山本幸太の卒業式の夢

裏道昇

山本幸太の卒業式の夢

 甲高いブレーキの音を聞いた。



 いつからか、体育館を眺めていた。

 体は動かず、声も出ず、俯瞰していることしか出来ない。まるで自分がビデオカメラの中に入っているような、奇妙な感覚だった。

 ――そう、それは映画鑑賞に似ていた。

 季節は春。場所は体育館。主役は生徒たち。シチュエーションは、小学校の卒業式だ。

 まあ、ステージの横に大きく書かれてあるので、一目で分かることだが。

 だから当面の問題は別にあったりする。

『僕は……誰だ?』

 自分が誰なのか。なぜこの場所にいるのかすら思い出せないのだ。

 そこで、アナウンスが入った。卒業証書の授与らしい。

「山本幸太」

 聞き覚えのある響きだった。だから僕は自分が何者なのかを知ろうと、その映像に改めて注意を向ける。一人の小柄な少年が立ち上がって、壇上へと上るところだった。素朴な印象を受ける少年の後ろには全校の生徒たちが椅子に座り、さらに父兄が囲むように見守っている。

『……!』

 ふと、父兄の一人に目が留まる。一人の女性だった。短く揃えた髪型に、小柄な体格。でも視線には強さがある。何一つとして思い出すことは出来ないが、大切な人だった気がした。女性は卒業証書を受け取る少年を静かに見守っている。

 そして、少年は証書を携えてステージを下りてくるのだが――


 ガッ!


 ――階段の下から二段目につまずいて、前のめりに倒れていった。

『危ないっ』

 しかし少年は激突寸前で床に両手を付いて、頭がぶつかるのを防いだ。防いだのだが、そこからがマズかった。彼は跳び箱の台上前転よろしく前方に一回転したのだ。

 そのまま美しいフォームで体育館の床に踵落としを繰り出した。有り得ない爆音を伴って。

 残ったのは、痛みに呻く少年と、絶句する生徒と父兄……そして、穴の空いた体育館の床だった。

 一部始終を壇上の特等席から眺めていた校長の、

「私の床が……」

 という声を、なぜだか申し訳なく思った。

 ――不意に、感覚もないのに浮遊感を味わった。



 景色が切り替わった……のだが、あまり代わり映えはしなかった。というのも、今僕が見ている場所も体育館だからだ。ついでに言えば、ここも同じ卒業式だった。

 ただしさっきよりも生徒は大人びていたし、父兄も年を取っていた。

 中学生か、高校生……どうやら中学生のようだ。ステージの脇に、やはり書いてある。

「山本幸太」

『また君か……今度は無事に終わらせてくれよ』

 いくらか大人びた少年が立ち上がったのを確認すると、僕は気になって父兄を見回した。やはり、先ほどの女性がいた。

 なんとなく、あの女性は今呼ばれた少年の母親な気がした。

 ……腑に落ちないのは、なぜ彼の卒業式を僕は見ているのか。

 考えながら視線を戻すと、ゆっくりと少年はステージへと歩いている。床砕きの後遺症とかはないようだ。やがて木製の階段に差し掛かり、上っていく。僕は不安と期待の混じった視線を向けていた。

『無傷で帰還出来れば良いが――ッ!』

 急遽、少年が消えた。

 いや、階段の中へと……落ちた。

 木が傷んでいたのだろう、穴が空いた階段の中に小柄な少年がすっぽり入ってしまったのだ。問題は、上から眺めている僕以外にはイリュージョンとしか思えなかったことだ。

 下から見ていた生徒父兄はもちろん、証書を渡す役の校長も大きな卓の死角になって穴が見えない。

 全体がざわつき始める。

 まさか、壇上に辿り着けないとは思わなかった……。


「……たすけてぇ……」


 少年の哀れな声が流れた。返ってきたのは、

「ひぃ!」

 女生徒の悲鳴だった。

 ……無理もない。

『人体消失からの怨嗟の声っぽかったからな……』

 どこかで予想していた通り、また浮遊感が僕を包んだ。



「山本幸太」

 やはりというべきか、そこは高校の卒業式だった。

 同じように生徒が座り、父兄が囲む。しかし、名前を呼ばれて立ち上がった少年は別人に見えた。平均まで伸びた身長にしっかりとした足取り。

 危なげなく階段を上り、難なく証書を受け取って……用意されたマイクの前に立った。

 その、若人特有の希望に溢れた瞳には感じ入るものがあった。

 アナウンスが入る。

「続きまして――卒業生代表の挨拶です」

『彼が、代表なのか』

「僕は今日まで卒業式を無事に終えたことがありません」

 彼はそう切り出してから、小学校と中学校の卒業式を「不幸ですよね」と語った。

 聞きながら見回すと、あの女性を簡単に見つけることが出来た。……女性は大粒の涙を流していたからだ。よほど感極まっているのだろう。

 次に少年は高校での輝かしい思い出を振り返ると、最後に自分の進路と目標を口にする。

「僕は進路を海外留学に決めました。いつかボランティアに参加して、世界中の子供を救いたいです。

 その理由は――」

 続きを聞くより早く、前と同じ浮遊感がやってくる。

『そうか。君は僕の』

 この時やっと僕は自分が誰なのかを知った。



 甲高いブレーキの音で目を覚ました。

 僕は迷わずに前へと走りだす。同時に出来るだけ手を伸ばした。少し前を歩く息子の手をしっかりと握りしめると、全力で引っ張った。

『間に合え――!』

 願いは叶って、幼い息子は僕の後ろへとふっ飛ばされた。

 代わりに、僕が前に倒れていく。

 赤信号なのに横断歩道へ突っ込んできたトラックの目前へと。

『良かった。どうやら僕は息子を救うことが出来たらしい』

 そして、最後に素晴らしい夢を見せてくれた誰かに感謝して。

 僕は即死した。

 小学校の入学式の帰りだった。


 その事故から十二年後の三月。

「山本幸太」

 名前を呼ばれた卒業生は代表の挨拶をこう締めくくった。

「僕は進路を海外留学に決めました。いつかボランティアに参加して、世界中の子供を救いたいです。

 その理由は――小学生の僕も、父に救われたから」

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