The Box Garden

羽川明

The Box Garden

 豪奢ごうしゃな屋敷の中央に、天井にガラスを貼った吹き抜けがあった。朝陽と月光を存分に浴び、すくすくと草木生いしげるその場所に、ソフィアはいた。


 ソフィアは、自身をソフィアと知ったときから、すでにその場所にいた。

 ソフィアにとって、あたり一面に生茂おいしげる緑と、四方を囲むガラスの向こうから覗く視線、鳥や虫たちの歌、談笑する人々の声、自分自身、それが世界のすべてだった。


 そして今、ソフィアのその吸い込まれるような深いエメラルドの瞳には、コルセットをきつく絞り、花開くスカートを摘み上げて向き合う、ブロンズの髪の女たちが映っていた。


 一人は険しい顔をした、年配の女。丸い山のように膨らんだ頭には数えきれないほどの髪飾りを刺しており、首には巨大なネックレスが光っていた。


 もう一人は、呆れ顔の、妙齢の女。こちらは手のひらを閉じることができないほど大振りな、豪奢な指輪をいくつもめている。

 しかし唯一、薬指だけは空いていた。


「カロリーナ! カーチャを知らない?」


 ソフィアに、ガラスの向こうのその声は届かない。

 ただ、今日は使用人たちがやけに慌ただしい。ガラス越しに見える通路を、せわしなく行き来しているのだ。


「お母様。それが今朝から姿が見当たらないのです。使用人たちは外出していないと言いますが、それも本当かどうか」


「困ったわね。もう新しい先生が玄関までいらしているのに」


 そばを通ろうとした使用人の男を捕まえ、年配の女-ベリンダは早口で捲し立てる。


「先生を早くお通しして。ずっと玄関に立たせていたんじゃ失礼だわ」


 使用人の男は無言で頭を下げると、早足で通路の奥へ消えていった。


「お母様、カーチャはどうされるのですか?」


「あの子が一人で外へ出るとは思えないわ。きっとまたこの屋敷のどこかに隠れているのでしょう。クリストファー先生にはそれまで応接間でおもてなしをして、引き止めるしか……」


 ベリンダはそこまで言いかけたところで、カロリーナが目を見開いて固まっていることに気づく。声をかけようと口を開きかけたとき、背後から遮るように別の声がする。


「なんの騒ぎです?」


 麦に近い美しい金髪に、黒い大理石のような複雑な虹彩を持つ、細身で長身の男が現れた。


「クリストファー先生……」


 ベリンダは振り返るや否や頬を朱に染め上げ、見惚れる。


「クリス、で構いません」


 クリストファーと呼ばれたその男は、軽く整髪料で整えた前髪を右に流しながら応じる。瞳と同じ色をしたウェストコートに、折り目のついた同色のズボンがさまになっていた。


「応接間はあちらです。申し訳ありません、使用人にはきつく言い聞かせておきます」


 ベリンダが手のひらで示す背後に、クリストファーは振り向きもしない。

 ただ、にこやかな笑みだけは絶やさずにいた。


「いえ、こちらへは自分から赴いたのです。仕立て屋から、良いものが見られるとうかがいまして」


「良いもの、ですか? あ……」


 ベリンダが言い終わらないうちに、クリストファーはベリンダを軽く押しのけ、その背後の、ガラス張りの庭園を見やる。


「これは……」


 クリストファーは口を閉じることも、まばたきをすることも忘れたまま、しばし目の前の光景に見入った。

 宝石のように輝く色とりどりのみずみずしい花たちの中に降り立つその血の通ったシルクのような肌と、腰まである、陽光のような輝きを放つ白に近い金髪。


 一矢纏わぬその様相で、人口の小川の水を肩にかけるその姿は、天使か女神か。


 視線に気がついたのか、その出来過ぎた彫刻のようなくびれを曲げ、こちらに振り向いたのは、迷宮の入り口のように深い吸い込まれるようなエメラルドの瞳をしたうら若き少女、ソフィアだった。


 その姿に、クリストファーは再び言葉を失う。


「あれは……?」


 やっとの思いでそれだけを口にすると、ベリンダが答えた。


「お見苦しいものを見せてしまい申し訳ありません。十数年前に引き取ってから、私たちも扱いに困っておりまして」


「言葉は?」


「はい?」


「人の言葉は、話せるのですか?」


 クリストファーにとって、かの少女が言葉を発することができなくとも、なんら不思議はなかった。


 神託を下す女神に、なぜ言葉を介す必要があろうか。


「はい。ですが、教養もなにもありませんし、教えようとしても、あれは私たちには興味を示しません」


「でしょうね」


 あからさまにしわを寄せて嫌悪するカロリーナになど見向きもせず、クリストファーはベリンダに向けて膝をついて許しをこう。


「どうかこの私に、あの方を任せてはいただけないでしょうか」


「とんでもない! クリストファー様、どうかお顔をお上げください。頭を垂れなければならないのは、私たちのほうでございます」


 その言葉を聞くなり、カロリーナはガラスの向こうを睨めつける。


 件の少女は、クリストファーたちの気配からか、早めに水浴びを切り上げ、今は茂みに隠れながらドレスのスカートを膨らませるためのペチコートに繰り返し足を通しているところだ。


「お母様。いい加減、ソフィアにもクリノリンを履かせるべきですわ。あんな風にペチコートを重ね着させるなんてみっともないですもの」


 クリノリンとは、スカートをドーム状に膨らませるための針金のことで、カロリーナにとってこれを使わずにドロワーズの上にペチコートを幾重にも重ね着することは、時代遅れのみっともない行為だった。


「そうね、クリノリンを履かせるのもそうだけど、あの子には教養を身につけさせるための世話役が必要だわ」


 クリストファーの笑みが、深くなる。


「お母様!?」


 カロリーナは思わず声を上げた。


「クリストファー様のお言葉なら、ソフィアも興味を示すやもしれません。もしそうなれば、主人も私も予算に糸目はつけません。どうか、お願いいたします」


 クリノリンで膨らんだスカートに顔を埋めそうなほど深々と頭を下げるベリンダに、クリストファーも深いお辞儀で返す。


「もったいなきお言葉です。このクリストファー、地位と名誉にかけて、必ずやお嬢様を、舞踏会で羨望の眼差しを集めるほどの人物になるよう導いてみせます」

「では、いつがよろしいでしょうか? カーチャにも授業をしていただかなければいけませんし、兼ね合いも考えると……」


「そういえば、カーチャお嬢様はどちらに? そちらのお方は、うかがっていたよりも大人びて見えますが」


 ベリンダはばつが悪そうにうつむいたあと、救いを求めるように辺りを見回した。

 しかし、相変わらず使用人たちは慌ただしく屋敷の中を右往左往するばかりで、良い報告はとても聞けそうにない。

 ベリンダはため息を吐きそうになるのを抑えながら、仕方なく真実を口にする。


「お恥ずかしながら、今朝から姿が見えませんの。引っ込み事案な性格のせいで、今まで来ていただいた家庭教師の方とも反りが合わなくて。先生を変えるたびに、屋敷のどこかに隠れてしまうんです。本当に、誰に似たのかしら」


