第2話 藍と玄②
──僕にはもう、家族を喪った事故の直後に関する記憶は殆ど残っていない。
それは単純に、あれから八年の月日が経ってしまったせいもあるだろう。人の経験や記憶を薄れさせ、酷く曖昧なものへと変えるには充分すぎるほどの時間が、遠く離れた過去と現在の間には開いている。
だが……恐らくはそれ以上に、事故直後の僕がたった独り生き残ったことに耐え切れず、ただ漠然と息をしていた事こそが不明瞭である本当の理由だ。
臥せたベッドから天井を眺めるだけで終わる毎日。飢えを感じれば口に含んで胃袋へと流し込むだけの食事。薄く赤黒さを帯びた視界。昨日と今日の境目すらも掴めなくなるほどに、何の代り映えもなかった真っ白な病室。
そして、だからこそ……なのだろうか。まるで夜空に尾を引く彗星のように、あるいは街路を駆けていく一陣の風のように、周りに立つ人々を吹き飛ばさんばかりの凄まじい勢いで病室を訪れた幼き結菜の姿を、僕は今でも鮮明に記憶している。
『志絃くんっ、私の家に住もうよ!!!』
『…………』
がらり、と。病室の戸を一拍のノックも無く力任せに押し開き、その橙色の長髪を靡かせた少女が開口一番、宝石を思わせるほどに煌めいた琥珀色の瞳を向けて言い放ったのが”それ”だった。
あまりにも突拍子なく現れた少女と、そして何の脈絡もなしに投げ掛けられた言葉。それに当時の僕が何一つも声を返せなかったのは、きっと喪失感に打ち拉がれていたことだけが理由ではなかっただろう。
『ほらっ、行くよ! れっつごー!!』
そうして、そんな呆気に取られた僕の返答を待たずに、あの日の結菜は片腕を強引に掴んだかと思えば、そのまま土を詰めた麻袋を引き摺るかのようにして、病衣を羽織っただけの僕を病室から廊下へと引き摺り出した。
『…………………』
ずるずると。開け放たれたままの、恐らくは結菜が勢いよく開いたせいで故障した自動扉を抜け、白く染まった病院の廊下へと出てもなお、その豪快っぷりが止む様子はなく、あの日の結菜は横たわった僕を引き摺りながら堂々とした足取りで進んでいく。
──その、道すがら。百八十度傾いた視界で見た、細長い病院の廊下にはなぜか。引き摺られゆく僕と引っ張る結菜の他に人影は一つとして見られなかったが、しかしそれを疑問に思うよりも先に、押し込まれたエレベーターの扉は閉じてしまった。
『えと、一階一階……』
そして幼い結菜が細い指先でボタンを押せば、僕らを乗せたエレベーターは独特な駆動音と共に一階へと向かい始め、当時の僕の力無く横たわった身体へ重力の感覚と、酷く無機質な床の温度を伝えてくる。
それはまるで、真冬の凍てついた湖面のような。あるいは、寒風に一晩中晒され続けたガードレールのような。ぴったりと床に触れる、肉の落ちて痩せ細った素肌の奥深くにすらも染み渡っていくほどの冷たさを帯びていた。
『……っしょっと!』
だが、そんな感触も程なくして唐突に、特徴的なベルの音が鳴ると共に終わりを迎え、閉じた時と寸分も変わらない速度で開いたエレベーターの重厚な鉄扉を、腕を掴み直した結菜に引き摺られながら潜り抜ければ──その先にあった、空白が。
寸前に過ぎ去った廊下と同じ”空白”が、今一度、真横に傾いた
『………………』
とても奇麗な、真白い病院の入り口でもあるホール。入念な掃除による賜物か、床に貼られた白いタイルの一面一面に汚れなどはなく、天井に備え付けられたエアコンから吹く風が消毒液のような匂いを乗せて頬を掠める、幼い子供の立場からすれば過剰とすら思えたほどの清潔感に満ち溢れた空間。
しかし、そこに。そんな病院のホールに、人の面影や姿なんてものは一つとして見られず、それどころか煌々と輝く照明に照らされた病院の受付にもまた、本来であればそこにあるべきであろう職員の姿は僅か一人だろうと見受けることはできない。
等間隔で置かれた長椅子は誰にも座られず、小銭の不足を訴える赤い自販機は誰にも買われず、ただ大型の鉢に植えられた観葉植物だけが降り注ぐ光を一身に浴び、その青々とした葉先を照明の方へと向かって一直線に伸ばしている。
しんとした静けさが空気にまで行き渡った風景は、まるでここに居た人々の姿だけが僕らの視界より忽然と消え去ってしまったかのようで、そしてそれが到底有り得る筈もない異常であることは、当時の僕の頭であっても理解が叶った。
『よいっ……しょっ! よっこらせっ!!』
──けれども、やはりなぜか。あの日の結菜は静寂が満ちた病院のホールには一切の視線を遣らず、それどころか寧ろそんな様が当然であるとでも言うかのように、現在よりも幾分か細かったその両脚をすたすたと動かして、未だ床に伏せたままの僕を引き摺りながら、この真っ白な病院の出口へと足早に歩いていった。
『………………』
病院の出口へ近寄ると、外と内を仕切るガラス張りの自動扉は静かな駆動音を上げながら開き、静寂と薬液の匂いが入り混じった病院の空気とは異なる、どこか煙たい外気が乾いた風に乗って閑散としたホールに勢いよく入り込んでくる。
『ほーらっ! もうちょっとで外だよ!』
