【短編】だから周りも、僕を見る
科威 架位
文化祭・合唱コンクール
学校、特に中学校には、それぞれ異なる性質を持った生徒が多数存在する。
その中でも彼、
肉が垂れている首と、まるまるとしたボディを持つ彼は今、机の上の教科書を片付けている。おそらく、前の授業で使った物だろう。
「次の授業は……あー、文化祭の役割決めか」
彼にとって、文化祭は、授業がないという意味でとても都合のいいイベントであった。適当に周りに合わせてはしゃぎ、ほどほどに仲の良い友人と校内を周っていれば、それなりに楽しめるからである。
「うわー、実行委員だけは嫌だな。それ以外なら……まあ、合唱コンクールの指揮者以外ならなんでもいいや」
この中学校の文化祭では、毎年、クラス対抗の合唱コンクールが行われる。お題となる合唱曲を課題として出され、それをクラス全員でステージに上がって歌い、それを審査員が評価する、というものだ。
最も評価の高かったクラスは表彰され、しばらくの間、別のクラスの生徒からちやほやされ、嫉妬される栄誉を得るという、かなり盛り上がる祭典である。
「楠木くん、次の役割決め、なにするか決めた?」
「特に何も……あ、実行委員だけは嫌だ」
「めっちゃ分かる」
マゴに話しかけたのは、山口ナオトという男である。彼はマゴと仲が良く、こうして世間話をすることもあれば、趣味の話をすることも少なくない。学校で暮らす上で、とても大切な話し相手である。
「俺はとりあえず、準備係に立候補して、別の係は避けるなー。でないと、余った係を押し付けられそうだし」
「確かに……山口くんの言う通りにした方がいいかも」
「あ、先生来た。そろそろ席に着いとこ?」
「うん」
授業の合間の休憩が終わり、このクラスの担任が教室に入ってきたのを見計らい、マゴを含めた全ての生徒が着席する。
教師は教壇に立つと文化祭の役割を決める旨を話し始め、指定された役割に立候補してもらう、という形で係を決めようとしていた。
「じゃあ、実行委員をやりたい人は手を挙げてー。女子と男子から一人ずつで」
「はい!」
「はーい!」
「はい、じゃああとの進行は二人に任せますー」
「やる気ないなー……」
光の速度で決まった二人の実行委員は、教師の代わりに教壇に立つ。その二人はどちらも、色々なところで積極性を発揮している、優秀な人たちだった。
実行委員に立候補するほどであるから、さすがと言うべきか、その後の進行はとてもスムーズであった。
「体育館の椅子や机の準備係をやりたい人ー?」
「はい!」
そんな中、マゴの友人のナオトは、椅子や机の準備係に立候補していた。無難な係のため、クラス中での人気も高く、ナオト以外にも立候補している生徒がちらほらいる。
「はい!」
そんな中、ナオトが立候補していたため、一拍子遅れてマゴも立候補する。しかし、マゴに目を向けた実行委員の女子は「ごめん!」と言葉を発した。
「もう人数オーバーなんだ、ごめんね?」
「あっ、はい……」
人気な係のため、一拍子遅れたマゴの主張は、そんな理由で鎮められた。
目的の係に就くことができず、焦りを感じたマゴは、他の準備係に立候補しようと心に決めた。
「Tシャツのイラストを担当してくれる人ー!」
「む、無理だ……絵は描けない」
文化祭では、それぞれのクラスがテーマを決めて、クラスによって異なるデザインのTシャツを作成する。
そして、Tシャツにプリントされるイラストの担当は、比較的絵が得意な人物が担うのが慣例であった。しかし、マゴはそれには当てはまらないため、その係への立候補を断念する。
「校内や体育館の飾りつけを担当してくれる人ー!」
「これなら、まだ……いや、僕の体型だとちょっと厳しくないか?」
「……はい、じゃあ今井さんに、足立さん。それと安藤さんでお願いします!」
「あっ、決まっちゃった」
これもマゴにとって都合のいい係であったが、自分に向いているかを考えている間に、担当する人物が決まってしまった。