「ハッハッハ、奥ゆかしいことは、なにも悪いことではありませんよ」


 かたくなに笑みを崩さないクリストファーがようやく声を出して笑ったかに思われたが、ベリンダたちの目には、笑みを浮かべた口元がほんの少し開いて見えただけだった。

 温厚な性格のようだが、その表情は読めない。


「それでは、今日はソフィアお嬢様に授業をさせていただけないでしょうか」


「ソフィアに?」


 露骨に顔をしかめるカロリーナを制し、ベリンダは応じる。


「そうですね、ソフィアが教わる姿を見れば、カーチャの緊張も和らぐでしょうし、お願いいたします」


 手を胸の前にやって深々とお辞儀すると、許可を得て、クリストファーはガラスの中に閉じ込められた箱庭に足を踏み入れた。


 ベリンダがソフィアを呼びつけることをしなかったのは、ソフィアが食事をのせた盆を届ける係の使用人とすらも打ち解けようとせず、ガラスにも近寄りたがらないからだ。


 クリストファーは、使用人たちが使っているのであろう、そこだけ植物の生育の悪いあぜ道を、極力緑を傷つけないようにして進んだ。


 ソフィアには、終始笑みを絶やさないクリストファーが特別に映っていた。クリストファーの笑みが、自分のために着飾るだけの世話役の使用人たちやベリンダ、カロリーナとは違って見えたのだ。

 そのため、ソフィアは小鳥たちと歌うのをやめて、クリストファーの方に向き直った。


「ソフィア、といったね」


 発せられた声は一見平静を装っていたが、クリストファーの唇は震えていた。


「はい」


 ゆっくりと、口に含むように発せられたその返事は、クリストファーに甘美な喜びをもたらす。春を調律して洗練させたようなその音色は、この世のものとは思えなかった。


 しかし、それ以上にクリストファーは、ソフィアの生きた彫刻のようなその様相に改めて目を奪われる。


 コルセットに縛られてなお、くびれは職人の超絶技巧によってさえ編み出すことはできないだろう、覗く胸元や鎖骨はもはや性的なけがらわしさの一切が削がれた、美の頂点にあった。   


 肌は、白人の中でも飛び抜けて白い、しかし病的ではない温かみを兼ね備えていて、そのバランスはどんな偉大な画家にも再現できないだろう。写真でさえ、その芸術を封じ込めることはできない。


 髪は、白に近い金で、白金を糸状に引き延ばして編み込んだカツラだと言われても、クリストファーは疑うことをしないだろう。


「バレエを……」


 その言葉に、こちらへ向けられる瞳。

 王宮でさえ手が出せないような飴細工職人によって練られ、人形職人によってめ込まれた、箱庭を押し込めたかのような深緑の瞳に見つめられ、息をのむ。


 それでもなんとか正気を保とうと紡がれた言葉は、


「バレエを、習ってはみないか」


 敬語が自然と漏れ出てしまいそうなほど、羨望をはらんでいた。彼女に、クリストファーがただすべき稚拙さなど、ない。


「バレエ?」


 小首をかしげるその仕草一つさえ、並の女優には再現できまい。


「それはなんですか?」


 仕立て屋から聞いた通りだった。少女は、俗世の一切を知らない。

 あるいは、そのことがここまでの浮世離れした美しさの一因となっているのかもしれないが、この危うい透明な光そのもののような少女に、俗世のしぶとさを、頑強さを与えたとき、芸術は人間のものさしで測れる限界を超え、その遥か先へ赴くのではないだろうか。


 クリストファーは、初めて針の穴に糸を通すかのように言葉を選び、応じた。


「感じられる限りの世界のすべてを、その身一つで表現する踊りだよ」


 自分は、自身に課した笑みを忘れてはいないだろうか。我に返り、頬を手のひらで確かめたくなるクリストファーだったが、悟られぬよう、笑みをより深いものにするに留めた。


「おどり?」


「蝶や鳥たちがする、楽しげな動きのことだよ」


 両の手を広げ、箱庭に住まう小さな命を示してみせると、ソフィアは頷いた。

 しかし、それ以上反応を見せることはない。二人の間で時が止まったように思えた。

 クリストファーは、永遠にも思える時間の中、少女の反応をうかがう。やがて明確な変化があった。


「本当、ですか?」


 長いまつげがまぶたを持ち上げ、はめこまれたエメラルドの瞳が、こぼれ落ちそうになる。

 受け止めるために心構えをしながら、クリストファーは応じた。


「それだけじゃない。この箱庭の外のことならなんでも、僕に聞きなさい。そうして学んだ世界のすべてから感じ取ったものを、君はバレエで表現するんだよ」


「私に、できるでしょうか」


 クリストファーを見上げることによって、宝玉に光が差す。クリストファーの端正な顔立ちや、ソフィアほどではないが、白人の中でも白い肌の色さえ、深緑の世界に誘われていた。


「できるさ」


 独り言のように呟かれたクリストファーの黒真珠の瞳には、未来のソフィアが描き出される。


 バレエの、世界一豪奢な会場で舞うシャンデリアさえ霞む光。大きなその舞台に、脇役はいらない。引き立てる必要などないのだ。永遠を思わせる引き伸ばされた時間の中を舞う人型をしたその宝石は、血が通い、動く。


 俗世を知り、危うさと引き換えにダイヤモンドのごとき頑強さを手にしたその芸術は、決して揺るがない。その真正面、もっとも近い最前列の特等席で、クリストファーは目に焼きつけるのだ。


