第2話 我にとっての小説

 中学に入ると、すでに自分のまわりには人がいなくなっていた。自分のことをクラス委員に推薦するようなやつすらいない。面倒なことを押し付ける相手としての存在ですらなくなっていた。

 ただ、それはまわりが自分から去っていったわけではなく、自分がまわりを寄せ付けなくなったのだ。小学生の五年生の頃クラス委員をやった。学校行事としての毎年のことである運動会や音楽会などの、その時々の委員を決めたり、随時にクラスで何か決定事項がある時など、もう一人のクラス委員と二人が議長になってその決定に携わらなければいけなかった。

 クラス委員は基本的に二人で、男女一組と決まっていた。彼女の方も自分から立候補したわけではなく、女性陣の中から推薦されて嫌々させられていたのは、純一郎と同じであったが、相手の男子が純一郎になりそうになると、それまで反論しなかった彼女が、急に学級委員になるのは嫌だといい始めた。

 まわりの女の子が本当に他人事に見えたのは、男子が自分に対して無責任に推薦してきた時よりもひどく思えた。元々その子は少々のことでは嫌な顔をしない女の子だったので、騒ぎ立てられたのを見て楽しくなったのだろう。

――なんて連中なんだ。彼女とすれば、それがどれだけ嫌なことなのか分かっていないのだろうか――

 と思った。

 彼女がそんなに嫌がっている相手が自分であるということを忘れたかのようにそう思うと、まず人間の心の中に巣くっている感情の恐ろしさに怖くなったのだ。

 きっと無意識な行動なのだろうが、それが無意識であればあるほど恐ろしかった。純一郎としていれば、

――自分がそんなことをされたらどんな気分になるのか――

 ということをどうして考えないのかが分からなない。

 もし少しでも考えたのであれば、彼女が露骨に嫌な態度を示した時、反射的に面白がるようなことはないからだ。

 これも、問題は集団意識にあるのだろうと思った。

「人がしているから、自分もしよう。していいんだ。いや、しなければいけないんだ」

 最後には義務でさえあるかのように思う。

 それは、自分がしたことを正当化するための自己防衛本能によるものだろう。

 しかし、純一郎はそのおんなのこのことを、

「かわいそうだ」

 とは思っていない。

 もちろん、露骨に嫌だと名指しされたのは自分なので、そんな自分を嫌いだと公表するような相手に同情するなど、それこそ本末転倒に思える。しかし、純一郎が彼女をかわいそうだと思ったのは、同情なのではない。まわりが彼女のことを何とも思っていないということを知ったからだ。

 だが、その考えは間違っていたことにすぐ気付いた。

 彼女は決してかわいそうなのではない。。むしろまわりから嫌われるのは彼女の本能によるもので、彼女は自分から人を引き付ける力を持っていないどころか、人を近づけないという何か他の動物が自己防衛のために持っている、たとえばハリネズミの針であったり、自分の色を自由に変えることで外敵から身を守ろうとするカメレオンに代表される動物、昆虫であったりのようなものである。

 却って、そんなものを持っている彼女を羨ましく思えた。

――彼女は自分と同類なのかも知れないな――

 彼女がクラス委員に推挙された時、純一郎とのコンビをあれだけ嫌がったのは、俊一郎が自分の同類だということを意識していたからかも知れない。人を極端に近づけない人は、特に自分の同類と思えるようなものを余計に近づけないようにするものではないだろうか。そこにどんな理由があるのか分からないが、遠ざけることで自分の身を守ろうとしているのではないかと思うのだった。

 そんな彼女を見ていると、自分もそういう人間だと感じるようになるのだが、その頃から純一郎は小説を読むようになった。当時、テレビドラマのシリーズで、あるミステリー作家をテーマに、彼の作品を半年間の間に、何作品化ドラマ化し、放送していた。

 最初はドラマを見てから原作を読んだので、ドラマの印象も深かったが、そのうちに先に原作を読むようになり、ドラマ化したものが、案外面白くないということに気が付いた。それは当然のことで、読書というものが、小説の中での一番のクライマックスとなる部分である想像力を掻き立てるという演出をするものであるのに対し、ドラマではその想像力の部分を演じる俳優と、製作する側の演出によって作られたものであることから、ミステリーのように想像力を掻き立てることで読者を魅了するジャンルのものは、原作が最高であることを示していた。

 読み始めると一気に読んでしまうタイプの純一郎なので、二、三日で一冊を読み切るくらいのペースだった。一日のうち、学校での授業、学校の行き帰り、そして、家での食事やふろの時間、そして睡眠時間を除いて、ほぼそれ以外を読書に費やしていたくらいだった。

