第4話 「小説執筆」考
さすがに殺人シーンであったり、最初のインパクトをいかに書くかということを考えていくと、どうしても時代を少しでも遡らないといけなくなってくる。しかもその時代というと自分の知らない時代。つまり昭和の時代がそお背景に潜んでいるような気がするのだ。
実際に知らない時代なので、それを描くということは少々調べたとしても難しい、
となると、但し書きとして、
「この話はフィクションであり……」
として、時代背景まで架空にしてしまわなければいけない。
そうなると、ミステリーというだけではなく、SFチックになってしまうのではないだろうか?
近未来という発想がSFであるように、過去を想像して書くのも一緒のミステリー、そんな風に考えると、どこか自分の書きたい小説という者が何であるか分からなくなっていった。
ミステリーがSFチックになってくると、今度はいくら近い過去であっても、過去は過去、そう思うと、時代小説という考え方も出てくる。そういえば、大東亜戦争における架空の物語を時代小説においてあったような気もした。あれも一種の時代小説であり、戦記物であり、SF小説でもあるのだろう。
あれをSFとして考えないのであれば、純一郎の考える過去のミステリーというのは、sfから除外してもいいのではないか、そう思うと、ミステリーと時代小説ということになるのか?
しかし、時代小説というには、さほど古くもない気がする。やはり普通のミステリーと考えてもいいのかと思うと、またしても頭がこんがらがってくる。
純一郎は、自分が書く小説を普通のミステリーだとは思いたくない。そう思ってしまうとフィクションとして書く時代背景が架空であることの意味を掴みかねるような気がするからだ。
ただそんなことばかりを考えていては、書けるものも書けなくなる。とりあえずジャンル云々よりも書き上げることが大切だった。
純一郎はそれまでにも数年前くらいを時代背景にして殺人事件を扱った小説を書いてみたりした。だが、どこか不満があった。それは時代背景に不満があったと言ってもいいのではないだろうか。
自分の好きな時代は、やはり戦前戦後くらいになってくる。図書館に行って、当時の情景や風俗を表した写真をいくつか見たり、当時を舞台に書かれた小説をたくさん読んだ。もちろん、時代背景も歴史の本を中心に勉強もしたりした。
順番としては、時代は意見を勉強し、写真などを見て、その後に小説を読みふけるというのが正解なのだろうと思い、その順番で進めてきた。
そこまではスムーズに行ったが、いざ小説を書いてみようという段階になると、筆が進まなくなった。
というよりも、最初から何も書けない。
今までの経験からいくと、最初につまずいてしまうと、なかなか難しく、何も書けないまま時間だけを要してしまうと、結局その内容の小説は日の目を見ることができないで終わってしまうことがほとんどだった。
それなりにプロットは書いたつもりだった。しかし、最初が出てこないのであれば、これも結局お釈迦にしてしまうのだろうかと思うと、切ない気分になってきた。
「いや、何とかしたい」
と思い、何とか数行くらいを書くことができると、そのうちに少しずつ筆が進んでくるのを感じた。
今から思えばその時、やめてしまわなかったことが、趣味としてではあるが、小説を書き続けられるようになった基本だったのではないかと思っている。
もし、あそこでやめてしまえば、それ以降は小説を書くということにトラウマを覚え、そのトラウマがどのような影響を自分に与えていたか、想像を絶するものになっていただろうと思うのだった。
今回の小説は、大量殺人を目論んでいた。トリックや犯人がどうのこうのではない。とにかくたくさんの殺人現場を書きたいと思った。
実は今まで読んだ探偵小説の中で、大量に人が殺されるという話はあまり好きではなかった。その理由は、どうしても、トリックであったり、ストーリー性なるものがおろそかになるからだ。
今回書いてみようと思っている小説は、自分のそんな形のものを否定しようという考えであった。
根底にあるのは、
「どうせ素人なんだから、何でもありだ」
という、いつも持っている感覚だった。
確かに無料投稿サイトにアップして、
「見たい人は見てください」
という形で公開しているのだから、それなりの体裁は整える必要はあるのだろうが、根底に何でもありだと思っていると、どんな作品でも許されるという気楽さがあった。
それにともなって、出来上がる作品の完成度もあまり深く考えないようになった。
「質よりも量だ」
というのが、純一郎の基本的な考え方だった。
そのために書いているとm時々悪い癖として、時数を稼ごうという意思が働いてしまうことがあり、下手をすれば似たような言葉を続けてしまうということになりかねない。
「まあ、素人なのでいいか」
と、またしても妥協に走るのだが、それでも、
「どうせ、いい作品なんて書けないと思っているのだから、たくさん作品を残す方を選んで正解なのだろう」
と思っている、
「そもそも、いい作品というのは、どういうものなのだろうか?」
ということを考えてみた。
いい小説と聞いて考えられる最初の発想は、
「人に認められる小説」
ということになるのでないか?
