第4話 可能性と三百年の暴力



「出てこいコラぁぁぁぁぁ!! 叩き潰してやる!!」



 怒り猛り、怒髪冠どはつかんむりき、世界の温度を10は底上げた。

 そこに音楽家としての威厳や雰囲気は感じられず、ただ単に怒りに狂った化け物だ。


「―――あぁあ!! あぁぁあ!!!!!」


 邪魔な聖域ものが壊れればあとはこちらの番だと言わんばかりに剣士と聖女に猪突猛進。

 地面を砕き、空気を切り裂き、怒りに任せた行動は一瞬にしてグラディオと怪物の距離を零にした。


「―――ふんっ!!!!!!」


「っ!?」


 亜音速の怒りの拳。

 聖域を破られた音に目を向けた瞬間に腹を殴り飛ばされたグラディオは、何が起こったかさえ分からない。

 壊れたと言っても、一瞬ですべてが霧散しない聖域が低い天井となり、グラディオは消え散る前の役目が終わったことすら認識していない残留した『聖域」の魔力に体をぶつける。


「かはっ………!!」


 怪物がこの隙だらけの時間を、お茶を飲んで待ってくれるはずもなく。

 地面を蹴り上げた怪物は、絶対防御の聖域―――その残滓に重力とは逆らった状態で叩きつけられたグラディオに蹴りをうちこむ。

 破られない聖域の高度な魔力の塊が仇となり、沈まない壁は蹴りの一撃の衝撃を吸収してはくれず、その全てをグラディオに背負わせた。

 だが───まだ怪物の攻撃は終わっていない。

 三百年無敗の化け物であろうと、流石に翼が無くては空は飛べない。

 しかし………………地面を蹴り上げた時の力が切れて、地面に舞い戻るまでにあとは殴れる。


「っ!! っ!!っ、ぁ!!!~!!」


 声にならない悲鳴をあげながら、その身に数百の拳を受けるグラディオ。

 血は滴るどころか爆散し、血管の一本一本がまるで極小極細の水風船であるかのように、破裂し、飛び散り、中の液体をぶちまけた。

 腰にさした剣で防御も反撃も、行動しようとはするが固めた行動の意識は迫りくる大量の拳に散らかされた。 剣を持とうにも自身の腕はピクリとも張り付けられた状態から動くことは出来ず、満遍なく全身を殴られ続けることによってまるで全身を覆い隠す巨大な石に踏みつぶされているのかと錯覚するほどだ。


「…ぁ…………」


 大量の圧力によって砕け散った聖域の亀裂は広がり、結果崩壊し、グラディオを支えることをやめ剣士の体を空中に投げ捨てる。

 聖域が完全に壊れたことで自由の身となったグラディオは、ボコボコに殴られた力の向きそのままに空中に浮かんだ。

 まるで空を泳いでいるのかと思わせるよな、漂う動きは徐々に重力に引きずられ。

 舞台の端―――暗闇の暗黒の世界へと姿を消した。

 完全に意識を飛ばされた状態で吹き飛ばされ、暗闇に落ちたのだ。

 

「ディー!!!???」


 一瞬の出来事にグラディオが掻き消えたことしか認識できなかった聖女は、漂い落ちる剣士の姿をようやく目で捕捉した。しかし、それはもう遅い。助けるにしてももうどうしようもない距離にグラディオはいたのだから。



<バァァァァンッ!!!!!


 空中から戻ってきた怪物は、巨体に似つかわしい重さを持って地を揺らし亀裂を生じさせた。


「はぁ…はぁ…ふぅ」


 怒りの虫が収まったように深呼吸をして心を落ち着かせた怪物。

 その光景はまるで冷静さを取り戻す人間さながら。


「…」


 辺りを見回した怪物は、まだ退場していないを一つ見つけた。

 “ドシドシ”と舞台に十分迫力のある足音を響かせて、聖女へと向かう怪物。


「ここで終わってしまうものなのですね……」


 それを見た聖女は、諦めることはなく、かと言って―――対抗しようともしなかった。

 

