呼んで
午前二時
花言葉は「あなたに首ったけ」
夜に生きていた。夜でしか息ができなかった。私にとって、夜の象徴のような存在が、
篝は、ある日いきなり私の家に転がり込んできた。雪のちらちらふる寒い冬の夜、仕事帰りの私が震えながら歩いていると、街灯の下、お酒の缶を握り締めた篝がコンクリートの上で横になっていたのだ。彼女の上には雪が薄っすら降り積もっていて、数分横になっているだけではないことが伺えた。周りを見回しても誰もいなくて、私はしばらくどうしようか悩んだけれど、取り敢えずこのまま放っておいたら凍死してしまうのでは、と思い彼女の肩を揺すった。彼女は、ううん、と唸って、それから眉に皺を寄せながら目を開けた。
「……ン、きみが起こしてくれたの?」
微妙に舌が回っていなかったが、少し掠れたその声は、甘く澄み通っていて、私は同性なのにも関わらずどきっとした。
「は、はい……」
「ありがと。ねえ、きみ。わたしね、家がないの。だからさ、きみさえよければなんだけど、泊めてくれない?」
いきなりの
「わたしは篝。よろしくね」
そう言って、篝は丁度夜空に浮かんでいる月のような、静かな、けれども人を惑わせるような笑みを浮かべた。その動きに合わせて、左眼の下の黒子がすいと動いたのを覚えている。
あ、間違えたな、と思った。このひとは、私をどうにかしてしまうだろう、そんな予感がした。
それから半年、篝はまだ、私の家にいる。あれ?
「ねえきみ? どうしたの、ぼうっとして」
「あ、え……っと。仕事のこと考えてた」
「きみは本当に仕事熱心だね。たまには休んだらどう?」
「私の部署、人が少ないから休めないんだってば」
「大変だねえ」
「おかしくない?」
私はがばっと顔を上げて篝を見下ろした。篝はきょとんとした顔で私を見返してくる。
「何が?」
「いや……この状況……」
「わたし、何かマズいことしたかな」
「いや、篝じゃなく、私がおかしいっていうか……あれ?」
そう言うと、篝はふふっと笑って、私の腕を掴んだ。そのままぐいと引き寄せられ、私はまた篝の腕の中に舞い戻る。
「きみはなんにもおかしくないよ。毎日疲れて帰ってくるんだから、家でくらいわたしに甘えたらいいじゃないか」
そうやって頭なんか撫でられれば、もう私にできることはなく。骨の髄まで溶かされてしまうのだ。
毒だ、と思った。篝のこの、夜闇を溶かした真っ黒な瞳に見据えられると、月の光を溶かしたみたいな甘い声が耳に流れ込んでくると、少し冷たい手で撫でられると、私はもう駄目になってしまう。中毒なのだ、私はもう、彼女なしでは眠りにつくことすらままならない。
朝目が覚めてはじめに確認するのは、篝の存在。彼女より少し先に起きる私は、そうして篝が目を覚ますまで彼女をずっと見つめている。篝が目を覚まして、私を見て、「おはよう」と笑ってくれるのを、犬みたいに待っているのだ。
篝は私の期待通りにしてくれる。なんでも。私が笑ってほしいと思ったら笑うし、触れてほしいと思ったときにはもう触れられている。
ああ、おかしくなりそうだ。いや、もうなっているのかもしれない。この眩しい常闇に、私は取り憑かれてしまっている。
篝といないとき、私は悲しいこと、嫌なことばかり考えてしまう。職場のお局様に目をつけられて、備品を隠されたり、無視されたり、聞こえるように悪口を言われたり。そういうことばかりあるから。生きているのがつらくて、恥ずかしくて、呼吸すらやめたいと思ってしまう。
──でも、家に帰ると、篝が私を待っていてくれる。それだけが、私にとっての救いで、特効薬だった。毒だろうが構わない。薬だって毒になるのなら、毒だって薬になるはずだから。
けれどもひとつ。篝は決して、私の名前を呼ばなかった。
「おはよう……きみ? 顔色が悪いよ、どうし……熱があるじゃないか、寝てなさい」
「しごと……」
「わたしが電話しておくから、ね」
「…………うん」
頭がぼうっとする。耳鳴りがやまなくて、篝の声も途切れ途切れにしか聴こえない。篝に促されるままベッドに再び身体を横たえた。
「食欲は? ない? じゃあスポーツドリンクとゼリーを買ってこよう、待っていてくれるね」
そう篝がベッドを出ようとしたところを、私は殆ど無意識に彼女の服の裾を掴んでいた。
「きみ?」
「いかないで」
そう口にしたはずなのに、その声は酷く掠れていて、聞くに耐えなかった。けれども篝はきちんと聞き取ってくれたようだった。
「…………わかった、ここにいる。きみの言う通りにするよ」
その答えを聞いて、なんだか無性に安心した。どうしてだろうか、篝がいなくなってしまうのでは、と思ってしまったのだ。そんなはずはない、とは言い切れない。篝は私の前に突然現れた。つまり、突然いなくなることだって大いにあり得るのだ。
篝はあの、冷たい手を私の頬に添えてくれた。ひんやりして気持ちが良い。私は篝の手の上に自分の手を重ねた。彼女の体温と、私のそれとが混ざり合っていくのを感じながら、私は眠りの中へと落ちていった。
気付くと私は、真っ暗な闇の中に寝そべっていた。起き上がると身体中固まっていて、ウーンと伸びをするとばきばきと音が鳴った。そして気付いた。隣に篝がいない。
「かがり?」
私の声だけが虚しく宙に消えていく。私は跳ねるように立ち上がって、篝を探すために走りだした。前も後ろも、右も左も、上も下もわからないような暗闇の中でも、とにかく篝を探さなければという焦りが勝ったのだ。
「かがりーッ!」
名前を呼びながら走る。どれくらい走ったか、私の息が切れてくる頃になって、突然私の足元の地面がなくなった。当然、重力に従って落ちる。私はアリスがうさぎ穴に落ちたときみたいに、長い長い時間を掛けて私は落ちていった。
落ちる間、色んなことを考えた。どうして私はこんなにも篝を必要としているのかとか、本当に篝がいなくなったらどうしよう、とか。その頃にはもう、私はこれが夢であることを自覚していて、だから少しずつ落ち着いてきていた。この
──本当に?
