姉のいない家

川上 踏

姉のいない家

 姉が憎い。父親譲りの明晰な頭脳と、きりりとクールな顔立ち。母親譲りの運動神経と、さらさらな黒髪、そして誰にでも優しい人柄。両親のいいところはすべて姉に遺伝した。

 三つ年下の私は頭がそんなに良くないし、顔立ちは幼くて、運動音痴で、癖っ毛で、性格がひねくれている。「文武両道」「才色兼備」そんな四字熟語が似合う姉のことが、私は憎くてたまらない。完璧な姉に比べられて育った私がひねくれるのは当然のことだろう。

 名門大学に難なく合格し、就職活動もあっさりクリアした姉は、まさに人生の勝ち組だ。大学の夏休みに入った最近は卒論の研究を計画的に進めながら、空いた時間にアルバイトをしたり、友人や彼氏に会ったりと残った学生生活を満喫している。

そんな姉はあと半年でこの家を出て行く。

『早く出て行け』

『もう帰ってこなくていい』

 心の中で何度も唱える。

 優秀なのに、それを鼻にかけることはしない姉。不出来な妹にも惜しむことなく愛情を注ぐ姉。母に似て少し鈍感な姉。これから旅行するからと、彼氏にレンタカーで家まで迎えに来てもらった今朝の姉。どの瞬間も、私は姉を憎らしく思っていた。

 真夏の夕方。姉と異なり暇な大学生の私は、自室のベッドに寝転びながら適当にネットを見て無為な時間を過ごす。先月まではアルバイトをしていたが、給料未払いなどのブラックな部分があったのでやめた。近所の図書館に閉館まで滞在することはたまにあるが、それ以外の日は涼しい二階の自室に引きこもると決めている。

 喉が渇いてベッドの上からテーブルに手を伸ばす。汗のように水を纏ったグラスはほとんど空だった。キンキンに冷えた麦茶が恋しくて、やむを得ず一階のキッチンに降りることにする。

 キッチンには夕食の支度をする母の姿があった。専業主婦である母とキッチンに並び、冷蔵庫から麦茶を取り出してグラスに注ぐ。火を使っているキッチンは蒸し暑かったので、麦茶には氷を三つも投入した。

 ついでに冷凍庫からアイスを取り出して食べる。ふたつ入りのアイスは姉と分け合ってよく食べたものだ。私がねだると、姉は自分はいらないからと言ってふたつとも私に食べさせてくれた。今ではひとりでふたつをねだることなく食べる。私には分け合う相手も、欲しいものをくれる人も姉以外にはいないのだ。

 懐かしいような、見飽きたような、少し気だるげな夏の夕方のキッチンは居心地が良い。まだ明るい外からは夏らしい日差しが差し込み、レースのカーテンが繊細な影を床につくった。キッチンに向かうかたちで造られたカウンターのスツールに座り、料理中の母を眺める。手際よく野菜を切る母が焦っているように見えて、今日は何曜日だったかを思い出す。

「あ、今日は木曜日だ」

 私の呟きに、母は困ったように反応した。

「そうなの。私、忘れていたのよ。今日はお稽古の日なのに……」

 母は毎週木曜日の夜に、社交ダンススクールの稽古に出ている。大人になってから始めた趣味だ。私が図書館に行くのも決まって木曜日。母娘揃って今日が木曜日だと忘れていた。

「そろそろ準備しなきゃだから、お夕飯手伝ってくれない? 今日はカレーだからあとは炒めてルウを入れるだけなのよ」

 年齢の割に若々しい母は手を顔の前で合わせ、可愛らしくお願いする。こういう人当たりの良さみたいな部分も姉に持っていかれたな、と呆れつつ私は承諾した。

 現在時刻は十八時過ぎ。母が出掛けるのは十八時半で、父が帰ってくるのはだいたい十九時から二十時。さっさとカレーを仕上げて図書館に行かないと、父が帰ってきてしまう。父とふたりきりになることだけは絶対に避けなければいけない。せかせかと出掛ける準備をする母に合わせて、私もせかせかと夕飯の支度をする。

 十八時半を回った頃に、母は慌ただしく出掛けて行った。私もやるべきことを終え、図書館へ出掛ける支度を始める。荷物をトートバッグに詰め、家の電気を消し、戸締りと火の元を確認した。あとはテレビを消すだけ。その前に、動き回って喉が渇いたから麦茶が飲みたくなった。再び空になっていたグラスに麦茶を注ごうとする。しかし冷蔵庫のなかには麦茶のボトルが見当たらない。おかしいと思ってカウンターを見ると、先ほど座っていた場所にボトルが放置されていた。