 一人の作家を中心にいろいろな作品を読んでいると、作品にバラエティ性があるのと、一人の作家の書くことなので、表現や書き方に共通性を感じるようになっていた。そう感じたことが、

「俺にも小説が書けるのではないか?」

 と感じた最初だった。

 だが、小説を書くというのはそれほど簡単なものではない。まず、何かを書こうと思って、本当であれば、大まかな筋道を立ててから書き始めるものなのに、いきなり机の上に原稿用紙を広げ、何から書き始めていいのかなど分かるはずもない。

 テーマがあるわけでもなければ、課題になるヒントもない。ただ、目の前にある原稿用紙を見つめているだけである。

 今でこそ、何も考えずに最初の文章を書いているが、最初の一歩をどうすればいいかが一番難しい。最初の一文で、方向性がまったく変わってしまう可能性があるからだ。

 もし、ミステリーを書きたいと思っても、それがサスペンスタッチなのか、トリックや心理を描いた本格派なのか、最初で決まってくると思っていた。

 最初の一文をどのように書くかというのがどうして難しいのかというと、それは、

「朝出かける時、最初に踏み出す足を右足か、左足かのどちらかにするか」

 ということに似ているだろう。

 これは、

「絶えず人間は、何かの選択を迫られている」

 という発想からきているが、小説の場合は選択ではなく、何もないところからの製作になる。

 そういう意味で難しいのだが、逆に小説を書くということの醍醐味ということにもなるのではないだろうか。

 さらにどうして難しいかという意味において、こんな話を聞いたことがある。

「将棋の一番隙のない布陣というのは、どういう布陣なのか分かりますか?」

 と聞かれて、分からないと答えると、質問者が、

「それは最初に並べた形、あれが一番隙の無い形なんですよ。つまり、一手差すごとにそこに隙が生まれる。将棋というのはそういうものなのです」

 といい、それを聞いて、感心したことがあったのを思い出した。

 それだけ、最初の文章は、何もないところからの最初の創造ということで、簡単に行くものではないだろう。

 もし最初の文章を何とか書くことができても、その次の文章がまた難しい。そんな風に思ってると、結局最初は数行書いて、それ以上進まなくなってしまうのがオチというものではないだろうか。

 小説の書き方なるハウツー本も何冊か読んだりもした。そんなハウツー本を読むことで、さらに小説を書くということが難しいことで、高尚な趣味であるかということを感じたものだったが、ハウツー本の入門編として買った本は、それほど難しいことは書かれていなかった。

 実際にハウツー本として売られているもののほとんどは、小説家になるための道であったり、新人賞などに応募して入選するための考え方だったりが書かれている。その最初に書かれていることは、いかに文章を書くということが難しいのかということであり、さらに追い打ちをかけるように、継続の難しさを解いている。

 さらに新人賞に入選するための話で、最初に書かれている新人賞の選考過程などを見ると、入選することがまるで宝くじか何かのような錯覚を覚えてしまった。一番ビックリしたのは、最終審査までは、公募の際に審査員として乗っている有名作家の人たちがまったく目を通すことがないということだった。

 何しろ一次審査などは、

「下読みのプロ」

 と言われるような、プロ作家になりきれなかった売れない作家たちのアルバイトのようなものであることを知った時は愕然としたものだった。

 ただ、それはあくまでも、小説が書けるようになった人が、さらにプロを目指したり、新人賞入賞を目指すためという一つ上のステップの人が読むものだった。いまだに一つの作品も書き上げたこともない、まだ趣味としても一歩もその世界に足を踏み入れたことのない人が読むものではないのだ。

 そういう意味で、純一郎は趣味としての小説入門なる本を手にして読んでみた。その本はそれまで読んだ一歩先を目指すハウツーものとは違って、かなりハードルが低い内容であった。

 その内容は、

「小説というものには、別に格段のルールのようなものはない。何でも書けばいいのだ。もちろん、最低限の文章作法はそこに存在するが、それは読みやすさという意識のもので、書くことに対しての制限はない。作文を書くような感覚で書けばいい」

 と書かれていた。

 純一郎は、

「なるほど」

 と感じ、今まで読んだ本が、いまさらながら、小説を書けるということを前提として書かれた本ではないということを悟った。

 さらに、

「小説を書き始めてから、最初にぶつかる問題は、最後まで完結させることができないということであろう」

 と書かれていた。

 これについても、

「最初の書き出しができるようになると、ある程度までは書き続けられるようになるが、最後にどのように纏めようかと考えた時、たぶん、書き始めの時点から、ある種の構想を持っていなければまとめることはできないだろう。しかし、そこまで書いてきたのだから、そこで終わってしまうというのは実にもったいない。とにかく、気に入らない作品であっても、途中まで書いたのであれば、最後まで完結させることが大切だ」

