裏表の研究
森本 晃次
第1話 ランキング
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。(ただしこの架空の政府への批判に対し、読者がご想像することに関しては、まったくの自由です。作者と同様の怒りをお考えの方も、少なくないのではないでしょうか?)
今から二十年以上も前のことになるが、赤坂純一郎が小学生だった頃のことだ。クラスで人気投票なるものをしようという話になったことがあった。当時の学級委員をしていたのは純一郎本人だったので、開催を言ってきた連中との話になった。言ってきたのは三、四人くらいで、その中には女子も勝っていた。
放課後の皆が帰った教室で、純一郎に彼らが詰めよるような恰好だった。
「何のランキングなんだい?」
と純一郎が聴くと、
「人気ランキングだよ。言ってるじゃないか」
と一人が答えた。
「それって不公平にならないか? 下の方のやつは嫌な気分なんじゃないか?」
というと、
「そんなことはない。ベストスリーだけを発表すればいいんだ」
と言われたが、それも何か違うような気がして、
「じゃあ、立候補制にすれば?」
と純一郎は答えた。
立候補制だとすれば、文句は出ないのではないかという考えだった。
「だけど、そうすると、立候補した人に入れたくない人の票は入らないことになって、投票率とすれば、かなり下がるよね。それの方が不公平なんじゃないか?」
「そうかなぁ。学級委員にしても基本は立候補制だよな。一般的な公共の選挙だって立候補制だよ。なりたくない人にさせられないだろう?」
「でも、それはこれから何かをするための当番というか、役割を誰がするかということの投票であって、人気ランキングとはわけが違う。実際に芸能人やスポ^津選手の人気帳票は立候補なんかしないけどね。どうして赤坂君はそんなに立候補にこだわるんだい?」
と聞かれたが、正直なところ、この学級委員だって、やりたくてやっているわけではない。立候補もしていないしやりたいと一言も言っていないのに、皆が勝手に決めたことだという思いが強いからだ。
要するに、
「押し付けられた」
というわけである。
押し付けた方は、そんな意識はまったくない。だから、純一郎が立候補にこだわる理由など分かるはずもない。
ただ、この話はどちらも一方的な話である。純一郎の方としても、いかに嫌な学級委員を押し付けられたとしても、断ることはできただろう。断れない雰囲気であったかも知れないが、そこまで考えなかったのは、純一郎の方も悪いと言えるのではないだろうか。
逆に押し付けた方も、押し付けておいて、面倒くさいことをしてくれているという感謝の気持ちの欠片もない。
「皆の意見で決まったんだから、当然だろう」
とでも思っているのか、そういう意味では、
「選ばれたくないものまで選ばれるというのは、何かが違う」
という純一郎の意見も間違ってはいない。
そんな意見が飛び交っているのだから、交わることなどあるはずもない。お互いに自分の意見を言うだけで、相手の意見を聞いているわけでもない。
相手が意見を聞いてくれないというのは、相手が自分に対して思っていることだ。そうなってしまうと、まるで磁石でいうところの、
「反発しあう同極」
のようなものではないだろうか。
どんなに歩み寄ろうとしても、相手が逃げるのだから捕まえようがない。磁石というものは、本当に人間の心理をうまく捉えていると言えるのではないだろうか。
かたや、
――お前たちに押し付けられたんだ――
と感じる方と、
――何をそんなにカリカリしているんだ。普通に話せばいいじゃないか――
という二つ、押し付けられた方は、意識して反発しているが、押し付けた意識のない方は、相手の無理な言い訳を不思議な感覚で聞いているだけだった。
そんな押し問答であったが、結局、多数決で押し切られ、人気ランキングが行われた。上位は、さすがに言い出しただけのこともあり、トップスリーは言い出しっぺが独占した。実際に開票してみると、純一郎はクラスの中で下から三番目というブービーにも最下位にもならないという中途半端に終わった。
――実に俺らしいじゃないか――
と気分的にはふてくされていた。
人気投票で、まさかここまでひどいとは思わなかった。さすがに悪くてもベストテンには入っていると思っていた。あわやくばベストスリーも夢ではないと思っていただけに、ショックも大きい、だが、そのおかげか、自分の情けなさが分かった気がした。
「俺って、しょせん、ここまでのやつなんだ」
人からおだてられて、その気になったり、クラス委員も、
「なんで俺がやらなきゃいけないんだ?」
と口では言いながら、心の中では、
「期待されているんだな」
と自分を納得させていた。
「期待というのは、自分がまわりのためにしているということをまわりも意識してくれて初めて生まれるものだ」
と考えていた。
つまり、こちらから、