では人に認められる小説というと、どういうのをいうのか? 例えば大手出版社で新人賞や、文学賞を取った作品をいうのだろうか?
元々プロが書いた作品と素人が書いた作品とでは違うのかも知れないが、この際プロは考えないとして、素人であれば、やはりまずは新人賞を受賞した作品ということになるのではないか。
しかし、それらは選考段階が問題になってくる。まずは、第一次審査であるが、ここはいわゆる
「下読みのプロ」
と呼ばれる連中が、小説としてお体裁だけを見て選んでいるのである。一人がどれほどの作品を受け持つのか分からないが、そこで振り落とされることになる。そして募集要項などに載っている選考委員の先生たちが実際に目を通すのは、最終選考に残った作品だけだ。そこまではどこの誰が審査するのか、よく分かっていない。
それを思うと、新人賞に選出された作品というのが、一般的にいう、いい作品なのだろうかというのはどうも疑わしい気がする。
しかも、新人賞を獲得した作家が、そのままプロとして生き残れるかどうかも難しいところとなってしまう。
それを思うとプロとして生き残るのも難しく、新人賞を受賞した作品はやっと受賞後に出版という形で世に出ることになる。
その作品には、最初から、
「新人賞獲得作品」
というレッテルがあるので、見る人もそういう贔屓目で見るだろう。
ほとんどの人はその贔屓目で見ることで、いい作品として認識して見るに違いない。
しかし、中には天邪鬼のような人がいて、作品を斜めから見る人もいるだろう。最初から批判的な目である。そんな人が見ると、どんな作品に写るのか、聞いてみたいものである。
図書館に行っても、本屋に行っても、本は所狭しと並んでいる。よほど世間で話題になっている本でもなければ、そのほとんどは、棚に一冊くらいしか置かれていない。世の中に流通している本というのは、果たしてどれほどの量が存在するものなのか、ある程度の量を知りたいとも感じる。
そんな中で、誰が果たしてどの作品をいい作品だと思うというのだろう。
ネットのSNSなどであれば、「いいね」などと、感想の代わりに簡単にクリックすることで評価ができる。そんな簡単な時代だからこそ、小説などの、
「いい作品」
というのが、どういうものをいうのかを検証して似たいと思うのは、おかしなことであろうか?
ただ、その結論が出ない間は、何がいい作品なのか、分かるはずもない。分からないものを目指してもしょうがないと思うのは理屈として通っていると思うのだが、どうなのだろうか?
