翔子と消しゴム
湾多珠巳
Shouko and her Eraser
昼休みの後半、真面目に五時間目の準備に取り掛かっていた俺は、ふと気配を感じて振り返った。後ろの席の彼女は、やりそこねた宿題の最中だ。まあそれはいいんだが、見たところ、さっき要点を教えてやったばかりの課題ページで、同じパターンの同じミスを繰り返していやがる。
放置したいのはやまやまでも、もしここを次の授業で当てられたら、当然こいつは先生から注意を受けるだろう。そうなりゃ、それはつまり俺の教え方が悪かったからだ、とまなじりを逆立てて怒り狂うに決まってるのだ。
全く困った奴だ。落ち着いてノートの準備もできんぜ。
「ほら、また違う。そこ、haven't が抜けてる。ここも、takes じゃなくてtaken だって」
口をへの字に曲げて俺を見る翔子。それでも、彼氏たる相手からの指摘は指摘として、黙って消しゴムでノートの自分の答案を消しにかかる――ただし、三行分の英文を丸ごと全部。
「ちょ、ちょっと、何も全文書き直さなくてもいいじゃないか」
「いいの。そこまで孝弘が口出ししないで」
「そんな、時間もかかるし消しゴムも減るし鉛筆だって……」
「ほっといて! 全部書き直さないと気分が悪いの!」
これだ。全く、こいつの性格はガキの頃からまるで変わっちゃいない。
とにかく、完璧主義というか、潔癖性というか、死なばもろともっつーか。整うべき部分が整ってなければ気が済まないタチなのだ。結構金持ちの娘だけあって、行動のベクトルが物を節約する方向と正反対に向いているのも問題だ。
「あまり神経が細いままだと長生きしねえぞ」
「世の中が鈍すぎるのよ! あたし以外の人間、全部ね!」
ため息混じりに、机の脇の幸枝を見やる。幼稚舎から翔子とつきあい続けているらしい彼女も、ブレザーの袖の上に顔をのせたまま、ただ肩をすくめるように眉をひょいと上げるだけだった。
「ああっ」
ガマガエルが押し潰されたような声と、紙の派手に破れる音。がしがしと消しゴムを駆動させていた翔子の力が余って、ノートの半ばがちぎれてしまったのだ。
「あ~あ、またムダの連鎖が……え? おい、それ……」
「あげる」
まだ二ページほどしか書いていない真新しいノートが、破れたページもそのまんまで俺の前に突き出された。
「あげるって、こっちに書いてある解答は!?」
「書き直す。それぐらいだったら大したことないから」
「二度手間もいいとこだろーが! 破れたページぐらい、テープで直せよ! それもイヤだってんなら、ここだけ切り離せば済むことじゃないか!」
「いいの! とにかくすっきりしたいの!」
一切の建設的な提案をはたき落とす口調で、翔子が歯をむき出しにする。
「気にしないでいいって、孝弘」
半分同情するように、幸枝が言った。
「余り物をちょうだいできて嬉しゅうございます、ぐらいの気持ちで対しないと、翔子の彼氏なんて務まらないよ。物がもったいないとか思ってたら、こんなお嬢様なんだし、こっちの神経が持たないって」
そう言えば、翔子の〝潔癖症〟ぶりは切れ切れに耳にしたことがある。書店で買った文学全集の一冊にほんの些細な表紙の汚れがあったため、二十四巻丸ごと総取り替えを求めた話。新品のジャケットの裏地に縫い目のゆがみを見つけて大騒ぎになり、あげくン十万のスーツ一式幸枝に譲ったという話。友人一同とディナーパーティーを催したホテルのレストランで、オードブルのサラダが一人分だけ手違いで遅れたというそれだけで、そのまま強引に全員を引っ張って帰っていってしまったという話。