 またとこの世には現れない、地上に降り立った天使を。


「では、教えてください」


 理想からそう遠くない現実にやさしく戻され、クリストファーは頷く。


「任せなさい、ソフィア」


 こうして、クリストファーの授業が幕を開けた。



 まず初めに、クリストファーは一般階級の人間が見ることができる中で最上級のバレエをソフィアに見せた。


 ソフィアは床の上を水面さながらに泳ぎ舞い踊るバレリーナたちに目を奪われ、エメラルドの瞳を終始爛々と輝かせて感嘆した。


 演目が終わると、クリストファーの狙い通り、ソフィアはバレリーナの真似事をしたがった。

 礼儀作法だけは叩き込まれているため、衆目を尻目に踊り出すようなことはしなかったが、右手の指は自身のももの上でリズムをとってうねり、左手はバレリーナのようにしなやかに、しかし再現しきれずくねくねと滑稽な様相でせわしなく動きたがった。


「バレエに使える部屋を、一つ貸し切ってある。これから、君が練習に使い続けることになる部屋だ。そこでなら、どれほど激しく踊っても、誰も文句は言わないよ。さぁ、行こう」


 差し伸べられたクリストファーの手を、何の迷いもなく取り、ソフィアは頷いた。


「馬車は初めてかい?」


 繋がれた二頭の馬に怯えるソフィアに、クリストファーは笑いかける。


「はい。馬車、というのですね。このような大きな動物は初めてです」


 ソフィアは馬のことを馬車と呼ぶのだと勘違いしているのかもしれなかったが、クリストファーにとって、それは些細なことだった。


 またいつか、教えれば良いのだ。


 乗りづらそうにしているソフィアの腕をとり、クリストファーが持ち上げてやると、少女はようやく中へ乗り込んだ。


「そのドレスではあちこち動き回るには向かないね。あとで、もっと動きやすい服を買ってあげよう」


「ありがとうございます。それで、あなたのことは、なんとお呼びすれば?」


 ソフィアが躊躇ためらいながら問うと、クリストファーはその不安を吹き飛ばさんと声を出して笑った。


「すまない、自己紹介がまだだったね。私はクリストファー。気軽にクリスと呼んでくれて良い」


「そういうわけにはいきません。それでは、先生、とお呼びしますね」


 逡巡の後、ソフィアはそう言って笑い返した。社交辞令とは思えない、とても自然な笑みだった。


「わかった。君がそういうなら、それでいい。だけど、その呼び方は対等じゃないな」


 疑問を顔に浮かべ、続きを促すソフィア。箱庭で育ったとは思えないほど、会話は自然だった。


「いつか、君が私を、先生として扱う必要がなくなったとき、そのときは対等に、クリストファーとか、クリス、と呼んでくれ。いいね?」


「はい」


 眠りにつく赤子に語りかけるようにクリストファーが告げると、ソフィアは嬉しそうに応じた。


 それから、クリストファーによる、ソフィアのバレエのレッスンが始まった。クリストファーは体をしなやかに動かすコツや、バランス感覚を失わないためのテクニックなどを教えた。


 しかし、表現の仕方を指導することは決してせず、ソフィアの思うように踊らせた。

 ソフィアもクリストファーも、笑みが絶えなかった。それは両者にとって忘れられない時間となった。


 そして、バレエのレッスンの一環として、クリストファーはソフィアに箱庭の外の様々なものを見せた。光も闇も、その中には等しく混ぜ込まれていた。


 そんなある日、クリストファーは自身の様々なコレクション──世界中のコインや写真、そして、ウォーディアン・ケースやベル・グラスなど──を見たいとせがまれ、ソフィアを自らの家に招いた。


 クリストファーに連れられ、玄関に入るソフィア。その目に飛び込んできたのは、靴箱の上に三つ並んだ鐘型のガラスケースに封じ込められた羊歯ようし類の植物だった。


「これがウォーディアン・ケースですか?」


 輝かせた目を見開いたまま尋ねてくるソフィアのその姿は、初めて対面したときからは想像もできないほど年相応に子どもらしく、クリストファーは笑みを深めた。


「これはベル・グラスだよ。ウォーディアン・ケースはとても高価なものだから、こんな場所にいくつも置いておくことはできないんだ」


「そうなんですね」


 落胆するソフィアに、クリストファーは続ける。


「けれど、このベル・グラスも、ウォーディアン・ケースと同じ原理で作られたものなんだよ」


「では、その植物たちも、買ってから一度も水をあげていないのですか?」


「そうだよ。ウォーディアン・ケースほどではないが、このガラス容器の中で、植物たちはすくすくと育つんだ。さぁ、奥にあるウォーディアン・ケースも見せてあげよう。おいで」


「はい!」


 駆け出したいのをこらえているのだろう、ソフィアの息は弾んでいた。クリストファーには、ソフィアの美が、浮世離れしたものから、大地の足をつけた確かなものへ変容しながら、その強さを増している手応えがあった。


 クリストファーの家は一人暮らしということもあって狭く、奥の大部屋へ行くには居間を経由しなければならなかったが、ソフィアはそこに飾られたコレクションの数々に見入り、不平を漏らすどころか、一種の演出として喜んだ。


 クリストファーが重い扉を開けて通してくれた大部屋には、大きなすりガラスの窓があり、そのもっとも日の当たるテーブルの上に、ウォーディアン・ケースはあった。


 ベル・グラスよりもずっと大きい、角ばったガラスケース。その中には、羊歯類に限らず、多種多様な植物があり、小さな池のようなものもあった。


「ウォーディアン・ケースの中は、一つの世界なんだ」


「世界?」


 反芻はんすうするソフィアに、クリストファーはささやく。


「箱庭のようだろう?」


 その言葉に一瞬振り返り、ソフィアはウォーディアン・ケースをまじまじと見つめ直す。


「たしかに、今まで私がいた、あの緑の世界を切り取ったようですね」


「だけどね、どんなに精巧なウォーディアン・ケースに封じ込められていても、ガラスの中のこの小世界は、やがて朽ち果てる運命にあるんだよ」


 今度こそ、ソフィアはウォーディアン・ケースから目を離し、視線をクリストファーに向けた。


「なぜ、ですか?」


「彼らには狭すぎるんだ。誰の手も借りず、すくすくと育っているように見えても、植物たちはみんな、寿命よりも先に枯れてしまう。君や私がそうであるように、一人で生きていくことなんて、できないんだよ」