そうして、そんな風を掻き分けて進む結菜に連れられて病院の外へと出れば、まるでその瞬間を待ち侘びてでもいたかのように、地面に這い蹲った僕の身体を眩い日差しが熱すら覚えるほどの光で照らし出す、どこまでも青い空が目に映った。
『………………』
横たわる頭の上に満ちた、空の隅々までを染める嘘みたいな藍色。遠景に聳え立つ無数の高層建築物。幾千もの窓に乱反射して煌めく陽光と、建物の合間を抜けて吹き付ける都市の風、先の静寂から一転して鼓膜へと届いてくる車や人の行き交う音。
外は六月中旬、梅雨の中頃では珍しく晴れており、病院から出たあの日の僕らを待ち受けていたのは紛れもない、白く染まった雲の一つも見当たらないような満天の快晴と、今日もまた来る朝を迎えた都会の風景だった。
『うんっ! いい天気だね!』
『………………っ』
『あっ、やっと乗り気になってくれた?』
そして、それらを前にして──ぐらり、と。痩せ衰えた両腕と両脚で身体を支えながら、だらしなく地面に寝そべっていた姿勢を強引に立ち上がらせる。
ただ当然、そんな僕の姿を見て頬を綻ばせた結菜の言うように乗り気になったわけではなく、だからといって真っ白な病院の中へ戻ろうと考えたわけでもない。
あの日の胸中にあったのは相も変わらない喪ってしまった団欒への妄執と、あの場所へと帰る事が叶わないのであれば、もはやこの世の全てには何の意味もないと論ずるような、目も当てられないような自暴自棄だけ。
故に、覚束ない足さばきで立ち上がったのにも特別な理由などはなく、強いてあるとすれば両親から貰い、今は亡き妹と共に分けた血が巡る身体をアスファルトなんかに擦り付け、傷を付けてしまうことが厭わしく思えたからだった。
『ほらっ、手! 繋いで歩こ!』
『………………』
ぱっと、勢いよく眼前に差し出される結菜の掌。年月を経た今よりもずっと小さかったそれを、同じく細く頼りなかった自らの掌で差し出されるがままに握り締めれば、元より綻んでいた幼い結菜の頬が更に一段と明るさを帯びて弛む。
抵抗する気は微塵も湧かなかった。単純に面倒だったというのもあるだろうが、前述した通り、当時の僕には食い下がる理由なんてものが残っておらず、どこへ行こうとも大差がないように思えていたからだろう。
『これからよろしくね、志絃君! 私のことは、”結菜”って呼んで!』
そうして、そんな僕の胸中など知る由もなく幼気に笑いながら、街路へと勢いよく駆け出した結菜に連れられて向かった先は、病院の最寄り駅。その道中はやはり、先程に見た真っ白な病院とは打って変わって騒々しい、ある意味では都会に相応しいとも言えるような忙しない雑踏と喧噪に包まれていた。
どっ、と。青信号を合図に各々の目的を持って濁流のように歩を進め出す人々。騒がしく明滅する電飾の広告と、風に騒めく歩道の隅に植えられた街路樹。ごうごうと道路を走り去っていく車やバイクが酷く耳に障り、迂回するようにして立ち入った街中の公園にあったジョギングに励む老人や、飼い犬を連れて広場を駆け回る子供の姿。
『はいっ、志絃君の分の切符! 失くさないよう、大事に持っててね!』
そしてそれは、四十分ほど歩いて辿り着いた駅の構内においても変わることはなく、改札口は背広姿や私服姿の大人で入り乱れていて、その人込みと階段を過ぎ去った先で降り立った駅のホームも、更に暫くしてホームへと到着した電車の中でさえも同様に人の姿で満ち溢れていた。
『あはは……やっぱりこの時間帯だと、どうしても混んじゃうね~』
『………………』
当然、それほどまでに混雑した電車には子供二人が腰掛けられる分の座席などは残っておらず、なだれ込む人々に押し込まれるようにして乗り込み、反対の乗降扉に結菜と共に背中を預ければ、乗客を受け容れた電車は扉を閉ざしてからゆっくりと動き出す。
『ねぇねぇ、志絃君は好きなスイーツってある?』
『………………』
ごとり、ごとりと。振動音が鳴り始めると同時に遠退き始めた、車窓の先に並び立つ建物を望みながら、あの日の十歳にも満たない子供二人の旅は酷く長く、それでいて単調に。他愛ない世間話すらも碌に交わさないまま、脈拍のように響く車輪の振動に揺られて、あの日の僕と結菜は遥か彼方へ。
様々な家屋やビルを滑るように過ぎ去り、大きな陸橋や酷く長いトンネルを越え、そして幾度かの乗り換えを挟みながら、あの日の僕は生まれ育った大切な我が家からは遠く離れた土地へと向かって、ただ流れゆく風のように進んでいった。
『………………』
──そうして、ふと。柔らかな紺色の座席に腰を降ろしたまま、首を僅かに回して窓の外、自らの小さな背中の後ろに広がった景色を漠然と眺める。
そこには──もう、何もない。地平線の果てまで続いていた高層建築物の姿も、見ているだけで目が疲れそうなほどに色鮮やかな電飾の灯も、あれほどまでに街路を行き来していた人の形も、今ではもう視界のどこにも映っていない。