しばらく絶句したままの俺の耳に、休憩時間終了のチャイムが聞こえてきた。やれやれ、律儀に翔子の宿題忘れにつき合ってるだけで休みが終わっちまったい。
こっちの好意には礼の一つを言うでもなく、翔子はぶすっとしたまま宿題のやり直しをやっている。こいつ、もう性格完成してるしなあ。これから高校、大学、就職と、どんな人生送るんだろうな。
十二年後、俺と翔子の腐れ縁は続いていた。
「え、今度は音楽配信で? しかもインディーズ系? おいおい、今のデイサービス事業はどうするんだ?」
そして、一週間と置かず、次から次へとビジネス上の無理難題を押し付けられる立場に、俺は成り果てていた。今日は今日で、福祉サービス会社の株式上場を巡る相談で顔を合わせたはずなのに、いつの間にか新規起業の話に化けている。
「いらない」
「いらないって、従業員千二百人の生活は!?」
「任せる。すっきりさせて」
これで四件目だ。
いくら資産家ファミリーの愛娘だからって、こう次から次へとベンチャーを立ち上げるたびにポイ捨てされたんじゃ、下働きの神経が持たん。
とにかく、大した問題もないのに、ある日突然手持ちの会社を放り投げるのだ。一つ目のIT会社は、経理部長の横領が発覚しただけで社屋ごと手放した。二つ目の輸入代行会社は取引先のイタリアでごくつまらない訴訟沙汰が起きた時点でライバル会社に身売りを謀った。三つ目の靴の通信販売は自社ビルで飛び降り自殺があったことで、四つ目の今回に至っては介護情報誌でやや辛目の点がついたという、ただそれだけで、この騒ぎだ。本人からすれば、自分がオーナーとして君臨する以上、何が何でも順風満帆の高成長企業でなければならないらしい。というか、ごく小さなものでも、自分の人生にケチがつくのが許せないのだろう。
翔子本人が最初から黒幕みたいな立場で社を立ち上げ続けてきたのは、ある意味正解だった。投げ出された事業は俺や幸枝がその後を引き継ぎ、それぞれ何とか存続できているからだ。おかげさまで、二人して三十前で複数の会社役員などという結構な身分まで手に入ってしまった。傍目から見れば実にゴージャスな人生に見えることだろう。
が、結局俺達のやってることは、お嬢様がさんざん食い散らかした皿を残飯処理しているのと同じことだ。
にしても、せいぜいノートやスーツを買い換える程度だったのが、いつの間にこんな馬鹿でかいスケールのわがまま娘になってしまったのか。周りが甘やかしたからだろう。いったいどこのどいつが……ああ、俺と幸枝か。
ため息と共に、俺は上役たる翔子に確認した。
「じゃあ、例によって経営は俺か幸枝が引き受けることにして、翔子の名前は役員名簿から抹消、記録文書の修正もいつも通りで、最初から関わりなどなかった、ということにしておけばいいんだね?」
とりあえず、デイサービスの会社はすでに軌道に乗っていた。隠れオーナーの翔子がいなくなっても何ら差し障りなどない。
ふと、翔子の目が異様な光を浮かべた。これは、あれだ。急に何かろくでもないことがひらめいた時の目だ。でなければ、すごくわがままな甘えごとを俺に言い出す時の目。
半ば引きつった顔の俺に、やつは言った。
「……あのさあ、もっとすっきりできないかな?」
「え? もっとすっきりって?」
「とにかく、会社そのものを地上から消してしまいたいの」
思わずごくりとつばをのみこむ俺。
「そ、それはつまり、事業所ごと爆撃か何かで消滅させたい、とか、そういう意味で?」
「だめかな、やっぱり?」
あは、と冗談に紛らわせるつもりらしい笑いをこぼす。
目は全然笑ってなかった。
ここまで考えるのか、この女は?