小説を書けるようになった悦びとともに、それ以降、
「何を持って悦びとしていくか」
と考えた時、純一郎は最初、やはり
「いい作品を書きたい」
と誰もが考えるような発想になった。
しかし、実際に考えてみると、前述のように、
「何を持っていい作品というか?」
と考えると、一つの壁にぶつかり、それがジレンマとなり、
「このままでは執筆ができなくなる」
と考えた。
そして出た結論が、
「質より量」
だったのだ。
誰がどう感じようが、いい作品にこだわることなく、自分の書きたいことを書く。小説というのは、基本的に何を書いてもいいのだと思っている。だからこそ、怖い話でも書けるし、人からどう思われようと関係ないとも思えるのだ。
確かに実際に苛めに遭うことはない。小説に対しての誹謗中傷などもあるだろうが、それも最初から受けることを前提にして書いていれば、それほど気にする必要もない。
「全身全霊を掛けて書いたのに」
という作品に誹謗中傷がついてしまうと、ジレンマどことかトラウマとして残ってしまうだろう。
そうなると、執筆自体ができなくなってしまうように思う。小説を書くということがどういうことなのか、を考えるところに結局は戻ってくるのだ。
最初からハードルを下げておけばどうってことはない。
「まるで逃げを前提に書いているようなものじゃないか?」
という人もいるかも知れない。
しかし、しょせんは素人で、プロになろうなどという意思はなく、趣味でやっているだけだ。プロになるということがどういうことなのかを考えると、急に暗い気分になってくる。
――どこの世界もプロというのは甘くない――
という考えが頭にあるからだ。
自分で書いた小説は、ほとんど推敲もせずに、アップしている。下手をすると、誤字脱字も見逃してしまっているだろう。そんな状態でアップするのは、一度に他のことをできないという性格からだろう。
前に書いた作品を推敲したり読み直していた李すると、新しく書こうと思っている作品を忘れてしまうからで、前の作品と混乱してしまうことがその原因となっていた。
そういう意味で、小説は書き始めると一気に書いてしまわないと気が済まない。いや、一気に書くことしかできないと言ってもいいだろう。
下手に考えてしまうと先が進まなくなる。自分がどこにいるのかということだけを無意識にでも感じていると先に進めるが、どこにいて、さらにどこに進もうとするかを考えると、後ろまで気にしなければならなくなり。結局今自分がいる位置が分からなくなる。
普通の生活ではそれは致命的なことなのかも知れないが、小説を書く上では許される気がする。ちょっと意識をするだけでいいのだ。それができるだけで小説を書き続けられる。その理由としては。
「集中できるからだ」
と思っている。
妄想の世界に入り込むということは、集中しているからできることであって、妄想の世界には、前も後ろもないような気がする。妄想というのは、
「自分の世界であって自分の世界ではない」
つまりは、妄想の世界というのは、自分の中にしかないものであるにも関わらず、演出は自分ではない。夢と同じようなものではないだろうか。
夢とよく比較されているが、妄想と夢との大きな違いは、夢というのが、
「潜在意識のなせる業」
というものであり、妄想のように、できないこともできるかのように想像するものではないところが違っているのだろう。
「夢だって、できないことを夢に見ることもあるだろう」
と言われるかも知れないが、実際に見た夢というのは、普段からできないものだと思っていることができるというわけではない。
例えば、
「夢の中では空を飛ぶこともできるだろう」
と思っているとして、自分が夢を見ているということが分かっているとした場合。いくら夢であっても、空を飛ぼうとしても、歩いている人の腰くらいまでは浮くことができたとしても、実際に自由に飛べるわけではない。浮いているだけなのだ。
前を見て進もうとしても、簡単には進めない。それこそ平泳ぎのように空気を掻いて進もうとするが、水のようにうまくいかず、本当にその場に浮いているだけなのだ。
空気という海原に飛び込むとでも言えばいいのか、きっと自分がそう思っていることで、想像の限界、いや、潜在意識を掘り出した時に浮き彫りにされるのが、
「空気に飛び込む」
という発想なのだろう。
だが、妄想であれば、いくらでもできてしまう。ただそれもその人の力量によるのだろう。普段から現実主義を重んじる人であれば、いくら妄想しようとしても、そこには限界がある。まさに夢の世界を脱却できないでいるだろう。
そういう意味で、潜在意識というのは、あくまでもリアルな妄想であって、潜在意識が妄想とは違うものだという発想ではない。妄想をどこまでできるかが架空の話を書く小説かの命であるとするならば、リアルな意識は封印すべきなのかも知れない。
小説を書くことで、自分の妄想を果たせるのであれば、妄想というのは小説の核であるのと同時に広がりを見せる部分での広がりとのつなぎ目を表しているようにも思えた。