その後も、なんだかんだでマゴは係に就くことができず、いつのまにか、合唱コンクールにまで話が進行していた。
「じゃあ、合唱コンクールについてですが、ソプラノパートは女子、男声は男子が担当するとして、ピアノ担当とアルトパート、指揮者を決めたいと思います」
「ピアノ担当は私がやります!」
合唱コンクールのピアノ担当として手を挙げたのは、実行委員として前に出ていた女子だった。実行委員の男子は、他にピアノ担当に立候補する人がいないことを確認すると、その女子をピアノ担当として決定した。
「じゃあ、ピアノ担当は
「積極性の塊かな?」
シグレはボブの髪型をしている、その学年でも特に、男子人気が高い女子だった。成績は、トップとはいかないまでも優秀な部類であり、運動ができるためスタイルもいい。彼氏がいるとも噂されている、かわいい系の顔の美人である。
「じゃあ、アルトパートを決めたいと思います」
「待って待って、その前に指揮者決めないと」
「あっ、そっか。じゃあ、指揮者をやってくれる人ー!」
アルトパートを決めようとした実行委員の男子にシグレが待ったをかけ、指揮者の立候補を待つ。指揮者は、ステージ上で合唱する生徒たちの前に立つ役割のため、実行委員に次ぐほど人気が低かった。たとえそれが、シグレとコンビを組める役割だとしても、である。
「誰か……誰か……」
マゴは祈っていた。
現在、このクラスで、彼以外に係に就いていない生徒はもういない。その場合、このまま指揮者に立候補する生徒がいなかった場合、どうなるかは目に見えている。
「誰もいない?」
「まあ恥ずかしいしね。じゃあ、仕方ないけど……」
「あっ、あっ、あっ」
「楠木くん、お願いできる? 係、就いてないでしょ?」
「あ……はい」
雰囲気からして拒否することはできな。マゴはシグレからの言葉に、渋々と頷いた。
「じゃあ、楠木くんで決定ね。次は、アルトパートを決めたいと思います!」
アルトパートは、女子と男子の両方から人を選出する形で決められる。これも立候補制ではあるが、指揮者であるマゴにはなにも関係がなくなったため、彼はため息と一緒に机に突っ伏していた。
木の葉を揺らす柔らかい風が、マゴの顔をそっと撫でる。授業が終わって、教室の窓から外を眺める彼の姿はからは、哀愁がただよっていた。そんな彼を哀れんだナオトは、無言で背中を優しく撫でる。
「山口くん……僕、どうしよう」
「……頑張れ」
返す言葉が見つからないといった感じだ。これは、指揮者がハードルの高い役割という理由だけではない。マゴには、どうしても指揮者が嫌な理由があった。
「楠木くん! クラス全体での練習の前に、指揮者とピアノで少し合わせない?」
「あぁ、はい」
「マジでがんばれー」と小さく応援するナオト。その言葉を背に、マゴは渋々とシグレの後ろについていき、教室から出ていった。
ピアノがある音楽室に到着した二人は、早速練習の準備をはじめる。ちなみに、移動中の会話は一言もなかった。
そんな気まずい空気の中、シグレは譜面を用意し、ピアノに向かう。
「────よし、準備はできたから、楠木くんのタイミングで初めていいよ。手の動かし方は分かる?」
「授業で習ったので、頭には入ってますけど」
「じゃあ、お願い」
シグレの準備が終わり、あとはマゴの指揮の開始を待つのみとなる。
マゴは、オーケストラの指揮者のようにふわりと右手を動かし、演奏の開始の合図をとる。
シグレによる演奏はつつがなく始まり、一小節、二小節と演奏が進んでいく。しかし、四小節目あたりから演奏のリズムが狂い始め、シグレは演奏をストップした。
「楠木くん、指揮がズレてる」
「ご、ごめんなさい」
「もう一回最初からね」
続けて、ふわりと右手を動かして演奏の開始の合図をとる。今回も演奏は無事に始まるが、さらに早い段階で演奏が狂い始める。
シグレはまたも演奏を止め「もう一回最初から」と、マゴに指示を飛ばした。
何度か同じことが続き、マゴの余裕も無くなり始めていた頃、再びシグレの演奏が止まる。マゴはまた、最初からと指示をされるのかと心配をしていたが、次にシグレの口から出た言葉は、彼の心を深くえぐった。
「え、もしかして……リズムとるの、苦手?」
「というより、指揮が苦手で」
「え、うそ」
そう、マゴは、指揮がこの上なく苦手であった。
◇
というわけで、僕は指揮者に抜擢されてしまった。しかも、指揮が苦手であるにもかかわらず、だ。
僕自身が、僕は指揮が下手だと知ったのは、少し前、音楽の授業でのことだった。
クラスメイトとふざけてオーケストラごっこをしていた時、指揮をするのが下手すぎて盛大に笑われたのは、記憶に新しい。
柳さんが、必死にリズムの取り方を教えてくれている。話は逸れるが、柳さんは教えるのが得意な部類だと思う。なぜなら、言っていることのほとんどは理解できるからだ。
「だから、手の動かし方を一定にしないと」
「なるほど、こうですね?」
「そうそう、頭の中でも曲を流しながら、それを手を揺らして奏でるイメージで」
「だんだん分かってきました!」
「じゃあ、それを一分くらい続けてみて」
とりあえず、言われた通りにしてみる。曲は完全に記憶しているから、あとはそれを想像しながら手を揺らしてみるだけだ。オーケストラのように、特定のパートに特殊な指揮をするようなこともない。難易度としては、かなり低い部類のはずだった。
「なんでっ、途中で遅くなったり早くなったりするの⁉」
「いやぁ、腕が疲れちゃって」
何回もこれを繰り返している内に、指揮が下手な原因は、体力不足だと気付いた。
指揮をする際には、両肩や肘を浮かせて腕を振る動作を行う。全身が贅肉で覆われている僕にとっては、普通の
そのため、一定のリズムを維持することができず、不安定になってしまう。
「ほんと、すみません」
「いや、指揮者になるようお願いしたのは私だし……でも、そんなことで?」
柳さんは、自分のピアノの練習をすることにしたようだ。僕には、どうにか三週間以内に、合唱コンクールで課題として出されている、二曲を指揮するだけの体力をつけるよう指示が出された。
文化祭までは一か月ある。それまでに、なんとか体力をつけなければならなくなった。
「でも、困ったな。できるだけ、指揮者がいる状態でピアノの練習をしたいんだけど」
「どうしてです?」
「私もリズムをとるのが得意じゃないから。何回も演奏して、頭に叩き込まないと」
「そうなんですね……」
柳さんは、ピアノ自体は弾けるようだが、リズムをとるのが得意ではない様子だった。
どうしても練習したそうにしていたため、どうにか僕の指揮の代わりになるものを考える。他の生徒に頼むという手もあるが、彼らには彼らの係がある。
そんな中、僕は一つの案を出した。
「メトロノームは使わないんですか?」
「家にならあるんだけど、今は持ってきてないし、音楽室のメトロノームは壊れてるんだよね。明日練習するしかないかなー」
残念そうにする柳さん。
何とかしてあげたいと思いつつ、そもそも、こうなっているのは自分のせいだと自覚すると、自己嫌悪が加速する。
だから、少しは特技を見せびらかしてでも助けようと考えた。
「じゃあ、僕が歌ってリズムをとりますよ」
「え、どういうこと?」
「指揮の代わりみたいなもので、僕の歌に合わせてピアノを弾いてもらうんです」
「……リズムはちゃんととれるの?」
「歌なら大丈夫です!」
仕方ないことだが、半信半疑といった様子だ。指揮であれだけ苦労していた人間の歌声に合わせるなど、不安しかないだろう。
僕は指揮が下手だが、全くできないわけではない。ピアノの伴奏の開始は通常通りに指揮すればいいし、歌い始めに動作をやめればいいのだ。
それを柳さんに説明し、なんとかピアノの前に座ってもらう。
「じゃあ、いきますよ」
「うん、いいよ」
伴奏の開始を合図した。
音楽室中に、よく知っている曲のメロディーが響き渡り、段々と合唱の開始のフレーズが回ってくる。腕も疲れてきたので、リズムがブレる前に指揮をやめる。
僕は、奏でられる綺麗な音色を聴きながら、口を開いた。
「ちょっと悪いことしちゃったかな……」
正直、嫌だった。ピアノの担当をすることが。
実行委員の仕事もしなければならないので、練習の時間は限られてくる。それに私は、よく知らない人たちの前で何かをするのが苦手だ。クラスのみんなの前で文化祭の役割決めを仕切れたのも、クラスの全員と話をし、それなりに関係を深め、性格をある程度把握したからである。
文化祭には、私のクラス以外の生徒どころか、その親や、別の学校の誰かまでもがやってくる。そう考えるだけでも、吐きそうになる気分だ。
「じゃあ、いきますよ」
「うん、いいよ」
渋々と、そんな返事をする。
口にした後に、少し不愛想過ぎたかと心配になった。けど、楠木くんは気にしていなさそうなので、私も気にすることなく、曲の伴奏を弾き始める。
今回の合唱曲も、ピアノを何年もやっていれば、初見で弾ける程度には簡単だ、弾き始めは。
重要なのは、合唱の最中にあるフレーズである。ざっくりと見ただけであるが、あれらは何度も練習しなければ、演奏が止まってしまうほどに難しい、と思う。
そろそろ楠木くんの歌が始まる。分かりやすくソプラノパートを歌うと言っていたが、本当に大丈夫だろうか?
「────!?」
楠木くんの声が響く。音楽室の空気が変わる。防音壁特有の音の響き方で、私の耳にその音が入る。
息を呑んだ。楠木くんの歌声は、ただの学生とは思えない程に、心地よい響き方をしていた。
そうだ、弾かないと────と、私は止まりかけていた演奏を立て直し、楽譜に目を走らせる。
たしかに、リズムは合っているように感じる。彼の歌は記憶の中にあるCDの曲調と一致し、私のピアノと合わさって、綺麗な曲を奏でている。
「あっ、まずい」
気付くと、ピアノが、私が苦手なフレーズに突入していた。集中しきれていなかった私は、そのフレーズの途中でつまずき、演奏をストップしてしまう。
しかし、楠木くんは変わらず、歌を歌い続けてくれている。歌に合わせて途中から演奏を再開するしかない────と、どうにか演奏を再開しようとするが、リアルタイムで進んでいく歌にピアノを合わせるのは、まだまだ練習が必要な私にとっては、とても難易度が高かった。
それでも、なんとか演奏を再開し、楠木くんの歌声に合わせながら、なんとか曲の前半を終えた。一区切りということで、楠木くんも合唱をやめ、私も演奏を止める。
「────止まってましたけど、大丈夫でした? 僕のリズム、合ってました?」
「……」
「柳さん?」
「楠木くん……歌、上手いね?」
「えっ? あっ、ありがとうございます」
声が裏返っている。褒められ慣れていないのだろうか?と私は疑問に思うが、それを口に出すことはしない。なぜなら、私の演奏の課題が多すぎるからだ。
演奏が途中で止まったのもそうであるが、叩く鍵盤を間違えたり、楽譜をまだ覚えきれていないなど、練習して解決しなければならない課題がたくさんある。
なぜ、歌がこんなに上手いのか気になるが、それを聞くのはまた今度にする。
「やっぱり、太ってるから歌が上手いの?」
「関係ないですよ!?」
「そう? まあいいや、もう一回お願いしていい? 前半だけで」
「分かりました」
それから数時間、結局、最終下校の時間まで、楠木くんには練習に付き合ってもらった。早く帰りたかっただろうに、本当に申し訳なく思う。
せめて、労いの言葉だけはかけてあげようと、水をがぶ飲みしている彼の元に近付く。
「ごめんね? こんな時間まで練習に付き合ってもらっちゃって」
「全然大丈夫ですよ。歌いながら指揮をして、少しは指揮も長続きするようになりましたし。それに、僕一人だとちゃんと練習してたか分からないので」
「ほんとにありがと。じゃ、私はもう帰るね」
「はい、お疲れ様です」
「ばいばーい!」
ピアノを軽く拭き、楽譜を持って音楽室から出る。
結局、自分で立てた課題は何一つ達成できなかった。彼にはせっかく練習に付き合ってもらったのに、ほんとうに情けなく思う。
クラスメイトとの合唱にピアノを合わせるまで、まだ一週間ほど時間がある。その間に、なんとか曲を最後まで、躓かずに弾いてみせようと固く決意し、私は学校を出た。
暗くなりかけている空を背に、僕は家路を進む。
こんな時間に帰るのは初めてだ────そう新鮮な気持ちになりながら、暗くなった住宅街を眺める。
家々の窓にはLEDの光が貫通し、暗くなった夜道を少しだけ照らしている。街灯には、種類も分からない虫が無数にまとわりつき、ある種の気持ち悪さを感じさせる。
「楽しかったな……」
気付けば、そんな声が零れていた。
放課後の、それも最終下校の時間まで何かをしたのは、今日が初めてだった。それも女子と────柳さんと一緒に、だ。
中学生の僕にとって、それはワクワクを感じられる出来事だった。会話をした数は少なかったが、柳さんと共同作業をしている感覚はとても新鮮で、楽しかった。
「明日も、一緒に練習したいな」
半ば恋と似ているその感覚を、僕はぎゅっと噛みしめ、スキップをしながら夜道を進んでいった。
家につくと、ふわりと香る料理の匂いが、僕のお腹を刺激する。
歌は、それなりにエネルギーを使う。歌ってる最中は頭も使うし、響く声を出すのはとても疲れるからだ。
正直、練習をしている最中にお腹が鳴らなかったのは、奇跡としかいいようがない。
「ただいまー」
「おかえり、遅かったな」
丁度玄関の近くにいた父が、僕の言葉に反応する。
僕の親は、そこまで厳しいわけではない。次の日の朝に帰ってきていれば、なにも問題にはしないレベルだ。かといって、パリピみたいに朝まで友達と遊び歩くかと聞かれれば、決してそんなことはないと答えるだろう。
僕に、そんな体力は存在しないのだ。
「文化祭の合唱コンクールの練習してた」
「ああ、お前、歌上手いから楽勝だろ」
「いや、指揮者」
「え?」
「僕がやるの、指揮者」
あんぐりと口を開ける父の横を、軽いため息をつきながら通り過ぎる。
はやく夕食を摂りたいという気持ちを抑えながら、制服を着替えようと自分の部屋へと向かう僕を、父が肩を掴んで引き留める。
「夕食のあと、リビングで待ってろ」
「え?」
「いいな?」
「は、はい……」
不審に思いながらも、圧のこもったその命令に頷く。
会話の流れで気付くべきだったのだ。僕はこれから、世界一嫌いな行為をする────させられることになる。後悔するには、すでに、遅い。
「さて、練習するかー……」
遅めの夕食と風呂を終えた私は、部屋にある箱型のピアノで、合唱曲の練習を始めていた。
メトロノームを曲と同じテンポに設定し、そのリズムを頼りに鍵盤を叩く。
学校で練習したお陰か、初めて弾いた時よりも、スムーズに弾けている感覚がある。
鍵盤を叩く指も、簡単なフレーズでは迷いがほとんどなくなっており、体が動きを覚えているのが実感できる。
しかし、本当の課題はそこではない。
「そろそろだ……」
私が苦手なフレーズに突入する。
結局、学校での練習では一度も成功しなかったところだ。改善しようにも、なぜそこが演奏できないのか、まだ理解できていない。
「あっ」
案の定、ミスをしてしまった。その拍子に、私は演奏をやめてしまう。
意図的に、ではない。どうやら私は、動揺すると演奏が止まってしまうようだ。これも、絶対に改善すべき課題の一つだろう。
それはそれとして、今回の失敗で、一つ気付いたことがある。それは、私がこのフレーズでミスを連発してしまう理由についてだ。
「メトロノームのリズムに乗れてないんだ! 学校だと楠木くんの歌に合わせてたから気付かなかったけど……」
どうも、このフレーズは特殊な音色を奏でているため、いつもの感覚で鍵盤を叩こうとすると、混乱してリズムが狂ってしまうようなのだ。
「指が追いついてないってのもあるけど、それは弾いてればいつか改善するはず! とりあえず、今の課題を頭に入れてもう一回やってみよう!」
課題の改善法が見つかった。
それだけでも、今日だけで何時間も練習に費やした甲斐がある。明確な目標が定まったことで私自身のモチベーションも上がり、まずはその課題を解決しようと、その興奮のまま指を動かす。
課題が見つかったからと言って、先程と比べて明確に技術が向上した訳では無い。むしろ、興奮しすぎて冷静さを欠いている分、演奏の精度は下がっているだろう。
私もそれは理解している。私の冷静な私が、一回一回の演奏を丁寧にこなすべきだと語りかける。
「こうじゃない……こうでもない。じゃあ、これは?」
しかし、今はそんなことはどうでもいい。
楽しいのだ。明確な目標に、辿り着こうとすることが。
その時の自分は、周りから見たらとても気味が悪かっただろう。ぶつぶつと何かを呟きながらピアノを弾いているのだ、その人物が知人だろうと、私だって少し引く。
それでも私は、がむしゃらにピアノを弾き続けた。
次の日、日も高く上り、ほとんどの生徒たちが給食を終えたころ、私は楠木くんを誘い、ピアノの練習に付き合ってもらっていた。
休憩時間くらいは休憩したいだろうから、さすがの彼も嫌がるかと心配していたが、嫌な顔一つせず、付き合ってくれたことには驚いた。それに彼の様子は、どこか喜んでいるようにも感じる。
「柳さん、授業中めっちゃ寝てませんでした?」
「寝てないよ! ちょっとウトウトしてただけ!」
「ほんとですかぁ?」
「そういう楠木くんだって、足フラフラだし、隈もすごいよ?」
「ちょっと色々あって……」
「へぇー?」
「なにがあったの?」「いや、父さんが……」そんな会話をしながら、音楽室に到着した私たちは、早速練習の準備をはじめる。
昨日と同じように楽譜を立て、椅子の高さを調節してピアノに向かう。
私の準備は完了した。楠木くんを見ると、彼も準備は万端なようだ。はやく彼に練習の成果を見せたい私は、今、少しせっかちになっていた。
「もういい?」
「いいですよ。じゃあ、始めますね」
昨日と同じように、楠木くんの合図で伴奏をはじめる。
心なしか、伴奏が昨日よりもスムーズに始められた気がする。こういった些細なことでも自分の成長を感じられるのは、とても嬉しい。
楠木くんが歌いはじめる。相変わらず、歌声は透き通るように綺麗だ。しかし私は、今の彼の様子から、違和感を感じ取っていた。
────指揮が、途切れてない?
今の彼は、歌い続けながらも、リズム通りの指揮を続行していた。昨日の彼であれば、既に腕を止めて疲れ果てているはずなのに、だ。
私が彼の指揮に気をとられている内に、私が苦手としているフレーズに突入する。
私は再び集中し、昨日発覚した明確な課題を意識しながら、少しでも上手くそのフレーズを弾こうとする。
しかし、そう上手くはいかない。
指が鍵盤を間違え、楠木くんの歌との呼吸がズレる。ペダルを踏むタイミングも間違え、とてもしっちゃかめっちゃかな演奏になってしまう。
楠木くんの歌が終わり、私の演奏も終わる。
昨日と同じく、演奏が一区切り終え、私たちは、少し息をついた。
「楠木くん……」
「はい?」
「指揮、凄く長く続いてたね」
「あはは、父親にめちゃくちゃやらされまして」
「少しは慣れたってこと?」
「そういうことです」
驚いた。彼はこの一日で、昨日の自分よりもここまで進歩したのだ。
父親に酷くしごかれたようなので、この一日で体力をつけたというよりも、指揮をするときの疲労に慣れさせられた、というべきだろう。
「柳さんも、凄く上手くなってましたよ。演奏が止まってませんでしたし、演奏がすごくスムーズでした」
「そう? ありがとう」
彼はそう言ってくれているが、私の視点だと、まだまだ雑な演奏にしか思えない。
やはりまだまだ練習が必要だ。私は彼に頼み、もう一度指揮をしてもらうことをお願いした。
◇
僕らは、この日から一週間、毎日放課後に集まって練習を続けた。
柳さんのピアノの腕はみるみるうちに成長し、クラスメイトの合唱と合わせる頃には、外目からはミスが見つからない程に演奏が上達していた。
