第3話 殺人小説

 小説を書くようになってからの最初の頃は、ミステリーに嵌って書いていたが、そのうちにオカルトっぽう作風に変わってきた。

 人を殺す描写が嫌いだったくせに、オカルト色が強まると、誰かを殺さないと気が済まなくなっていた。

 人を殺すと言っても、小説の中だけのことであり、しかもオカルト色を強めることで読む人よりも、書く方の自分の方が気が楽になっていった。

 そもそも人が死ぬシーンを書きたくないという発想は、

「そんなシーンを書いてしまうと、いずれそれが自分に返ってくるという、一種の戒めのような印象があり、自分が殺されたくないという意識から、怖いことには最初から触れないようにしていたのだ。

 妖怪や神様、天国と地獄など、信じるようなタイプではなかったが、人に対して何をすれば、そのしたことの悪い部分だけが自分に返ってくるという発想があったのだ。

 それはまるで、

「神様の存在は信じないが、宗教は信じる」

 というようなものである。

 そのため、信じられないと思いながら、自分のした悪いことだけが災いとして返ってくるという、宗教においての因果応報を、信じていたのだった。

 だから、子供の頃からホラーは嫌いだった。それは妖怪やお化けが怖いというよりも、例えば、

「入ってはいけない」

 あるおは、

「見てはいけない」

 と言われることがあると、人間の心理として、どうしても入ったり、見たりしなければいけないと思えてきて、実際にそこに足を踏み入れてしまう。

 踏み入れると、たいていの場合、ロクなことにならない。昔からある神話や伝説はそのことを教えてくれている。

 どこまで信じていいのか分からないが、都市伝説と言われるオカルトのようなものである。

 小説のジャンルとして存在するオカルトというのは、ホラーとはどこが違うのかと思うのだが、ホラーのように、見た人が怖いと直感で感じる、人間心理への恐怖であるいわゆるサイコホラーであったり、怪奇への恐怖としてのオカルトホラーなどが存在するが、オカルトとして単独で存在するものもある。

 この場合のホラーとオカルトというのは厳密には違い、

「ホラーというのは、恐怖一般としての、恐怖や戦慄などをいい、ゾンビなどの妖怪や化け物がが出てくるもの」

 をいうことが多く、

「オカルトというのは、神秘的な意味であったり、往生現象的な意味で言い表すことが多い」

 と言われる、

 ホラーの場合は何かによって恐怖を与えられるものであり、オカルトは、都市伝説であったり、伝説的な話などと言ってもいいのではないだろうか。

 つまり純一郎の小説は、ホラーのようなお化けや妖怪などは出てこないが、人が死んだりする場合に何か伝説的な言い伝えなどが、人の死に影響を及ぼしているというような話である。

 いろいろ本を読んだりすると、神話や昔話の中でもオカルトっぽい話もよく出てくる。オカルトっぽさという話が出てくる。だが、その話はよくできていて、人間を戒めるような話もできていたりする。それが一緒のサイコホラーっぽさを演出していて、一概にオカルトだと言えないところもあるが、そういう意味で、オカルトとホラーは混同しやすく思うが、結局はまったく違うののだということを却って思わせるものではないかと思うのだった。

 だから、純一郎が自分の書く小説で、人を殺すのを躊躇っていたのは、オカルト的な発想を持ったことと、それをホラーのように恐怖に感じたことで、頭の中で混同してしまって、オカルトホラーというジャンルを調節してしまったのではないかと思うようになっていた。

「そんなに思うのなら、ミステリーなんか書かなければいいんだ」

 と自分に語り掛けてみたが、そうもいかないようだった。

 戦前戦後の小説を読んでいると、自分も書いてみないと気がすまなくなってきた。もちろん、自分がその時代を知っているわけではないので、話はどうしても想像の域を出ない。しかし、それが自分の中にある、

「フィクションを書きたい」

 という思いと合致するではないか。

 純一郎は、ノンフィクションや随筆、いわゆるエッセイなどのようなノンフィクションを書きたいとは思わなかった。そういう意味での歴史小説も嫌だった。純一郎の基本とするものは、

「読む小説と書く小説では基本的に違うものだ」

 ということであった。

 確かに、ミステリーのように影響を受けて書いてみようと思ったものもあったが、それ以外の、特にノンフィクションが嫌だった。

 読む小説としては、ミステリーの他には、歴史上の人物や出来事を中心とした歴史小説などが多かったが、それはノンフィクションである。逆に史実を元にして、架空の主人公による時代小説は、あまり読む気にはなれなかった。

