帰りの電車の落とし物

いそた あおい

帰りの電車の落とし物

1. ―――


 大学生の俺は今、バイトからの帰り道で、地下鉄に乗っている。そして、ぬいぐるみとにらめっこしている。


 いつもの時間に、いつものようにバイトの帰りの地下鉄に乗った。そして、最近お気に入りのミステリィ小説をリュックサックから取り出して読み始めた。五分くらい読み進めたところで、誰かの視線を感じた。


 ほかの乗客の視線かと思ったが、今日の乗客はいつにもましてまばらで、同じ客車には俺を含めて三人しか乗っておらず、俺以外の二人はスマホを見ていた。


 俺は他の乗客を確認している最中にも誰かの視線を感じていたので、不審に思って周りをきょろきょろと見まわしてみた。すると、俺の座っているロングシートの正面から少し左寄りのところに、十五センチメートルくらいの大きさのクマのぬいぐるみが立っていた。


 そのぬいぐるみは座面に二本の足で立ち、背もたれにほとんどの体重をかけてうまくバランスを取っていた。ぬいぐるみの姿勢は絶妙な角度で、そのプラスチックの眼が俺の方を向いているように見える。さっきから感じていた他人からの視線はこのクマのぬいぐるみからのものだったのだろうか。


 俺はそのクマのぬいぐるみから目が離せなくなった。なぜなら、意識し始めたからかはわからないが、俺が目を離してからもそのぬいぐるみに見られているような気がしたからだ。車内の蛍光灯の光を受けて少し広く光っているプラスチックの目がやはり俺の方を向いているように感じる。


 俺は、自分が電車で座る時には必ず少し周りを確認してから座るので、クマのぬいぐるみに気が付かなかったはずはない。自分が座ろうと思った席の近くにあったのだから、ぬいぐるみはそのときに見えたはずだ。


 突然現れたように見えるそのぬいぐるみは、俺の中で存在感をどんどん増していた。もし座席の確認のときからぬいぐるみがそこにいたのだとすれば、俺はぬいぐるみを見落としたということになる。


 別に見落としたのは変なことではなかったけど、俺の中の、ぬいぐるみが突然現れた感じを助長する一因となっていた。




 バイト先の最寄り駅から四つ目の駅について、乗客が一人降りていった。クマのぬいぐるみには気が付かないようだった。俺は、このクマのぬいぐるみが自分にしか見えていないのではないか、と考えてしまった。


 いま降りて行った乗客も、クマのぬいぐるみには全く気が付く気配がなかった。いや、今の乗客はぬいぐるみと同じ側に座っていたから、見えなかったのかもしれない。もしくはスマホの画面に気を取られていて、こちらのぬいぐるみには気が付かなかっただけかもしれない。


 どちらにせよ、地下鉄は出発してしまったし、もし出発していなかったとしても俺には度胸がないから、今の駅で降りて行った乗客に「車内にクマのぬいぐるみがあったことに気が付いていましたか?」なんて聞けるわけがないのだ。


 結局、このぬいぐるみが俺にしか見えないのか、という疑問は残されたままになった。


 俺は相変わらず、正面から少し左側にずれているぬいぐるみを見つめていた。どうしてずっと見つめているかというと、ぬいぐるみが急に動き出すかもしれないからだ。


 もし、本当に俺が地下鉄に乗ってからぬいぐるみがひょっこり現れたのだとしたら、このぬいぐるみがいきなり動き出す可能性が出てくる。


 普通に考えたらその可能性は一握りもないけど、万が一の可能性が頭をよぎり、俺は少し背筋が寒くなった。


 とりあえずこの状態だと本は読めないからリュックの中にしまっておこう。


 俺がミステリィ小説をリュックにしまっている間も、クマのぬいぐるみはプラスチックの眼をこちらに向けて俺のことをじっと見つめている。そのうち大きな口が開いて食べられてしまうのではないだろうか。小説をしまい終わったので、俺はぬいぐるみに視線を戻した。