目に映るのは、ただ。遠い山の肌を覆うようにして繁茂する草木や、すっかりと茜色に染まった夕空の陽を浴びながら空を飛ぶ幾匹かの野鳥に、まだ青い稲の植わった水田に反射する、当時の僕らを載せた一両編成の小柄な電車の姿だけ。
『もうそろそろで着くよ~』
そんな風に車窓の先を眺めた僕の様子が、酷く退屈そうに見えたのだろうか。少し離れた位置の座席に腰かけた結菜がふいに言葉をこぼせば、その幼気な声が閑散とした電車の中をくまなく反響する。
朝、僕らが乗り込んだ車両を満たしていた人々の姿は既になく、窓の外に広がった山々や長閑な田園風景には見られない喧噪と同様に、生い茂る枝葉の傍を走りゆく一両編成の電車の内は静まり返っていた。
何も置かれていない荷物棚。僕らの他には誰も座っていない紺色の席。カーテンの掛かっていない車窓から射し込んでくる、夕焼けの茜を宿して煌めく銀の手摺。ガラス戸越しの運転席は夕映えの色に染まっていたせいか、そこに車掌の姿を見ることはできず、その様が妙に寂しく感じて当時の僕は視線をもう一度窓の先へと遣った。
『………………』
また再び目に映る、牧歌的な緑青。線路の傍に咲いた紫陽花や、待ち人もいないまま明滅をする踏切を、小川の水面が映す大空と同様に照り付ける夕陽の茜色。眺めた事もないほどに長閑でありながらも、どこか懐かしさに似た雰囲気を帯びる風景。
けれども、そんな景色は突然──ばあっと。照明を遮る暗幕のような黒色によって突如として塗り潰され、絶えず鳴り響いていた電車の振動音は途端にくぐもった音へと変わる。少し遅れて、自らの乗る車両がトンネルの中に入った事を悟った。
『ふんふ~ん』
赤く錆びた線路に従い、電車が入り込んだトンネルの内はとても暗く、そのうえ何十年も前に築かれたであろう苔むした内壁と車体の間に開いた隙間は、辛うじて大人が一人通れるであろうかというぐらいしか存在しておらず、言い表しようのない圧迫感を喉元へと与えてくる。
それはまるで土製の壺や、石を削って作られた棺の中に居るような。あの日の僕や結菜を乗せたこの車両ごと、深い闇の中へと閉じ込めてしまうほどに酷く大きく堅固な石棺の姿が自然と、幼い目に映る車窓の風景に重なっていた。
『…………あっ、見えた!』
しかし、その息苦しさもまた──唐突に。離れた席に腰を降ろしていた結菜が幼気な声を上げた瞬間、黒く濁り切っていた視界は瞬く間に晴れ渡り、遮られていた夕暮れが車窓から一斉に射し込んでくる。
溢れそうなほどに射し込んでくる茜色。再び、真っ赤に染まる車両の中。手摺の表面や窓ガラスに乱反射した夕焼けの光が酷く眩しく、咄嗟に目を瞑ると、閉じた視界の中で強く感じた電車の振動が先ほどと同じ物へと戻っている事に気が付く。
ただ──その向こう。夕陽に眩んだ両目をゆっくりと開き直し、車窓越しに再び望んだ風景は、数分前の僕が見たものとは明らかに異なっていた。
『………………』
西の空に浮かぶ太陽を呑み込まんと聳え、影を伸ばす山々。葉先で夕陽を浴びる木々に、電車の接近に反応して枝から飛び去っていく幾匹かの鳥。そこは変わらない。変わる筈もない。自然というものの姿がそうであると世界によって規定されている以上、それが変わることは何百年の月日を経たとしてもない。
でも、そんな景色の先には。そんな山々と自然に取り囲まれるようにして広がった、窓の先の平地には──幾つもの家屋が軒を連ねる、素朴な町並みがあった。
『………………』
茜に照らされた大きな川と、少し離れた位置に築かれた住宅街。雄大な山の斜面に背を伸ばす、銀色の送電塔。遠く広がる田畑の合間に張り巡らされた道路には、ちょうど農作業を終えたのだろうか。何台かの軽トラックが前照灯を点けながら、住宅街の方へと向かってタイヤを回している。
『よしっ、着いた!』
そうして、それを茫然と眺めていると、不意に。僕らを載せていた電車が減速を始めたかと思えば、その振動を徐々に緩やかなものへと変えてゆき、それに反応して視線を遠景から線路の先に遣れば、目前にまで迫った小規模な駅の姿が視界に映る。
外の景色を眺めるあまり気が付かなかったが、あの暗いトンネルの向こうには、僕らが最初に訪れた駅の何分の一もないであろうというほどに小さく、寂れ果てた無人の駅がいずれ来る電車を静かに待ち受けていた。
『………………』
がごん、と。一両の電車が完全に静止してから程なくして、左右に設けられた自動扉の左側だけが音を立てて開き、それを跳ねるように勢いよく通り抜けた結菜に手を引かれて車両の床から寂れた駅のホームへと両足を移す。
体重を預けた、所々に亀裂が入ったコンクリートのホーム。独特の雰囲気を纏う木造の駅舎。空の茜に染まりきった町並みの正反対、崖崩れを防ぐ為に補強された灰色の山肌を覆い尽くすように生い茂った蔓科の植物。
そんな、今までの自分が知っていたものとは掛け離れた駅の片隅に建てられた駅名の看板は、経年劣化による影響か塗装が著しく剥がれ落ちており、そこに書かれた文字は原形すら掴めないほどに崩れ、ただ生皮を剥いだかのように露わになった赤く錆びた鉄の表面だけがこちらをじっと覗いている。
『それはね、読み辛いけど……