 と書かれていた。

 確かに最初からベストセラーになるような小説が書けるわけではない。書いていくうちにうまくなっていくものだし、それが小説を書くということの醍醐味と言えるのではないだろうか。

 小説というものが、書き始めと、完結させることができれば、

「小説を書くのが趣味です」

 と言ってもいいのではないかと思っている。

 一度小説を書いていると言って人に見せたことがあったが、その人は最初小説を読む前のことだが、

「小説を書いているなんてすごいじゃないか。ぜひ読みたいものだな」

 と言ってくれたので、こっちも調子に乗って、

「そうかい? そう言ってくれるのなら、読んでもらおうかな」

 と言って、その人に、最初の頃に書いた話を読んでもらった。

 すると、原稿を返しに来たその人は、最初に感動してくれた時の様子と打って変わっていて、

「読むんじゃなかったよ。一行目読んだだけで、失望しちゃった」

 と言われた。

 その時の純一郎は、顔が真っ赤になっていた。何に対して顔が真っ赤になったというのだろう。小説の内容が酷評されたことで、作者としての恥ずかしさからだろうか?

 それとも、こんな失礼なやつだとは思わなかった、そんな相手に見せてしまったことへの後悔からだろうか?

 それとも、おだてられて、ホイホイ小説を見せて、褒められるというかなりの期待を持って彼が原稿を返しに来てくれる時を待ちわびていた自分に対しての恥ずかしさであろうか?

 どれにしても、ショックは大きかった。しばらく小説を書くことをやめてしまったほどだったが、考えてみれば、相手もプロではない。勝手なことを言っているだけなのだ。もしそんな話を自分が他の人から聞いたら、圧倒的に批判した人間が悪いということは明らかだったはずだ。そういう意味での立ち直りは早かったような気がする。

 結論としては、そんなくだらないやつに見せてしまった自分が浅はかだったというだけで、そんなくだらないやつの話を気にする必要もないということに気付いたのだ。

 それでも何とか小説を書き終えることができるようになると、自信が出てきた。一度途中で人に見せてしまったことで後悔してしまったことで、人に見てもらうことを極端に嫌うようになった。

 書けるようになり自信がついたことで、

「新人賞もいけるんじゃないか?」

 と自惚れて。何度か新人賞にも応募してみたが、結果は散々たるものでしかなかった。

 それでも書けるようになったことの方が喜ばしいことで、まず完結させることができたことがワンステップ上に進めた気がしていた。

 そのうちに新人賞にも応募しなくなり、小説を人に見えることもなくなると、今度は人とのかかわりを完全に捨ててしまう方に、自分が移行していることに気付かなかった。

 高校生になる頃は結構ほとんど一人でいることが多かった。家族とはもちろん、学校でも授業中以外は誰とも一緒にいる時間がなくて、それでも、暇があったわけではなかったので、充実はしていただろう。

 一日の間で小説に関わっている時間が結構あった。最初は本を読む方の時間の方が多かったが、途中から、少し読んだだけで、小説を書きたくなってくる衝動に駆られてくるようになっていた。

 小説を書くのは結構体力を消耗していた。小説を書く上で一番重要なことは、

「想像力を膨らませる」

 ということだった。

 その想像力を膨らませる一番の自分の中にある力は、集中力であるということを分かっていた気がする。実際に書いていて集中力が高まっていることは分かっていて、その理由として、書いている時間が一時間半近くもあったにも関わらず、感覚的には二十分くらいだったように思うのは。それだけ集中していたから、感じた時間が短かったに違いない。

 しかし、感じた字k名が短いということは、四倍くらいの実際に掛かった時間を集中していたということだから、客観的に見ると、もうへとへとになってもいいくらいの時間だったに違いない。

 純一郎が時々思い出すこととして、最初に書けるようになったきっかけの一つで、ふと感じたことであったが、

「人と話ができるんだから、書けるはずだよな」

 という思いだった。

 実際にはそれほど人と話をすることはないが、小説を読みながら、自分が主人公にでもなった感覚でセリフを呼んでいると、

――これくらいなら、俺にも書けるかも知れない――

 と思うのだが、それは、自分が喋っている気持ちになっているからなのかも知れない。

 自分だったら、こんなセリフも言えると思うようにならなければ、きっと文章にして起こすことなどできないと思うことであった。

 集中することと、書けるようになったきっかけが頭の中に残っていることで、小説を書いていられると思うと、そのうちに、別にプロになったり、本が出せなくてもいいのではないかと感じるようになってきた。

 ただ、それを実際に裏付けするかのように感じさせたのは、当時の出版会の事情でもあった。

 それまで小説を書いている人はいるにはいたが、人数的にはほとんど少なかっただろう。その理由として、作品を書いてもそれが本になったり、作家としてのデビューに繋がったりすることはほぼなかったからで、以前の可能性としては、新人賞などを取って、そこから作家デビューするというやり方か、あとは出版社に原稿を持ち込むかだった。

 持ち込んだ原稿は、とりあえず編集長や編集担当者が受けることになるが、実際には中身を開くこともなく、そのままゴミ箱に捨てられるのがオチだったことだろう。

 しかし、小説を書く人間が増えてくると、それに便乗する商売が生まれてきた。小説を書く増えてきた人たちというのは、それまでまったく小説などと縁のなかった一般の主婦だったり、学生だったり、それまで敷居の高いものだと思っていた執筆に対して、さほど難しさを感じなくなったのは、ケイタイ小説などのようないわゆる、

「ライトノベル」

 というジャンルが出てきてからだろう。

 異世界ファンタジーであったりする、まるでマンガやゲームの原作本のような感覚があるのではないだろうか。

 そんな人たちが増えると、出版業界にも変化が訪れてきた。自分の小説を本にしたいと思っている人が多いだろうということで、

「本にしませんか?」

 という触れ込みで宣伝を行い、出版社に原稿を送らせるというやり方だ。

 今までゴミ箱行きだった作品に目を通してくれるというだけでも嬉しいのに、新人賞に応募して落選しても、自分の作品がどうして落選したのかなど、まったく分からないことを思えば、送った原稿に対して必ず目を通してくれて、その評価を批評とともに書いて返してくれるというやり方だけでも、それまでにはない画期的なものだった。

 しかも、その批評というものが、決していいことしか書いていないわけではない。最初にいいことを書いていて、途中で少し悲観的なことを書くが、最終的にどうすればよくなってくるというアドバイスを与えるような書き方をしてくれているのだから、貰った方は信じるというものだ。いいことしか書いていなければ相手に自分が素晴らしい作品を書けるのだということの暗示を掛け、相手の目をくらますという露骨な方法ではないだろうか、そう思うと、信憑性は次第に失われて行き、さらに胡散臭さしか残らないが、少しでも批判的なことを書き、そこに対して何が悪いかということを書いてくれていれば、本当に小説教室の添削のように感じられ、信憑性はグッと増す。相手もなかなかやるものでそこだけでもコロッとほだされて、完全に信用する人も多かったに違いない。

 さらに彼らは、原稿の募集だけではなく、コンテストも積極的に開催していた。ミステリーやホラー恋愛などのそれぞれのジャンルで、長編、中編、短編に分けてのコンテストや、年に一度か二度、その出版社の新人賞と題して、大賞、佳作、奨励賞などを選出していた。

 応募作品も桁が違う。有名出版社系の老舗ともいえる新人賞に応募する作品数が、百点単位なのに、こちらの出版社では、一万近い作品数が寄せられるという。もちろんそこにはかなりの応募条件の緩和がある。

 二重投稿を許していた李、商用としての出版でなければ、WEB掲載などでの個人的な発表なら、別に構わないとしている。有名出版社系の新人賞は応募資格は厳格で、それらはまったく許していない。それだけに、一回の応募で、十点以上の作品を寄せてくる人も少なくなかっただろう。

 それらの出版社は一般的に、

「自費出版系の出版社と言われるようになった。

 原稿募集に応募した作品、さらに公募でコンテストに寄せられた作品、それらはいつものように批評して返してくるのと一緒に、出版社からの出版についての提案が書かれている。

 出版には三つの手段があるとしていた。

 一つは、この作品は十分商業流通ができる作品だからということで、出版社がすべての費用を出して、出版するという「企画出版」。

 そして、いい作品ではあるが、出版社がすべてぼ費用を出すというのはリスクが大きいということで、共同で出版を提案、費用は相互でもつといういわゆる「共同出版」(出版社によって表現が異なるが、本作品では共同出版で統一します)

 そしてもう一つは、旧来から存在している、一部の人間だけのために出版するという、別に売りたいから作るというものではなく、例えば定年退職後の娯楽的な趣味として小説を書いていて、一生の思い出ということで本を出版するという、本当の趣味の域を出ないものだ。これは以前から存在し、自費出版という表現は、このパターンのみに使われていた。