 なぜ読みたい小説と自分で書きたい小説が違っているのかは、自分でもよく分からなかったが、

「読む小説はノンフィクション、自分で書く小説は、フィクションだ」

 と思うようになっていた。

 本を読むきっかけになったのは、小学生の時に社会の授業で歴史を習ってからだった。まだその頃は読書というものにあまり興味がなかった。いや、本を読むのが嫌いだったと言ってもいい。

 純一郎の場合は、小学生の頃、国語が苦手だった。テストの成績もよくなく、自分の中でも、

「国語という教科は嫌いだ」

 と思っていたが、実は国語という教科が苦手だったから嫌いだったわけではない。

 その証拠に漢字の書き取りなどは好きだった。

 何が嫌いだったのかというと、文章題が嫌だったのだ。

 成績が悪かったのは、問題となる文章をまともに読まずに答えを出そうとしていたからで、なぜそんな無謀なことをしているかというと、純一郎の性格に問題があった。

 純一郎は、その性格の中で、どうしても、先を焦って見てしまうというのがあった。特にテストのように時間の限られているものは、

「文章をダラダラと呼んでいては、時間がなくなるのではないか」

 という意識があったのだ。

 特に小学生の頃はその傾向が強く、本当は問題となる文章を最初に読み込んでからその設問に取り掛かるべきなのに、最初に設問を読んで、問題となる部分だけを文章の中から抜粋して答えを導き出そうとするので、回答はほぼ勘によるものだった。

 そんな回答で答えが導き出せるわけもない。そもそも、子供の頃は、

――どうして、こんな文章をいちいち読んで、こんな設問に答えなければいけないのだ――

 という、根本的なところから疑問を感じていたので、問題作成者の意図など、最初から無視していたようなものだった。

 その気持ちが分かるのは中学になってからで、

――ひょっとすると、算数や理科よりも学問としては大切なものだったのではないだろうか――

 と思うようになっていた。

 ひょっとして、小説を書いてみたいと思ったのは、そのことを感じたからだったのかも知れない。

 同じ国語としての教科に、作文を書くというのがあった。

 小学校五年生の頃くらいまでは作文も嫌いだった。それまでは苛められていたという精神状態もあったので、何かを作るという前向きな姿勢にはどうしても一歩踏み出せないところがあったのだ。

 小学五年生になると、六年生だけではなく五年生でも学年文集を作るというものがあった。国語の授業の中で、定期的に作文の時間があったが、その中で自分の一番気に入っている作品を選んで、文集の作品として載せるというものだった。しかし作文が苦手で、気に入った作品が自分ではないと思っている生徒は、先生が選ぶことになっていた。作文が苦手な生徒の代表として純一郎もいたのだが、彼も文集にする作品を選べないでいた。先生が選んでくれたのだが、他の子の作品を見ていると、自分の作品など、恥ずかしくて載せられないという気持ちになった。

 それを先生にいうと、

「そんなことはない。お前の作品は、お前にしか書けないオリジナルなんだ。今は自分で気に入った作品が書けていないからなのかも知れないが、それは逆にいうと、お前がいい作品を書きたいという思いがあるからだ。いずれ俺が言った今の言葉の意味が分かる時が来る。その時は本当に作文が嫌いではなかったということを再認識をする時じゃないか? ひょっとすると、小説でも書こうなんて思っているかも知れないからな」

 と言ってニコニコと笑っていたが、まさかそれが予言という形になるとは思ってもみなかった。

 先生には先見の明があったということなのか、それとも、世間一般的に純一郎のような生徒は他にもいて、そのパターンに単純に乗っかっているだけなのか、そのどちらもありうると純一郎は思っていた。

 作文も最初は嫌いで嫌いで仕方がなかった。まず何を書いていいのか分からない。授業中に一つの作品を書きあげるなどできるものではなかった。下手をすると二、三行ほど書いて、そこから先がまったく浮かんでこなかったりする。まわりのクラスメイトを見ると、皆一生懸命に鉛筆を動かしているので、

――きっと頭に浮かんでくることがあって、それをうまく文章にすることができているのだ――

 と感じたが、どうしてそれが自分にはないのか、理屈が分からなかった。

 だが、文章というのは、最初の数行が書けてしまうと、その先は意外とスラスラ書けてしまうもののようで、いわゆる第一関門を乗り越えられるかどうかの問題だったのだ。その第一関門を乗り越えることのできなかった小学生の頃は、どうしてもそれ以上先を書くことができず、それでも書かなければならないので、感じたことを羅列しただけに過ぎなかった。

 先生などには、その気持ちは分かったのかも知れない。点数は最悪で、十点満点の三点だったり、四点などという目を覆いたくなるような点数だったが、たまに九点などという自分でも信じられない時があった。

 別にその時、自分でも信じられないような、文章の神様が降りてきたというようなことはなかった。いつものように先が続かず、苦し紛れに言葉を並べただけだったのだ。

――先生は、あまりにもひどい僕の作品を見て、たまに辻褄を合わせるように少し点数を水増ししてくれたのではないか?