「先生も、一人では生きられないのですか?」


 ソフィアが心底驚いた様子で問うと、クリストファーは儚げに笑った。


「もちろんだ。この服や髪型、口にする食材のすべて。私が作ったわけではないからね」


 テーブルの上のウォーディアン・ケースに目を落とし、クリストファーは続ける。


「人も生き物もきっと、誰に教わるでもなく、育つことができる。でも、それは危ういことなんだ。そして、その危うさ故に、誰も一人では生き続けられない」


 目線を上げたクリストファーの横顔は、ソフィアには、高潔で、どこまでも正しい存在に映った。


「だから、いつかこのレッスンが終わっても、君は僕に頼っていいし、それは何も恥ずかしいことではないんだよ」


 沈黙するソフィアに、クリストファーの想いがどこまで届いたのかはわからない。気恥ずかしくなったクリストファーは、紛らわすように切り出す。


「お茶にしようか。さっきの廊下の途中に、ブロンズのチューリップがあしらわれた扉があっただろう? そこが応接間だ。お茶を用意するから、それまでそこで待っていてくれないか?」


 言い終えると、クリストファーは足早に大部屋を出て行った。


 ソフィアはすぐにあとを追って廊下に出たが、すでにクリストファーの姿はなかった。

 ソフィアには、チューリップがどのような花かわからなかった。箱庭とて、すべての花が揃っているわけではない。廊下を歩きながら、心細い想いで扉のシンボルを見比べていく。


 部屋はそう多くなく、すぐに居間へつながる扉についてしまった。ソフィアは引き返し、やっとの想いでそれらしきシンボルを見つけ、中に入った。


 しかし、その扉のシンボルは薔薇。クリストファーの寝室だった。


 中へ入ると、応接間にしては明らかに狭かったが、応接間を知らないソフィアにはそれがわからなかった。書類が散らばったテーブルに壁を向いて一脚の椅子がおいてあるだけで、ソフィアはとりあえずその椅子に座った。


 テーブルのそばには背もたれのない扁平なソファのようなもの──ソフィアにはベッドがそう見えていた──があったが、枕元に置かれた金の装飾の禍々しい何かに気づき、座ることは躊躇われた。


 金属が剥き出しの短い筒の後ろに持ち手らしき溝がついた、白に金の装飾を加えたその物体は、ウォーディアン・ケースと同じような蔦の装飾が施されていたが、剥き出しの金属も相まってか、全体的に禍々しい存在感を放っていた。


「ソフィア、ここにいたのか」


 不意に扉が開き、クリストファーが顔を出す。肩を跳ね上げて驚いたソフィアに、クリストファーは叱ることはせず、続ける。


「紅茶が冷めてしまうよ。おいで」


 すぐに居間へ戻ろうとするクリストファーの背中をソフィアは咄嗟に呼び止める。


「先生、あれはなんですか?」


 指を差すことは躊躇われた。しかし、クリストファーには視線だけで伝わったようだ。


「あぁ、これかい?」


 クリストファーはそれを両手で慎重に取り、ベッドの下の引き出しにしまう。その手つきから大切なものか、とても高価なものなのだろうかとソフィアは思ったが、なぜか納得がいかなかった。

 その理由はクリストファーの言葉ですぐに判明する。


「これは、人の心に穴を空けるための道具だよ」


 ソフィアはその言い回しをすぐに理解することができなかったが、あとから、その意味に気づき血の気が引く。


「それって……」


「大丈夫。誰も失ったりはしない。これは、そのための道具なんだ。ペッパーボックスピストルと言ってね。五メートル先の的にも当たらない。だから誰も失うことがない。安全に、悪者を追い払うことができる」


 怯えるソフィアの髪を撫で、クリストファーはなだめる。


「怖い思いをさせてすまない。あれは、君にはまだ早すぎる。忘れてくれ」


 ソフィアは、すがるようにクリストファーの腕を掴んだ。温もりを感じた。同じ人としての、温もりを。

 それでもまだソフィアの恐怖は拭い切れなかったが、ましにはなった。


「さぁ、紅茶を飲みに行こう。気分が良くなるよ」


 その後、二人は居間で紅茶を飲みながら話をした。ソフィアがペッパーボックスピストルなるものの必要性や危険について尋ねると、クリストファーは言い回しに注意しながら丁寧に教えてくれた。


 ソフィアにとってこの日は、忘れられない一日となった。



 二人が邂逅を果たしてから、早くも半年がとうとしていた。今日が、ソフィアのバレリーナとしての始まりの日になると、クリストファーは言った。


 今日は新人バレリーナたちのための大会が行われる日だった。緊張の色を隠せず、落ち着かない様子のソフィアを、クリストファーは人気のない廊下に連れ出し、語りかける。


「大会まであと三十分もない。緊張するのは真剣な証拠だ。だけどね、ソフィア。今日はソフィアと同じ新人のバレリーナたちが集まっている。

 君が演目の途中で失敗しても、誰も君を笑ったりはしない。ミスをしても最後まで続けるんだ。

 目の前に座る審査員のことは、あまり気にしなくていい。君は、君なりの姿であり続けるんだ」


 ソフィアにとって、大会はおろか、人前で自分の踊りを披露することすら初めてだったが、彼女はゆっくりと深く頷くと、出場準備のため舞台裏へ向かった。


 その途中、ボタンがはち切れそうなウェストコートを着た巨体の男が、すれ違い様、レオタード姿のソフィアに無遠慮な視線を送ってきた。ソフィアにその意図はわかるはずもなく、少女はただ身を竦めた。


 本番直前。

 次がいよいよソフィアの番だというとき、少女は、舞台袖の椅子で待っていた。そこからは、ぎこちなくも必死に踊る薄い水色のレオタードに白のタイツ姿の少女と、それを正面最前列の席で見届ける四人の審査員が見えた。


 そのうちの右側、ソフィアからもっとも近い位置に、先程すれ違ったあの巨体の男がいた。汗ばんだ頭を厚手のハンカチで拭うその男の鼻は低く、豚を思わせる。

 やはり今にもボタンがはち切れそうなウェストコートを着ており、その視線は他の三人と比べて異質だった。手元のボードにほとんど目を落とさず、舞台に立つうら若きバレリーナを凝視している。


 また、堂々とふんぞりかえるその姿から、あの人物がもっとも位が高いのだろうと、ソフィアは思った。


 ついに、ソフィアの番になった。

 ソフィアが舞台袖にいる時点から音楽が流れ出す。演目は、登場前から始まっているのだ。ソフィアはぎこちないながらも、基本的なステップで舞台の中央に躍り出ると、予め決まっている流れ通りに演技をした。

 審査員たちが少女の、命を宿した彫刻のような圧倒的な容姿に息を呑んだことは言うまでもない。


 しかし、ソフィアはその様子を演目の合間にうかがっては、己の未熟さを恥じた。少女に自身の容姿が優れているという自覚や奢りなどまったくなく、単に自分の演技が見苦しいためにそのような反応をしているのだと思ったのだ。


 そして、強く意識せざるを得ないのは、やはりあの巨体の男からの粘ついた視線だ。箱庭にいた頃も、ソフィアは時折、主に彼女を見慣れない来訪者から、ガラス越しにそのような視線を向けられることがあった。


 自分の白すぎる肌や髪が物珍しい目で見られているのだろうとソフィアは思っていた。


 美しいというその言葉は、ガラス越しの少女に届くことはない。巨体の男からの眼差しにさらされ、ソフィアはすっかり萎縮いしゅくしてしまった。


 しかし、無情にも音楽が止まることはない。ソフィアは踊り続けた。自身の容姿を恥じ、消え入りたいと願いながらも、少女はついに踊りきった。


 胸につけたナンバープレートの数字と名前を読み上げ、ソフィアは足早に舞台袖へ消えた。

 しばらく待って審査員の言葉を聞いてから去る者もいれば、恥じらいと緊張からすぐにいなくなる者もいる。別段、不思議に思われることはなかった。


「少々、離席する」 


 ソフィアの姿が舞台袖に消えた直後、巨体の男が立ち上がり、残る三人の審査員の制止も聞かずに半ば駆け出すようにしてその場から消えた。

 彼の非常識極まりない行動はしかし、それ以上咎められることはなかった。彼はそれほどに偉かった。


 肩を落として歩く純白のレオタードの背中を見つけ、男はその巨体を揺らしながら駆け寄る。


「ソフィア君、と言ったかな」


 名を呼ばれ、少女が振り返ると、そこにはあの汗だくの大男がいるではないか。丸々と肥えた豚のような男から至近距離で見下ろされ、ソフィアは恐怖する。


 少女が一歩後ずさるより先に巨体の男がさらに詰め寄って来た。


「あぁ。その肌、その髪、そしてその顔立ち。間違いない」


「なん、でしょうか」


 息のかかる距離に迫られ、ソフィアが口を開くと、巨体の男はニンマリと笑った。クリストファーとは似ても似つかない、みにくい笑みだった。


「君は素晴らしい。その容姿、あの演技。他の出場者を見るまでもない。君が一番だよ」


「本当ですか!?」


 巨体の男は気味が悪かったが、自身の容姿や演技を褒められ、ソフィアは素直に喜んだ。

 絶賛してくれているがために息を荒げて詰め寄ってきているのだと思うと、警戒心も解けた。


「申し遅れたね。私はマグヌス。マグヌス・ベルトルト男爵だ。名誉審査員兼審査員長をしている。私が一番だと認めたからには、君は間違いなく優勝だよ」


「優、勝?」


 ソフィアにはあまり実感が湧かなかったが、きっとクリストファーが大いに喜び、褒めてくれることだろう。

 そう思うと、少女の口元にも笑みが浮かんだ。


「それで、今後のことで少し話があるから、悪いがついて来てくれないか?」


「わかりました。では、私を指導して下さっている方も呼んできますね」


 ソフィアではこの名誉審査員の言葉の半分も理解できないかもしれない。クリストファーを呼びに行こうとするのは自然な流れだった。

 しかし、ソフィアの肩をぶよぶよに膨れ上がった大きな手が掴む。


「いいんだ、君一人で」


「ですが……」


「大丈夫。そんなに難しい話はしない。それに、すぐ終わる」


「……わかりました」


 男爵の位を持った大人の言うことなら、正しいに違いない。ソフィアが疑問に思うことはなかった。


 オイルランプで照らされた廊下は、明かりが足りず、薄暗い。

 マグヌスが肩に手を回してくれていなかったら、ソフィアは一人では絶対に歩けなかっただろう。

 やがてついたのは、明かりの灯っていない真っ暗な部屋だった。


「待っていなさい、今明かりをつけてくる」


 マグヌスが木製の引き戸を開くと、立て付けが悪いらしく、大きな音がたった。マグヌスにまったく気にした様子はなく、暗闇の中に躊躇わずに入っていく。そして、すぐにオイルランプの橙色の明かりがついた。


「おいで」


 出てきたマグヌスに手を引かれるままついていくと、そこには何かの機材が山積みになっていた。

 物置きとして使われていることは明白だったが、今後の重要な話なら人気のない場所でするのは当然だろうと、ソフィアはどこまでも楽観的だった。


 しかし、突然マグヌスの巨体が迫ってきて突き飛ばされ、ソフィアはようやっとことの異常性に気づいた。


 鼻息を荒げるマグヌスは、ソフィアの目など見ていなかった。ソフィアの四肢や胸元に、粘つくような視線をせわしなく彷徨わせている。

 逃げ道は閉ざされ、そうでなくともマグヌスの巨体によって塞がれている。考えている暇もなく、風船のような巨体が近いてくる。水が入ったようにぶくぶくに膨らんだ手が、ソフィアのレオタードの肩の紐を強引におろし、左の胸元をはだけさせる。


 ソフィアはあまりのことに戦慄した。自分でも驚くほど大きな甲高い声が出る。


「騒ぐんじゃない。お前ごとき、犯罪者に仕立て上げることだってできるんだぞ?」


 息苦しくなるほど強く口元をふさがれ、ソフィアは必死にもがいたが、大人の力に敵うはずもない。


 心の中で叫ぶしかなかった。


 クリストファーの名が、その姿が、何度も反芻される。


「ソフィア!!」


 夢を見ているようだった。

 白い長袖のシャツに黒のウェストコート、折り目のついた同色のズボンを履いた金髪の男が、引き戸を開け放って飛び込んできた。


 男は黒真珠の瞳で視線を巡らせたあと、一瞬で状況を理解し、マグヌスを引き剥がして壁に投げ出した。


「何をしている!?」


「……クリストファー」


「先生!!」


 はだけてしまった胸元を押さえながら、ソフィアはクリストファーに抱きつく。見上げる少女の表情が曇った。


 クリストファーは、笑っていなかった。


 この半年間、ソフィアの前で笑みを絶やさなかったその白人の男は、冷徹な鋭い瞳で、壁にもたれかかる巨体を睨みつける。


「私にこんなことをして、ただで済むと思うなよ、クリストファー。裁判所でお前が何を言っても、誰も聞く耳を持たないぞ。その娘も、すぐに私のものに──」


「裁かれるのはお前の方だ、マグヌス!」


 クリストファーがふところから取り出したのは、あのペッパーボックスピストルだった。ソフィアはそれで、マグヌスを追い払うのだと思った。だが、その期待は裏切られることになる。


 破裂するようなつんざく音が、二度、三度と響いた。恐怖のあまりソフィアはまばたきを忘れて硬直した。

 かろうじて、視線だけは動かすことができた。ピストルを向けられてからマグヌスがいやに静かだ。横目で見て、ソフィアは後悔する。


 体の硬直が解け、膝から崩れ落ちた。寒くもないのに震えが止まらなかった。


「あ、ああぁぁぁ……」


 クリストファーが、ペッパーボックスピストルを取り落とした。

 少女が見上げると、クリストファーは両の手のひらで顔をおさえ、子どものように震えていた。血の気がひいたその肌は、病的に青白い。明らかに異常だった。


 ソフィアは、いつかクリストファーが、人の心に穴を空けるための道具だと言っていたのを思い出す。引き金を引き、我に返って事態を飲み込んだクリストファーの心に、このとき、確かに穴が空いた。


 それでも、クリストファーは振り絞るようにして、浅い息を吐きながら声を上げた。


「ソフィア、聞きなさい」


 少女が、ゆっくりとクリストファーの方を見上げると、クリストファーはソフィアの肩にもたれかかるように崩れながら、続ける。


「私はもう、君の先生ではいられないだろう。だから、忘れないでくれ。

 君や私を、誰もとがめたりはしない。けれど、この世の中は、善人ばかりじゃない。

 生き残るためには、疑うこと、そして、選択することが、必要不可欠だ」


「どういう、ことですか?」


 ソフィアには、言葉の意味も、その重みも理解することはできなかった。

 心に穴が空いたクリストファーは、このまま死んでしまうのかもしれないと、心底怯えた。


「誰か、誰か!」


 クリストファーを肩に抱いたまま、ソフィアは必死に声を上げた。やがて数人が駆けつけ、事態は終息する。


 意識が朦朧もうろうとし、半ば心神喪失状態となったクリストファーは大人たちの手によってすぐに病院に担ぎ込まれ、ソフィアも同じ病院へ連れられた。

 だが、明らかに死亡していたマグヌス男爵は、警察の捜査の観点からか、日頃の悪評からか、警官たちが到着するまで、誰にも触れられることはなかった。



 一週間ほど経った頃、ようやく面会が許されたクリストファーのもとに、ベリンダが現れた。

 外傷はなかったものの、心神喪失状態にあったクリストファーは警察の精神病院に入院していたこともあってか、面会に訪れた人物は親族を除けばベリンダが初めてだった。


「先生。お体の方は大丈夫ですか?」


「もう心配いりませんよ。ですが、担当の医師が酷く心配しておりましてね。まだ当分かかりそうです」


 無表情から、ベリンダに気づいて浮かべたその笑みは、初対面の頃からは想像もできないような自然で温かみのあるものだった。

 反面、瞳からは光が失われ、顔全体にどこか影が落ちていた。ベリンダは、今の夫に初めて会ったとき、同じように酷く落ち込み、影を落としたその姿に惹かれたことを思い出す。

 今となってはその関係は冷え切り、触れられた記憶すら長らくない。


「それに、退院しても、もう私は夫人にとって先生と呼べるような存在ではないのではないでしょうか?」


 ベリンダから視線を外し、カーテンが閉まった窓に目をやる。クリストファーは、理由はどうあれ殺人を犯したのだ。家庭教師から外されるのは当然だった。本来、こうして見舞いに来ることさえ憚られる。


「そうでしょうか? 確かに先生がなさったことは手放しに褒められるようなことではありません。しかし、あれ以外にソフィアが救われる方法はなかったでしょう」


 クリストファーに熱い眼差しを向けられている気がして、頬を朱に染める。

 思い込みが激しく、妄想癖のある彼女の脳内では、すでに薔薇色の未来が予感されていた。


「マグヌス男爵の悪評は、以前から私の耳にも届いております。

 バレエの審査員として直前に現れては強引に参加し、うら若きバレリーナたちに目をつけ、花を散らしていたとか。居合わせたのが私でも、先生と同じ行動をとったでしょう」


 病室の扉の脇に立つ見張りが、大きな咳払いをした。仮にも殺された被害者に対して、ベリンダの発言はあまりにも過激だ。


 しかし、ベリンダは声を潜めて続ける。


「あなたは教師として当然のことをし、ソフィアを救ってくださいました。誰がなんと言おうと、私は先生に今後もカーチャやソフィアの教師として在り続けていただきたいです」


 クリストファーの手を取る、見開かれたベリンダの目にはすでに、添い遂げる二人の姿が映っていた。


 好意を隠そうともしないベリンダの手を、クリストファーは妖艶な手つきで握り返し、応じる。


「ありがたいお言葉です。なんとお礼を申し上げたらいいか。何か、お礼をさせてください」


 そうだ、と思い立ち、ベッドから身を起こすと、クリストファーはブーツを履き始める。


「もう、安静にしていなくて大丈夫なのですか?」


「ちょうど、担当医に外出して気を休めるように言われていましてね。いかがでしょう、街へ赴いて、ちょっとした舞踏会にでも行きませんか?」


 クリストファーは口元に、思慮深い笑みを浮かべる。あやしく映るその唇に目を奪われたベリンダは、恍惚とした表情で応じる。


 手を取り、病院を出る二人。溶けるような熱い視線を送るベリンダに対し、クリストファーは以前よりも豊かになった表情で艶やかに笑う。

 だが、その黒真珠の瞳にかつての光はなく、今は深海の底に沈むように淀んでいた。


 ベリンダが最初に見舞いに訪れてからさらに二週間後。クリストファーがソフィアのもとを訪れた。箱庭のベンチで退屈そうに腰掛けていたソフィアは、すぐに気づいて駆け寄る。


「先生!」


 クリストファーが腕を広げると、そのままの勢いで、ソフィアはクリストファーに抱きついた。


「心配をかけてすまなかった。ベリンダの計らいで、教師を続けられることになったよ」


 ソフィアはクリストファーが母をベリンダと呼んだことに驚いたが、彼女が何度かクリストファーの元へ見舞いに行っていたことは知らされていたので、さほど気にとめなかった。