 コンテストや、応募原稿の中で、実際に文章として成立していないような作品でもない限り、ほとんど漏れなく共同出版を言ってくるだろう。コンテストでも、一万人が応募してきたとして、自分の評価がどのあたりなのかはまったく分からないまま、出版社のいわゆる、

「あなたの作品は応募総数一万の中でも一部の人にしか推薦していない共同出版に当たります。今だったら破格なお値段でご提供できます」

 などと言って、評価と一緒に数種類の見積もりを送ってくるのだ。グレードの違いによって三種類くらいが妥当な線ではないだろうか。

 しかし、よくよく見ると納得できないものもあった。

 例えば、一冊の本を作ったとして、定価が千円だという。それを千部作成する費用だということで、作者に対しての見積もりが、百五十万になっているのである。定価千円のものを千冊作るのであれば、どう見積もっても、全額百万円でなければいけないはずだ。それを百五十万とは何というぼったくりであろうか?

 それを担当者に電話でぶつけると、

「我々の主旨としては、全国の本屋に書籍を置いてもらい、さらには国会図書館で置いてもらうために、本のコードが必要になります。そこにも費用が掛かるんです」

 と言われたが、

「はい、そうですか」

 と言って納得できるはずもない。

「定価が千円ということは、その千円の中に、宣伝費、製作費、本屋に置いてもらうだけの金額、それらすべてが入っているんじゃないんですか? 定価というのはそういうものではないかと思います。納得がいかない」

 というと、その時相手は引き下がったが、その時から純一郎は自費出版社系の出版社に胡散臭さを感じるようになってきた。

 当時自費出版社系の会社はいくつかあり、一種の社会現象になっていた。純一郎もそれらすべての会社に作品を書いては送り、その反応を見ていた。

 すると、最初の見積もりに対して疑念を感じた出版社とは別の会社で、さらに憤慨することが起こったのだ。

 その会社は新人賞のようなことはやっておらず、応募原稿だけを地道に検証しているような会社だったが、それまでに五作品ほど送ってみたが、いずれも、想像していた通り、共同出版という返事しかなかった。

 判で押したような見積もりが送られてくるが、そんなものを見る気持ちもなく、ただ、相手が書いてくる評論だけを読んでいた。

 確かに彼らの目は鋭いところを捉えているのは読んでいて分かった。自分が気付かなかった部分や、どうして気付かなかったのだろう? という部分を事細かく書いてくれている。それだけが救いのような気がしていた。

 その時に感じていたのは、

「どうせ企画出版なんかできるはずないんだから、せっかく批評してくれるのを、ただでしてくれるということで、添削料のいらない小説教室としてりようしてやろう」

 という考えであった。

 そして、さらにその出版社から、とどめと言えるような発言があってから、純一郎は一切の原稿を自費出版社系の会社に送ることはなくなった。

 その経緯というのは、五作品目を送って少ししてのことである。出版社の担当者なる人物から電話が入った。

「あなたの作品は、今回も共同出版という形で推薦していますが、今回でそれも最後になります」

 というのだ、

「どういうことなんですか?」

 意味がサッパリ分からずに聞いてみるが、

「あなたの作品はいい作品だと思いますが、企画出版ができるまでの作品ではありませんでした」

 という、いつもの聞き飽きたセリフをいう。

「はい、だから自分は企画出版ができるようになるまで、何十回でも、何百回でも送り続けようと思っていますが」

 というと、相手は態度が少し変わってきた。

「いえいえ、あなたの作品が共同出版という形で推薦されたのは、私が出版会議の中であなたの作品を推薦しているからなんですよ。もうそれもこれが最後です。だから今本を出さないともう出すことはできませんよ」

 と言ってくる、

――ほら、来た――

 と思ったが、耳を疑ったのはそこではない・

 まるで自分があなたの作品を推挙しているから共同出版にまで話を上げることができたということで、それを自分の手柄のように言っていることだった。

 もうすでに自費出版社系の会社に胡散臭さを感じている純一郎は、もうそんな言葉は信用しない。

「そうですか、でも、僕はそれでも企画出版に掛けます。たとえ、ほぼ可能性がなくてもですね」

 というと、今度は相手もキレたのか、とんでもないことを言い出した。

「あなたのような人の作品が企画出版に掛かるということは百パーセントありません。今お金を出してでも出版しないと、あなたは一生普通の自費出版しかできなくなりますよ」

 と言ってきた。

「フフン」

 こちらが、鼻で笑うと、相手はさらに畳みかけた。

「今の世の中で出版社がお金をすべて出して出版しようかと考えるのは、著者に知名度がある人だけです。要するに、芸能人やスポーツ選手のような有名人か、あるいは犯罪者しかありえない」

 と言った。

 さすがにここまで言われると、もうどうでもよくなって、純一郎も怒りを通り越して、

「それじゃあ、さよなら」

 と言って、電話を切ってやった。

――この男、よくこんな影響で、誰からも訴えられないよな――

 と感じたほどだった。

 これで純一郎の自費出版系の会社とのつながりはなくなった。

 すると、ちょうどその頃くらいをピークに自費出版社系の会社が次第に怪しくなっていった。

 まずそのきっかけは、訴訟問題だった。

「わが社から出版してくださった方の本は一定期間、全国の有名書店で店頭に並びます」

 といううたい文句があり、それにつられて少々高くても、共同出版という向こうの作戦にひっかかるのだが、実際に全国の本屋に置かれているかを調べた人もいた。

 考えてみれば、そんなここ数年でパッと出てきたような自費出版社の本が有名本屋に並ぶというのもおかしなもので、有名な老舗出版社からも、有名作家の本が毎日数冊から数十冊発行されるのだ。有名作家であれば、一つのコーナーを作り大々的に宣伝するものだが、こんな無名の出版社は、話題の本というコーナーどころか、どこを探しても、棚に置いてあるのを見ることはない。それは自分の本だけではなく、出版社すべての本のことだ。

――どうして、そんな簡単なことに誰も気づかないんだろう?

 と、自費出版社系の会社のやり口を分かってしまった純一郎には分かるのだが、自分の本を出したいと純粋に思っている人には分からないのだろう。

 それを思うと、自費出版社の口がうまいのか、それとも何も気づかない自分たちがバカなのか、そのどちらかなのか、どのどちらもなのかしかないと思った。

 それでも、そんな誰でも気づきそうな話をずっと誰も気づかないはずはない。いよいよ、出版社の言っていることがウソだということで、出版社に対して、詐欺を告発する人が増えてきた。

 そもそも、自費出版社系の会社というのは、いわゆる、

「自転車操業」

 なのだ。

 新聞や雑誌にて、

「本を出しませんか」

 という広告を大々的に出して、本を出したいと思っている小説を書いている人の気持ちをくすぐる。そして原稿を募集し、その評価にて、作家の心を掴む。

 純一郎も、ここまでは相手の作戦にまんまと乗ってしまったことになるのだろうが、中にはそこで本を出す人もいるだろう。

 せっかくの機会だからということで、それまで貯めていた貯金をすべてはたいて本を出したり、あるいは借金をしてでも出す人もいるだろう。

 しかし、それは完全に詐欺でしかない。彼らが信用するために、募集に使う広告費、そして、そして相手が疑いを持たないように、批判を含めた批評を書いて見積もりをつけて送り返す。そのために、小説を添削できる人、一日にどれだけの作品を裁くのかは知らないが、かなりの数の人がいるか、あるいは、一人がキャパオーバーするくらいの酷使を会社から受けているかのどちらかであろう。

 そして、肝心の本を作るという作業だ。印刷会社も当然必要だし、製本屋も必要だ。さらにもっと大切なことは、製作した本の在庫をどのようにするかということである。千部作ったとして、本人に数冊を送っても、九百九十冊くらいは残るのだ。本屋が置いてくれるはずはない。どこかで流通させて、それがバレると、さらに詐欺になってしまう。そうなると、自分たちで倉庫を借りて、在庫を抱え込むことになる。倉庫代だって必要ンなってくる。

 最初に自費出版の会社が立ち上がった時は、素人作家としては、

「何と画期的な会社だ」

 と思ったことだろう。

 しかし、リアルに考えれば、これだけの費用が掛かる中、自転車操業の中の運転費用をいかに稼ぎ出すかということが分かっていたのだろうか。特に倉庫代のようなものまで計算されていなかっただろう。完全に断ちあげた時点で間違っていたのではないか。

 だから、定価千円のもを千部作って、共同出資というのに、相手に対して百五十万などという詐欺が言えるのではないだろうか。

 そうでもしなければ、ダメな状態だったのかも知れない。つまり最初から無理なものを始めたのだろう。それが結局社会現象が、あっという間に社会問題として世間を騒がせることになったのだ。

 ただ、これはあくまでも小説を出したいと思っている人の間での社会問題であって、それ以外の一般市民には、そんな詐欺事件があって、社会問題になったなどということはあまり知られていない。新聞でも三面の下の方に、数行倒産したり、訴訟を受けたという記事が書かれていたくらいであろう。