 とさえ思ったくらいだ。

 だが、よく考えれば、先生がそんなことをするはずもない。何かそれまでと違う何かをその時だけ先生は感じたのかも知れない。

 それを先生に聞いてみる勇気はなかった。だが、それでもいい点数を貰えるというのは嬉しいもので、最初にその点数を見た時は、

――俺は作文が得意になったのではないか――

 という感覚になったのを覚えている。

 しかし、それは錯覚であり、自分が作文をうまくなったのではないかと思った次の作文では自分に自信を持ち、いや、自信過剰と言ってもいいくらいの内容のものを書いてみたが、結局いつものように数行しかまともに書けず、あとはいつもと同じように考えていることの羅列でしか過ぎなかった。

 やはり成績は最悪で、

――あの時の点数はまぐれだったのか?

 と思うようになった。

 思い切って先生に聞いてみた。

「どうしてあの時だけ点数がよかったんですか?」

 これを聞くのは勇気がいったが、聞かなければ先に進めない気がしたのだ。

「素直にいい作品だと思ったからさ。俺はあの時、お前が何か吹っ切れたんじゃないかって思ったほどだったんだぞ」

 と言われて、

「そうなんですか? 僕にはまったく意識はありませんでしたが、どういう意識何でしょうか?」

「人は急に何かに目覚めるということはある。だが、その時には自覚症状がどこかにあるんだ。目覚めたきっかけというものがね。それは意識して感じるものであって、君のようにきっかけがあったということすら意識がないのに、無意識にいい文章が書けたとすれば、それは逆にいうと、文章を書くということにかけて、何か素質のようなものがあって、その片鱗を見せたのではないかと俺は思うんだ。ただこれはかなり前向きに考えてのことなので、言っている俺も信憑性がどれほどあるものなのか疑問に思っているんだけど、君がその疑問の一角を解消してくれたのではないかと思っているんだ。だからこれからいろいろな文章を書いていくことになるだろうが、いい文章、悪い文章を自分なりに理解できていってくれると、先生は嬉しいんだ」

 と、先生は話してくれた。

 よく意味としては分からなかったが、何かを訴えているようには感じられたので、先生が期待してくれているということだけは分かった気がした。

 中学生になって本を読むようになったのは、当時、昔流行っていた探偵小説がブームとなり、シリーズがドラマ枠で放送されたからだった。それから数十年前にもブームになったというが、

「ブームというのは、繰り返すものらしい」

 という話を聞いて、

「なるほど、色褪せない作品は、定期的にブームになったりするんだな」

 と思い、ドラマを見てから原作を買いに行った。

 原作をその後に読んだのだが、どうしても、小学生の頃からの癖で、端折って読んでしまうところがあった。つまり、セリフだけを抜粋して読んでしまい、読んだような気になっていたのだ。

 しかし、幸か不幸か、ドラマ化された作品は見ていた。だからセリフ以外の場面は、ドラマで見た場面を思い起こせばいいだけであり、何とか読むことができた。

 そんなに端折って読んだにも関わらず、

「ドラマよりもかなり面白かった」

 と感じた。

 それまで、フィクションの小説と言われるようなものを読んだことがなかったので、最初はすごく抵抗があった。何しろ国語の試験の文章でも、端折って読むくらいである。小説のように長いものを、我慢できずに読むことができるのかという意識があったからだった。

 しかし、その思いは案外逆に作用した。

――小説というのは、元々長いものである。国語のテストの時間のように決まった時間があるわけではない。テストのように設問があるわけでもない。自分のペースで読んで、何を感じるかということを楽しみにしていれば、それでいいんだ――

 と思ったことが功を奏したのかも知れない。

 読んだ文章は別に違和感なく、読み続けることができた。

 その頃になって、自分がやっと、

「プレッシャーに弱い男だ」

 ということに気付いたのだった。

 何を持ってプレッシャーというのかという判断も難しいものである。

 逆にいうと、

「プレッシャーなるものがなければ、俺には無限の可能性が広がっているんじゃないか?」

 とも思うことができ、さらに逆を考えて。

「プレッシャーがあるから、感情の暴走を抑えることもできる」

 とも言えると考えたりもした。

 両極端な発想であるが、どちらも自分の感覚であった。

 その時々でどちらが強く表に出てくるかによって、自分のその時の感性が違ってくるのだと思うと、ある日突然作文の点数がよかったという理屈も何となくではあるが、理解できるような気がした。