 見上げると、クリストファーは優しく笑いかけてくれた。以前よりも表情が豊かになった気がして、ソフィアは嬉しかった。


「こんな時だし、しばらく外へ出ていないだろう? 今日は、アクアリウムを見に行かないか?」


「しかし、あの犯人がまだ……」


 止めようとするベリンダに、クリストファーは目配せする。


「心配には及びません。昼過ぎのこの時間帯は人気も多い。犯行は深夜に集中しているそうですし、警察の方も、見回りを強化してくださっていますから」


「そうおっしゃるなら……」


 引き下がるベリンダに、ソフィアはクリストファーの信頼が前より高まったのだろうとソフィアは喜んだ。


「では、行って参ります」


 すれ違いざま、クリストファーがベリンダに何事か耳打ちしたことに、ソフィアは気がつかなかった。


「ソフィア、危ないから、私のもとを離れてはいけないよ」


 馬車を降り、アクアリウムの展示がされた大きなクリスタルパレスの人混みの前で、クリストファーがささやく。

 ソフィアが見上げると、クリストファーは続ける。


「このところ、この街は何かと物騒なんだ。ほら、」


 クリストファーが視線で示す先を見ると、クリスタルパレスの入り口で紙束を片手に何やら声を上げている男がいた。


「あれはなんですか?」


「新聞売りだよ。きっと、また連続殺人鬼のニュースが入ったんだろうね」


「殺人鬼?」


「人をたくさん殺めた者のことだよ。まだ捕まっていないそうでね。そばを離れないでくれ」


 ソフィアは浮かない顔でクリストファーの袖口を強く掴む。


「良い子だ」


 中は人であふれかえっていて、時折、金の刺繍が施された制服の男たちの姿が目立つ。


「あの方達はなんですか?」


「あれは警備員だろうね。私たちを守ってくれているんだよ」


 その中には警官も混じっていたが、マグヌスの一件の際も彼らが駆けつけてくる前に病院に連れられたソフィアには区別がつかなかった。


 アクアリウムを泳ぐ色とりどりの魚たちに目を奪われ、ソフィアは高揚する。久々のクリストファーとの時間が、何より嬉しかった。


 だが、不意に話しかけようと見上げたとき、クリストファーの表情が曇っていた。険しいその視線の先には、先程の警備員たちの姿がある。


「先生?」


 ソフィアの問いかけに、クリストファーは答えない。


「出ようか」


 時計を取り出して、クリストファーが刺のある声で言う。先程までの温かくなごやかな空気はすでになかった。


 ソフィアの返事も待たず、クリストファーは足を早めた。連れられながら、ソフィアは気づいた。周囲から視線を感じる。

 何事か、ひそひそと話しているようだ。少女はすぐに勘付いた。マグヌスの一件で、クリストファーに悪評が立ったのだろう。


 温厚なクリストファーの気が立っているのは、そのせいに違いない。ソフィアも、クリストファーにならって足取りを早めた。


 アクアリウムをあとにし、馬車に乗り込む。


「時計塔へ行ってくれ」


 正面に設けられた小窓から、クリストファーが行き先を指示する。声をかけられた男は、驚いたように振り返ったが、行ってくれと急かされ、渋々と言った様子で鞭を叩いた。


 やけに遠いようで、屋敷からアクアリウムへ来るときよりもずっと時間がかかっているようだ。クリストファーが渋い顔のまま一言も口を開かないので、ソフィアには余計に長く感じられた。


 時計塔に着くと、陽が傾き、夕方になろうとしていた。馬車を降りたソフィアは、不安げにクリストファーを見上げる。


「屋敷へ帰らないと」


「大丈夫、すぐに終わる。僕のわがままに、付き合ってくれないか?」


 クリストファーは焦りと興奮が入り混じったような様子だった。少なくとも、先程までのような渋い顔はしていなかった。

 どこか嬉しそうでもある。その姿はクリストファーを待つ自分のようで、ソフィアは首を横に振ることができなかった。



 時計塔の中は吹き抜けで、正方形の建物の中で螺旋状の階段がどこまでも続いていた。

 クリストファーに手を引かれ、ソフィアはその階段をともにのぼっていく。


「ソフィア。この世に、生きていてはいけない人間は、いると思うかい?」


 螺旋階段の中程で、クリストファーの声が反響する。質問の意味が分からず、ソフィアは首を傾げた。


「この世には、牢獄に入る人間がいる。死刑になる人間もいる。そして、裁かれることのない、悪人たちがいる。それを、君はどう思う?」


「許せません。すべての悪人は裁かれるべきです。

 牢獄に入ったり、死刑になることは、当然のむくいだと思います。裁かれない人たちも、いつかきっと、罪を償わなければならない時が来ます」


「裁かれない悪人はいないと?」


「はい」


 ソフィアは、言いながらクリストファーの方を見たが、逆光でその顔色はうかがえなかった。


「ならもし、君の周りで、裁かれずに、許せないことをし続ける悪人がいたら、君はどうする?」


「先生や、お母様に言いつけて、裁かれるのを待ちます」


 螺旋階段の終わりが、次第に近づいてくる。そこには、閉ざされた扉があった。


「もう一度聞こう。この世に、生きていてはいけない人間は、いると思うかい?」


 頂上に着いた。閉ざされた扉の足元に、鍵付きの錆びた鎖が落ちている。扉には、鍵はかかっていなかった。


「いないと思います。神はどんな人も愛してくださいます。例え死刑になることがあっても、そこで罪は償われて、来世では、きっと──」


陳腐ちんぷな答えだ」


 ソフィアは、耳を疑った。


 しかし、何度見返しても、目の前の人物はクリストファーだ。違いがあるとすれば、扉を体で押し開きながら、ソフィアの手をとったその男の手のひらに、かつての温もりはなかった。