 ぬいぐるみを見つめているとさらに二駅あとに乗客が一人降りて行った。その乗客もクマのぬいぐるみには気が付かないようだった。俺が乗っている客車の中には、ついに俺とクマのぬいぐるみの一人と一匹だけになってしまった。




 俺が降りる駅のひとつ前の駅を出発したあと、急に俺の頭上の蛍光灯がジジジッという音を立てて明滅した。俺はびっくりして天井を見上げた。明滅は降りる駅まで数回続いた。この明滅に合わせて、ぬいぐるみのプラスチックの眼も数回光を失った。


 降りる駅に着いたので、地下鉄を降りるために立ち上がった。ドアが開いて俺が電車から出ようとした瞬間、蛍光灯がもう一度ジジジッと明滅した。


 俺は驚いて振り返った。客車には人は誰も乗っていない。クマのぬいぐるみだけが乗っていた。俺はクマのぬいぐるみがこのまま一匹でいることが気の毒になって、右手でロングシートの端にある金属の棒を支えにして、体と左腕を伸ばしてそのぬいぐるみを回収した。


 『まもなく列車が発車します~』というアナウンスが電車の外から聞こえて急いで電車を出る。出発のブザーと同時に電車の外に出ることができた。再び一人と一匹で閉じ込められるようなことにならなくて良かった、と思った。


 俺はその足でエスカレーターを使って地下一階まで上がる。左手にはしっかりとクマのぬいぐるみが掴まれている。俺は自分の行動に何となくびっくりしながら自分の左手に収まっているくまのぬいぐるみを見た。


 電車を降りるときに蛍光灯が明滅したのが少し怖かったけど、それ以外には何の変哲もないクマのぬいぐるみだった。おそらく誰かの忘れ物だろう。いきなり現れたのではなくて俺が見落としていただけだ。


 このクマのぬいぐるみに見られていたように感じたのは、一度は脳の情報処理によって必要のない情報として処理されたが、脳の片隅にクマのぬいぐるみの存在があったためにそう感じたからだ。


 エスカレーターに乗りながら俺はこのぬいぐるみについてそんな考察をした。


 エスカレーターを降りると、駅員室に直行した。早くこの不気味なぬいぐるみを手放したかったからだ。俺は少し前かがみになって、早歩きで向かった。


「あの…。これ、今乗ってきた電車に落ちていたんですけど…。」


 俺はクマのぬいぐるみを駅員に見せながら言った。


「ああ、そうなんですか。ありがとうございます。こちらで預かっておきますね。」


 俺は駅員にクマのぬいぐるみを手渡して、すぐに頭を下げて電車の乗り換えをしようとした。


「お゛ぃぃっくし!!!!」


 俺はびっくりして数センチ飛び上がってしまった。ちょっと恥ずかしい。


 俺はすごく大きな声で男に呼び止められたようだ。面倒な男に声をかけられたと思って後ろを振り返ってみると、誰もいなかった。今、ものすごい大きな声で呼び止められたと思ったけど、気のせいだったのかな?


 もしかしたらクマのぬいぐるみを駅員さんに渡したのがまずかったのかもしれない、と思い、少し背伸びして駅員室をもう一度覗いてみた。さっきぬいぐるみを渡した駅員が少し前かがみになって、鼻の下をこすっていた。クマのぬいぐるみはもうなかった。


 俺はさっき呼び止められたように聞こえたのはたぶん気のせいだと思うことにして、乗り換え先のホームへと向かうことにした。クマのぬいぐるみが追いかけてきませんように、と心の中で祈りながら。




2. ―――


 俺は電車を乗り換えて、次はJRの電車に乗った。俺はJRの電車に乗って、クロスシートの座席に座ると、再びリュックからミステリィ小説を取り出して読み始めた。電車が発車すると、やっぱり全然落ち着かない。