 プレッシャーというものが、時として自分を解放することになり、逆に自分を束縛することにもなる。

「ただ、圧倒的に束縛する方が多いのか、それとも意識が強いのか、表に出てくるのは束縛の方だ」

 と思うのだった。

 だが、どちらが大切なのかというと判断ができない。意識することはあまりないとはいえ、解放してくれているという感覚は忘れてはいけないものだと思うし、その思いを抱くことが自分にとってどれほど大切なことなのかということを思い知らされる気がした。

 ただ、中学時代というのは、好きな小説しか読んでいないので、自分の中では、

「感覚が偏っているのではないか」

 という思いもあった。

 ノンフィクションの歴史小説、そして話題になったテレビドラマのミステリーの原作、それ以外の小説は読んでいない。

 だが、この感覚はそもそもが違っている。小説という括りで考える必要などないのだ。ジャンルという括りで考えさえすれば、例えばミステリーのように社会派であったり、トラベルミステリーなどのミステリーというジャンルの中に存在しているカテゴリーもまったく別なものだとして考えることができる。一つを柔軟に解釈することで、解釈はいくらでも広がっていくのだということを純一郎は考えていた。

 順に遅漏にとって小説を書くというのは、

――自分の存在を表に出したい――

 という考えの表れでもあったが、人とあまり関わりたくないと思うようになっていた彼との間での矛盾でもあった。

「生きるということは、自分の中にある矛盾との闘いである」

 という言葉は、前に読んだ探偵小説で、主人公の探偵が言っている言葉だった。

 人それぞれに、他の人には分からない矛盾があるらしく、それを本人が自覚しているかしていないかで、その人の人生も決まってくる。犯罪を犯す人間には、その矛盾が見えていて、その矛盾を自分の中でどのように解釈するかによっても変わってくる。最初から矛盾の正体を捉えていたとすれば、その人にとって犯罪は正当化されるものであり、探偵によって謎が解かれた時も、犯人は堂々としていることだろう。それだけプライドがあり、犯罪に対して自分の中で責任が取れていると感じているからではないかと書かれていた。

 しかし、逆にその矛盾を自覚しておらずに犯行に及んだ場合、自分が犯罪を犯したことへの正当性など理解もできず、まるで何かに引き寄せられるように犯罪を犯したのだとして、責任を逃れようとするに違いない。その時見えてくる犯人の印象は、女々しいものであり、まったく潔さが見えてこないだろう。

「こいつにはプライドというものがないのか」

 と言わしめるほどの醜態を晒すことになるだろうと、探偵は語っている。

 しかし、そのどちらも犯罪としては同等なものである。どんなに正当性があろうとも、人の命を奪うことは許されないとも書いている。だが、純一郎にはそれが不思議だった。

――正当な理由があれば、犯罪も正当化されてもいいのではないか? 殺されるには殺されるだけの理由があるんじゃないか――

 という思いがあった。

 これが純一郎にとっての矛盾でもあった。

 彼が自分の書く小説で、人が殺されるところを描きたくないという理由の一つに、この考えがあるのではないか。そして、この考えが、自分にとって一番大切なものではないかと思うようになっていた。

 純一郎はそのことを感じるようになったからなのか、小説の中で殺人事件を書くようになった。

 確かに書いていて怖いと感じることもあったが、書くことで自分の矛盾を浮き彫りにできるのなら、それも興味深いことだと思うようになり、心のどこかに持っていた、殺人を書くことへの罪悪感のようなものが少しずつ消えていくのを感じたのだ。

 中学時代に読んでいた、戦前戦後を舞台にした探偵小説。そこに興味を持った理由の一つとして、

「戦争中という時代は、まわりがどんどん死んでいくという光景を、軍人のように戦闘の最前線にいた人以外も、誰でもが日常茶飯事のように目撃するという実に異様との言える時代だったのに、小説の中では人が一人殺されるというシーンをいかにも重大事件として描いている。それに比べて今の時代の小説は。人が殺されるシーンをサラッと書くような風潮がある。それは今の時代が本当の死というものを実感できないからではないかと思える。普段生活をしていると、そんなに頻繁に人の死、しかも感覚がなくなるほどの大量な人の死に遭遇することはないからである」

 と言えるのではないだろうか。

 つまり、今の時代とあまりにも違う時代であって、

「映像で見たり、本で読んだりしてイメージは湧いたとしても、それは架空のものであり、近づくことすらできない。架空であるという発想は、自分が小説を書きたいと思う発想と同じではないか」