彼女自身は、まだまだ自分の演奏に問題を感じていたようだが、正直僕は、もう練習しなくてもいいんじゃないかと感じ始めていた。
僕はというと、毎日父親にしごかれていたため、二曲連続で指揮をしてもリズムが崩れない程度には、指揮に慣れきっていた。
父のせいで運動にさらなる忌避感が生まれかけたが、柳さんに「すごいすごい!」ととても褒められたため、今では自主的に筋トレにも取り組むようになった。
「大丈夫? 楠木くん」
「正直、緊張で吐きそうです」
「吐いた時は私が笑ってあげるよ」
「なんの慰めにもなってないが???」
そして今日は、合唱コンクール当日である。
舞台は体育館。ステージ上と反対側には、何百人もの保護者や他校の生徒が着席しており、その一つ手前には審査員の先生が五人、さらにその手前、ステージの真ん前には、同じ学校の生徒たちが床に座る形で待機している。
「ほら、次は私たちだよ」
「よし……行きましょう」
「うん」
クラスメイトたちはすでにステージに上がり、パートごとに分かれて待機している。
僕らは覚悟を決め、進行の声に従ってステージ上に上る。柳さんもピアノの前に立ち、体を客の方に向けている。
無言で頭を下げる。それと同時に客席から拍手が鳴り響き、追い打ちをかけるように、自分が注目されているという自覚をさせられる。
拍手が収まる。僕と柳さんはそれを合図に、それぞれ演奏と指揮の体勢に移る。
柳さんはピアノの鍵盤に指を添え、音の確認をするかのように鍵盤を軽く叩く。何百人が息を抑えている静寂の中で、その音はとてもよく響いていた。
────練習はたくさんした。大丈夫。
目で合図をし、柳さんに向け、片腕で伴奏の開始の指揮を送る。
伴奏は綺麗に始まった。今まで練習してきた中でも、最高の始まり方だろう。
僕は柳さんに向けていた腕をクラスメイトに向け、両腕での指揮を開始する。
クラスメイトの合唱が始まった。
彼らも相当練習したようで、ソプラノ、アルト、男声のそれぞれが、別のパートに釣られたりせず、独立した歌声を奏でている。
それでいて、重なった歌声は、綺麗なハーモニーとして僕の耳に届き、僕の緊張を幾ばくか和らげてくれている。
────ミスは、してない。リズムもズレてない。よし!
指揮、ピアノ、合唱ともに、すべてが練習通りだ。
このままいけばつつがなく合唱を終えられる。そう思いながら指揮を続けていた時、誰が見ても明確なアクシデントが発生した。
その拍子に僕の指揮も止まり、クラスメイトも動揺して歌が止まってしまう。
何が起こったか
柳さんのピアノが、止まってしまったのだ。
「……まずいまずいまずい」
体中が熱くなり、全身から冷や汗が溢れだす。
今や体育館にいる人物が、全ての視線を私に向けているが、そんなことを気にする余裕は、私にはない。
ミスをしてしまった。
私が苦手としていたフレーズではない。私にとっては何も難しくない、難易度も比較的低いフレーズで、だ。
理由は分からない。ミスをする直前までは、今までで一番スムーズに弾けていたからだ。そのせいで油断をして、ミスをした瞬間、動揺した私は、演奏をやめてしまった。
────なんとか、演奏を再開しないと。
楽譜に手を伸ばそうとするが、そこに楽譜はない。
クラスメイトとの練習を始めてからは、楽譜なしで練習をしていた。その流れで、私は本番にも楽譜を持ってきていなかった。もう全部覚えている、完璧だと油断していた。
こんな事態は、想定外だったのである。
────なんとか、フレーズを思い出さないと。
楠木くんが小声で何か言っているが、ミスをしたときのフレーズを思い出すのに忙しいので、無視する。
しかし、大勢の前でミスをしたという状態が、私にとってはこの上なく恥ずかしかった。頭の中は、恥ずかしさに耐えようとすることで、いっぱいいっぱいになっていた。
────フレーズが思い出せない。
余裕がなくなっていることで、ミスをしたフレーズが完全に頭から抜け落ちてしまった。それを思いだそうとすることで、私はさらに余裕がなくなってしまう。
