔法を知っているのであれば、アテナから魔法を教わった研究者である確率は高い。人体が朽ちない研究を命じたのもアテナなのではないかと想到した。何度も肉体を移し替えて生き続けているあの女が、朽ちない体を求めるのは容易に想像できる。
とはいえ、魔女を生み出しているのはこの部屋ではない。飾られているモノは、失敗作の魔女の一部と思われるが、俺にとってどうでもいい。ゲームで奪われた子供が囚われている部屋、魔女の魔法陣が刻まれている部屋を、どう聞き出すべきか深慮する。
悩んでいる間も、彼は楽しげな口跡を振るい続けていた。恍惚とした笑みが不愉快で顔を逸らし、俯いた。
「魔法陣は普通の人間じゃ簡単に描けないが、とても便利なんだ。ただ、魔法をもってしても五年くらい経つと流石に状態も悪くなるものが多くてね。だからアレが腐る前に君に出会えてよかったよ」
話の腰を折っては機嫌を損ねるだろう。一先ずホールディンに従って、彼の話を楽しんでいるフリをし、魔法に興味を示せばいい。魔法の話から、魔女の話題に繋げられるかもしれない。
「これだ! 見てくれ、美しいだろう……!」
お気に入りの物を賛嘆されれば人は良い気分になるものだ。美辞を連ねるべく顔を上げた。嬉笑して同調して褒めたたえる。つもりだった。
柔らかに引き上げた口角が、痙攣して歪んでいく。感悦の声をあげるはずだった息が引き攣る。心音が五月蝿い。呼吸音が五月蝿い。朗笑が五月蝿い。誤魔化すように口元を押さえる。駄目だ。笑え。落ち着け。笑わなければ、ならないのに。
念じても念じても無駄だった。嘔吐感がせり上がってくる。早鐘を打つ心臓が脳髄を揺さぶり続けていた。
展示台の上で、灯光を直線に受け流す硝子の容器。その向こうに、母の生首が眠っていた。
躯幹から引き千切られるように離された
ホールディンが、ガラスケースを取り去る。彼は暴悪な手つきで母の睫毛を手折り、花瞼を押し上げていた。露わになった洋紅の瞳が俺を映す。鈍色の柳髪が、無骨な手に弄ばれていく。
手の平が痛むほど己に爪を突き立てて俯伏した。冷静になる為に、
「よく見てごらん。瞳も濁ることなくこんなに美しく保たれて、髪の毛だってこんなに綺麗なんだ! エドナ、もし君が亡くなったら、君の美しさも私がずっと保ってあげるよ。君の顔なら、この生首よりも更に美しい芸術品になるだろう……!」
不規則に乱れていた息吹は規則的に戻っていく。深く、息をする。目を開けた。艶麗に微笑むためではない。愉悦に染まるホールディンを見返す。突き付けた瞳は清冽を隠さない。頬に伸びていた彼の手首を、擬議することなく握り潰した。
「……ふざけんなよ」
呑み込めなかった唾棄を吐き捨てる。
もう、どうだっていい。母を殺されて、その亡骸すら埋葬できず、下らない研究材料にされて飾られて。
それでもなお繕わなければならない理由が、今の俺には分からなかった。
「いっ……!?」
「死ね」
皮膚だけになった彼の腕が咄嗟に引かれる。青びれた顔で後ずさった彼を睨めかけたまま袖からバタフライナイフを引き抜いた。掌裡で回転させて光芒を散らす。柄に収まっていた白刃を空気に晒し、
その刃口が外皮に触れるよりも早く、彼は俺の腕を両手で掴んで押し留めていた。
腕に魔力を込める。それでも決死で受け止める彼に鋭鋒は届かない。舌を打ち、彼を蹴り飛ばすべく脚部へ魔法を奔らせた。音を立てて折れたのはパンプスの細いヒール。体から力が緩み、崩れ落ちそうになって息を呑む。
どうにか踏み止まろうとした。しかし小隙の中で彼に振り払われる。彼も《拡張》の魔法を使ったのか、浮いた体は壁際まで突き退けられた。
棚に打ち付けられた痛みに奥歯を擦り鳴らす。立ち上がろうと見据えた足元で影が揺らいだ。反射的に
瞬目、降り注いだのは柔らかな臓物。一人分ではないだろう。膏血に塗れたそれがレースのようにドレスを飾る。こんなものを収集していることに、心の底から吐き気がした。
血を払うべく頭を振れば髪飾りが外れて揺落する。肩に絡みついた腸を払い落としてホールディンを仇視する。その面貌はまだ戸惑いに染まっていた。
「エドナ、その声は、君は一体……どうしたっていうんだ。素敵な生首だっただろう? 同じ女性がこんな風に扱われているのは気に入らなかったかい?」
「俺は女じゃない。お前の趣味に興味なんかない、反吐が出る」
「なん、だって?」
蛇のように
時間の経過と共に泰然としていくのは双方。打交わすのは睥睨。俺に騙されたからか、それともコレクションを冷評されたからか、彼は憤懣を発露させていた。怨憎の赴くままに低声を落とす。
「殺す前に聞かせろ。お前は魔女の研究員か? 参加者の夫婦から奪った子供達はどこにいる。魔女を生んでいる部屋はどこだ」
「……どうしてそんなことを知りたがる。君はなぜ魔女について知っている?」
「質問してるのはこっちだ。答えろ下衆野郎……!」
けれども白銀の一閃が眼路に刻まれてすぐさま身を引いた。彼が振るったのは快刀。長剣など身に着けていなかったはずだ。その柄を観視して理解する。ナイフの刀身を、魔法で伸ばしたのだろう。