「やっているアピール」
をしないと、まわりも分からないだろうと思っていたのだ。
これは、小学二年生の頃に、親から言われたことだった。
あの頃はよく友達に苛められていて、
「お前は、いつも苛められたりしたら、何も言い返せないから苛められるんだ。嫌だったら、嫌だっていわないといけない」
と言われた。
純一郎少年は、下手に言い返したりすると、さらに相手を怒らせることになり、苛めがひどくなるのを怖がっていた。だから、何もせずに相手が飽きるのをじっと待っているしかないと思っていたが、その思いを母親は覆したのだ。
確かにどちらがいいのか分からなかった。
もし母親の言うとおりに口答えをして、相手を怒らせてしまったらどうしようという思いがあるので、簡単に母親のいうことをしてみようという気にはなれなかった。そんなことをしてまたひどい苛めにあったら、手の施しようがないと思ったからだ。
ただ、そんな息子を見て、母親は完全に情けないと思っていた。
「お前のような子は、小笠さんの子じゃない。どっかで間違えてもらってきた子なんじゃないか?」
とまで言われるくらいになった。
母親は苛立ったりすると容赦ない性格だった。特に息子が苛められることに苛立ちがあり、ある時から、学校の帰りに校門の前で立ちはだかっていたりしたものだ。
それは子供を助けようという意思からではなく、苛められていれば、苛め返すように促すためだったようなのだが、さすがに母親が見ている前で苛めをするような度胸のあるバカなやつなどいない。
親がいないところで容赦なく苛めを行うのであって、しかも、
「お前は母親に学校まで来てもらわないとダメなほど、情けないやつなのか?」
と言われ、さらに苛めがエスカレートしてしまうのだった。
それは純一郎が望んだわけではない。もちろん、母親も望んでいるわけではない。しかし、
――お母さんさえ来なければ、ここまでの苛めはないんだ――
と思うと、母親をどうしても憎む気持ちになってしまう。
これは完全な誤解が呼んだものなのだろうが、一度狂ってしまった歯車が元に戻ることはないだろう。
「親子なんだから、何かあっても、いずれは元通りになる」
とよく言われるが、純一郎は、
「俺たち親子に限ってそんなことはない」
と声を大にして言いたかった。
親子で性格が似ているのは仕方がないかも知れないが。考え方が似ているとは言えないのではないだろうか。性格が同じでも、環境が違えば、下手をすると、交わることのない平行線が等間隔でどこまでも続いているようなものである。
その頃から、純一郎の頭の中に、
「俺のことには構わないでほしい」
という思いが溢れていた。
確かに、子供の頃は友達がたくさんいる方がよくて、一人でいるのはよくないと言われる。
その一つに、
「考え方が偏ってしまう」
というのがあるだろう。
いろいろな人の意見を聞いて、それを自分の財産にするというのも一つなのだろうが、逆に整理できない人にはたくさんの意見は混乱を招くだけである。だからどちらがいいとは言いにくいのだが。純一郎の親は両親とも似たような考えだった。
だが、両親はお互いに気を遣ってしまっているせいか、
「押しては引く波のような二人だ」
と思うようになった。
近づこうとすると、相手が避けてしまう。衝突はないのだが、触れ合うこともない。そんな人たちなくせに子供のこととなると、自分を主張したくなるようだ。
――ひょっとすると、自分の言い分を子供に認めさせようというのだろうか。子供には自分だけの味方になってほしいと思っているのかも知れない――
と思うようになった。
さすがに小学校二年生の男の子がそこまで思うことはなかっただろうが、小学四年生になった頃から学校での苛めが始まったが、その頃には親の理屈も分かるようになっていた。
苛めの期間は短く、五年生になると苛めがピタリとやんだ。純一郎を苛めるのに飽きたというよりも、他にちょうどいいいターゲットを見つけたからだった。
五年生のこの頃に人気投票を行ったのだが、四年生の頃までいじめられっ子だったくせに、よく人気投票で上位を期待できるだけの気持ちがあったのか、自分でも不思議なくらいだった。
学級委員に選ばれたのも、やらされているという思いもあったが、半分は期待されていると思いたかった。願望が強かったのは。自分がいじめられっ子だったという経験を持っているからだと思っている。苛めがなくなって、もう誰も自分を苛めなくなったことで、自分がまわりから認められた気がしていた。しかもそれまで苛められていたということに耐えることができたご褒美のような意識があったのだ。
それは完全に甘い考えであるが。小学生であれば。それくらいの意識があってもいいのではないだろうか。中には、
「あの頃は悪かったな」
とこそっと言ってくれるやつもいた。