 鈍重に歩いてくれる怪物のおかげで、膝をつき、手を合わせ、頭を垂れる時間は十分にあった。

 それは、怪物に対して、人類の敵に対しての、慈悲を求める行為ではない。

 瞑想し、心落ち着かせ、ここまでの人生に感謝を告げる行為だ。

 神に、教会に、人々に、そして剣士に。

 自分の最後を悟ったからこそ、感謝し別れを告げる時間だ。

 齢十七の小娘になったなら、泣き出してグラディオの名を叫んで、敵わなくとも怪物に罵声を浴びせたかった。

 しかし、聖女としての誇りと誉れを背負う彼女にその行動は、例え死ぬその時でも許されない。

 いつまでも高貴で慈悲溢れる存在でなければいけない。

 よって彼女は、迫りくる7mミーターの怪物など気にも留めない。

 意識が途切れるその最後まで聖女として、生きたかった。


 怪物にとって聖女の存在は終始“無”だ。

 しいて例えを挙げるなら、羽虫もいいところだろう。客として歓待したはいいが、思うようにいかず、かと言って廃棄しようとしても抗う。

 怪物にとって迷惑極まりない。でも、それでも、だ。怪物にとってこの一幕は終始お遊び程度にしか感じられない。

 迷惑だと感じてもそれは、就寝を邪魔する羽虫程度。どうとでもできるというだことだ。

 当初は感じていた蹂躙する快楽も今ではすっかり冷めきって、無表情に、ただ淡々としたおぞましい顔で、朗らかに祈りの姿勢を崩さない娘を殴り飛ば───。


 そんなことはさせないのが、グラディオの、剣士の―――役目だ。


<バァァァアァァン!!!


 2度目。これで2度目だ。

 怪物はいかった。

 さっきもそうだ。掃除しようとしてもまた邪魔が入る。なんど同じことを繰り返せば気が済むのか。

 怪物は困惑もした。こいつはいったいどこまで立ち上がるんだ、と。


 全身を血に濡らし、おおよそ体の全パーツ破壊された部品の方が多い現状だが、立ち、建って、ち上がって聖女を守った。

 グラディオだ。


 舞台から落ちたグラディオはすぐに心火を燃やし、覚醒した。しかし両方の腕は神経ごとめちゃくちゃにへし折られ、足は怪物の打撃によって関節が二個も三個も増えていた。

 だから―――使


 きしむ、古びた廃館の木材のように“ミシミシ”と悲鳴をあげる背骨を根性で黙らせて、空中で体をどうにか振り回し、自らの顔面を急速にスクロールしていく舞台の外側の壁に叩きつけた。

 当然受けるとてつもない衝撃。しかしそれすらも無視し、手で踏ん張れないからこそ口を開き歯を突き立てた。当然重力で落ち続ける人間を、たかが歯を壁に突き立てたところで止められるわけもない。

 しかし、どれだけ歯が砕けようとも、どれだけ顔面が擦れようとも、壁に食らいついた。

 そうして―――まるで顔面をやすりで削ったかのように無残な姿になるころには、グラディオはもう止まっていた。さきほどの殴られた痛みも、壁に削られた痛みも、全て我慢して、砕けた足を無理やりに壁に突き刺し、自分より上を、もっと上を―――噛みつき食らいつき、登った。


 馬鹿みたいな痛みに頭は沸騰しているが休むことなく上って、驚異的な速度で舞台へと戻ってきたのだ。

 顔を舞台に乗せれば、見えてくる光景は【聖女の危機】紙のように“ペラペラ”としなる腕を地面に叩きつけ無理やりに走った。

 腕も動かなくて、足も立っていられなくて、だから―――頭で。

 頭で怪物の拳を止めることにした。 血だらけで、目もあまり開かないけれど、頭で拳を止めた。

 

 怪物は、何度も何度も自分を止めてくる男に憤慨し、二発目を打った。

 頭で守った。

 三発目。

 四発目。

 五発目。

 六発目………………



 。。。


 