クラスのみんなも私を見ている。
はやく思いださないと、みんなの文化祭を、私が台無しにしてしまう。
そんな心配も頭を駆け巡り、私は、こんな大勢の前で泣きそうになっていた。
あんなに練習したのに、楠木くんに、たくさん練習を手伝ってもらったのに。
私は涙目になりながらも、ピアノの鍵盤に指を添える。しかし、その指は痙攣して動かない。
動かそうとしても、弾くべきフレーズが分からないから、動かない。
どうすればよいかが完全に分からなくなっていたその時、私の耳に、よく聞いた声が入ってくる。
「────♪」
私は知っている、この歌声を、この歌を。
これは、今まさに私が弾いていた曲の歌詞だ。
歌っているのは誰か? 楠木くんだ。
彼は指揮をしながら、アカペラで、ソロで、曲のソプラノパートを歌っていた。
「このフレーズは……」
彼が歌っているフレーズを、私は覚えている。
何度も練習したのだ。どこでどの歌詞が流れるかなど、冷静ささえあれば簡単に答えられる。
私は演奏を再開し、クラスのみんなも各々の歌を再開した。
僕らのクラスの合唱が終わった。
ステージから降り、次のクラスの合唱が始まる直前に、僕は先生に許可をとって、柳さんを体育館から連れ出していた。
「ひっ、ひぐっ」
「だ、大丈夫ですか?」
「うん……ぐすっ……ごめんね。演奏、途中で止まっちゃって」
「そんなの大丈夫ですよ。結果的には何とかなったんですし」
柳さんの肩を支えながら、ゆっくりとした歩みで教室へ向かう。
この数週間で分かったが、柳さんは、動揺しやすい性格のようだった。先の合唱で演奏が止まってしまったのも、それが一つの原因だろう。
僕は柳さんを慰めながら、周りに人がいないかを確認する。こんな姿を人に見せるのは、彼女でも非常に嫌だろう。
「ほら、教室につきましたよ。とりあえず座りましょう」
「ありがとう……少し、落ち着いたかも」
彼女の顔が、涙を流して崩れている。
いつもは周りに流されるだけの僕らを引っ張る彼女が、今はこうして頼りない姿を見せている。僕にはそれが、とても意外に思えた。
「柳さんって、人の前に立つのが苦手なんですね」
「……誰でもそうでしょ? 私はそれを強引に抑えて、強気に振舞ってるだけだよ」
日本人は、仲のいい人でも、無意識に壁を作りすぎる傾向にあると思う。
それは僕も例外ではなく、今まで人と会話するときも、本心はある程度隠して接してきた。それが悪い事だとは思わないが、そのせいか、今まで親友と呼べる人物は出来た覚えがない。
本心をぶつけられない相手との関係など、非常に浅いものだ。
「あんな簡単なところでミスしちゃって……みんなにも迷惑をかけて……ごめんね」
しかし、何週間も練習を共にしたことで、柳さんの本心が、僕は少し分かった気がした。この認識は間違いではないと、固く断言できるだろう。
そんな感情を胸に、僕は彼女に、慰めの言葉をかける。
「柳さんは今まで、クラスメイトと仲良くなろうとしてきたんです。この程度じゃあ、迷惑をかけられたなんて誰も思いませんよ。みんな優しいですし」
「そう、かな?」
「そうです」
本当は、他にも伝えたい言葉がある。
しかし、そんな言葉をかけなくとも、彼女は立ち直っていくだろう。それができるだけの強さが、彼女にはあると、僕は思っている。
「……助けてくれて、ありがとね」
「いえいえ。ソロのアカペラなんて、おちゃのこさいさいですよ」
「そうかもね」
僕は今日、人の中身に目を向ける大切さを知った。
感情を殺し、周りに馴染んでいればいいという考えは、なくなった。
これからは、相手のことを見るということを頑張ってみようと思う。僕が知らないだけで、クラスメイトも色々な考えを持っているだと分かったから。
そしていつか、この想いを彼女に伝えよう────柳シグレという、強い心の彼女に。
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