彼からすれば、今までのことを水に流して、友達になりたいというだけの気持ちだけだったのかも知れないが、純一郎としてみれば、謝罪してくれたということは、自分が悪かったわけではないと思い、立場が急に自分の方が強くなったと思い込むのも無理のないことかも知れない。
この頃の純一郎は、結構、鼻を高くしていたように思う。それまで苛めていた連中に対して持っていた劣等感がなくなり、謝ってくるやつがいれば、自分の立場が急激に上がったような意識を持ち、立場の逆転を意識するようになった。
元々から母親の遺伝があったのか、自分の立場が強くなったと思うと、自信過剰になるところがあった。
「もっと自分をアピールしなさい」
と常々母親が言っていたが、この頃になると、その言い分が分かってきた気がする。
小学二年生の頃、あれだけ母親に対して、
――余計なことをしないでほしい。このまま黙っていれば、やり過ごすことができるのに――
という思いを追っていたのに、今ではその気持ちが分かるようになってきたと思うようになった。
かといって、母親ほど自己主張ができるタイプだとは思わない。まわりに自己主張をしようとしても、それは
「出る杭」
であって、打たれるのを待つだけになってしまう。
自己主張をするやつに対して、いかに胡散臭い目で見るかということは、自分を振り返れば分かることだった。しかし、その時の純一郎は、そのことに気付かなかった。母親に反発した気持ちを抱いたまま、母親の気持ちと同化してしまっている自分を感じることになるとは、思ってもいなかった。
いじめられっ子ではなくなってからの純一郎は、いつの間にか母親が主張しているような性格になりつつあったのだ。
しかし、自己主張が強いということは、それだけ責任感が強くなければいけないと思っている。責任感もなしに自己主張だけをしてくると、いじめられっ子だった頃に自分が母親に感じたような無責任さを感じてしまうからだ。
――いかにも俺のためを思っている言っているように主張しているけど、そんなことできっこないのが分からないのか。それでも本当に母親なのか?
と感じていた。
それは、母親がまるで他人事のようにしか思っていないと感じたからだ。自分のことだとして考えれば、そんなことは言えないはずだ。そんなことを言ってしまうと、さらに苛めがひどくなることが分からないわけではあるまい。
ただ、これも純一郎が自分の側から思うことであって、それも分かっているつもりだった。
だからこそ、
――余計なことをいうなよ。何も言わずに放っておいてくれればいいんだ。どうしようもなくなったら、こっちから相談するさ――
と思っていた。
もちろん、どうしようもなくなったとして、相談するかどうか分からないが、きっとしないだろうとも思った。
そんな母親に育てられたという意識があることで、自分が苛められるようになったのも、母親の介在が自分の性格を形成したからではないかと思うようになった。ハッキリ言ってしまえば、
「苛めに遭っていたのは、母親のせいだ」
と言っているのと同じことであった。
人が聴けば、
「責任転嫁も甚だしい」
と言われるのだろうが、そうでも思わないとやっていられないと思っていた。
だが、不思議なことに、そう思うようになってから、苛めがなくなってきたのも事実である。
責任転嫁をしてしまうと気が楽になってきた。もっともこれは、自分の行動には自分で責任を持つという責任感が強くなったからで、苛められていたことに対しての責任を親に押し付けたことで、自分に対して別の責任感が出てきたというのは皮肉なことであろうか。
自分を苛めていた連中に対して、自分が悪いという思いがあったわけではないので謝ったりすることはなかったが、いつも逃げ腰で近寄ることができなかった連中のそばを通っても、今までのように無意識に逃げることがなくなっていたのだ。
そんな態度をまわりも、
――あいつ、何かが違ってきた――
と思ったのだろう。
無意識に避けていたことで、相手もこちらが何か自分たちに対して罪悪感を持っていると感じたことが、苛めに繋がったのだとすれば、苛めがなくなってきた理由も分からなくもない。
ちょうど、そんな時、苛めの対象になる相手が出現したというのは、純一郎にとってはよかったことである。苛めの対象にされたやつにはたまったものではないだろうが、心のどこかで、
――俺と同じ思いをすればいいんだ――
と思っていたことだろう。
その頃の純一郎は、
「世の中には苛めっ子と、苛められっ子しかいないんだ」
と思っていた。
苛める側も苛められる側も、人数は決まっている。すべての人間がどちらかに属すわけではないだろうが、傍観者というのは、苛めっ子に属していると思っている。自分が苛められている間は、傍観者も苛めっ子だという意識をハッキリと持っていたが、いざ自分がいじめられっ子ではなくなってくると、傍観者になってきたことに気付く。だが、いじめられっ子ではなかった子が最初から傍観者だったのと、いじめられっ子が苛められなくなって傍観者になったのとでは、意味が違っている。そうなると、最初に思っていた、