「……と、とにかく、幸枝を至急呼ぶ。今度はあいつのグループで吸収する線でまとめておくから」
強引に話を終わらせると、いったん役員室を後にする。
さっと消しゴムで消すみたいに、自分の過去の行動のみならず、その成果たる会社や社員の存在までなかったことにしてしまいたい――翔子はそう考えてるのだ。
今さら驚くこっちゃない。あいつの自己チューな考え方なんて、進歩するはずがないんだから。
それでも、口先だけとは言え、極端にオール・オア・ナッシング的な人間性を目のあたりにすると、何やらぞくっとするものがある。虚無感というべきか、嫌悪感というべきか……。
二ヶ月後、翔子が軍事系ベンチャー製作会社の立ち上げを宣言した。目的なんて訊く気にもならなかった。もしかしたら、ただ破壊力を手にして満足したかっただけかもしれない。が、それにしたって、普通はそこまでやらない。
とにかくその時、俺はあのぞくっとした感情の正体が、恐怖心そのものであることを認識したのだった。
「もー困ったもんよね、あのお姫様にも。ろくに関連もない会社を次々に丸投げしてくれるんだから」
カクテルに口をつけながら、幸枝が言った。バイオレットのドレスがシックに決まっていた。三十も半ばに近づくと、お互い社長業も貫禄が出てきたなあと思う。まあ、幸枝本人は虚栄心が鼻につくところもあるし、今ひとつ女性として魅力的に見えないのがアレだけど。そう言えば、最近はひそかに独身のままなのを気にしてもいるようだ。他の男もきっと俺と同じ意見なのだろう。
「こっちの宇宙旅行会社、そっちの兵器製造会社に吸収する気ない? はっきり言って、あたしんとこのグループで浮きまくってるんだわ」
「いや、軍事系をあまり拡大すると、色々と問題が……」
俺達は今や二桁に達する会社の社長業に追われる毎日だった。近々もう一社ずつ増えそうだ。事情を知っているごく親しい友人達は、なぜそんな役回りを受け入れているのか、とあきれながら尋ねる。確かに、何も翔子に弱みを握られているわけでもなし、こんな落ち穂拾いを続ける必要もないのは分かっている。
けれども、俺は、そして幸枝も、あまりにも翔子のこれまでを知りすぎている。隠居生活を申し出たとして、果たして許可が……いや、そもそも許可とかそう言う穏やかな話に持っていけるかどうか……。
「そう言えばさあ、翔子、今度結婚するんだって」
物思いに沈みかけた俺の横面に、思いっきり冷水が浴びせられた。
「な……そそ、そんなこと、お、俺は聞いてないぞ!」
「うん、そうだろうね。翔子もね、孝弘には絶対言わないでって言ってたから」
唇の端でニッと笑う。こいつ――わかってやがるな、ちくしょう。
「ま、披露宴の招待ぐらい来るでしょ。どれだけ集まるんだろうね。やっぱり昔の男も呼ぶつもりかな。……そう言えば、
再び、幸枝が俺を見つめて、ニッと笑う。
俺はただただ、額から玉のような冷や汗を転がしていた。
二年前に死んだ敦史。六年前に死んだ哲。共に不幸な事故で若い身空を散らした旧友達。けれども、二人にはもう一つ共通項がある。そう、翔子の昔の男、と言う。
そして俺もだ。最初成り行きで、一時は結構燃え盛っていた俺と翔子だが、今となってはこの俺自身、彼女の昔の男と言うことになるのだろう。
――とにかく、すっきりしたいの!
くわっと口を開けて、二言目にはそう叫び続けてきた翔子。
奴が結婚式の前に考えることは、もちろん……くっ、だめだ。もう選択の余地はない。何てことだ。廃物整理に身を削ってきた俺自身が、拾われる立場になるとは!
「幸枝……結婚しよう」
唐突でも何でもなかった。その証拠に、幸枝は即座に満面の笑みを浮かべて同意したのだ。
余り物をちょうだいできて嬉しゅうございます、か。究極の卑屈人間に見えて、案外こいつがいちばん恐ろしい女かも知れない。あの翔子をうまく操って自分の成功に結びつけている、と言う点で。
まあ、結婚相手として、そう悪い女じゃない。俺達二人の企業グループは、合併して日本有数の財閥へ育ってゆくだろう。だが……だが、いったい俺の人生は何なのだ?
俺達と翔子の合同結婚式は、内外の耳目を集めつつ、盛大に行われた。直前に俺は、旧友がもう二人、つい最近の事故で亡くなっていることを知った。
俺は生きながらえた。翔子は、幸枝こそ生涯の自分専用の残飯処理係と思い定めていたのだろうか。あるいはもしかしたら、俺の扱いについては二人の間で密約でも交わされていたのかも知れない。
ちなみに、その後翔子の夫となった男たちそれぞれの短い人生については、俺は多くを語りたくない――。
<了>
翔子と消しゴム 湾多珠巳 @wonder_tamami
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