それを眺めていたからだろう。すぐ隣に立っていた結菜は自慢げに、そして意気込むかのように可愛らしい鼻からふんすと大きく息を吐くと、その細い指先で崩れた看板の文字を一つずつ丁寧になぞりながら教えてくれた。
もっとも、そんな様子の結菜とは相反して当時の僕は何も、意気揚々と教えてくれたことが申し訳なく思えるほどに何の感想も抱けなかったが、それでも今こうして記憶を振り返ってみれば……”
『ここまで送ってくれてありがとーっ、と! さてっ! それじゃ、行こっか! 今からでも、ちょっと急げば日が暮れる前には着けるはず!』
そうして、僕らを載せていた一両編成の電車が無事に駅を発車し、遠くまで続く線路の向こうに消えていくのをしっかりと見届けてから、
『………………』
少し古びた銀色の、埃を被った簡素な鉄箱に切符を入れて改札口を通り過ぎ、木造の駅舎を後にして踏み出した駅前にはやはり、都会のような賑わいや眩い電飾の姿は一つとしてなく、遠方まで続いた家屋が織り成す町の姿と西方の空に浮かぶ夕陽だけが痛いほどに目を射してくる。
それを遮るものといえば並び立つ電柱同士の間に張り巡らされた電線や、そこに止まった鳥が落とす影ぐらいであり、そのせいか駅前の花壇に植わった赤色のチューリップは妙に赤く見え、その奥に広がった素朴な町並みにぽつぽつと灯り始めた街灯さえも同様に、酷く濃い緋色を纏っているように感じた。
『ふんふ~ん』
そして、その夕焼け色に染まった長閑な景色を。どこか漠然とした懐かしさを覚えさせるような、青々とした草木の匂いを乗せた風が突き抜けていく、八方垣の町並みの中を子供二人、手を繋いで進むこと幾許か。
夕陽の彩る商店街や公園を過ぎ去って、帰りがけの学生や大人が点々と歩いていた川沿いの通りを過ぎ去って、ふと気が付けば空を茜に染め上げていた太陽さえもすっかりと山の影に飲み込まれ、段々と月明かりが
開墾された山の斜面に立ち並ぶ住宅の合間を縫うようにして敷かれた、薄灰色のコンクリートで作られた階段を手摺頼りに登り詰めた先で、あの日の僕らはようやく、朝早くから始まった長い旅路の終着点に辿り着いた。
『………………』
そこは──夜闇に沈んだ町内を一望できる、山の中腹。周りには並ぶ建物の姿などなく、ただ頭上より降り注ぐ月の光を存分にその枝葉へと浴び、山伝いに吹き付ける風にざあざあと音を立てる、幾本もの植木が織り成す背高の生垣のみによって囲われた──
──大きな、御屋敷。
『じゃじゃーん! すごいでしょっ!』
そう言って両手を広げた結菜の背後に聳える、瓦屋根が特徴的な木造の門と、その更に先に広がっていた、無数の樹々や苔の緑で飾られた玉砂利の庭。そんな和を基調とした庭の隅で、多様な種類の水草を水面に生い茂らせていた瓢箪型の池。
そして、それらに寸分の引けも取らないどころか、寧ろそれらさえも小さく思えるほどの威厳に満ちた空気を身に纏う、遥か昔に築かれてから何百年もの時をこの場所で過ごし、眼下に広がる八方垣の町並みを見守ってきたのであろう──黒い瓦屋根と白い漆喰の大屋敷。
それが──それこそが、あの日の結菜が予てより言っていた、”家”だった。
『ふっふっふ~! でも、こんなもんじゃ終わらないよっ!』
『………………』
当然、その外観のみが荘厳である筈もなく。堂々と聳え立つ門を結菜に引かれて潜り抜け、玉砂利の上に敷かれた石畳の道を渡り、開かれた木製の戸を越えて玄関の内へと入れば、いの一番に飛び込んで来た材木の香りと畳の匂い。
玄関を上がってすぐの場所にあった和室に飾られた、見るからに年代物であろう草木の描かれた掛け軸や、青い花模様があしらわれた陶器の花瓶。そして、その先へと続く白い襖の向こうに物音一つない静寂と共に広がっていた、幼い子供二人では有り余ってしまうほどの大座敷。
『………………』
『ほらっ、こっちもすごいよ~!』
そんな、様に。今までの自分が知っていた家屋や部屋の姿と大きく乖離した、途轍もないとさえ言えるような圧巻の風景に、思わず呆気に取られてしまった当時の僕の腕を結菜は唐突に引っ張ると、そのまま屋敷中を足早に案内してくれた。
……幾つかの位牌が安置された仏間に、時折かぽんと音を鳴らす鹿威しが特徴的な中庭。土間と半ば一体化した台所。物置きでもある屋根裏部屋へと続く隠し階段や、町中の銭湯にも並びうるほどの広さを持つ石床の風呂場。行灯を模した趣のある照明から、なぜか寝室に敷かれた布団の柔らかさと寝心地に至るまで。
それら一つ一つを丁寧に語っては、その橙色の長髪を靡かせてまた別の場所へと足を運ばせた、あの日の結菜の横顔がとても嬉しそうに見えたことを、僕はあれから八年の歳月を経た今に於いても色鮮やかなものとして記憶している。
『さてっ、それじゃ……志絃君!』
『今日からここで、私と一緒に暮らそっ!』
そうして屋敷の中を粗方見て回り、最後に訪れた広い外庭を一望する縁側の情景も。すっかりと暗く染まった空に浮かぶ月の淡い光に照らされながら、その幼い顔に朗らかな笑顔を湛えた八年前の結菜の姿も。