 という強引とも言える結び付けからなるものではないだろうか。

 ここでこうやっていくら文章にしたとしても、自分が考えていることが伝わらないであろうことは分かる気がする。実際に生きてきた時代を味わってきた人にとっては、想像で架空を描かれるのは心外だというかも知れない。

 しかし、純一郎はそれだけに、人が殺されるシーンを描くことにこだわりがあった。だが、一度自分の中の罪悪感を切り離してしまうと、まるでタガが外れたように、人が死んでいくシーンを描けるのではないかとも思った。

 それは意外と難しいことであり、人が死ぬシーンへのこだわりを持っている人になってみる必要があるのではないかとも思った。

「そんな余計なことを考えているから書けないんだ」

 という言葉を投げかけるもう一人の自分、そんなもう一人の自分の存在を知ることで、やっと殺人を描けるようになったのではないかとも感じていた。

 殺人シーンというのが描写なのか、それとも心理を描くことなのか、それは自分が殺害場面を書くようになってから、ずっと感じていることだった。

 当時の描写で怖いと感じたのは、アトリエだった。いわゆる奇人と言われる画家がいて、その男は世間とはほとんどかかわりを持つことはなく、そんな中で見一にアトリエに籠って作品を作っていた。絵を描くだけではなく、彫刻も扱っていて、蝋人形であったり、マネキンであったり、石膏像のようなものが所せましと置かれている。

 特に怖いのは石膏像だ。マネキンなどであれば、営業時間もとっくに終わった百貨店の婦人服売り場にて、警備会社から派遣された夜間の見回り警備員などが、懐中電灯を片手に、こわごわ見回りをしている。基本的に営業時間ではないので、電灯はつけていない。そのため、服を着ているマネキンが闇に蠢いているような感覚があり、それが恐ろしい。生命が雇っているわけではないのに、人間の形をしているというだけで気持ち悪いのだ。

 マネキンは真っ暗な誰もいない百貨店で見れば怖いのだが、このアトリエで実際に見て恐ろしく思うのは石膏像であろう、奇人が巣くうアトリエというと、プレハブに毛が生えたようなもので、奇人の画家であれば、そこにベッドや生活用品も置いていて、アトリエをそのまま自分の家として使っているイメージが想像できる。

 ある探偵小説では、そんなアトリエの主である奇人画家が留守の間に、何者かが侵入し、そこで部屋の中を物色していた。その何者かというのは、実はある殺人事件の解決を依頼された探偵だったのだが、探偵の助手がそのアトリエに忍び込んだのだ。

 問題の奇人画家というのは、殺人事件での第一発見者であり、そのうちに、その男も容疑者の一人として俄然クローズアップされてきたので、探偵の助手がその男を見張っていたところ、やっとその男が留守にしたことで、アトリエ内を捜索できた。

 本来なら動作令状がなければダメなのだろうが、そのあたりは曖昧に書かれていた。それほど小説内で問題にすべきことではなかったからだ。

 捜査の鉄則として、

「第一発見者を疑え」

 というのがあるが、まさにこの奇人画家はその条件に当て嵌まっていた。

 この男がいない間、助手は暗闇に乗じて忍び込んだが、ここでいきなり何かを物色してしまうと、それこそ令状がないので、罪になってしまう。戸締りが完全にされていなかった場所から忍び込み、モノに障ることなく、アトリエを注意深く見て回った。真っ暗なので懐中電灯だけが頼りだが、本当にこれほど気持ち悪いののはないと思えるほどの状況だった。

 懐中電灯をつけてはいるが、そのうちに暗闇にも目が慣れてきた。窓から入ってくる月明かりでも十分に明るさを保てると思うくらいで、表からの月明かりと中からの懐中電灯の明かりとで、石膏像はその空間に浮かび上がっていた。

 石膏像は一つではない。いくつもあり、数えてみると、十体近くはあるそうだった。

 それらの像が、ほぼ密集した場所に列に並ぶように立っている。しかもそのすべては裸婦であった。

 これがマネキンであれば、まだ人間に近いので、人間をイメージするという意味での気持ち悪さがあるが、石膏像ともなると、懐中電灯だけであれば、そこまで気持ち悪くなかったかも知れない。カーテンも何もない窓ガラスから入り込む月明かりが、石膏像を最高に恐ろしいものとして浮き上がらせていた。

 助手はそのマネキンの足元を見た、するとそこからパノラマ上にまるで大日本帝国の国旗である旭日旗を見ているように、足元から放射状に影法師が伸びていた。その影法師は細長く歪なもので、もし、その石膏像が動くことができれば、足元を中心にクルクル回っているように見えるであろう。