小説を書くというのは集中して書くことで、時間を感じることはない。本当に集中していると、一時間が十分くらいに感じられ、気が付けば、進んでいるという状態であった。そして小説を書く時の基本としては、
「何も考えないこと」
が中心でm下手に考えてしまうと、続かなくなってしまう。
そのために書いている最終に数個の文章を先に頭に描いておく必要がある。何も考えないというのは、
「余計なことを」
という意味で、必要以上なことを考えてしまうと、頭の中が発想で渋滞してしまい、送り出すことができなくなってしまうのだ。
小説を書くということは、自分の世界に入り込み、いかに妄想できるかということであるが、そのためには集中力を高めて、余計なことを考えない。その発想が小説を書く原動力と言っていいだろう。
ただ、小説を書くというのは、思ったよりも体力がいる。
「頭を使うことなので、体力は関係ないだろう」
と言われるかも知れないが、集中力を高めること自体が、体力を使うことに繋がっているのだ。
ただ、小説のネタに詰まってくると、ついつい考えながら書いてしまうこともある。そんな時はどんなに考えても頭に浮かんでこない時はどうしようもない。そんな時に悩むのだが、
「果たしてこのままやめてしまう方がいいのだろうか?」
と思うが、やめてしまうと、元々の執筆の主旨がなくなってしまう。
最初に書けるようになったのは、
「何があっても、最後まで書きあげる」
という意識を元に書き始めたはずだった。
書けるようになったからと言って、その時の主旨を忘れてはいけないという思いがあるので、一度書き始めた作品は、どんなことがあっても書き上げようと思うようになっていた。
一つ気になるのは、小説を書き始めるようになってから、物忘れが出てきたような気がした。たった今考えていたことをふっと忘れてしまうと、思い出すことができなくなってしまう。この思いが、小説を書いている時、
「余計なことを考えないようにしよう」
という感覚に結び付いているような気がするのだ。
小説を書きあげることでの充実感は、それまでに感じたどんな思いよりも高尚なものだった。書けるようになった自分が何かえらくなったような気がするくらいで、誰かと比較にはならないが、まわりの人が目指している何よりも高尚なものであるように思えてならなくなった。
今までにこれほど自分のことを好きになったことはない。好きで始めたことができるようになっただけのことなのに、今まで感じたことのないまわりとの違いを明確に感じることができたような気がした。
だから一人でいても、別に悪いことだとは思わない。むしろ一人で執筆しているということが、他の人がいう、
「自分を成長させる」
ということに繋がっていることに気付いたのだ。
小説を書いていると感覚がマヒしてくることもあるようで、実際にあれだけ人を殺す描写を描くのが気持ち悪いと思っていた自分が、今では数ページにわたって、殺害現場を描写することができるほどになっていた。
自分が小学生になって、どんどん人が死んでいくところを目撃するというホラー小説であるが、その死に方というのも、さまざまだった。
自殺もあれば、事故死もある。もちろん、誰かに殺されたというシーンもあれば、自然死があとで見つかるという状況もあった。
いろいろな描写が考えられたが、人が死ぬというシーンだけでもこれだけたくさんあるのかと思うと、描いている自分が怖くなってくるくせに、描いている自分が恐怖の対象というだけであって、自分では怖いと思っているわけではない。客観的に見ると怖いのだが、当の本人になってしまうと怖くないという理屈で会った。
小学生が死体を発見するという描写を小学生になったつもりで描く。あくまでも、
「なったつもり」
というだけなので、自分の小学生の頃を思い出しているわけではない。
もちろん、まったく土台がないとイメージできないので、イメージするという意味で自分の小学生の頃を思い出すのだが、小説に出てくる主人公は、小学生の頃の自分ではないのだ。
もし、小学生の頃の自分が見ているとしても、それは他の小学生を見ているからであって、その小学生の気持ちになって死体を発見したという意識で書いている。
そう思うことで、小説を書き始めた頃の、
「怖い」
という感覚を脱却することができたのだと思っている。
「自分であって、自分ではない」
という禅問答にも似た言葉があるが、まさにそんな感覚なのではないだろうか。
そんな感覚が、たまに自分に自分が考えているのとは違う妄想を見せることがある。自分では期待もしていない妄想、それは一種の悪夢のようなもの。その感覚を持っているから、あんな恐ろしい感覚になってしまったのではないだろうか。
「悪夢というのも、潜在意識が見せるものなのだろうか?」
と考えたが、そうであってほしいと思うのは、純一郎だけではないに違いない……。
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