「別に本を出さなくても、生きていけないわけではない」

 というだけのことではないだろうか。

 裁判沙汰になった会社は、さすがに本を作りたいという人が集まってくるわけもなく、あっという間に運転資金も底をつき、結局、潰れることになってしまった。弁護士と相談をしてのことだったが、悲惨だったのは、本を出すと言って契約し、まだ製本もされていない人だった。お金だけを取られてしまった会社が潰れたので、本は出ない、お金は返ってこないという二重の苦を味わうことになった。

 一番悲惨だったのが、契約をして本が出ていない人という意味で、他の人が悲惨でなかったわけではない。

 出版社で本を製作した人も、悲惨であった。本が戻ってくるわけではなく、これもひどい話なのだが、

「定価の二割引きで引き取っていただけまづ」

 というものであった。

 売れ残ったものを、何と作者にその責を負わせようというものだった。そうなってしまうと出版社と作者との間で泥沼のやり合いが続くのは必然である。最後はどのようになったのか分からないが、少なくとも作者がただで済んだわけはないだろう。

 一時代をすい星のように駆け抜けたといえば聞こえはいいが、社会現象を巻き起こしておいて、最後は社会問題で世の中を引っ掻き回したという意味では、相当な罪なのではないだろうか。

 そんな時代を知っている人は、もう自費出版社関係のところに本を持ち込むことはしないのではないかと思ったが、中にはまだ残っているところもある。いろいろな胡散臭いウワサのあるところであるが、とりあえずは残っている。もっとも、誰がそこを利用吸うrと言うのか、教えてほしいものである。

 その後、出版社関係の詐欺行為に失望した人が小説を書くのをやめた人も結構いたかも知れない。しかし密かに書いている人は、ネットに流れたようだ。

 SNSを使っての、無料投稿サイトなるものが出現し、原稿をネットで掲載するというやり方である。投稿する方も読む人も無料なので、出版とはまったく違うが、自分の作品発表という意味ではちょうどいいだろう。

 しかも、公開しているわけだから、可能性は限りなく低いカモ知れないが、出版社の人の目に触れて、

「本を出してみませんか?」

 という話が来るかも知れない。

 もちろん、よく分からない出版社を相手にしなければいいだけで、有名出版社であれば信頼はできるだろう。

 だが、基本的には趣味の域を出るものではなく、自分の作品を世間の人がどのような目で見ているかということが分かるという意味ではいいのかも知れない。

 考えてみれば、自費出版社関係で本を出そうとする場合、結果として、

「世間一般の読者の目に触れる」

 という意味で、ほぼ可能性のなかったことだった。

 本を作っても、本屋に並ぶことがないのだから、それも当然だろう。確かに出版社が雇った人が目を通して、批評してくれるというのはいいのだが、末端の読者の目に触れることがなかったのだ。本当はそこを目標にしたのに、それが叶わなかったのに、無料でしかもネットという簡単なもので目に触れるというのは実に皮肉なことだろう。

 小説を書いていると、人の書いた小説を読まなくなる。それは自分の小説がブレると思うからで、文章がブレるのか、それとも作風がブレるのか自分でもよく分からなった。きっと文章がブレると思っているので、自分の小説を読んでくれる人などいないだろうと思っていた。

 文章作法に関しては、後で読み直すと顔が真っ赤になるくらいひどいものだという意識がある。だから、自分の作品を読んだ人が、

「読むんじゃなかった」

 という意見を感想に書かれるのではないかと思うと、気が滅入るのだった。

 そういえば、かつて、読みたいと言った人に見せて、酷評を受けたあの時を思い出していた。あの人がどういうつもりでそんなことを言ったのか、失礼にもほどがあると思ったことだったが、それは面と向かっていったからであって、SNSなどの顔が見えない相手であれば、いくらでも書けるというののだ。顔が見えないのをいいことに、人を酷評するのは卑怯だと思うが、今のネット時代では、それも仕方のないこと。

「これはあまりにもひどい」

 という誹謗中朝などもあり、そのせいで死を選ぶ人もいるというが、実際にそういう問題があるのも事実だった。

 自費出版社による詐欺もかなりひどかったが、ネットにおける誹謗中傷もそれに輪をかけてひどいのではないかと思う、

 その頃になると、純一郎は、ミステリーに興味を持つようになっていた。

 最初の頃は、殺人などを描くのが怖くて、書いたとしても、殺人の起こらないものが多かった。今のミステリーを見ていると、人が殺される場面や、殺されている人を見つけるシーンなどにあまり重きが置かれていないような気がした。それを感じたのは、昔の、いわゆる戦前戦後の時代に、一世を風靡したと言われるような探偵小説を読むことでそう感じるようになった。