 そんな足元が石膏像の数だけあるのだ。つまり十個の足元から放射状に延びる影法師、これほど気持ちの悪いものはない。

 助手は、その気持ち悪い状況に震えを感じながら、それでも探偵の助手としてひるむことを許されないと感じていたのか、勇気を振り絞って、その石膏像を一体一体調べ始めた。

 その顔は暗くて確認できないが、恐怖と興奮で顔が真っ赤になっていることだろう。その興奮も恐怖から来ているものなのか、それとも好奇心からのものなのか、よく分からなかった。

「きっとどっちのなんだろうな」

 と思ったが、どちらの方が強いのか、自分でもよく分からなかった。

 すると、そのうちの一体の石膏像の顔の部分が欠けていて、sこに黒い細い線が揺らめいているのが見えた。

「揺らめいている」

 などと書くと、

「そんな表現はないだろう」

 と言われるかも知れないが、果たしてその時の状況はまさしくその表現通りだった。

 まるで数本を束ねた髪の毛が、その小さな隙間からはみ出していた、風にでも揺れているかのようだった。

 しかし、まったく風もない密室のアトリエの中で、しかも髪の毛などあるはずもない石膏像なのだ。そう思って再度確認してみると、

「何だ、アリが這い出しているだけか」

 と安堵したが、そこにどうしてアリが這うのか、それを考えると理由が思いつかなかった。

 髪の毛などなら、

「石膏像にオンナの魂が宿ったのだ」

 などと、オカルトチックな考え方もできるが、石膏像にアリが集るなど、想像しても、その理屈が分からない。

 石膏像の想像主がわざと石膏像の顔のところに甘いハチミツでも塗りこんでおいて、穴をあけてでもいれば分からなくもないが、その理由が分からなければ、結局は同じことである。

「これは一体どういうことなのだ?」

 と考えると、急に助手は自分が今頭に浮かべた妄想があまりにもバカバカしく、そして恐ろしいものなのかを考えた自分が恐ろしくなったくらいだった。

 その妄想は、医学の知識をなまじ持っていることから生まれた。この助手は探偵のように叩き上げの経験から探偵になり、探偵をしながら知識を蓄えていった先生とは違い、自分は最初から探偵として身を立てようとして、助手をしながら若い頃から勉学に励んでいた。年齢としては、まだ未成年だが、現役で大学に在籍していて、心理学や医学関係を学んでいた。

 専門は心理学だが、医学に関しての知識お探偵として必要だと感じることで、積極的に学んでいた、ちょうど彼の在学している大学で、探偵の友達の教授がいるので、

「彼のことは私に任せてもらおう」

 と言ってくれたので、探偵も安心して任せていた。

 探偵の友達の教授は、結構年配で、数年前から学部長をやっている関係もあって、探偵の助手をいろいろ勉強させることへの手杯くらいならいくらでもできる立場にいた。

 しかもそれは悪いことに使う立場ではなく、社会貢献に繋がることだけに、誰からも文句の出るはずのないことだった。

 ただ、探偵の助手としての立場が公になってしまったことで、他の学生と少しぎこちなくなってしまったことは仕方のないことだろう、

 何しろ彼はすでに就職も約束されているわけだからだ、

 そんな彼の医学の知識は医学部に籍を置く連中よりもある部分に関しては特化していると言ってもいいだろう。

 それは言うまでもなく犯罪関係の医学であり、死亡推定時刻などの割り出しを始めとして、鑑識ができるだけの知識と能力は有していた。ただ実際の鑑識の仕事はできないので、初動捜査において、鑑識が通着する前にある程度のことを知りえることは十分に可能だったのだ。

 心理学において、長けているのは探偵も心理学には特化したものを持っていて、

「僕も先生のような心理学を駆使して調査できる探偵になりたいです」

 と、公然と言っていたくらいだった。

 そんな医学や心理学に長けている助手は、その状況を見ながら何が怖ったというのだろう。甘いものに寄ってくるアリが、なぜ石膏像の隙間にたかっているのか、その理由は、彼が、その穴に鼻を近づけた時に気が付いた。

「何だ、この異臭は?」

 と思ったが。それは一瞬のことで、それがまるで死臭であるかのように気付いたのは、またその次の瞬間だった。

 そこまで分かっていながら、自分が分かったことについて、さらに疑念を持ったのは、

「そんなことを考えてはいけないんだ」

 とまるで感じたことが不謹慎であるかのような思いからだった。

「滅多なことをいうものではない」

 と、子供の頃によく親から言われていたが、その言葉が頭をよぎった。

 変なことを考えて、それを口にすると、変人扱いされるというところから言われたのだが、もう助手は立派な大人で、しかも探偵の助手という仕事までしている。

 それは普通のアルバイトとは違って、一歩間違えば命も落としかねないというまさしく命がけの仕事でもあった。

 だが、総合的に考えれば、自分が今考えていることが正解であることをすべての状況が証明しているように思う。それを認めたくないという思いだけが恐怖を伴っていることもあり、余計な気遣いのように思えているのだった。この瞬間がこれから自分が探偵になった時、

「探偵としての醍醐味」

 と感じるようになるのではないかと思うのだった。

 その穴の向こうにあるものが何なのか、ある程度は想像できた。恐ろしくて言葉にはできなかったのは、きっとまわりに誰もおらず、しかも、シチュエーションとしては実におあつらえ向きな状態だったからであろう。

 本当は今すぐにこの石膏像を足で蹴とばして叩き壊したい衝動に駆られた。発見してしまったのだから、それくらいしても一種の現行犯として許されるのではないかというほど、この場のシチュエーションに酔っていた。

 それでもさすがに探偵の助手というだけのこともあり、何とか思いとどまって、心残りで後ろ髪を引かれたが、その日は引き上げるしかなかった。本当はもっといろいろ中を探検する予定であったが、この発見はすべてを捜索しても余りあるほどの発見だったのだ。「これだけのことを発見したのだから、捜査令状くらいは下りるだろう」

 というのが、助手の考えだった。

 そして、そのことで自分が脚光を浴び、先生からは褒められ、警察からも一目置かれる存在になるだろうということを想像しながら、この場所を後にした。

 彼は、本当はここまでの楽天家でもお調子者というわけでもなかった。これくらいしなければ、この場所を立ち去るだけの理由を自分に納得させることができなかったのだ。純一郎は読みながらそんな精神病者を行っていた。

 果たして翌日になり、助手から探偵に報告され、そして警察を動かした。

 警察は踏み込んだが、やはりその部屋は誰もいないもぬけの殻だった。もちろん、発見者の助手と、その命令者であり、保護者でもある探偵が同行したのは言うまでもないことである。

「君が見たのは、どの石膏像なんだい?」

 と刑事に言われるままに、彼は記憶の中から無言で、忘れることのできない昨日のことを思い出しながら、一つの石膏像を指差した。

 なるほど、そこには真っ白い石膏像にまるでほくろでもできたかのような小さな穴が、首のあたりに空いていて、そこを真っ黒なアリの軍団が這い出していた。真っ暗な世界で見るとそうでもなかったが、このシーンは明るい場所で見る方が、リアルで気持ち悪いものだった。

 刑事も不思議そうにその穴を覗いていたが、

「君はこれを何だと思ったのかね?」

 と、何をいまさらな質問を浴びせた。

 ここまでくれば助手も覚悟が決まっていて、

「女性の死体が埋まっているのではないかと思います」

 と答えたのを合図に、刑事はその石膏像を思い切り蹴とばした。

 ガラガラという音がして、足の部分が崩れ落ちたが、そこから薄黒い肌が現れた。誰も口を聞こうとはしなかったが、今度は探偵が何を思ったか別の石膏像も一緒に蹴とばした。

 さすがにそれを見た刑事もビックリしたが、さらに次の瞬間、その石膏像からも目が離せなくなった。そこからも肌が覗いていたのだ。

「どういうことですか?」

 と刑事がいうと、

「ここには数体の石膏像がありますが、そのうちのいくつかに女性の遺体が埋められ居るような気がしたんですよ」

 と恐ろしいことを平然という。

 まるで最初から分かっていたかのような言い草だった。

 そう、果たして探偵には分かっていたのだ。ただ、これは決して無差別連続殺人などという猟奇的な殺人ではなかった。これはあくまでもカモフラージュ。ここに埋められている女性たちは土葬された墓の中から盗まれた遺体だった。奇人画家は殺人など犯していなかったのだ。本当の犯人が奇人画家に自分の犯行を押し付け、そして自分の殺人を奇人による猟奇殺人に塗り替えてしまおうとしてのものだったのだ。自分の犯罪の結果を奇人画家に発見させて、彼に嫌疑を向けたところで、この石膏像を見せる。警察は彼を班んだと思うだろう。彼は逃走癖があるので、それを利用し、その間に探偵の助手を使って、この石膏を発見させる。奇人は出てきたくてもこうなってしまうと画家としては大胆であるが、このような男ほど小心なやつはいないのかも知れない。