『……………………なんで』
久しぶりに開いた口を掠める、戸の隙間から流れ込む夜風。揺れる枝葉と軒下に吊られた風鈴の音。それ以外には何も、鼠の足音一つさえも響かぬまま、十歳にも満たない二人の子供だけが、ただ向かい合って立つ静寂に満ちた風景も。
その、どれもを。そして、そのどれよりも明確な形としてそこにあった、違和感と言い表すことすら恐ろしい程に致命的だった欠落、ぽっかりと空いた虚な穴を。
……僕は、手に取るかのように思い出すことができる。
『……なんで、誰もいないんだ』
『………………』
──最初は、ただ、どこかに隠れているのだろうと思った。
再三にはなるが、屋敷の中は非常に広い。数人程度であれば容易に身を隠し、無人を装うことができる。だから物陰にでも潜んで、惨めにも家族を喪った僕を嘲笑しているのかと思っていた。そんな卑屈に眩んだ幼い眼で、箪笥や物置の裏を注意深く探ってみたりもした。
『……なんで』
だが、それでも。幾ら屋敷の中を血眼になって探し回ったとしても、遂には真っ黒な夜空へと月が昇り詰めたとしても、静寂ばかりが満ち溢れた屋敷の内に誰かの姿が現れることはなく、幼い結菜と共に回った屋敷の敷地中にはたった一人分の影法師すらも存在していなかった。
正真正銘。疑う余地すらも皆無な確固たる事実、あるいは堅固な現実として、あの千坪は優に越すほどの面積を持つ広大な屋敷の内には、誰一人として居なかった。
そう、誰一人さえも、居なかった。
『────なんで、お前のほかに誰もいないんだ』
ただ、そんな──静寂の中で。
あの日、僕の眼前で、場違いな程に明るく笑った結菜を除いて。
『……………………』
『…………なぁ、なんでだよ』
自然と、震えた声が溢れる。まだ声変わりを迎える前の、今と比べれば少し高かった当時の僕が放つ声が、病的なまでに静かな縁側の上へと溢れ落ちていく。
それは果たして、困惑からだったろうか。それとも、異質な風景への恐怖からだったろうか。常軌を逸した静寂に佇みながらも、その頬に幼気な笑みを湛えた眼前の少女に対する喩えようのない嫌悪感に因るものだったろうか。
今ではもうわからない。判別を付けることはできない。雨後の濁った泥水のように、あるいは樹木や石塊などを含んだ土砂のように、様々なものが入り交じった胸の内は既に区別が付く状態ではなくなっており、そして混濁した胸中でただ一つ確かなものがあったとすれば、それは喉奥から吐き出した言葉だけ。
『なんで、僕を……こんな所に……連れて来たんだよ』
『……………………』
安否を確かめるかのように掛けてくれた沢山の言葉を、行く宛のない僕に仮初とはいえ目的地を与えてくれた恩を、その全てを乱暴に投げ捨てて厚かましくも問い質す惨めな己だけが、まだ幼かったあの時の僕が認識できる何よりも確かなものだった。
『…………ごめんね。志絃君』
けれども──そんな僕へ。あの日の結菜はそう言葉を返すと、ほんの寸前まで浮かべていた朗らかな笑顔が嘘か幻のようにさえ思えたほどの、とても不器用で物悲しい笑みを幼気な顔に浮かべたまま。
笑みと形容することさえ息苦しい笑みを、ただ浮かべたまま──
『それだけは、どうしても答えられないんだ』
僕が掛けた問いを、はっきりと。
もはや返答と言うには遠く及ばず、応じたと言うにも程遠い、ただ突き離すかのようなその言葉たった一つだけで、当時の僕が吐き出した全てを拒絶した。
『………………ッ』
ぎしりと、歯を深く、折れてしまいそうなほどに強く噛む。図々しくも、怒りで視界が眩みそうになる。細い喉の奥底から氾濫した感情が押し寄せては、何処とも知れぬこんな場所でじっと立ち尽くしていることを頭と心に厭わせる。
今でこそ知らぬままでいることを受け容れた、その返答としての体裁すら持たない言葉の先。八年間の歳月を共に暮らしても結菜が明かすことはなかった、あの広大な屋敷が無人であった理由。一度として語ってはくれなかった、酷く澄み渡った六月の日に真っ白な病院から連れ出してくれた訳。
あの時は、またも自分が届かないということが。まるで、大切な家族と共に死ぬ事にさえ至らず、ただ命を引き摺っては何の意味もなく呼吸を繰り返す、無力で愚鈍で惨めで浅ましい僕などでは知るに値しないと言われているようで。
『あっ……でもっ、大丈夫! 安心していいよ! 必要なてつづき……とかはもう終わってるはずだし、ここなら二人で暮らしていけるようになってる、から──』
『………………』
言葉なく、睨み付けた僕を安心させようと向けてくれた、今までとは遠く掛け離れた頼りない結菜の笑顔。こうやって思い返すだけでも胸の奥を酷く痛ませるようなそれに、あの日の僕は声一つも返さぬまま、覚束ない足取りで背を向けた。
それでも──どこか、ここ以外への行く宛はない。かといって、この広すぎる世界を宛もなく彷徨う大層な覚悟なんてものもない。両親から授かり、今は亡き妹と血を分けた五体を手放す勇気が幼い胸の内に湧いてくることもない。
だからあの時、情けなくも小さな背を向けた僕の胸にあったのは、何の進展も得られなかった今日を一刻も早く終わらせようと、眼前に横たわった現実から目を背けようする、醜悪で無様だとしか言い表しようのない悪足掻きだった。
『…………志絃、君』
『………………』
『っ……待って!』
そうして結菜の制止を振りほどき、玄関から身を投げ打つように出た屋敷の外庭には当然、加工された床材の滑らかさも、あるいは敷かれた畳に感じるような温もりもない。運動靴も履かずに地を踏み締めた、小さい裸足の裏からは砂利の粗い感触のみが返り、所々露わになった素肌を砂埃の混じる夜風が冷たく掠めていく。
結菜が気付かぬ内に動かしていたのか、庭の端からでも見えるほどに大きく立派な入口の門は固く閉ざされており、周囲に張り巡らされた背高の生垣も相まって町並みからの灯は一筋さえも届かず、ただ夜空に浮かぶ月の光だけが僕を煩わしいほど鮮明に照らしては、野晒しである事を知覚した本能が温かく安全な寝床を渇望する。
『………………』
けれども、屋根と壁に囲われた屋敷の中で眠る気は微塵も起きなかった。親しんだ自分の家とは異なる、こんなにも遠く離れた場所で独り眠りに就いてしまうのが酷く忌まわしく、そして酷く恐ろしくてたまらなかった。
もしも僕が我が家とは違う家で眠りに就いてしまえば、この掌に残った団欒の残骸さえも呆気なく千切れ果ててしまうような気がして。あの場所に自分と家族が共に住んでいたという掛け替えのない記録が、大切な思い出が、この巡りゆく世界に淘汰されて消え失せてしまうのではないかと思えて仕方がなかった。
『………………っ』
……そんな、酷く意地汚いとも言えるような思いと共に歩を進めた末に辿り着いたのは、屋敷を囲うように広がる庭に於いて唯一と言ってもいいほどに狭苦しく、誰の目にも留まらないような場所であるせいか碌に手入れもされないまま、ただ乱雑に生えた草木によって覆い付くされた片隅。
そこに、未だ青白い病衣を纏ったままの小さな身体を蹲らせれば、もはや思い出だけのものと化した人肌や毛布よりもずっと冷たい土の温度が、地面に触れた表皮から芯へと向かってじんわりと染み込むように伝わってきた。
『………………』
鬱蒼とした茂みの中では、当然ながら冷め切った身体に被さる温かさは何もなく、幾ら芋虫のように身体を丸めても暖を得ることはできない。枝葉の隙間から見上げた夜空は今すぐにでも泣き出しそうなほどに曇り、背中へと当たる小石は息を吸う度に硬く不快な感触を与えてくる。
それでも、固く目を瞑れば。視界に映る全てから意識を遠ざければ、長旅の疲労によって既に活力を失っていた身体は少しずつ、底なしの海へと身を投げるかのように深い眠りの中へ落ちていく。
夜風に騒めく草葉の音も、暗澹とした空の姿も、鬱陶しく思えたほどに眩い月明かりも、その全ては遠く遥かに退いてゆき、未だ繰り返し続けていた呼吸さえも段々と微かなものに変わっていく。
『………………』
そして、そんな微睡みの中で、もう二度と瞼が開かれないように祈りながら。
もう二度と、家族の居ない世界を見なくて済むように祈りながら。
まるで息絶えるかのように酷く静かに、あの日の僕は眠りに就いた。
僕にとっての大切なあの日は──そうして終わった。
「……………………」
……それが、全て。以上が、結菜と出会った日に僕が体験した全てだ。
我ながら、決して劇的とは言えない一日だったとは思う。僕の中に於ける何かが一瞬にして変わった訳ではなく、当時の僕が置かれた事態は全くと言っていいほど好転していない。ただ結菜と出会い、我が家から遠く離れ、ここ──八方垣という土地に映り住むことになったというだけ。
だがそれでも、あの日があったからこそ僕は結菜と出会えたのだろうし、そしてあの六月の日に結菜と出会えたからこそ……僕は今もこうして独り呼吸をし、この長い道程の最期に至るまで胸を張って生きるという明確な目標を持って脚を進めることができている。
故に、たとえそれが大衆映画のように劇的かつ面白みに富んだものでなかったとしても、結菜に救われた僕にとっては紛れもなく掛け替えのない一日であり、そして結菜と共に暮らした八年間に渡る日々の始まりでもある忘れ難い一日だ。
「………………」
「……? 志絃君、どうかした?」
そんな事を思いながら、呆然と見上げていた白い天井から目線を外せば、記憶の底から帰ってきた視界は段々と元の輪郭を取り戻し、凡庸な居間の風景と、その口元に胡瓜の漬物を寄せたまま、不思議そうに首を傾げる結菜の姿を鮮明に映し出した。
「いや……何でもない」
「そう? なら、いいけど……あむっ」
どうやら唐突に目を合わせたことで誤解を招いてしまったらしく、それを解くため、きょとんとした顔を向ける結菜へ何でもないと告げて、手元に置いていた自分の箸を取り直し、そのまま重箱へと視線を移す。
……過去を思い返している間、結菜が黙々と食べ進めていたからだろうか。あるいは僕も、無意識のうちに箸を運んでいたのだろうか。気付けばテーブルの上に並べられた三つの重箱の中は随分と彩りを減らしており、多種多様の料理によって覆い隠されていた底の柄が所々に見えるようにまでなっていた。
「………………」
そうして、その彩色が減った重箱の一段。未だ艶やかな白色に染まった段へ箸を伸ばし、そこから俵型の握り飯を摘んで半分ほどを齧り取れば、咀嚼する度に口内へと浸透していった昆布と甘辛い醤油の味わい。
後から追い掛けてくる、未だ温かな白米の旨味は佃煮の丁度良い塩味によって一層際立ち、単純でありながらも奥深い風味をふっくらとした食感と共に伝えてきた。
「…………やはり、結菜の料理は美味しいな」
そんな握り飯をごくり、と飲み込み。そして続けてもう半分の方を口にして、また幾回かの咀嚼を終えた後に飲み下すと、空になった口元からは酷く静かな言葉が自然と、ただ息を吐くかのように溢れ落ちる。
……過去を遡ったお陰で更に実感できた事だが、結菜は出会った当初から本当に料理が上手で、幾度となく僕を驚かせようと様々な料理を拵えては、その頬一杯に満面の笑みを湛えながら振舞ってくれた。
小さな桐舟に載った鯛の造りや、一緒に採った山菜を煮込んだ鍋。敷地内の畑で栽培した野菜を用いたカレーに、屋敷の蔵から取り出した杵と臼で一から搗いた餅などといった、こうして思い返すだけでも食欲が誘われ、そして当時の僕には生憎と味が分からなかった事を惜しく思えるほどのそれらを、いつも結菜は容易く作り上げてみせていた。
まだ──その齢が、十にさえ満たなかったというのにもかかわらず。
「………………」
……本音を言えば、結菜がそこまでの手腕を持つ理由への関心や興味がないわけではない。黙々と箸を動かすこの一瞬にさえ胸の奥底にある、今は亡き大切な家族への思いと同じく、結菜が辿ってきた過去に対する疑問は常に心の物陰にてひっそりと手を招いている。
だが……それはきっと、僕が知ってはならないものだ。僕が知る必要などはないと結菜が判断したものだ。その手に抱えられた数々の事情も、この八年の中で頑なに語らなかった来歴も、他ならない結菜がそう選択した以上は僕に知る権利や資格なんて大層な代物は存在していない。
「………………」
故に今は、いつの日か結菜がそれを僕に語ってくれることを願いながら、そして僕がいつの日か語られたそれを受け止めることができるような人間になっていることを祈りながら、ただ精一杯呼吸をして真っ直ぐに日々を過ごしていればいい。
そのような生き方こそが、結菜がくれた沢山のものに報いることが叶うたった一つの確かな道であり、そして僕が全霊を以て歩むべき道である筈だ。
「…………ごちそうさまでした」
「ふふっ、はいっ! お粗末様でございました!」
そんな言葉を心の奥深くで呟きながら、あれほどまでに彩り豊かだった重箱、気付けばその最後に残った一つとなっていた漬物を喉奥へと飲み込み、とうとう空となってしまった三段の重箱に手を合わせて食後の挨拶を口にすれば、正面の席に座った結菜がまたいつものように朗らかな笑みを湛えながら応えた。
「……そう、謙遜するほどではなかったように思うが」
「いーのいーの! それに、謙遜して損はなしってよく言うじゃん?」
するり、と。軽い衣擦れの音と共に椅子から立ち上がった結菜は、くすくすと楽し気にそう言葉を呟くと、さきほど解いた風呂敷でテーブルの朱い重箱と二膳の箸を綺麗に包み直していく。
絨毯のように広げられた風呂敷は上に置かれた重箱を結菜の指先に従って覆い隠し、更にその四隅がきゅっと固く結ばれれば、もはやそこに重箱の姿や箸の姿は欠片もなく、結菜が訪れた際に持っていたものと寸分の違いもない桜色の風呂敷包みだけが簡素なテーブルの上に佇んでいた。
「……ほいっと、それじゃ、今日も学校までよろしくね!」
「ん……ああ」
そして、それを差し出されるがままに受け取ってから、もう片方の掌で掴み直した紺色の学生鞄と共に、自らの腰を降ろしていた椅子からゆっくりと立ち上がる。
受け取った風呂敷包みは既に重箱の中が空であるためか、あるいは材質のお陰でもあるのか、片手では些か持ち難く思うほどに大きく膨らんだその外見に反してかなり軽く、特段力を込めずとも持ち続けることが可能だった。
だがそれでも、こうして僕が代わりに持てば結菜へ掛かる負担を少しぐらいは減らせる筈だろうし、何より幾ら結菜の厚意からだとはいえ、あれほどまでに豪勢な食事を、しかも朝方から頂いた以上は対価を支払わなければ居心地が悪い。
「……もう、こんな時間か」
そう思いを抱きながら立ち上がれば、自ずと目に留まった、天井付近の壁掛け時計。その黒い短針は今まさに八の文字に重なろうと内部の歯車に突き動かされており、そして長針も同様に十一の数字へと差し掛かろうとしている。
七時五十五分。刻々と迫り来る八時半の始業時刻までの猶予は、道中に要する時間も含めればさほど残っておらず、逼迫とまではいかないにせよ、出来ればすぐにでもここを出発した方が良いような状態だった。
「あらら、流石にそろそろ歩き始めないとやばいね?」
「…………」
同じように丸時計を僕の隣で見上げながら、どこか悪戯っぽく微笑んだ結菜の言う通り、このまま悠長に佇んでいれば間に合わなくなってしまうだろう。それが僕だけであるならばまだしも、わざわざ自らの通学路からは外れたこのアパートに立ち寄ってくれた結菜までもが遅刻する羽目になっては酷く申し訳ない。
「ならっ、ほらっ! 早く出発しよ~!」
そんな事を考えた胸中を見透かしたかのように結菜はそう言葉を紡ぐと、ふいに勢いよく駆け出し、あの広大な屋敷ですら納まり切らないと思えたほどに活発な、橙に染まった後ろ姿を揺らして玄関の方へと向かっていく。
その後を両手に鞄と風呂敷包みを携えながら、先ほど灯したリビングの照明を消灯に切り替え、雑貨や古時計などといった雑貨が飾られた幾つかの棚を過ぎ去って追えば、暖かな電球の光が照らす手狭な玄関の姿が再び目に映った。
「……しょっ、と」
「………………」
玄関では一足先に辿り着いていた結菜が自らの靴、土間に揃えていた茶色のローファーを履き終えており、それより僅かばかり遅れながらも同様に自身の靴へと足を納めてから、携えた風呂敷包みに気を配りつつ指先で頭上の灯を消す。
かちり、と点滅器の中で音が鳴ったのと同時に電球はその光を失くし、狭い玄関には結菜が訪れる前と変わらない薄暗さが満ちて、ただ覗き穴から射し込む日の光だけが内鍵に手を掛けた僕と、そのすぐ傍に立つ結菜の髪を淡く照らした。
「……開けるぞ」
「は~いっ!」
そして、そんな結菜へ合図を送ると同時に錠を外し、閉ざされていた鉄扉を片手で強く押し開ければ、今一度開け放たれた扉の向こう側から玄関の内へと照り込んできた──あの眩い陽光。二度目となる、五月の日射し。
ただ一時間ほど前よりも、両目が光に慣れていたお陰だろうか。またも勢いよく流れ込んだ光の波に視界を眩ませることはなく、軒先の風景を眺めた自らの瞳は、その先に高々と広がった晴天の姿をハッキリと捉えることができた。
「うんっ! やっぱりいい天気だね!」
そう呟いた結菜の言う通り、頭上の空には木綿のような白雲も、あるいは灰に濁った曇り雲も一つとして浮かんでおらず、ただ澄み渡った群青色だけが広大な空を独占して、遠景に聳える山の向こうまでを染めている。
遮るものない日光は
そうして、その景色を眺めながら軽く息を吸えば、背後に建つ古ぼけたアパートの匂いに紛れながらも確かに、これから来る梅雨の季節と夏日の熱気を思わせるような、青々とした草花の香りを感じられた。
「………………」
けれども、一旦。それらからは目を離して振り返り、僕らが出てきた鉄扉に備え付けられた酷く小さな鍵穴へと、紺色の学生鞄から取り出した鍵の一つを挿し込み、がちゃりと金具の音がするまで左に回してから引き抜く。
少し見ただけでは廃墟の物と見紛うような、この寂れた扉を見て立ち入る事を決める泥棒なんて世には居ないだろうが、それでも結菜の世話になりながらも選んだ家具や家電を壊されたり、あるいは盗まれでもしたら堪ったものではない。
そのため念には念を入れてドアノブを軽く引き、錠の掛かった扉が開かないことを確認してから、引き抜いたアパートの鍵を学生鞄の小物入れへと仕舞い直した。
「家の鍵、ちゃんと掛けた?」
「……ああ、しっかりと掛けた」
「ふむふむ……よしっ! それじゃ、志絃君!」
そしてもう一度、今度は鉄扉から軒先の方へと振り返り、閉じ切った鍵穴をすぐ後ろで見詰めていた結菜に言葉を返せば、それを聞いた結菜は待っていたとでも言わんばかりに満足げな表情を浮かべながら、その華奢な両脚を日溜まりに向ける。
たんっ、と。ローファーに接した地面から高い音が鳴るほどに勢いよくコンクリートを蹴って、弾むような軽快な足取りで結菜が日の注ぐ軒先に踏み出すと、トレードマークでもある鮮やかな橙色をした長髪は宙に靡き、筆で描いたような一筋の線を住宅街の風景へと刻み込んだ。
「今日もまた、一緒に歩こっ!」
そうして、そんな日射しの中でまた、普段と同様に屈託なくその頬を綻ばせ、明るく朗らかに笑った結菜の姿を目印として軒下の陰から身を乗り出せば、周囲に満ちる数々の色は一段と精彩を増して視界を飾っていく。
並ぶ屋根の黒や黄、草の緑に花の白。靴踏む地面の灰色、手に持つ紺と桜色。ふわりと揺れる結菜の髪の橙と、その宝石を思わせるような眩い瞳の琥珀色。
「そうだな、今日も……いつものように、一緒に行こう」
そして幾年を経ても変わらぬまま、頭上に広がる群れの青。遥か彼方に至るまでが澄み渡った空を際限なく満たす、ふと見上げれば思わず息すら呑んでしまうほどに透き通っていた藍の色。
……”あの日”から。決して変わることなどなかった、この世界の色彩。
「………………」
──だから、そう。それはきっと、単なる僕の錯覚でしかないのだろう。
空を見上げた視界に映る、澄み渡った青空の隅が──少し。
ただ、ほんの少しばかり。
──血のような、
藍の随に生く日々よ 代理石@連載中 @ghost-jp
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