 どうしても、映像化作品になるような描写や、さらには放送禁止用語などが多くなったために、それぞれの描写も制限が掛けられるようになっているのだろう。

 今の小説は、探偵と呼ばれる人間が、普通の庶民だったり、探偵という職ではなく、例えば法医学者だったり、家政婦だったり、ルポライターだったりと、普通なら警察の捜査に入ってくることを拒まれる人たちが警察と協力して犯罪を暴くなどという非現実性が、小説らしくて、読者の気持ちをうつのかも知れない。

 さらに、もう少し前となれば、列車をモチーフにした、いわゆる「トラベルミステリー」と言われるものが一世を風靡していた時代もあった。時刻表を手元に、時間などを使ったアリバイトリックなどがその代表であろう。

 これなどは、完全に映像を意識した作品と言えるのではないだろうか。日本全国を走る特急列車や、ご当地の駅をテーマにして、その土地の人間性は風土などを織り交ぜた作品にしてしまうと、映像的にも視聴者の望むものとなっているに違いない。

 そんな小説のさらに以前には、社会派小説があっただろうか。会社内の組織の中での出世競争であったり、同業他社との確執であったりがテーマとなり、会社の利益が裏に潜む殺人事件であったり、高度成長時代のいろいろな問題、例えば公害問題などをテーマにした社会体制に対しての批判めいたミステリーである。

 だが、純一郎が気になったのは、さらに前、おどろおどろしいと言われるような時代の小説である。

 当時は、戦争がどうしても社会生活の中に入り込んでいて、戦後であっても、占領軍によって統治されるという時代であり、しかも都会も空襲から焼け野原になった土地に住む住民は、治安も安定していない中、混乱している世情を生き抜いているのが庶民だった。

 世の中には蔓延っている闇と呼ばれるものは、闇市、闇ブローカー、闇の仕入れなど、市民生活で、闇を利用しないと生きていけない時代だった。

 闇の組織も存在していたと言われているが、そんな素材を小説にしている人もいただろう。復興が進み、時代が日本を独立国家に仕立てていく。それによって小説も自由に書けるようになってきた。

 ただ、闇の世界をそのまま文章にするのは憚られるのか、闇の世界をまるで魑魅魍魎の住む世界として描く作品を純一郎は見つけた。その作品には、今でいう放送禁止用語がこれでもかと書かれていた。いわゆる身体的障害を持った人や、身分的な差別用語だったりする。

 それを魑魅魍魎として描くには、街の情景は実に適していた。

 住宅問題もまだまだ十分でない都会では、バラックと呼ばれるところ、昔のビルの廃墟になった場所、さらには防空壕の跡の洞穴など、魑魅魍魎が住んでいるにふさわしい場所が、都会にはうようよしているのだ。

 しかも、ほとんどの人が、あまり会話をしていない雰囲気がある。今の時代のように、

「眠らない街」

 なども存在せず、日が暮れると、街自体も眠ってしまう。

 暗闇を魑魅魍魎の住む世界だとすれば、日が暮れてから夜が明けるまでの時間は魑魅魍魎の時間である。同じ場所であっても、お天道様が出ている時は、表の世界であり、日が沈んでしまうと、すべてが闇に包まれ、魑魅魍魎の世界に変わる、実際に魑魅魍魎などいるわけではないので、その時代を支配しているのは、人間である。どのような人間なのかということを小説の中で描くことは、完全に今でいう放送禁止用語に触れるであろう。

 だが、それが当時の小説としてウケたことなのだろう。

 その頃の探偵小説というのは、まず最初の章で、度肝を抜かれるかのような話を書いている。

「これがどのようにラストに繋がるのか?」

 というイメージを持たせるか、あるいは、

「これが殺人の予告のようなものなんだ」

 と読者に悟らせるかが書き出しなのだと思っている。

 そして実際に死体が発見される場所でも、普通の場所ということはなかなかないだろう。

 奇人と言われている芸術家のアトリエであったり、人が住んでいない空き家になっているところの真夜中に発見されたり、どうしてそんな場所に発見者が赴くことになるのかというのも、作者の書き方としてその腕が問われるというものである。

 純一郎は自分もそんな小説を書きたいと思うようになっていた。以前のように誰かが殺されるのを怖がって書けないというのも、どこか中途半端な気がして、ミステリーというものを考え直すということで、戦前戦後の話を読むことは、自分にとっての大きな挑戦に思えていたのだ。

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