 そんな小説であったが、現代ではなかなか表現できないものである。奇人画家のアトリエの雰囲気を今の時代の建物で表現することは難しいし、何よりも、たくさんの女性の石膏像など、発想すらできないかも知れない。しかも、石膏像の中の女性の遺体が土葬されていたということだが、今の時代に土蔵などありえない。(ただ、いまだに土葬が禁止されていないところもあり、法律的には可能である。とはいえ、数人の若い女性という意味で、ほぼゼロに近いと解釈してもいいだろう)

 また奇人という表現も放送禁止や差別用語としても、使用できない風潮にある。昔の方が、まだ自由だったということなのか、それは自由という言葉が全体に対してのものなのか、それとも個人個人に対してのものなのかを考えると、その考えの違いに自ずと気付いていくものではないだろうか。

 今の時代との違いを考えていくと、純一郎が昔の小説を読み漁る気持ちが分かるような気がする。かといって、今の時代に当て嵌めて書くことのできないギャップ。それは、自分がノンフィクションを書きたくないという思いへの反映ではないだろうか。

 しかし、それでも書いてみたい気がするのは、自分が小説を書き始めるようになったきっかけと似ているかも知れない。

 元々いじめられっ子だったこともあって、いずれはまわりに復讐したいという思いがあったのは事実だろう。しかし、いくら小説の中とはいえ、人を殺すということは、許されない気がした。いくら自由な発想だといえ、安直に殺してしまうのは、自分の感性に逆らう気がしたからだ。

 だが、感性であるからこそ、小説で人を殺すというのは、芸術の域を感じさせる。自分が望んだことを、芸術が、しかも自分の中の感性という芸術が凌駕してくれるのであれば、いくらプロではないとしても、自分で自分を認めることができる。

「これからも小説を書き続けていいんだ」

 と自分に認めさせることができるのだ。

「自分が認めないことは、してはいけないという発想ではなく、自分がしたいと思うことを自分自身で認めさせる」

 それこそが、芸術家としての自分を自分が納得できる一番の方法だった。

 好きな人ができたとして、

「自分がその人を好きだから好かれたいと思うのか、好きになられたから、その人を好きになるのか」

 ということに似ている。

 純一郎はどちらかというと、好きになられたから好きになる方だった。だがそれは自分が人を好きになることはないのではないかという思いの裏返しでもあった。

 本当は、好かれなければ人を好きになれない性格だからこそ、人を好きになれない。それを分かっていないと、どちらを求めるかと言うと、好きになられて初めて人を好きになるという消極的な自分を演出したいと思うのではないだろうか。

 どこか逃げに走っているように思えるが、芸術家というのも、実は怖がりで、怖がりだからこそ、必死で自分をアピールしたいと思うのかも知れない。

 芸術家のほとんどが、

「自分に自信がないから、自分というものを表現するのに、芸術という形のあるものに頼ってしまう」

 という心理学の先生の話を聞いたことがあるが、純一郎はその話を信じられなかった。

 しかし、その思いを自らの作品に織り交ぜている小説家がいることに、純一郎は衝撃を受けたのだ。

 それがこの時の作品を書いたミステリー作家で、彼は自分の小説の中でふんだんに殺人を演出した。

 しかし、中にはこの作品のように、たくさんの人が殺されているというイメージを読者に与えて、しかし実際にはまだほとんど殺人など行われていない。しかも、行われた殺人にしても、犯人の本当の目的ではないというような話だったこともあって、その謎解きの場面場面で大きな衝撃の連続であった。

 事件のアピールというのは、普通なら小説の中だけのことであろう。実際の殺人事件では、自分を鼓舞するような演出をすることはない。なるべく自分が犯人だなどと思われたくないのが信条で、人を殺してしまうと、一刻も早くその場方立ち去りたいという衝動に駆られる。それなのに、その場にとどまる犯人がいたとすれば、それはその場から立ち去れない理由があったからだろう。例えば誰かに見られてしまったなどという、突発的な状況に陥った場合なのである。

 それでも、

「事実は小説よりも奇なり」

 という言葉があるが、中には常軌を逸した殺人が事実としてあったりするのだろう。火のないところに煙が上がるわけもないし、言葉が存在するのであれば。必ずその根拠も存在するというものである。

 人を殺すという小説を書けるようになったのは、そんな発想が頭に浮かんできたからではないだろうか。

 そのターゲットとして差し当たってイメージできるのは、子供の頃に自分を苛めていた連中である。そして、忘れてはいけないその時に傍観していた連中、その時の目を純一郎は決して忘れているわけではなかった……。

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