 狂っているのはどちらかもう分らなくなってきた。そんな頃。

 どんなに殴られようとも倒れない。

 グラディオは意識を飛ばし、それでもなお条件反射で拳を受けた。


 やがて、筋肉で支えることができなくなった足は根本から“ぐしゃり”と崩れ、結果的にグラディオは倒れた。

 第六詩律エキシィスの魔法の行使で魔力を使い果たし、もう低位の魔法ですら唱えられない聖女は目にグラディオに駆け寄った。


「ディー!! しっかりっ! 気を確かに持って!!」


 生命力など、もし数値として見れたならとっくの昔にマイナスに踏み切っている。

 ゴキブリのようなしつこさと、聖女の回復によってここまでどうにか保っていた命。

 しかし、それも尽きていくばかり……。


 何度も立ち上がり、何度も希望を勝ち取ろうとあがいた。

 しかし、絶望は―――本物の絶望は打ち勝つことなど不可能であった。

 やがて神が、ボロボロ―――否、グチャグチャになった彼を連れていくだろう。

 その後には聖女も散る。 

 

 悲しき絶望を前に、聖女は祈りをやめ傍らの剣士を抱きしめた。

 本当は今もこの身を焦がす情愛を全て注いで抱きしめたいが―――彼の体にそんなことをしてしまえば一瞬で生命の枝は折れてしまうだろう。

 怪物のことなど気にせず、けれどさっきの祈りの時間とは違ってこれは聖女の時間ではない。リールの聖女の少女としての時間だ。

 倒れる剣士は、頬を撫でてくれる聖女に何もしてやれなかった。守ることも、ほほえみを返すことも。

 悔しかった。


 ―――ただの一瞬の興味。その光景を怪物は諦観し、驚くべきことに人の心理を見つめていた。


 三百年生きた化け物の強さの本質は“学び”だった。

 最初の数十年、彼は襲ってくる人間を何度も何度も見続けた。勝利しても研究した。人の模倣から彼の生きる術は始まっていたのだ。

 でも、いつしかそれは傲慢になり、音楽に目覚めてからは退化するように餓鬼のような性格も出てきた。

 だけれど、久方ぶりの学び。今彼は冷静な彼は人を見て学んでいる。

 醜くあさましい巨大な悪はいつしか偉大な音楽家になっていた。

 人の性格の根幹を見つめた時、彼はまた成長した。 

 十分な理解を得たと確信した怪物は、二人を舞台から蹴散らした。


―――転がる二人。 吹き飛ばされたあとも聖女は剣士に歩み寄り、また彼を撫でた。

 こうしていたかった。


 その時、剣士が動いた。

 動くというより痙攣に近い形だが、それでも絶命に近い状態で体を動かせたのだから、魂消たまげたものだ。

 

「……こ、んな…ところ、に…あった、のか…」


 目は右目だけが辛うじて開き、それでも半目以下しか開いていないが。

 彼はその眼で見たのだ。


「まだ…負けない…俺は…勝ってない、一度も、ぶっ飛ばせてない…」

「………………だよな、?」


 掠れた声で、無理に声帯を動かしてグラディオは言った。

 聖女はその声に無条件で反応し、撫でる手を止めた。

 

 彼女は気付いた。

 そして彼女は彼の傍らから走り出してしまう。

 

「…まったく、見せ場の一度も…作らせてもらえない、そんな、の…いやなんでね」

「これで…三度目だ、が。こんどこそ…勝たせてもらう…」

「三度目の正直だって、な」


 震える腕を伸ばして手につかんだのは持ち運びに優れたただの

 ふたを開け、何とか口まで運んで―――


「………………ふぅ…」


 仰向けの状態で彼は一呼吸。


「何度も、何度も、リベンジフラグを立てておいて、この様で申し訳ない」

「でも、安心してくれ………これで――ー」


 どこかに走っていった聖女がを投げてくれる。


 剣士は、剣を掴む。


 ファイナルラウンド。


「―――決着だ―――」


 歴戦の勇ましき者であっても膝をつき、悲観にくれる存在に、分不相応にも大層な口を利いたのは誰か、グラディオだ。

 一度プライドをへし折られ、二度も躰をぐちゃぐちゃにされてなお、そんなことをのたまう。

 彼はやはり確信した。自分と聖女が揃えば何も怖くない、何者をも恐れるに足りない。

 歪で滑稽な自信は笑みとなって口からこぼれる。


 いつの間にか主の手から離れどこかに転がっていた黒白の剣は聖女によって己が手に帰ってきた。

 刃を立て柄を持ち必死に仁王立ちの構えをとる。

 そして随所に現れるは如実な変化。青白く一目で異常だと分かる腕は元の引き締まった筋肉の色合いに戻り、自身の足一本で円を形どれた“グチャグチャ”の脚は屈強な骨と強靭な肉体に元通り。