振り抜かれた霜刃はガラスケースを砕き割る。涼やかな音とともに散渙する硝子片。魔法によって伸長された刃渡りの硬度は衰えていない。踵を引いて太刀影を避けた先には展示台があり、ぶつかってよろめいた。
振り下ろされる刀を屈んで避ける。彼の刀を受けて玻璃が零砕する。
腕を落としてやるつもりだったが彼は刀を捨て置いて徒手のまま後方へ跳ぶ。彼が着地したのは先刻まで俺がいた臓物だらけの足場。蹌踉とした隙を見逃しはしない。
畳みかけるように飛び出す。刹那の中空で構えた寸鉄。床を踏みしめると同時に剣尖を彼に突き付ける。高らかに、金属が哭いた。痺れたのはこちらの腕。彼は散らばる腸を振るいあげていた。
鞭のように柔らかく撓り、されどその切れ味はさながら秋霜。腸が
牙噛みながら彼の横撃を躱していく。硝子を破砕する音が鳴り止まない。彼の展示物が切り砕かれていく。真新しい肉を裂くように、誰の物とも知れない紅血が、内臓が、
避ける。広い地下室の中を巡るように躱す。けれど間合いが上手く掴めない。赤らんだ内臓の薄紅をひたすらに追いかけ、それが近付いた瞬刻だけ速度を上げて咄嗟に躱す。
その繰り返しに、息が上がってくる。耳鳴りが鼓膜を揺らし始めていた。
「っ……!」
足が、内臓を踏み潰した感覚。見下ろせば展示物だった肝臓が転がっている。倒れかけた体を腸の鞭が
折られた肋骨が臓器に刺さったように感ぜられた。犀利な斧が打ち付けられたような痛撃に喀血しながら、展示台に両手を突いて踏み止まった。
彼の攻撃は止まらない。向かい来る血肉色を睨み据えてナイフを握りしめる。空気を裂く音。眼前に迫る形影。
薙いだ。そのはらわたを切断するべく、ナイフで一文字を描く。断截された腸が舞い上がり、長さを失った鞭は俺に勁風だけを味わわせた。
「っげほ……!」
彼は尚も臓物を振るおうとして、血を吐き出していた。魔力の限界が来ているのだろう。凶刃は見る影もなく、ただの腸綿として撓りながら床に落ちていた。
足掻こうとした彼にナイフを棄擲する。短い悲鳴をおとない、彼は肩に刺さったナイフに手を伸ばす。だがその柄に触れたのは俺の方が先だった。
魔法で速度を上げ、弾指の間に近接していた。ナイフを抜かず、そのまま深く貫いて切り上げる。肩から腕を切り離され、彼は呆然とした。跳ね上がった血の余沫が床を濡らすまでの、鮮少の
「ぁ……あああああああ!!」
溢流した己の血に目を見開き、滂沱とした赤を眺め入る彼。その様を冽々と睇視した。淋漓する
「子供はどこだ。魔女の研究はこの屋敷で行っているのか。それとも、別の研究施設に子供を受け渡しているのか。質問に答えろ」
「ぁあ……腕……私の腕が……!」
「次は首を落とすぞ。早く言え」
「っやめてくれ! 私が悪かった! 魔女が欲しいのか!? 魔女を渡せば見逃してくれるのか!?」
「……いい加減にしろよ」
情けなく涙を零し始めたホールディンを見て、切歯した。震えるくらい握りしめたナイフを、彼の鎖骨に叩きつけた。
眼裏に映し出される悪趣味な遊戯。親の懇願も子供の哀哭も嗤笑で掻き消していた彼。血肉に陶酔し、死者さえも自分の欲を満たす物として扱っていた。
こんな屑を殺すことも罪になるのだと、彼の命乞いが物語る。それが、どこまでも厭わしい。彼の啼泣に、唸り声が込み上げた。
「人でなしが、今さら人間みたいな顔をして救われたいなんて願うな……!」
切り
震えた手の先から、ナイフが滑り落ちて、からんと響いた。己の手を見下ろす。手袋が赤く染まり、鮮血は手首まで伝っていた。血が、焔のように熱い。脈打つ熱が素肌を這っていく。無意識下で、血を魔力に変えていたみたいだった。
血の塊が喉からせり上がり、口元を押さえて展示台に寄りかかる。凭れようとした体は、そのまま朱殷の中へ崩れ落ちた。
罪人は等しく誅戮される。悪血を浴びて重ねていく自身の罪も、同じ
この生き様は、悪でしかない。正当化することすら、とうにやめた。
目線を上げた先に、母の頭部がある。それが血の海に転がっていたあの日を思い出す。閉目している容貌が、いつかの子守歌を思い出させる。優しい手の平も、憂慮を宿した眼差しも、俺の身を案じてくれていた目顔も、全て色褪せていくのに。
最期の緋色だけは、今も鮮やかなまま現前に在った。
脱力するように、顔を逸らした。どれほどの覚悟と罪を積み重ねても、そんなものは、大切なものの前で脆く崩れる。
だが、後悔するのは今だけだ。立ち上がって踵を返す時、この感傷は捨てていく。
浅く、息を吐いた。かすかに、ごめん、と呟く。震えた吐息は母に届かない。叫んだところで、もう二度と、この声が届かないことは分かっていた。それなのに、言葉は意味もなく、あてどもなく、零れ落ちていった。
「……こんな生き方しか、出来なかったんだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます