藍の随に生く日々よ
代理石@連載中
序章 邂逅
第1話 藍と玄①
──片時だって忘れない、五月の某日。
『……おかあさんっ、なんでっ』
瞳孔を焦がし、眼窩にさえも焼き付いた光景。幾年月を経ても薄れることはない鮮明な喪失の情景。降り積もった雪のように真白く染まった床に情けなく蹲り、ひたすらに咽び泣き、絶叫を続ける幼い僕の姿。
冷蔵庫の中を思わせるほどに肌寒かった空気。根本まで燃え尽きた線香と、伏して見上げた視界の一面に並ぶ白百合、白菊、胡蝶蘭。そして、そんな幾本もの供花に囲まれながらも、静かに佇んでいた三枚の写真と三つの木棺。
一縷の灯もない暗夜に似た、その真っ黒な額縁が不相応に思えるほどの和やかな笑みを湛えた三人の写真。あんな風に笑う瞬間はもう二度と訪れない、他の何よりも大切だった家族の写真と、その傍らに鎮座した三人分の冷え切った棺。
『おとうさんも……どうして…っ……かえったらっ……いっしょ…ぁっ、に…っ…みんなで……かった、おみやげ……かざったり……しようって…っ』
それらを前にしたまま、あの日の僕が上げ続けていた絶叫に耐えかねて去ったのだろうか。小さく丸めた背中の後ろにずらりと並んだ、銀色のパイプ椅子に座る人影は一つとして見えず、隅々まで行き届いては反響して返ってくる自らの涙声は無駄に広い葬儀場を一段と広く感じさせた。
『やく…っ…そく、した……のに…っ』
だが、もう。そんな耳に障るほどに喧しい大声で泣き喚いたとしても、眼前に冷たく横たわった三つの棺から温かな言葉が返ってくることはない。
『うぇっ…あ˝っ…ねぇっ………しほ……っ』
嗚咽の度に鼻を突く、花の濃い香り。まるで苺や桃といった甘い果物を熟れに熟れさせ、遂には腐らせたかのような饐えた匂いに堪え切れず、不快感や胃液を口の内に満ちた血と共に床へと激しく嘔吐する。
そうして気が付けば、あの白く清らかだった床の姿はどこにも残っておらず、葬儀場の一面は自らの口腔から溢れ落ちた吐瀉物と血液によって赤黒く塗り潰されていた。
『ねぇ…っ、しほだけでも……いいから、こたえてよ…っ』
けれども、やはり既に。そんな血反吐を拭い去ってくれたであろう人も、それを絶えず流し続ける僕の身を案じてくれたであろう人も、励ましの言葉をくれたであろう人も、皆既にこの世にはおらず。ただ聞き手も居ない絶叫だけが赤黒く染まった部屋中に響き渡り、その度に孤独感が喉元を抉るように締め付けてくる。
『おねがい、だから……ねぇ…っ』
それから必死に逃れようと、幼い身体を沈めた血の池の中から痩せ細った腕を力一杯、無我夢中で引き伸ばしたとしても、赤黒い血に塗れた小さな指先は依然として何にも届かない。
残酷にも遠く過ぎ去ってしまった日々のように、あるいは変わらず在る筈だった日常のように、あの和やかな団欒へと続く帰路を辿った時のように腕を伸ばそうとも、もはやそれが何かを掴むことはなく。そして、何人に掴まれることもなく。
『っ……ああっ……うぁあっ…あ˝あっ…ぇあ…っ』
虚空へと翳した掌はただ、濡れた床へと落ちていくだけ。三つの棺に納まった大切な家族の亡骸を受け容れることも、最期の最期に触れることさえもできぬまま、自らの血に塗れた腕は重力という摂理に従って落ちていくだけだった。
『あ˝あ˝……っ…──ああ˝ぇあぁアっ!』
絶叫が、溢れる。喉が張り裂けそうな嗚咽交じりの悲鳴が上がる。その様に。もはや決して変わり様のない忌まわしき現実に、言葉としての体裁を失った無様な鳴き声が喉奥から絶えず這いずり出ては、華やかなだけの葬儀場を塗り潰していく。
嘗ては白かった床。銀色の管椅子。祭壇に供えられた沢山の花と家族の写真。とうに燃え尽きて灰と化した線香。骸だけが納まった三つの棺。分厚い壁を伝い這った先の天井と照明。唾棄すべきほどに仰々しく飾られた家族の名前。まだ幼かった僕には遠い彼方のようにすら思えた、背後を塞ぐ鉄扉の外に至るまでを。
開いたままの口腔と眼窩から溢れ続ける赤黒い色は、その全てを淀みなく塗り替え、この気が狂いそうなほどに蔓延した沈黙を惨殺するかのように、もはや前など微塵も望めなくなった視界に辛うじて映る彩りを醜く滲ませていった。
『ぁ˝……あ˝ぁア˝ああ…˝ッ』
そうして、そんな変容した空間の中心で──ただ独り。
絶え間なく涙を溢しながら、終わってしまった夢の痕を叫ぶ。
『っ…ぃあァ˝っ、あ˝あ˝…っ……あ˝…』
この夢が遂に潰える、その最期の一時となるまで。
たった独りのまま、泣き叫び続けていた。
「──っ、ここは…………僕の部屋、か」
──ふと。自らの喉元を強く締め付けた息苦しさで跳ねるように目を覚ませば、もう随分と見慣れつつある白色の天井が僕を迎えた。
自らが寝転がったベッドの柔らかな感触。昨夜、就寝前に消した輪状の照明。狭いベランダへと続く窓を遮る灰色のカーテンと、その隙間を縫って射し込む温かな日の光は今日も今日とて何一つ変わらず、訪れた朝を淡々と告げている。
「………………」
そしてそんな、これといった変わり映えも無い凡庸な部屋の風景から訳もなく、まだ霧がかかったかのように朦朧とした意識で枕元へと視線を遣れば、そのすぐそばに置かれた銀色の目覚まし時計が目に留まる。
カチカチと、一秒を音と共に刻む、どこか古めかしいベル式時計に備わった黒い針が指し示していた時刻は、予めアラームを指定した午前七時の十五分前。
それにまた、少し早く目覚めてしまったな、と。幾度目になるのかも定かではない感想を抱きながらも片腕を伸ばし、十五分後に控えた意味のないアラームを止めてから、掛け布団の中に沈み込んだ身体をゆっくりと起き上がらせた──瞬間。
「────ッ」
──ぶつり、と。頭の奥を何かが千切れるような感覚が貫いたかと思えば。突如として鈍く激しい痛みが押し寄せ、霞んでいた意識を隙間なく埋め尽くし、酷いぐらいの吐き気と共に薄暗く染まった現実へと引き戻す。
「ッぁ……」
それに気付いた時にはもう既に遅く、胸の内にある心臓は無性に早鐘を打ち、荒く呼吸をする度に喉へと酸味がにじり寄り、錯乱した視界は周囲の輪郭を捉えることすらも叶わず、叩き起こした筈の背筋は重力に従って情けなく項垂れていく。
そのうえ肌から噴き出した冷や汗が与えてくる不快感が混じり合えば、頭蓋の裏を駆けずり回る、神経を引き千切られるような激痛は更に耐え難いものへと変わり、ほんの僅かでも気を抜いてしまえば、ただ眠るかのように事切れてしまうのではないかという錯覚さえ。
「か…っッ……はァっ」
歪んだ顔が映る程に大粒の汗が、頬を伝って滴り落ちた無地の掛け布団。そこに身体を預けてしまえば、ただ安らかに止まってしまえるのではないかという、到底許される筈もない気の迷いすら、鈍く激しい痛みに苛まれた頭の中には生じてきた。
「………ぁッ、っ」
だが、それを。そんな痛みや迷いや吐き気を……ぎしりと。奥から前に至るまでの、歯茎に備わった全ての歯を固く食い縛り、それでも溢れてくる痛覚を痙攣した片手に強く力を込めることで何とか堪えながら、もう片方の手で枕の近くから一枚のタオルを掴み取れば、掌の肌越しに伝わってきた細かい糸の質感。
保冷剤の類を包んでいる訳ではないので冷たくはなく、かといってカイロのように温かい訳でもない、自らの体温と大差のないぬるさを帯びていたそれを、冷たい汗がべっとりと纏わり付いた額へと静かに宛てがう。
「ッっ……またっ……今日も、魘されていたのか」
そして、宛がった額から少しずつ。前日や一昨日の朝と何一つも変わらない、無意識の内に熟すことすらできるほどに慣れ切ってしまった動作で皮膚を伝う汗を丁寧に拭い去ってゆけば、聞き手もいない愚痴が力の緩んだ口元から溢れた。
こんな……我ながら目を背けたくなるような有様でも、ここ最近は魘される頻度も昔に比べて随分と減り、自信をもって良くなったと言えるようにはなったのだが、やはりそれでも五月となるとそうはいかないらしい。
徐々に熱を帯び始めた気温と、梅雨に迫りつつある大気の湿度。初夏の風が運んでくる草花の匂い。そして何よりも、今が家族を喪った”あの日”と同じ五月であるという事実が脳の奥底から鈍痛を掻き出しては、目を覚ます度に意識を苛んでくる。
その中で一応、痛みの原因でもある夢の内容を碌に覚えていないという部分だけはまだ良いと言えるのかもしれないが、当然の事ながらそれを褒め称えた所でそれが止む筈もなく、頭に残った鈍痛は未だ充分すぎるほどに耐え難い。
「……だが、それでも時は決して止まってくれない」
そうして額や、首元。寝間着の裏などに付着した汗を一通り拭い終え、気付けばすっかりと湿っていた白色のタオルを部屋隅に置かれた洗濯カゴへと放り投げると共に、いつかの日に恩人から教わった言葉を反芻するかのように呟いた。
”刻一刻と進む時の流れに抗うすべはなく、人は生涯においてそれに付き合わなければならない。”
なんだか、とっても理不尽だけれど、それでも人であるからには前に向かって進むしかないと。その頬に幼気な笑み湛えながら教えてくれた、橙色の髪をした少女。かけがえのない、僕にとっての大切な恩人でもある”彼女”から貰ったこの教えを、こんな頭痛如きで無下にしてしまうわけにはいかない。
「……っつ」
そう強く、まだ少し痛みが残る頭に言い聞かせながら、ぐらりと。酷く覚束ない足取りでベットから立ち上がり、照明の中心から吊り下げられた一本の細い紐を軽く引っ張れば、薄暗く染まっていた部屋の風景は瞬く間に鮮やかな色調へと移り変わる。
ぱっ、と電灯によって照らされる、目覚めた時に眺めた天井と同じく薄白い部屋の壁。壁に掛けられた高校の制服。飾り気のない簡素な木製の机と、そこに置かれた紺色の学生鞄。フローリングの床では些か違和感のある欅の箪笥。
その片隅に鎮座した、”彼女”から貰った大きな鏡には相も変わらず、自らの酷く不健康そうな顔色と、それとは真逆だと思えるほどに鮮やかな、充血でもしているかのように濃い赤色を帯びる自分自身の両目がくっきりと映っていた。
「……急いで、着替えなければ」
そして、そんな風景を。こうして眺めるのも悠に三十回は繰り返したであろう、一月ほど前から住む場所となった空間の姿を前にしたまま、ぼそりと口元から溜息と共に言葉を吐く。
今日も目を覚ましたからには、そして今日も学校に行くからには当然、この寝間着から制服へと着替えねばならない。こんな姿のまま登校したらクラスの笑い
汗を拭い去ったお陰で、痛みが薄れつつある頭の中。そこによぎった”彼女”の後ろ姿に急かされるようにして、黒い制服と白色のシャツを壁から外し取り、身に纏っていた寝間着や下着を先程のタオルと同じく籠の中へと投げ入れる。
洋室には似合わない、厳かな雰囲気を放つ古箪笥の二段目から下着を取り出して着替え、真っ黒な制服のズボンに両脚を納めると、するりと通したベルトの金具を慣れた手付きで固く留める。
そして、そのまま流れるように腕を通した白いシャツの、襟元まで並んだボタンを余すことなく掛けてから一旦、自らの恰好に崩れた部分がないかを彼女から貰った鏡で確かめた。
「…………………」
……まだ途中とはいえ、一応は学校の制服を纏ったからだろうか。健康的だとはお世辞にも言えない顔色も、僅かに赤みを帯びた黒く長い髪も、こうして身なりを整えれば幾分か良く見えるようになったと感じて、ほっと一つ安堵の息を吐く。
もう一人でも充分に暮らせると大見得を切った癖に、己の恰好すらも取り繕えないようでは”彼女”だけではなく、先立った家族にも向ける顔がない。それに現状が誰かに誇れるような完璧には程遠いものだったとしても、自らの手が届く範囲ぐらいは整えておく方が人としての正しい道筋に近いはずだ。
「…………よし」
そんな思いと共に吐き出した息の分、自らが吐いて失った分の空気を一度の呼吸で肺へと取り込んでから、傍らにある椅子の背に掛かった制服の上衣を手に取り、真っ黒に染まった袖の中に片腕を納めようとした──その時。
『──────』
突然──ピンポーン、と。僅かな前兆もなしに鳴り響く、来客を報せる為の特徴的な電子音。現代的な押しボタン式の呼び鈴。未だに慣れない、軽快とも言い表せるようなチャイムの音が部屋中を響き渡り、思わず袖へと通しかけた腕が止まる。
そうして一体、こんな朝方から誰が訪ねてきたのだろうか──と。身体を動かしていた分の意識までもが電子音の鳴った方に傾倒し、静止した腕と同じく視線までもが釘付けとなったのも束の間。
「──
反射的に抱いた、正体不明の来訪者に対する疑問を一息で吹き飛ばすかのように届いてきた、女性の声。直前に響き渡った機械的なチャイムの音とは相反して澄み切った大空や水面が反射した太陽を思わせるような、酷く晴れ晴れとした少女の声。
そして、その正体を解き明かすには充分すぎるほど、決して他の誰かが放つ声に聞き間違えることなどないほどに、この町で暮らしてきた八年間の中で絶えず耳にしてきた──僕のよく知る、”彼女”の朗らかで明るい声。
「……っ」
それに──はっと。傾倒していた意識が我に返り、咄嗟に視線を遣った先の壁掛け時計が指し示していた時刻は、いつも”彼女”が訪ねてくる七時十分丁度。脳内では確かにあった筈の猶予は既に微塵も残っておらず、先程の鈍痛や汗を拭うのに集中するあまり、正常な時間の感覚を失くしていたことを今になって自覚した。
「……じき支度が終わる、少しばかり待っていてくれ!」
「うんっ! わかった!! 気長に待ってるから、ゆっくり支度してね!」
そんな、自らの不注意によって生じてしまった遅れを取り戻そうと、未だ途中だった制服の袖へと大急ぎで両腕を通し、先程と同様にボタンを一つ残さず留めながら、柄にもない大声で玄関向こうで待つ”彼女”に言葉を伝えれば、また”彼女”の朗らかな声が山間を反響する山彦のようにハッキリとした形で返ってくる。
僕が今住んでいる、この寂れたアパートには他の住人が居ないということもあり、遠慮なく大声を出しているというのも”彼女”の声がここまで鮮明に耳へと届いてくる理由の一つではあるのだろうが、だからと言ってそれだけでは”彼女”がこうも元気よく、しかも朝早くから声を張り上げられる訳を説明することはできないだろう。
その、少し大袈裟に言ってしまえば桁外れとも表せてしまうような、溢れんばかりの活力に満ちた所も明るい声色と同様に、僕が出会った当初から寸分だって変わらない”彼女”の特徴であり、他の人にはない確かな個性だった。
「………………」
八年に及ぶ歳月の中で積み重なった、”彼女”との様々な思い出。焦らぬよう促す”彼女”の声に呼応して、脳内に浮かび上がってくる幾百もの記憶を足早に振り返りながら、制服に付いたボタンを留め終えた指先を離し、机に置かれた学生鞄へと手をかざす。
必要となる高校の教本や筆記用具、学校の購買で昼食を購入する為の小銭や、有事の際に連絡する為の携帯電話などといった物品は昨晩の時点で既に鞄の内へと納めている。故にもう、学生鞄の中身を開いて確認する必要はないだろう。
そのまま持ち手をしっかりと握り締め、そして最後にもう一度立ち鏡に映った己の姿を横目で確かめてから、照明の紐をまた軽く引き直して灯を消し、薄暗い色へと染まり直した寝室とリビングを仕切る扉を押し開けた。
「………………」
ぎぃ、と。軋んだ音を上げる木製の扉を後にして踏み出した先は、目覚めた時に見た寝室と同じく、昨夜の内に照明を消した何畳かのリビング。各所に置かれた棚や時計、家具が持つ輪郭さえも曖昧なものとなるほどの暗さに沈み込んだ居間。
ただ、そんな居間の中央に置かれたテーブルの上だけは小窓から射し込んだ一筋の陽光によって眩く照らされており、そこにある花瓶と生けられた一輪のカーネーションを色鮮やかに、その淡い桃色を普段よりも一段と美麗に見せている。
それこそ、それが墓参りの際に切り分けた余り物などとは到底思えないほどに。
「………………」
だが今はその鮮やかなカーネーションの切り花にも、こんな薄暗いリビングにも用事はなく、木漏れ日のように光が射し込む小窓からは視線を逸らし、一刻でも早く”彼女”の待つ玄関へと向かう為に己の両脚を動かす事だけを考えた。
「…………相変わらずだが、狭いな」
……とはいえ、所詮ここは寂れたアパートの片隅にある一室でしかない。往復するのに数分を要した廊下も、広大な庭の姿を一望できた木造の縁側も、あそこから引っ越した今ではもうどこにも見当たらず、瞬きをする間もなく辿り着いた玄関もまた、半生を過ごした場所とは明確に異なる圧迫感に満ちた空間だった。
人一人が立つだけで隙間を失う土間を更に窮屈なものに感じさせる、僅かに射し込む日の光さえも届かない暗く手狭な視界。右横へと腕を伸ばせばすぐに壁へと突き当たり、触れた掌は壁紙のざらざらとした手触りを鮮明に伝えてくる。
それでも、ごく少人数での暮らしを想定して設計されたアパートの一室としては充分なのかもしれないが、あそこでの生活に慣れ親しんでしまった僕からすれば、その妙に大きな玄関の扉も含めて違和感の塊でしかなく、いずれは当然だと思うようになるのだとしても、まだ当分は先のことになるだろう──と。
「………………」
そんな事を考えながら、この手狭な玄関を塞ぐように備え付けられた扉の内鍵へと人差し指を掛け、その内部で鈍い金属音がするまで右方向に回す。
そして、取っ手を固く握り締め──
そのまま、ゆっくりと──重い鉄扉を押し開けた。
「────ッ」
──瞬間。開け放たれた玄関へと向けて、一斉に射し込んでくる眩い陽の光。迂闊にも開いたままだった
寸前まで扉が遮っていた五月の日射しが堰を切ったかのように勢いよく玄関の内へと流れ込み、その眩しさに思わず両目の瞼を固く閉ざす。
「あははっ、眩しかった?」
そんな僕の様子が、”彼女”からは随分とおかしく見えたのだろうか。降り注いだ陽光で白く滲んだ視界の中、蝶番の限界まで開け放たれた玄関の先に立つ”彼女”がくすりと、いつものように悪戯な笑みを浮かべた。
もっとも、光に眩んだ両目では”彼女”の頬に湛えられた笑顔を見る事はできなかったが、それでもこんな時に”彼女”がどうやって笑うのかなんて、八年の歳月を共に過ごしてきた今では容易に想像することができる。
きっと──この日射しにも負けないような、明るい笑みを湛えているはずだ。
「っ…………」
そうして、少しずつ。眩んだ視界が段々と押し寄せる光の波に慣れてゆけば、不鮮明にしか見えなかった”彼女”の姿がはっきりとした輪郭を帯びていく。曖昧でしかなかった眼前に立つ人影が、徐々に端の方から見覚えのある姿形へと変わっていく。
ふわり、と風に靡く、橙色の長い髪。同じ高校の、けれども僕の物とは異なる女子生徒の制服。いつものように背後で手を組んで立つ華奢な身体。右耳の近くに付けた、二本のヘアピン。眩い陽光の中で煌めいた琥珀色の瞳と、それに負けず劣らずの元気よく笑った可憐な少女らしい顔立ち。
それはやはり、決して他の何かに見紛うことなどはない、そして僕が僕である以上は忘れられる筈もない──かけがえのない”
「…………おはよう、
「うんっ!
にっ、と。目を滲ませた光にも慣れ、鮮明なものとなった玄関先に佇む結菜はその頬を一段と柔く綻ばせると、元より浮かべていた笑顔よりも一層明るく朗らかな笑みを湛えた──かと思えば。
「いやぁ~……先月にいきなり、志絃君が一人暮らしを始めるって言い出した時は不安だったけど~っと!」
そのまま、交わした挨拶から続けてそう言葉を紡ぐと、またも昨日や一昨日のように琥珀色の瞳を前触れもなく接近させ、吐く息すらもかかりそうなほど間近に迫った僕の顔色を食い入るかのような眼差しで見詰めた。
「………………」
「──んー……うんっ!」
じっ……と、じぃっと。お互いに視線を重ねて見つめ合ったまま、流れていった暫しの時。およそ一分と少しが経った頃。変わり映えのない僕の顔色を一通り見回して満足したのか、結菜は近付けた時や前日と同じく唐突に、高校の制服を纏った華奢な身体を一歩後ろへと下がらせた。
「うんうんっ、よかった! 昨日よりはちょっと血色が悪めな気もするけど、でも概ね元気みたいだね! それに最低限、挨拶できるぐらいの元気はあるっぽいし!」
「……少し、心配し過ぎではないか?」
そうして、こくり、と。満足そうに首を縦に振りながら、可憐な頬一杯を嬉しそうに綻ばせた結菜へ、先程の急接近に伴って仰け反った上半身を正しい姿勢へと直してから声を掛ける。
こうやって結菜が僕の体調を気に掛けてくれるのは非常にありがたく、そのうえ知人の体調を案じる内心を理解できないという訳でも決してない。だが、それでも訪れる度に僕の顔をじっと見詰め、僕の具合を窺うのは些か心配をし過ぎているのではないだろうか、と。
「ちっちっち~、志絃君はデリケートな乙女心がわかってないね~」
「なんだそれは……」
しかし、そう訊ねられた結菜は何故だか唐突に両肩を軽く竦めると、自らの胸中に秘められているという繊細な乙女心に対する、僕の著しい不離解をたしなめた。
ただ勿論、その作為的で大袈裟な身振りと、未だ緩ませた頬からも見て取れる通り、心の底からの落胆を示している訳ではないだろう。こんな風に結菜がおどけた態度を取るのは決まって、問い掛けをはぐらかす際に用いる常套手段だ。
「………………」
何かと、恐らくは他人と比較して数倍ほど。僕などでは計り知れないほどに沢山の秘密や隠し事を抱えた結菜が他者からの質問をうやむやにするのは珍しい事柄でもなく、それどころか八年も共に過ごしてきた今では寧ろ、日々の中で平然と過ぎ去っていく日常風景の一部にまでなっていた。
「まぁまぁ~別になんだって良いじゃん! とゆうかそれよりも、ほらっ! 早く一緒に朝ご飯食べよっ!」
そんな、いつものように振られた話題を笑って誤魔化す結菜を同じく普段通りに眺めていると、ふいに結菜はその言葉と共に背後で組み続けていた両手を解き、自らの右手に携えられた荷物を眼前の宙へと掲げた。
ずいっ、と。空を切って、得意げな笑顔と共に突き出されたのは、昔から結菜が愛用している桜色の風呂敷。薄桃に染められた、桜の花を象った可愛らしい柄の布地は内に包む物体によって四角形に膨らみ、軒先から照り込んでくる陽光はどこか見覚えのある箱状の輪郭を淡く透けさせる。
それに反応してか、今の今まで忘れ去っていた空腹感は卑しくも駆け足で胃袋の内へ舞い戻り、まともに食事を摂らなかった昨夜の不満を脳に強く、今すぐにでも鳴き喚かんばかりに強烈なものとして訴えてきた。
「あっ、家に上がってもいい?」
「……ああ、もちろん構わない」
そのような差し迫る状態だった、僕の文字通りの情けない腹の内など知る由もなく、高々と掲げていた桜色の風呂敷包みを元の位置へ戻した結菜の言葉に返事をしてから、両手に鞄と風呂敷を抱えた結菜が玄関へと入り易いよう、鉄の扉を片手で抑えつつ四歩分ほど後方に身体を下がらせる。
元より拒む気などは微塵も無かったものの、しかしこうして風呂敷の包みを見せられ、空腹感までもが早くしろと頻りに野次を飛ばしてくるのならば、ますますここで拒める筈はなく、退いた足の動きは自分でも驚くほどに円滑だった。
「おっ、せんきゅ~!」
そうして、その隙間へと結菜が華奢な身体を滑り込ませると、薄暗かった玄関は瞬く間に結菜の髪色である橙で一杯となり、そこから少し遅れて射し込んできた日の光も合わされば、不相応に思えるほどの鮮やかさが視界を包み込む。
狭苦しい玄関には飾り一つ、置物の一つもないというにもかかわらず、朗らかに笑う結菜の背後から射し込む眩い陽光は辛うじてそこある彩色を際立て、そして確かにある橙色を一段と煌びやかなものに感じさせた。
「っと……やっぱ狭いね~、ここ」
しかしそれも、窮屈そうに肩を窄めた結菜の後ろで……ぎぃ、と。開けておく意味と、留め具の代わりに支えていた片腕を失った鉄扉が鈍い音を伴いながら閉じていけば、色鮮やかだった玄関は瞬く間に褪せた色調へと戻っていった。
あれほどまでに眩く射し込んでいた日の光も、扉が閉まる際にか細い糸のような一筋の光となって玄関の壁を強く照らしたが、結局は閉じ切ると共に呆気なく消え去り、その代わりに灯した頭上の電球が手狭な空間を満遍なく照らし出す。
「ふんふ~ん」
「………………」
そこで今日もまた再び、結菜はいつものように鼻歌を唄いながらローファーを綺麗に脱ぎ揃えると、そのまま壁伝いに真横を通り過ぎてリビングへ。
たっ、たっと。その橙色に染まった長髪を左右に揺らしながら、まるで何年も前からこの場所に住んでいたかのように思うほどの、軽やかで淀みのない足取りで未だ薄暗い闇が覆うリビングへと向かって歩いていった。
「ええと、照明のスイッチはー……」
「……ここだ」
そうして、そんな一足早く身体を移した結菜の後を、閉じ切った玄関の扉にしっかりと鍵を掛けてから追い掛け、傍らの壁にあった備え付けの点滅器を消灯から点灯へと切り替えれば、天井から吊り下げられた照明は音もなく光を灯し、リビングに満ちていた仄かな暗さを太陽とは異なる白光によって払い除ける。
「おお~」
電灯に照らされる、中央に鎮座した長方形のテーブル。花瓶代わりのグラスコップに飾られた一輪のカーネーションと、日付を表す縦置きのカレンダー。白い壁に掛けられた中古の丸時計。壁に沿うようにして並べられた食器棚と小型冷蔵庫。まだ何も置かれていない銀色の台所。陽光が射し込んでいた小さな窓。
様々な家具や品が彩ったリビングの中で、どこか大袈裟に感嘆の声をこぼした結菜の姿も、その両手に携えられた風呂敷包みや学生鞄と同様に明るく照らされ、薄暗かったリビングの風景は瞬く間に本来の色調を取り戻していた。
「うんっ! その様子だと、一人暮らしにも随分と慣れてきたみたいだね?」
「まぁ…………ぼちぼち、ではあるがな」
ふいに、そう言葉を呟いて、ぐるりと。流れるように玄関側から回って反対へ。今日も奥の席に足を運び、桜色の風呂敷包みをテーブルへと置いた結菜が投げ掛けた質問に曖昧な返事をしながら、同じく自らの定位置である手前側の椅子に向かう。
……結菜の言う通り、僕が一人での生活に順応し始めているのは紛れもない事実ではある。一月前と比べれば確実に良くはなったと言えるだろう。しかしそれと同様に、未だ順応の過程でしかないというのも誤魔化しようのない事実だ。
掃除に洗濯、自らの食事の用意や日々の中で消費されていく生活費の計算など。以前であれば二人で分担していたようなことも今では一人で行わなければならないが、その数々を現状の自分が十全に熟せているとは言い難く、そんな精々が半人前な自らの状態を良しとするのは頭に備わった倫理観が許さなかった。
「え~……ぼちぼち、かぁ……」
しかし、それを聞いた結菜はなぜだか不満そうに口を尖らせると、酷く腑に落ちないとでも言いたげにその首を傾げながら、自らの細い指先で風呂敷包みを手際よく解いていく。
布地の四隅を束ねた結び目が、するりと解かれ。桜色の風呂敷から姿を現したのは……やはり、記憶の中に幾多もの見覚えがある、とても立派な朱塗りの重箱。かねてより結菜が弁当箱の代替として愛用する三段重ねの逸品が今日もまた、その豪奢な風貌とは不相応な程に凡庸で飾り気のないダイニングテーブルに腰を下ろす。
「……私からすると、けっこう上手くやれてるように思うんだけどな~」
「………………」
そして、どこか不機嫌そうな表情を浮かべままに結菜はそう呟くと、目の前に積まれた朱い重箱の一段一段を丁寧な手付きで外し取り、そこに納められた品々がよく見えるよう、いつもと同じくテーブルの中央へと並べていった。
「よっと」
ごとり、と。結菜の手によって広げられる、朱色に染まった三段分の重箱。様々な品が彩るその中で一番初めに目に付いたのは、僕から見て右横に置かれた段にある結菜お手製の黄色く分厚い卵焼き。次に、ほどよい焼き目の付いたソーセージ。じゃがいもや人参、こんにゃくなどの定番の顔が揃った和風の煮物。
隣の段には青々とした胡瓜の浅漬けや、薄肌色の煮豆、瑞々しいレタスと梅肉のサラダなどといった青物が所狭しと詰め込まれており、総菜が主だった前の段とは対照的な落ち着いた雰囲気と新鮮な野菜の香りを纏っている。
そうして更に最後の残った一段、僕から見て左端に置かれた重箱では俵型に成形された握り飯が贅沢に十個も納められ、その箱一面を溢れんばかりの艶やかな白色によって覆い尽くしていた。
「じゃじゃーん!! どうどう~? 今日もよくできてるでしょ!」
「……ああ、本当によくできている。香りも勿論だが、なにより彩りが豊かで綺麗だ」
その色鮮やかな重箱の中を眺めていると、またふいに。いつのまにか風呂敷より取り出していた二膳の箸までもを同様に並べ終え、空となった両腕を大きく左右に広げて訊ねた結菜に、眼前の光景に感じたままの率直な言葉を伝える。
テーブルに置かれた重箱には、和洋を問わず多様な料理が取り揃えられているが、不思議とそこに乱雑さや杜撰さは微塵も感じられず、それどころか整った印象さえ受けるのは、間違いなく結菜の卓越した飾り付けと調理の手腕に因るものだろう。
こうして一目見ただけでも、それが一朝一夕で成し得るような代物でないとわかるほど。そしてやはり、僕などが易々と真似できるような代物ではないと瞬時に理解することができるほど、テーブルの上に置かれた朱塗りの重箱の中身は綺麗で、何度目となるのかも定かではない深い感嘆が胸の内へと染み入っていった。
「えへっ……ふへへっ~、そんなに褒めちぎっても何も出ないよ~……っと!」
その感想が、よほど嬉しかったのだろうか。それを聞いた結菜はどこか照れくさそうに、それでいてひどく嬉しそうに可憐な頬を綻ばせたまま、ぽすんっ、と。慣れた手付きで椅子を引き、薄灰色の布が張られた座板に身を預ける。
そして、そんな結菜の後を追うようにして傍らにある椅子の背を引き、先程から持ち続けていた学生鞄を自らの足下へと置いてから、結菜が座った席とはちょうど反対側の位置にある席に腰を下ろした。
「…………」
このテーブルに面した椅子は、四つもあるというのにもかかわらず、豪華な重箱を間に挟み、自然と向かい合う形で座っていた事に何かしらの特別な理由はない。八年間の歳月を結菜と共に過ごしていた中で、身体へと色濃く染み付いた習慣だ。
そして……その習慣と同様にこちらも慣れ親しんだ物の一つ。僕と結菜の間柄だけに馴染んだ幾つかの習慣や決まり事よりも遥かに一般的な、この国に生きる人々の大半が口にした経験を有するであろう食前の挨拶。今世のどこにだってありふれた、産まれたばかりの赤子でもなければ皆が知っている六文字の言葉。
それを、今日もまた。自らの胸先で両手を固く重ね合わせながら、結菜に対する深い感謝を噛み締めながら、向かいの席に座った結菜へ確かに伝わるよう、はっきりとした言葉で呟いた。
「いただきます」
「はいっ、召し上がれ!!」
そうして、言い終えた瞬間。まるで、その言葉をずっと前から待ち侘びていたかのように勢いよく応えた結菜の声を合図に、ぴたりと重ね合わせていた掌を解き、テーブルに置かれた二膳の箸へと手を伸ばす。
綺麗に二つ揃えて並べられた箸は僕の物と、結菜の物が一膳ずつ。それぞれ赤茶色と飴色で塗られた箸。その一方、赤茶色の箸の方は僕が屋敷から引っ越す際、いずれ再び必要になるかもしれないという結菜の提案で置いていったものだ。
「……まずは」
それを手に取って眼前の豪奢な重箱の中へと運び、いつもと同じく片隅に納められた黄色い卵焼きを箸先で摘み取れば目に映った、一口大よりもやや大きめに切り分けられた分厚い卵焼きの断面。
そこには細かな賽の目状に切られた人参や玉葱、粗く挽かれた豚肉などといった多様な具材が顔を覗かせており、厚く切られた黄色の一面をそんな数々の色によって華々しく、紅葉を迎えた秋季の山のような鮮やかさで彩っていた。
「志絃君って、本当に卵焼きが好きだよね~」
「………………」
そうして、そんな卵焼きを真っ先に摘み取った僕を見て、頬杖をつきながら笑った結菜の言葉に対する肯定の意を示すかのように卵焼きを口内へと放り込めば、じんわりと口一杯に広がっていった鶏卵のまろやかな風味とふんわりとした舌触り。少し遅れて咀嚼すれば感じる、卵とは明確に異なる野菜や挽き肉の食感と甘味。
卵焼きそれそのものに施された味付けは薄めだが、そのぶん混ぜ込まれた具材と鶏卵の味を僅かな醤油や出汁が強く引き立てており、食べる者を飽きさせないどころか、この軽さも相まってもう一度箸を伸ばしてしまいそうになる。
それに……何故だろうか。今ではもう遠い記憶の中にしか残っていない、母親が作ってくれた品とは明らかに違っているというのにもかかわらず、不思議と久しぶりに味わったかのような物寂しさと、そこはかとない懐かしさがあった。
「どうどう? 美味しい?」
「……ああ。今日の品も、とても美味しい。一切の世辞や誇張なく絶品だ」
「……うんっ! なら良かった!」
そして、ごくり、と。充分な咀嚼を終えて飲み込んだ僕を見計らい、感想を訊ねた結菜に今一度感じたままの言葉を伝えれば、それを聞いた結菜の頬はまた一段と嬉しそうに綻んで、その可憐な顔一杯に溢れんばかりの朗らかな笑みを湛える。
にっと、白い歯をかすかに見せた笑顔は僅かな眩しさすら覚えるぐらいに明るく、結菜が感じたであろう喜びを反対側の席に座るこちらまではっきりと、言葉などなくとも理解ができるほどに鮮明なものとして伝えてきた。
「さーてと! それじゃ、そろそろ私も食べ始めちゃおっかな~!」
「……あっ、これにしよっと!」
だが、結菜はそんな眩い笑顔をふいに軽く引き締めると、先程から自らの手元に置いていたままだった飴色の箸を漸く手に取り、色彩豊かな重箱の中からじゃがいもの煮物を一つ摘まんで自らの口へと放り込む。
「んむんむ……うんっ、我ながら上出来上出来!」
「………………」
その後を追うようにして重箱の隅へ箸を伸ばし、同様に煮物を一切れ摘み取って口にすれば、先ほど味わった玉子焼きとは違った素朴な風味が口内を満たしていった。
薄い褐色に染まっていた外見の通り、じゃがいもの煮物には甘めに作られた割下がしっかりと染み込んでいるが、決して柔らかすぎることはなく、顎に力を込めれば簡単に崩れるぐらいの丁度いい硬さを保っており、そのほくほくとした食感は未だ確かに残った温かさを一段と心地よいものに感じさせる。
「……そうだな。こちらも厚焼き玉子と同じく、堪らなく旨い」
「ふへへっ、ありがと~……っと! あっ、そういえば!!」
「……?」
そうしてまた、ごくりと音を鳴らしてジャガイモの煮物を胃袋へと飲み下し、次は野菜の漬物でも食べようかと自らの箸を伸ばそうとした矢先、反対側の席で照れくさそうに笑みを湛えていた結菜が突然──はっと。
その琥珀色の両目を唐突に、まるで静電気でも走ったかのようにかっと見開いたかと思えば、なぜだか手に持っていた箸をテーブルの上へと預け、空となった掌を重ね合わせることで軽い音を鳴らす。
「ほら、先月は引っ越し作業で忙しそうだったから、色々と落ち着いた後で訊こうと思ってて、そのまますっかり忘れちゃってたんだけど~……」
「ねぇねぇ、今年ってどっちの家で志絃君の”来訪記念日”を祝う感じ? 確か、まだ決めてなかったはずだよね?」
「ん……ああ、よく考えてみれば……そうか」
──来訪記念日。およそ六年ほど前の結菜によって酷く大袈裟に命名され、定められたその言葉に反応して、目の前に置かれた朱い重箱からテーブルの隅に佇む小さなカレンダーへと意識が移動する。
今日の日付である、色鮮やかな鯉のぼりの絵が描かれた五月のページの十七日目。それからちょうど、一枚ぶんページを捲った先。植えられた紫陽花が咲き誇り、花弁の落ちた桜が実を付け、炎天下の熱気と蝉の鳴き声がじりじりと近寄る、梅雨の蒸し暑さが最盛を迎える六月の中旬。
そして……僕が初めて結菜と出会い、自らが結菜の家の養子となったという事実を何の前触れもなく知らされ、生まれ育った町からは遠く離れたこの土地に建つ結菜の家へと移り住む事となった、あの滅茶苦茶でありながらも大切な──八年前の六月十七日。
その事を忘れていた訳ではなかったものの、しかしそれとは別に僕は単純な見落としをしてしまっていたらしい。冷静に考えてみれば当然のことではあるのだが、誕生日などの祝い事は結菜の家にある居間で行うのが習慣だった為、既に引っ越したというのにもかかわらず、今年も例年通りそうするのだと勝手に思い込んでいた。
「どうする~? 私は別にどっちでもいいけど、なにぶん主役は志絃君だからね~」
「…………………」
結局の所、決める役割にあるのは自分ではなく当日の主役である僕の方だ、と。遠回しにそう言って悪戯に笑った結菜の声に耳を傾けながら、月日を教える小さなカレンダーから目を外し、歳月の中で凝り固まった頭脳を捻って思考する。
握っていた赤茶色の箸も結菜と同じくテーブルの上へと置き、訳もなく椅子の背に体を預けて宙を見上げれば映った、煌々と灯る白色の照明。燦々と輝く太陽の物とは明らかに異なる、その眩い人工的な光の中に今まで積み重ねてきた数多の思い出を透かし見ては、矢継ぎ早に思い起こしていくそれらを一つずつ、丁寧に。
まるで幼少期、結菜に連れられて向かった山中の川辺で、形の気に入る石を夕暮まで探し回った時のように。あるいは結菜の家にあった大きな蔵を二人がかりで掃除した時のように、その数々を念入りに確かめ、自らが抱く考えを整理していった。
「…………そうだな」
──だが、そんな思索を始めてから僅か数分も経たずに、結菜が僕に投げ掛けた問いの答えは想定していたよりも遥かに早く、それこそ端から決まっていたかのようにさえ思えるほど呆気なく定まり、白い天井から正面の席に座った結菜へと視線を合わせ直す。
「やはり僕は、ここよりも結菜の家の方が適しているように思う」
「…………ほう? ほうほう! それは一体っ、何故ですかな!」
そして向かい合い、自らが出した結論を確かな口調で結菜に伝えれば──なぜか。それを聞いた結菜は、その耳元に掛けてもいない眼鏡をかちゃりと掛け直すフリをしながら、普段の物とは異なる芝居がかった仰々しい口調でその意図を訊ねた。
「………………」
それは老練の探偵か、はたまた同好の士と議論を交わす学者か。にやりと笑みを浮かべた結菜が何を気取っているのかまでは分からなかったが、それでも結菜の可憐な顔立ちが上機嫌なものとなっていることぐらいは理解できる。
どうやら結菜からすれば、僕が結菜の家を選んだのが随分と意外であったらしく、故にその判断を下した理由に強い興味を持ったようだった。
「…………まず、ここよりも結菜の家にある居間の方が格段に広い。集まるにしても例年と同じく少人数だろうが、それでも折角集まってくれた人達に窮屈な思いをさせてしまうのは申し訳ない」
そんな結菜に少なくない驚きを抱きつつも、またいつものように段々と。過去に幾回も繰り返してきた応答に準えて、自らの選択に含まれた意図を可能な限り簡潔かつ、丁寧なものとして口に出していく。
交友関係に富んでいるとは決して言えない僕の、しかも傍から見れば誕生日でもない、あくまでもこの土地と結菜の家に訪れた日を祝うだけの場に快く集まってくれる人は少ない。僕と結菜を含めたとしても精々三、四人が限度だろう。
もちろん、それぐらいであれば充分に収まる数ではあるのだが、しかし先の狭苦しい玄関や一室だけの寝室などを見ても分かる通り、ごく少数での暮らしを想定して設計された部屋には複数の人間が羽を伸ばせるほどの空間は存在しておらず、酷く窮屈な状態となるのは殊更に試すまでもなく明白だった。
「ふむふむ」
「……そして何より、僕が結菜の家を訪れた日を祝うというのであれば、ここではなくあちらの方が相応しいように僕は感じた」
今ではもう、淡々と過ぎ行く日常だとさえ感じるほどに慣れ親しんでしまっていたせいで意識から外れていたが、思い返してみれば……かつて結菜が僕の訪れた日を、記念すべき日だと言って盛大に祝ってくれたことが始まりだった。
……であれば今年も例年通り、あそこで祝うのが道理というものだろう。結菜の家から別の場所へと移り住んだとしても、僕があの日に結菜の家を訪れ、そして八年間の歳月を共に暮らしてきたという事実がそう易々と変わってしまう筈もない。
「……ただ、当然の事ながらこれは僕の一存で決められるようなものではなく、あくまでもそれで結菜がよければの話では──」
「──うんっ! それなら別にいいよ! というか大歓迎っ! 大賛成!」
とはいえ……こうも自らの意志を強く主張したとしても、やはり最終的な決定権を有しているのは既にここへと引っ越した僕ではなく、今も未だあそこに住んでいる結菜の方だ──と。
そんな事をおもむろに紡ぎ出そうとした僕の声を、いつのまにか口調を元のものへと戻していた結菜は勢いよく遮り、僕が下した選択を朗らかに笑いながら承諾した。
「というかっ! 別に、他の場所に引っ越したぐらいで遠慮しなくていいってば! 八年も一緒に暮らしてたんだから、血は繋がってないけど家族みたいなものなんだし!」
「………………そうだな、確かにその通りだ」
そうして続けざまに紡がれた、結菜の言葉に軽く相槌を打ってから、もう一度リビングの天井を覆い尽くす褪せた白色を静かに見上げる。
本音を言えば……相槌には反してまだ少し、あの家から移り住んだ僕には堂々と立ち入る資格は無いように思えたが、しかし他の何者でもない結菜自身が遠慮は要らないと言うのだから、僕には言い返せることなど何一つも存在してはいないだろう。
「……にしても、八年か」
そんな胸の溜飲を奥底へと飲み下すかのように、煌々と灯った白い照明を眺めていると、先程の結菜が放った言葉が上を向いた頭によぎった。
……断じて実感が無かった訳ではないが、八年。あれから、大切な家族を喪ったあの日から。今年で八年の歳月が経ち、そして一月先には結菜と僕が送ってきたこの数奇な関係も同じく八年の節目を迎えようとしている。
それを、僕は果たしてもうと呼ぶべきなのだろうか。それとも、ようやくと言うべきなのだろうか。どちらが適切な表現であるのかは分からないが、それでも己の背後を振り返った先にある原風景との間に開いた距離だけは確固たる物として存在し、今があの日からは遠く離れた位置にあることを証明していた。
「………………」
そして……その遥かな距離を漠然と眺めていると、なぜか。寸刻前、己が辿った過去を軽くとはいえ振り返ったせいだろうか、普段よりも少しばかり感傷的になってしまっていた心は自ずと。
まるで意識だけが、遠く離れてしまった記憶の方へと歩いて行くかのように。
忘れ難く大切な、”二番目のあの日”を──思い返していた。
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