 全てが、全てがこの戦いの前の健康的、それでいて鍛え上げられた頑強な肉体に修復されていく。


「いやぁー聖女の力半端ね~」


 おちゃらけた言葉一つ、肩を回し、生え揃った歯を“カチカチ”鳴らす。


「―――完全復活」


 当初、肉体に振りかけるだけであったはずの聖女の排泄物、いやあえてここではおしっこと呼称しよう。聖女の穢れ無き純度百パーセントおしっこは、そのうちに含む魔力そして生気を摂取したものに分け与える。直接取り入れたため外部からの吸収より何倍も効率的な成分の吸収を行い、その内に秘められた多大な力を十全にグラディオへと与えたのだ。

 通常の者であれば致死量の魔力と聖力。しかし、聖女を除けば国一番の強者つわものであるグラディオは―――怪物に何度殺されかけようが死なないグラディオは、順応してみせた。

 魔の者につけられた傷は完全治癒し、人の領域では完全でも、この場においては不十分な肉体能力には有り余る聖力と魔力を注ぎ、戦いに適した体へと変貌する。

 その効能は、突発的に真っ白なグラディオの髪を聖女特有の煌めくような艶やかな金髪に変化させるまでに至る。

 

 その光景に怪物は多大な好奇心と僅かばかりの恐れを覚えた。目の前のしつこすぎる人物はとうとう体まで変えて自分に立ち向かおうというのか。滑稽、いや滑稽ならばこその好機。先ほどの不可思議な未知の“人間”を自分に見せてくれた人物だ。まだ何かあるかもしれない、まだ何か学びがあるかもしれない。これはチャンスだ。もう一度、そう―――もう一度快楽と音楽を味わえる機会がやって来たのだ。


 音楽家ではなく怪物の彼は頬が裂けるほどに、気色の悪い笑みを浮かべる。


「おい! 化け物! こっちはもう何回もボコボコにされてるんだ! せっかくさっきも勝てそうな雰囲気だったのに邪魔しやがって、この苛立ちそっくりそのまま返してやるからな!」


 言葉の意味は知っているが言葉の意味が分からなかった怪物は百八十度首を回して傾げた。

 彼にはいつくも並んだ感情たちの違いと感覚が分からなかったのだ。 

 

「―――はっはー! 打楽器! よく吠えるな、ここで君は廃棄処分だということを忘れたかね?」


 目的外の音を鳴らす不出来なものに用はない。さっきまでの新鮮な感情はもう消えた。

 やはり彼には音楽と殺戮が大事だ。


「んにゃろー! ぜって―――殺す」


 その瞬間、雰囲気が変わった。

 周りの埃の舞う音はより加速を速めテンポは上がっていく。それは二人が、怪物と人間が死線視線を交わせたからか、それとも二人が放つ無機物でさえ震え上がらせるような緊張感ゆえか。

 きっとどちらも正解なんだろう。今はもう呼吸の音でさえ


「【浸蝕のみこめ】」


 この殺伐とした限りなく無音に近い空間で声を放ったのはグラディオだ。

 彼は、そのいつでも振り下ろさんとし握り掴んで離さない【白黒の剣】に命令したのだ。

 それは。最高に、しかし不完全な状態でこの剣という形に封印され押し込められている究極を開放する詩。


 黒と白、その二つの色の帯を刀身に巻いたように段々に重なり合っていた二色は、今、主の命に従い混り気の無い一つの色になった。

 それは黒、真っ黒。

 だがその認識すらまだまだ幼稚だ。これは黒なんかじゃないその先の何もかもを侵して、壊して、染め上げる禁忌の忌み嫌われし色。

 まさかの無色。黒に染め上げられたかと思うた瞬間その等身は忽然と姿を消した

 これは究極の闇。その究極の闇とやらはこの地下世界に少しばかりある全ての明かりを喰らい尽し、たったこれっぽっちの光だって返してはくれないのだ。


 スキル【戦剣開放】

 神が、あの崇高なる神がために作り給うた至宝の武器。その一振りがこれだ。

 そしてその神の武器をで扱うためのスキルがこの【戦剣開放】。

 その戦剣開放によって目覚めたこの剣の名を―――【咎蔵とがぐら】。

 