 なんとなくぬいぐるみに見られているような気がする。なんとなくだけど、そんな漠然とした恐怖が襲ってくる。


 もう夜も遅いので、窓の外の景色は地下鉄とそこまで変わらない。電車の中の景色も、椅子の形式がロングシートからクロスシートに変わったくらいだ。あとは地下鉄に乗っていた時よりも乗客の数が増えている。


 取り出した小説を読もうと試みたけど、恐怖心の方が勝ってしまう。不審に思われない程度に首をくるくるとまわして、周りにクマのぬいぐるみが乗っていないかを確認する。


 もちろん、さっき地下鉄の駅員にクマのぬいぐるみを渡したわけだから、この電車に乗っている、という心配はないはずだった。でも、やっぱり誰かに見られているような気がする。


 傍から見たら、俺は終始挙動不審だった。クマのぬいぐるみがどこからか現れるんじゃないかとそわそわして、あっちを見たり、こっちを見たりした。窓の外からやってくるかもしれない、と思って、たまに窓にかかっていたカーテンを引き上げて窓の外を確認したりもした。


 電車が急に止まって、扉から大量のぬいぐるみが入ってくるかもしれない。隣の客車との連結部分の扉が急に開いて、向こうから大量のぬいぐるみが入ってくるかもしれない。急に車内が暗くなったと思ったら周りの人がみんな殺されているかもしれない。


 漠然とした不安が、俺の恐怖心を強化していた。


 そんな俺の心を知ってか知らずか、電車が急にスピードを落として止まった。俺はまさか、と思ってドアの方を見る。しかし、ぬいぐるみが入ってくる様子はない。ならば連結部分か、と思って車両の前後の連結部分のドアを見る。やはり、ぬいぐるみが入ってくる様子はない。


『停止信号を確認したため、列車を停止させました~。』

「ぅゎっ!?」


 俺は車両についているすべてのドアに注意を払っていたので、車内アナウンスにびっくりして、少し声を出してしまった。隣に座っている男性が怪訝そうな顔で俺のことを見る。俺は少し興奮していたようだと、肩を縮めた。


 右手に読もうと思って取り出したミステリィ小説を握ったままだったことを思い出して、俺は続きを読むことにした。それを読めば安心できるかもと考えたのだ。


 登校するときに、主人公の教授がいよいよ犯人と犯行の手口を披露する、というところまで読み進めていた。帰りの電車で読み終わることができそうだ、とウキウキしながら地下鉄に乗り込んだのに、犯行の手口が明かされる最初の数行しか読み進めることができていなかった。


 俺はちょっと、地下鉄に放置されていたクマのぬいぐるみに腹が立った。あのぬいぐるみのせいでいらない心配をたくさんして、楽しみにしていた小説を全く読むことができなかったのだ。許すまじ、クマのぬいぐるみ!


 小説を開いて、数行読んだところで再び不安になった。今ここでぬいぐるみのことを恨んだせいで、ぬいぐるみに仕返しをされるのではないか、という不安に駆られた。


 家に帰るとさっきのクマのぬいぐるみが先回りしていて、そこで殺されてしまうのではないか。次の日学校に行くと、教室に来るクラスメイトの代わりにぬいぐるみが入ってきて呪い殺されてしまうのではないか。


 俺の頭の中にはいろいろな悪い方向の結末に向かう妄想がどんどん浮かんできた。バイト終わりに食べた夕食を吐き出してしまいそうなほど緊張してきた。額には脂汗が浮いている。