「世の中には苛めっ子と、苛められっ子しかいないんだ」
という思いは通用しなくなり、自分の考えに矛盾が生じてきた。
だが、自分が苛められていた頃を思い出すと、
――相手がどういう理由であれ、傍観していて苛めにも参加しない。かといって苛めを止めることもなく、苛められているわけではない――
という客観的な目が、正直な気持ちとして映ったのだ。
その頃からであろうか、
「世の中、裏か表しかない」
と思うようになった。
傍観者のように、曖昧な連中が裏なのか表なのかは、その時々の状況によって違ってくるだろう。
そんなことを思っていると、自分のクラスでのランキングが低かったのも、なぜなのか分かってきたような気がする。
自分はクラス委員を押し付けられたりしたのは、きっと皆にとってどうでもいい存在だったからなのかも知れない。そんな曖昧な存在の自分を皆が高評価はしていないということだろう。
考えてみれば、今まで苛めてきたやつに対して急に尊敬の念が浮かぶわけもなく、だからこそ、クラス委員に推薦されたわけではなく、押し付けられたと思うのだし、逆にそんな嫌いなやつにクラスメイトを押し付けることもないだろう。つまり、好きでも嫌いでもないどちらでもないやつに適当に押し付けたという感じなのだろう。
――こいつなら、なんだかんだ言ってもやるだろう――
という程度のものだ。
嫌いでもなければ好きでもない。マイナス要因もなければ、プラスでもない。そうなると考えられる評価は、
「限りなくゼロに近い」
というランクになっても仕方がない。
そうなると、本当に嫌いなやつはマイナスになると考えると、純一郎が最下位でもブービーでもない中途半端なのも分かるというののだ。
点数が低かった人間に限って、文句をいうもので、最下位やブービーの人間は、この評価には当然不満だったようで、ショックを受けるというよりも、文句を言いたいという雰囲気だった。だから嫌われるのだろう。
文句の言い分もまるで子供だった。
「どうして、俺が最下位なんだ。俺よりも低いやつはいっぱいいるだろう」
という言い方をする。
まずは、どうして最下位なのかという理由を聞こうとするのであれば分からなくもないが、いきなり誰かと比較しようとする発想が、そもそも他の人と感覚がずれている証拠ではないだろうか。
さすがに自分が最下位だという事実を突きつけられて、驚愕するのは分かるのだが、文句をいうならいうで、何を根拠の文句なのかを、もっと整理して普通ならいうものだろう。そんな連中を苛めっ子がどうして苛めようとしないのかも、不思議だった。
しかし、いじめられっ子になりそうな子が苛められないという観点から考えた時、
――そうか、苛めたとしても、そこで何かが分かるわけではないんだ――
苛めても、何か成果でなければ、苛めたことに対して、ただの苛めだけで終わってしまう。
純一郎のように、苛められたことで、いずれ何かに気付いて、仲良くなることができれば、苛めっ子にも苛めに対しての大義名分があるというものだ。苛めっ子には苛めっ子の大義名分が存在し、苛めることへの免罪符があるに違いない。だから、いじめられっ子というのは、
「苛められるには苛められるだけの理由が存在する」
ということになるのだろう。
「人間言われているうちが花だ」
と、大人は言われるらしいが、その時は知らない言葉だったが、大人になってその理由にもピンとくるようになるのだろう。
要するに、
「言われなくなったり、まわりから相手にされず、苛めにも遭わなくなったら、そこで成長もないので、それから先はないも同然だということになるのだろう。
ランキングが最下位や、ブービーのやつが、文句を言ったとしても、考えてみれば、投票は個人個人の票の積み重ねなので、主催者に言っても結論が出るわけではない。
だが、それが分かっていながらその時の主催者は、毅然とした態度でその質問に答えていたのが印象的だった。
その答えがどのような信憑性を持つのか分からなかったが、態度が毅然としていたことで、信憑性が感じられてくるから不思議だった。彼らの言い分としては、
「それはきっと皆が総合的に判断したからだろうな。俺たちだって、総合的な判断をして投票したのさ」
と言った。
「俺たち」
という言い方を主催者の一人はした。他の人に意見を求めることなく、即座に「俺たち」と言ったのだ。
それは、主催者皆が気持ちを一つにして、このランキングを取ったということを意味している。彼らには彼らなりのモラルがあったのだ。そう思うと、ランキングを取るということも悪いことではないようにも思えてきた。
もっとも、ここでいう総合的というのがどういうことなのか、その時の純一郎にはよく分かっていなかった。
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