「うわ、やっちゃった」

 冷蔵庫にしまい忘れたボトルには、ぬるくなった麦茶が半分くらい残っている。盛大に水をぶちまけたようにびしょびしょになったボトルとカウンターを拭きつつ、氷六つと麦茶でグラスを満たす。氷で冷やされて薄くなった麦茶をぐいっと飲むと、頭がキンとした。姉なら麦茶をしまい忘れることはないんだろうな、姉は今頃きっと温泉にでも入っているんだろうな、と考えると自然とため息が出た。私は姉を基準にした生き方しか知らない。姉と比較されることが苦手なのに、積極的に姉と比較しているのは自分自身。それが情けないし、悔しい。

 カウンターから見える、リビングのテレビが十九時を知らせる。いけない、ゆっくりしすぎた。氷だけになったグラスを片そうと慌てて立ち上がる。そのとき、玄関のドアがガチャリと開く音がした。全身の血の気が引いていく。父が帰ってきたのだ。

 ほどなくしてリビングに入ってきた父は私を一瞥すると、冷たい瞳のままで口元だけうっすらと笑みを浮かべた。冷水を頭から被ったように、寒気がする。

「あれ、今日は帰りが早いね」

 平常心を保つために父の方を見ないようにしてグラスをカウンターに置き、静かにトートバッグを手に取った。

「仕事が早く終わった」

 ぶっきらぼうに父は答える。父がリビングから目を離したら、隙を見てこの家から逃げよう。きっとスーツから着替えるために父は自室に戻るはず。だからその間に決行するのだ。

 しかし、父はなかなかリビングからいなくならない。私はトートバッグを片手にリビングの隅から動けなくなった。早くいなくなれ。帰ってくるな。噛み締めた歯はギリギリと嫌な感触を口内に焼き付ける。恐怖と憎悪と焦燥で頭がいっぱいになり、気が狂いそうだ。

 いてもたってもいられなくて、私はリビングを飛び出した。

 背後から「おい!」と怒号が飛んでくる。無視して玄関に小走りで向かうと、後ろから腕を掴まれた。父の力が強いせいか、私がひるんだせいか、身体が微塵も動かない。

「こんな時間にどこに行くんだ。戻りなさい」

 ナイフのように鋭い言い方。横目で父を見ると、姉にそっくりな切れ長の目が私を睨んでいた。

「ごめんなさい……でも、図書館に行かなくちゃ」

 怯えながら言い訳をする。図書館に行かなくちゃいけない。本を返却しなきゃ。本当は別に図書館でなくてもいい。それでも、この家とは違う、父のいない場所に行かなくては―――

「そんなもの、明日にしなさい」

 私の嘆願はぴしゃりと断ち切られた。崖から突き落とされた気分。掴まれた腕を振りほどいて逃げようとするも、父に足を引っかけられて無様に転倒した。うつ伏せに倒れて、肺の空気が一気に外に押し出された。息ができずにえずく私を仰向けにして、父は私の腹部を蹴る。

「どうしてお前は聞き分けが悪いんだ」

 私を見下ろすスーツ姿の悪魔のような男に、私はなすすべを持たない。ただ心を無にして、なすがままに身をまかせるのだ。罵詈雑言を浴びながら、死体のようにズルズルと引きずられてリビングに戻された。カーテンを閉め切って電気もつけないままの暗い部屋で、服で隠れる場所だけに暴力が振るわれる。そして暴力で弱り切ったところで、身体を乱暴にまさぐられた。

 父は私の顔だけを褒める。若い時の母に似ているらしい。だから父は私を襲うし、顔だけは傷つけない。「お前は本当にダメな娘だ」「お前のいいところは顔だけだ」と呪いのように聞かされる。

 半年前、私が大学生になったある日から地獄は始まった。元来、父は私に対する当たりがきつかったが、姉と同じ大学に合格できなかったことが引き金となり、ふたりきりになると暴力を振るうようになった。すべては私が勉強も運動もできないせいだし、顔が母に似てしまったせい。要するに、姉が両親から良い部分だけを奪ったせいだ。私は姉が憎い。憎くてたまらない。こんなことを母や姉に相談できるわけもない。ふたりとも鈍感なところがあるから、気付いてもくれない。

 姉は何も知らずに、能天気な勝ち組人生を歩むだけだ。

 頭が、身体が、全身が、揺さぶられる。意識はあってないようなもの。幽体離脱したみたいに身体の感覚が遠ざかっていく。痛みも、苦しみも、快感も、確実にそこにあるはず。しかし、すりガラスを通した光のようにぼやけている。擦り減るほどにギリギリと噛み締められた歯の悲鳴でさえ、わからなくなってきた。

『早く出て行け』

『もう帰ってこなくていい』

心の中で何度も唱える。そうして意識を身体につなぎとめる。

「お姉ちゃん……」

 うわごとのように口からこぼれた。「黙れ」とまた殴られる。自分と同じように性格のひねくれた男の、自分と同じように癖のある毛が肌に触れて気持ちが悪い。エアコンがついていない部屋はじっとりと暑くて、覆いかぶさる身体からは汗も降ってくる。

 暗がりに浮かび上がるのは気味の悪い愛憎が入り混じった顔。姉は父と顔がそっくりだけど、私に憎悪ではなくて愛情だけを向けた。だから父のような歪んだ表情ではなく、常に真っ直ぐで綺麗な表情をしていた。それでもやっぱり父と姉は似ていて、だんだん姉に身体を触られている気さえしてくる。父に何をされていても、口を突いて出るのは「お姉ちゃん」ただ一言だった。

 姉がもっと私に構ってくれたら。ずっと家にいてくれたら。私のことだけを見てくれたら。脳内で繰り返す言葉と共に涙が零れる。ずっと前から泣いていたが、自分が泣いたと実感したのはこのときだった。

『こんな家から早く逃げて』

『見られたくないから帰ってこないで』

『私も一緒に連れ出して』

 声にならない言葉たちは、無理矢理揺さぶられる身体の奥底に沈んでいった。まるで、炭鉱で鳴き止んだカナリアが、大空を羽ばたく鳥に憧れながら死にゆくように。叶うはずのない願いは絶望と共に虚しく私を蝕み続ける。



 再び意識がこちらに戻ってきたとき、私は涼しくて明るいリビングの床に酷い格好で放置されていた。全身がギシギシと痛む。ずっと油を差していない機械のように、うまく動かない。逃避していた現実が、苦しみが、急に姿を現して夢じゃないと告げる。私は諦めることしかできなくて、四肢を投げ出し、解けきった氷みたいに床にだらしなく横たわる。

 自分が不幸だとは思わない。こうなることは生まれたときから決まっていた、運命みたいなものだと納得している。持たざる者は持たざる者なりの人生を歩まなくてはいけない。ならばせめて、全てを持っている姉には私のぶんまで幸せになってほしい。誰もが羨んで、ひれ伏すくらいに。

 これまで、姉は私に多くを分け与えてきた。アイスも、玩具や小遣いも、そして愛情も。しかし、私のもとには姉のために分け与えられるものがない。だから、与える代わりに、悪いものを引き受けたい。これが持たざる私からの、精一杯の餞別だ。

 リビングでずっとつけっぱなしだったテレビを見ると、時刻は二十時半。もたもたしていると母が帰ってきてしまう。身体が少しでも回復したらシャワーを浴びなくてはいけない。

 テレビはずっと災害の速報を流している。火事? 津波? 土砂崩れ? 内容が様々で要領を得ない。災害の現場にいるアナウンサーがヘルメット姿で中継をしている。どこかで地震でもあったのか?

 隅々まで見ると、自分の住んでいる地域も僅かに揺れたと書いてあった。そういえば父に暴行されている途中、揺れた気がしなくもない。震源はどこだろう。次々に切り替わる中継の画面を、鈍い頭と怠い身体で追う。何度も同じ地名の話題が出てくる。あれ、なんか聞いたことがある。直近でこの地名を聞く機会があった気がする。

 震源は、姉の旅行先だった。

 どうやら辺り一帯は大きな地震とそれに付随する災害でめちゃくちゃになったらしい。

 事態を把握した瞬間、ただでさえ力が抜けていた身体からさらに何かが抜けていった気がした。臓器も、脳みそも、意識も、魂も、何もかもがとろけて出て行った。

もう何もいらない。何も欲しくない。

 空っぽの、死とほとんど同義の状態になった私の身体。その鼓膜に嫌でも音が入ってくる。冷蔵庫を開ける音。氷と麦茶でグラスを満たす音。それから、姉とは似ても似つかないような低くて汚らしい声。

「いつまで寝ているんだ。早く風呂に入りなさい」

 カチャリと氷が崩れた音を聞いてから、私は冷えたリビングの床に裸で寝転んだままで静かに目を閉じた。小さな希望で成り立っていた私の世界は静かに壊れていった。

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姉のいない家 川上 踏 @fumi_fumare

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