 もしクマのぬいぐるみがこちらを襲ってきた場合は逃げきれるのだろうか。もしクマのぬいぐるみが呪ってきたときはその呪いを打ち消すことができるのだろうか。


 妄想が浮かんでは消える。確認しようがないことや絶対に起こらないだろうことが頭に浮かんでは消えていった。


『停止信号が消えたため、列車発車します~。』


 車掌の声が俺の妄想のスパイラルを止めてくれた。俺の不安をかき消すように電車が動き出した。夜のとばりが降りた世界に、一本の光の筋が進んでいく。


 妄想のスパイラルから戻ってくることができた俺は、右手に握りしめていたミステリィ小説を再び読み始めた。またあのぬいぐるみに思考を占拠されてしまった。困ったものだ。




 俺は本が床に落ちるバサリという音で、目を覚ました。どうやら本を読みながら寝てしまっていたみたいだ。床に落とした小説を拾い上げた。床に落としたときに本が閉じてしまって、どこまで読んだのかわからなくなっていた。


 だいたいのページを開いて、読み終わった箇所を探す。読んでいなさそうな箇所を見つけたので、しおりを挟んでおく。


 どこを走っているのかと思って窓の外を確認すると、見たことがない所だった。俺はものすごく焦った。まさかさっきぬいぐるみを恨んだせいで、未知の世界に連れ込まれてしまったのではないかと思ったからだ。


 俺は急いで車内を確認した。乗客が一人もいない…かと思ったが、一人だけ座席に座ってスマホをいじっていた。どうやら未知の世界に連れ込まれたわけではなさそうだ。


 いまどこにいるのかが全く分からなかったので、ドアの上についている横に細長い電光掲示板を確認する。しばらくはニュースなどが流れていたが、ようやく次の駅が表示されたとき、俺は思わず、あ、と声を出してしまった。


 俺は、降りる駅を寝過ごしてしまっていたのである。幸いにも、降りる駅の次の駅で止まるようだったが、スムーズに乗り換えができるかどうかはわからない。クマのぬいぐるみへの恐怖心から多少解放された俺は、安心して寝過ごしてしまったみたいだ。


 もしかしてぬいぐるみを恨んだせいか、とも一瞬考えたが、こんなことまでぬいぐるみの呪いのせいにするのは馬鹿馬鹿しいと感じたので、その考えはすぐに捨てた。


 すぐに停車のアナウンスが聞こえたので、俺は降りる準備をして席を立った。降りた駅では、反対側の電車がちょうど出発したところだった。今乗ってきた電車と入れ替わりで出発することになっているらしい。


 次の電車が来るまで十分程度あったので、俺はようやく落ち着いてミステリィ小説の続きを読むことができた。


 次の電車が来たのでそれに乗り、最後の乗り換えの駅に向かった。最後の私鉄の路線では、ギリギリ終電に間に合って、終電に乗ることができた。生まれてこの方、終電に乗るのは初めてだった。タクシーなどを使わなくても良くなってほっとした。


 私鉄の電車でも自宅に帰るまでも自宅に帰ってからも、特に何事もなく夜を過ごすことができた。




3. ―――


 次の朝、俺は十時ごろ目が覚めた。午前の講義には間に合いそうになかったので、午前の授業はあきらめた。寝坊した講義に一つ難しい講義があったが、それは友達の講義ノートを見せてもらうことにした。


 いつもは朝の講義が始まる時間に起きることができるのだが、今日はなぜかできなかった。


 俺はまた、あのぬいぐるみの呪いか、と考えたが、やはり馬鹿馬鹿しいと感じてその思考をすぐに捨てた。


 昨日帰りに使った電車と反対方向の電車で大学まで登校する。


 JRと地下鉄を乗り換える駅に来た。俺は昨日のクマのぬいぐるみを持って帰ることにした。駅員には俺が落としたことにすればよいだろう。もし、昨日の駅員がいるのだとしたら適当な理由を付けて渡してもらおう。


 俺は地下へ行くエレベーターに乗った。昼にもかかわらず、会社員らしいワイシャツにネクタイをした男性が忙しそうに隣を歩いて降りていく。


 俺は昨日ぬいぐるみを渡した駅員がいた駅員室にまっすぐ向かった。


「あの、すみません…」


 俺は駅員に声をかけた。

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帰りの電車の落とし物 いそた あおい @iSoter_kak

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