「先生?」


 扉から、音を立てて荒ぶる風が吹き込む。クリストファーの横顔が夕陽に照らされ、赤く染まる。


 突然、クリストファーが開け放った扉の外に背を向けるようにしてひるがえる。

 そこに足場や柵はなく、街が一望できるほど高い。だと言うのに、クリストファーは、外へ向けて、体を傾けていく。


「先生!」 


 すんでのところで、ソフィアはクリストファーの手にしがみついた。クリストファーの上半身はすでに、半ばほど外へ出ていた。


「ソフィア。僕はもう、先生じゃない」


「何を言ってるんですか!?」


「僕は、僕はクリストファー。クリストファー・。──親殺しの、連続殺人鬼だ!!」


 張り上げられた声が、耳に痛い。


「一体、何を──」


「さぁ選べ、ソフィア。僕と来るか、この手を離して、あの箱庭へ戻るか!」


 ソフィアは、答えることができない。置かれた状況が理解できなかった。悪い冗談か、たちの悪い悪夢だと願った。


「先生が、そんなことするはずありません!!」


「僕は変わったんだ。君も変われ。疑い、選択しろ! 教えたはずだろ、ソフィア」


「もし、もし、本当にそうだったとして、先生は、なぜ、人を──」


だよ」


「え?」


「私はこの二週間で、三人を殺した。皆どうしようもない悪人たちだった。だけどね、醜悪な彼らも、死に顔は美しかった。マグヌスの顔も、もっと見ておくんだったよ」


 クリストファーは滔々と語り出す。殺した手口に、銃を撃った瞬間の、高揚感と醒めやらぬ興奮。


「生きているって、感じがしたよ。僕はずっと退屈だったんだ。だから大人になってからは、笑顔を貼り付けていなければならなかった」


 もはや、疑いの余地はなかった。


「だけど、君と出会って、美しいという感覚を知った。守りたいと思った。

 だから、咄嗟とっさに引き金を引いた。あのときは怖かったよ。それは恐ろしかった。心臓の鼓動がおさまらなくてね。

 だけど気づいた。それは興奮だった。生きているという感覚だった」


 クリストファー・ベルトルトは、


「そして、悪人たちの死に顔を拝むようになってからは、その美しさに見惚れた。死とは、平等に訪れる最大の美だ」


 殺人鬼と、成り果てたのだ。


「戻りましょう?」


「あの箱庭へかい?」


「屋敷へ!!」


 クリストファーを引き寄せ、ソフィアは螺旋階段を駆け下りる。


「お母様がきっとどうにかしてくださるわ」


「ベリンダが、ね……。そりゃあいい」


 含み笑いを浮かべ、クリストファーは手を引かれるがままに馬車へ乗り込み、ソフィアとともに屋敷へ戻った。


 屋敷は騒然としていた。ソフィアが血相を変えた使用人たちに引かれ、ついていくと、案内された先は、箱庭だった。


 閉ざされたガラスの向こう、箱庭の中心で、裸の女が立ち尽くしている。


「これは、一体?」


「ベリンダ様です。一時間ほど前から、急に私たちにオイルランプの油を集めろとおっしゃられて、あんなことに……」


「どうして止めなかったの!?」


「言いつけを守らなければクビにすると言われまして。それに、ベリンダ様がマッチの火を持っていらしたので、従うしかありませんでした」


 見ると、ソフィアが来た玄関以外のあちこちが、水浸しになっていた。すべてオイルランプの油だとすれば、確かに従わざるを得ない。


「ソフィア!! クリストファー様はどこ!?」


 ガラス越しでも聞こえる大声で、ベリンダが叫ぶ。ソフィアが振り返ると、はかったようにクリストファーが現れた。


 それに気づき、にんまりと笑うと、ベリンダは頭から油をかぶり、マッチの火を放った。


 ベリンダの嬌声が、笑い声が、屋敷中に広がるようだった。火はあっという間に箱庭全体に広がり、燃え盛った。

 火だるまとなったまま天を仰ぐベリンダの姿は、不死鳥のようで。


「美しい!!」


 クリストファーが叫んだ。


 見開かれたその瞳には、おどり狂う炎が煌々こうこうと光っている。


「まさか、あなたが……」


「ハッハッハ、そうだよ。僕がベリンダをそそのかしたんだ。簡単だったよ。彼女はまるで、従順な奴隷だ」


 言いながら、クリストファーはウェストコートの懐からあのペッパーボックスピストルを取り出す。


「何を!?」


「次は君の番だ、ソフィア」


 至近距離で銃口を向けながら、クリストファーは笑う。


「今までは醜い悪人たちの美しい死に顔のギャップを楽しんでいたが、いつか、君の死に顔も見てみたいと思っていたんだ」


 絶句するソフィアに、クリストファーは高らかに笑う。


「絶望するその顔も素敵だが、早く死に顔を見せてくれ。そして、僕の永遠のさかなとなれ!!」


 狙いを定め、引き金を引こうとするクリストファーをソフィアは咄嗟に突き飛ばし駆け出す。


「逃すか!」


 手元に集中するあまり不意を突かれて転倒したクリストファーだったが、廊下を駆け出すソフィアの背に、すぐに狙いを定める。


 炸裂音が、二度、三度響き渡り、ソフィアは倒れ込んだ。


 笑いが止まらないクリストファーは、立ち止まることさえままならない。しかし、やがて興奮した様子で息を整え、両手をついて立ち上がろうとしたとき、ソフィアが身を起こした。


「何!?」


 振り返るソフィアに、慌てて残りの弾を撃ち込む。

 しかし、ソフィアは動じない。

 見れば血の一滴も流れていなかった。


「なぜだ? なぜだぁ!?」


 尻もちをついたまま後ずさるクリストファーの背中に、ぶつかるものがあった。見上げると、それは駆けつけた警官だった。


「ペッパーボックスピストルは、五メートル先の的にも当たらない。そう教えてくださったのは、あなたです」


 歩み寄ってくるソフィア。

 炎に照らされた横顔。

 クリストファーの、幻想が解ける。


 今のソフィアに、かつての無垢な美しさはなかった。

 のぞく鎖骨は性的な艶やかさを持っていたし、痩せて脂肪が削ぎ落とされていた肌は、今は運動と食事によって健康的に育ち、艶がある。胸や尻も膨らんでいたし、くびれも、今は女性らしい曲線を描いていた。

 ほとんど白に近い髪と、エメラルドの瞳さえ、高潔なオーラを放っており、もはやかつての危うさはない。


 それは皮肉にも、かつてのクリストファーが求めた、頑強がんきょうな美しさだった。


「……違う」


 無様に床に尻もちをついたまま、後ずさろうとするクリストファーだったが、警官がそれを許さない。


「違う違う違う違う違う違う違うっ!!」


 見開かれた瞳は、焦点が定まっていなかった。


「これじゃない。僕が求めたのは────こんなものじゃない!!」


「あなたはあなたでなくなってしまったけれど、きっと、つぐなえるわ」


 ソフィアは、ただ、優しく笑いかける。


「クリストファー。私を、箱庭の外へ連れ出してくれて、ありがとう」



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あとがき


楽しんでいただけたでしょうか? 本作は私が人生で初めて書いた歴史小説ですので、時代考証はかなりめちゃくちゃだと思われます。申し訳ない。

歴史を深く愛する皆様には反感を買うかもしれませんが、私は今作に対して強い思い入れがあったため、このたび公開するに至りました。

もし、誰か一人にでも楽しんでいただけたのなら幸いです。

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The Box Garden 羽川明 @zensyu

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