 咎蔵の闇は辺りの温度すら徐々に食い散らかしていく。逸れ違うことのない両者の視線がグツグツとこの塔内を沸騰させていたはずなのに、咎蔵はその意識的な温度でさえ喰い散らかすように急激に冷やしていく。

 変わらず柄より先のない咎蔵。しかしその剣先は誰に見えるわけでもないが悪魔のような形を彷彿とさせるもので、自身に触れる物全てに噛みついてる。


「初めて、出来た。気合も、ある。さぁて、準備も、万端」


 剣を数度回し―――いや、その光景は誰がどう見ても刀身のない柄だけの虚飾の剣を振り回している光景なのだが、なぜだかその見た目は喜劇のような馬鹿らしさはなく、緊張感とただ震える鋭利な冷風を覚えさせるものだった。

 手を握りしめ、子どものように愉快そうに、これから起こるであろういわば予定調和のような惨劇を待ちわびている怪物。

 それを見据え、グラディオはこれまでの惨敗に思いをはせる。

 これだけの短い間に何度も負けた。悔しいと心の中で何度思い、何度嘆いたことか。 

 深呼吸ひとつ。積年の思い、いいや積分の思いを奴にお見舞いしてやる。そうじゃなきゃあの人に―――聖女にかっこいいところを見せてやれない。

 グラディオは呼吸を整えた後、笑顔を作る。もう過去の悔しいことなど。帰りのご飯は何にしようか。久しぶりに聖女のくそ不味い料理をせがんでみようか。

 

 こんなことばかり考えてみた。

 ふふっ、と鼻から息が漏れる音がする。

 気分は絶頂、戦いにこれほど適した気分はない。


「―――いくか」



―――そうグラディオが言葉を発し、先に動いたのはであった。

 剣士が動き始めると分かった瞬間、今すぐにひねり倒してやろうと亜音速に迫る形でコンマ一秒以下に加速し、瞬きの間に互いの距離を無きものにする。

 しかし、その光景に彼は、グラディオは感心していた。

「あぁ、こんな感じだったんだな」と、それもそのはず、怪物の目に剣士は見えているだろうが、グラディオは正確にはもうその場所にはいない。

 剣士は確かに怪物より遅くに加速したはずで、それは間違いようのない事実だった。

 でも、そんな出遅れてしまった剣士は、遅くなった怪物の鈍重な動きを怪物の横でまじまじと眺め、怪物が自身がつい先ほどまでにいたところに拳を振り上げている光景を観覧する。

 怪物の目で見た光景が物事を考えるところに送られるわずかな間。とてつもない反射神経という武器を持つ怪物のその反射すら追いつかない速度でグラディオは回避していた。すなわち奴が今見ている情報というのは刹那前に目が送り込んできた視覚情報。

 もうこれは一種のタイムワープといっても過言ではない。早すぎる次元はグラディオが過去へと疑似的に介入できることを意味する。

 彼と怪物の世界がずれた瞬間だ。


「!?」

 

 初めて狼狽える怪物。自分の認識では当たったようにすら見えた拳が空を切り、その本人は自らの真横にいるのだから、動揺して当たり前だ。


――― 一閃


 怪物の心の隙を、今度はグラディオが見逃さなかった。

 力は込めず、ただ自らが持つほんの少しの剣を掴む気持ちで横なぎに剣をなぞる。そこに力はない、あるのは亜光速の剣での切断のみ。


 咎蔵は悔い尽くした。主が己を振った方にあったものを全部食べた。空気も肉も液体も。切るのではなく喰らう。亜光速の剣の一振りは剣の進路全てを無かったことにしていったのだ、それは細胞の一つ一つであっても変わらない、


「あぁぁっぁ!!!??」


 初めての悲鳴。

 刀身のない…刀身が見えない咎蔵が丁寧に丁寧に一つ一つを喰らい尽した結果であった。


 慌ててこちらも下め横なぎに腕全体を振るう巨体。

 その怪物からの攻撃にも難なく対応して見せるグラディオ。振るわれた腕はその巨腕が生み出すにふさわしくとてつもない風を生みグラディオを遠く向こうに弾き飛ばそうとする。

 なれど―――遅い。攻撃のモーションに入った瞬間に怪物の巨腕は根元から根絶する。空中で万にも及ぶ斬撃によってすべてが咎蔵に喰われたからだ。

 咎蔵の真骨頂は、防御すらも攻撃に成り得る、超々攻撃性能。解放前のよく切れる剣程度では断じて無い。


「…あーあぁ、ずるいよなー」


 生死を掛けた瞬間の戦いに似つかわしくない声を漏らすグラディオ。戦闘状態によって好調な意識ではあるが、遊んでいるわけではない。ただ単に戦闘以外にも余裕が生まれてしまうほどに、グラディオは格別の存在になったのだ


「お嬢、あいつらこんなんなんだぜ?」


 そう言いながらも怪物から生えてきた無数の拳を全て塵も残さず空中で斬り刻んだ。


「なんだか、辛いよ」


 七mミーターの巨体を軽々と蹴り飛ばし、


「こんな力持ってたら確かにあいつらもあんな性格になるわな」


 蹴り飛ばした怪物に余裕綽々で、地面への蹴り一つで追いつき怪物の胴体を両断する。


 “あいつら”とは聖女の事。

 聖女といってもリールの事ではない。その同僚とでも呼べばいいか、その存在の事だ。

 彼女らはいつどんな時でも横暴な態度でリールと接し、それは聖職者と敬称することすら浅ましい行為だと認識させるほど陰鬱で陰惨なものばかりだった。

 彼女が他の聖女に目をつけられる理由はただ一つ。その聖女らしからぬ体の貧弱さだ。

 彼女らは寄ってたかって不出来な聖女を貶し、卑下し、そして嗤う。

 でも、この力を味わった今なら解るんだ。この力はおかしい。それこそ笑っちゃうほど可笑しい。

 現にさっきまで勝ち筋の“か”の字さえ見えなかった敵との闘争も今ではまるで大人と児子のままごとのようだ。

 魔の者と対峙していないときの聖女というのはどれも年齢相応の女子だというのが通説なので、剣を極めているグラディオが聖女の力を行使している今は、彼が最強だと言える。しかしそうだったとしてもここまでの能力の飛躍があれが確かにどんな敵であっても聖女は負けないだろう。

 

 それなのにリールは出来ない。だからこそ、この溢れんばかりの力を知っているからこそ、不出来な聖女が同じ身内の者だということが堪らなく嫌なんだろう。

 なぜそれごときで聖女なのだ、なぜお前がここにいるんだと。


 本来はリールが振るうはずだった力、勤勉なリールなら剣の腕も武の才もどこまでも磨けただろう。そのあったかもしれない力の前にグラディオはひどく嫌な気持ちになった。

 聖女の力に感嘆するとともにその力の大きさによる代償を知ってしまったから。時として不遜な力は自身をも滅ぼす。誰の言葉だったかは覚えていないが全く以てその通りだと確信するグラディオであった。


 再生する奴の腕に剣を刺しこむ。その行為に抵抗感はなくするりと見えない刀身は入り込んだ。


「気分はどうだ」


 腕を振り上げ奴の右わき腹から肩にかけてまで刮ぎ落す。

 飛び散る体液。さっきと違ってそこには誰の喜びの感情もない。

 怪物は反撃の手を緩めない。溢れ出る体液の中に隠すように『毒』『酸』『触手』『寄生苗』『分体』などの様々な策を講じた。彼の視界の中で舞う体液の、その死角に這うように細い腕、ブラフの巨腕を使って殴打の構え。

 たった一瞬の中にもこれだけの手を使って、グラディオを排除しようとする。


―――しかし。

 

 怪物の労力は無駄な足搔きと言わんばかりに、咎蔵の一振り―――聖女の力を纏った一振りによって跡形もなく霧散した。


「まぁ言っちゃあなんだが俺の本来の力でここまで出来なかったことが残念だ」


 今度は腹の中心部分に突き刺す。


「でも、どんな道であれ、俺はお嬢が守れればそれでいいんだ」


 右側に無造作に切り上げ左肩を薙ぎ飛ばす。

 “べちゃっべちゃ”と聞きたくもない肉音を奏で舞台を転がる肉塊。


「この行為にも、俺自身の感情はない、そもそも俺は何かをいたぶる趣味はないからな」


 こちらを鬼の形相で睨み、削がれたパーツを再生させ反撃に出る怪物。

 しかし―――


「だけどこれは、みんなの分だ」


 再生した分だけ全て一瞬で、同時に、全てかすんで消えた。

 あまりの寸分の時間の出来事に、怪物の胴体が立ち上がった時点での位置に浮かんでいる。

 

「お前が殺した分、何度も言うけど甚振いたぶって殺すつもりはない」

「ただ、削って殺すだけだ」


 聖女のイカれた力をその身に受け、リールの境遇を今一度認識したグラディオは悲しそうに剣を振るう。


「関係ないよな、お前に、この俺の気持ちは」

「でも、お前、お嬢を悲しませただろ? その仕返しをされてるんだと思って諦めてくれ」

「与えられただけの力で粋がっている雑魚に殺されるという夢の中で死んでくれ」


 再生してきた腕を粉微塵に切る。

 本来ならこんな芸当は出来ない。確かに咎蔵の切れ味、というより補食量は以上だ。しかしそれは咎蔵と同じ剣全般に言えることだが、使い手の腕が良くなければ剣というのはお飾りにしかならない。

 聖女の力があってこそ、肉を肉と認識できないレベルまで斬り刻めるのだ。


「―――お前、言葉分かるんだろ?」

「仲間とかいないのか?」


 今後の怪物への知識のために剣士は問うた。


 口であろう場所から体液を垂れ流し、まるで数分前とは立場が反転したように先ほどの剣士と同様、ズタボロの怪物はむせながらこう答いた。


「―――がはっ…だ、だいろっぴゃく、きゅうじゅ、う…がはっ………きゅうかいっ…コンサート」

「こ、れに、て…閉演」

「あーっはっはっは。…hっはっはっは、くっくっくkっくっはっはっはっは…!」


 人間に害をなす天性の“悪”はその自分の役目を全うし最後まで悪であり続けた。きっとそれは意図しての事ではないだろう。少し前に聖女が死ぬ寸前まで聖女であろうとしたのと根本的な心情は同じなんだ。

 多大な快楽と、多分にあった喜び、いくつもいくつもあった感情たちを走馬灯を見るように思い返し、その人生―――いや怪物モンスターとしての生に最大限の喜びを表し歓喜したのだ。

 聖女のような感謝ではなく、ましてや崇高なものではない。人から見ればなんと醜く浅ましいのだろうと忌避されるような感情と記憶。

 ―――でも彼は楽しかった。十分に生を満喫した。最後の最後に自分から見て弱者に逆転で屠られるとは、己の最後はきっと伝説の勇者か架空の魔王か何かだろうと決めつけていた怪物には、思いもしていなかった事実だが。

 怪物は―――最後に顔を引き千切るまでに


「あぁー」

「―――なんとも楽しかった。感謝する」


 グラディオは目を閉じ、に咎蔵を振るう。

 

「……もう―――いい」


 暗黒がこぼした唯一の食べ残し、それは一片の光の欠片となって一瞬だけ輝いた。その光を追うようにいくつにも崩れ行く怪物の巨体。


 肉同士が擦れ合う生々しい音が耳元にへばりつき何とも不快だった。

 この演奏会、徹頭徹尾いい音楽には巡り合えなかったと冗談交じりに聖女の方に向き直ったグラディオは言う。

 それを聞き、全てが終わったと安心した聖女はせめてもの行いと、ここで死んでいった死者たちに向けて温かく身を包むような鎮魂歌を優しく歌い始める。

 怪物の死を感じこの世に縛り付ける鎖は何もなくなったと言わんばかりに崩壊していく三百年の楽器たち。

 そのどれもが灰化するように粉となり、聖女の歌に流されるように暗い闇の暗黒ではなく上へ上へと地上の方に舞っていく。

 人の形をしていない何か、苦悶の表情を歪ませた顔骨にまで表したもの、全部全部霞んで消えていく。


 聖女の歌は悲しくも、この無駄に広い舞台の上ではよく響く。

 反響した美麗な歌声とあるべき場所に還らんとする魂、その二つが折り重なることで生まれた音色は戦いの終わりをこの悲し気なコンサートホールに確かに告げるのだった。

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