本当に、そうだろうか。未だに名前のひとつも呼んでくれたことがない篝は、果たしていつまでも私の隣にいてくれるものだろうか。永遠なんてこの世にないし、約束だって必ず守られる世界じゃないのに、そもそも篝は私の横にずっといてくれるって約束してくれたことなんてあったっけ。私はただ、家のない篝を
「──きみ、起きたかい」
「ぅ、」
「ああ、無理に動かなくていい。だいぶ魘されていたよ」
篝は私の汗をタオルで吹きながら、厭な夢でも見たのかな、と言った。まさか、あなたがいなくなる夢を見た、とは言えない。平常なら。けれども熱に浮かされていた私は、うっかり口を滑らせてそんなことを本人に向けて言ってしまった。それを聞いた篝は、きょとんと目を丸くしたあと、ふふふ、と笑った。
「わたしがいなくなるのがそんなに厭?」
からかうようにそう問われて、私は首を縦に振った。当たり前だ。なにせこちとらこの眼の前の女抜きでは生きていけない身体にされているのだ、責任は取ってもらわなくては困る。
「かがりのどくにやられた」
「わたしの毒?」
「まさかゆうどくだとはおもってもなかった。あのときひろってなければ、こうはならなかったのに」
「わたしを拾ったこと、後悔してる?」
「まさか」
「それは良かった」
篝はタオルを脇において、私の横に寝そべった。もともとシングルベッドひとつしか置いてなかった私の家は、篝を泊めるに際して客用の布団を引っ張り出すことはしなかった。何故だか同じベッドで眠っている。確か篝が言い出したのだと思うけれど、とにかくシングルベッドでぎゅうぎゅうになりながら並んでいるのだ。私も篝も寝相が悪くなかったことだけが救いだ。
「うつるよ」
「大丈夫、わたしは丈夫なことが取り柄だからね」
「だからあのとき、そとでねてたの?」
「……うん、まあ、そうかな」
その含みのある言い方に、何か他に理由があったのだろうと察したけれども、それ以上追及はできず、そのあとはただ沈黙だけが過ぎた。
「全! 快!」
「汗かいてよく水分摂って寝たからだね」
「篝の看病のおかげだよ、ありがとう」
「……そう、お礼言われると照れるな……」
篝が珍しく真っ赤になったものだから、私は本当に驚いた。いつも恥ずかしい台詞を恥ずかしげもなく言ってのける篝が、ありがとうと言われただけでこんなにも照れるものなのか。篝のスイッチがわからなくて、私は笑った。
「きみ! 笑わない!」
「だってえ、ははは」
「もう!」
篝は耳まで真っ赤になったのを、少し大きな手のひらで覆い隠していた。それが貴重に思えて、写真を撮ろうとスマートフォンを構えようとした、ところでやめた。篝は写真を撮られるのを厭がる。理由はわからないが、とにかく自分の姿を残したくないようだった。篝の厭がることはしたくない。だから私は、これまで一度も篝の写真を撮ったことはない。
まあもともと写真撮るの趣味じゃないし、と自分を納得させてはいるが、篝の記録が何ひとつ残らないのは少し、厭だな、なんて思ったりして。
それは私の誕生日のことだった。丁度土曜日だったから、お酒とか食べ物を買い込んで、篝と二人で酒盛りを開催した。久しぶりのアルコール。ハイペースで飲む篝につられて、私はついつい飲みすぎていた。だから、言わなくてもいい余計なことまで言ってしまったのかも。いや、お酒のせいじゃない。私が、普段から思っていたことを言っただけなのだ。
「あ、私そう言えばさあ、篝の誕生日知らない」
「ああ、教えてないし。知らなくていいよ」
「どうして?」
「知ったところでどうしようもないだろう?」
「お祝いしたい」
「祝われるようなものじゃないからなあ」
「そんなことない!」
ばん! と机を叩くと、九%の安酒の缶が揺れ、ナッツが弾けた。
「き、きみ?」
「大体ね、篝は秘密が多すぎるんだよ。下の名前だか上の名前だか知らないけど、とにかく名前、“篝”しか知らないし、連絡先も持ってないって言うし、誕生日も教えてくれないし、写真は撮っちゃだめだし、それに、私の名前、呼んでくれない、し」
全部言い切ったときには、半年分のもやもやを吐き出せたようにすっきりした気持ちと、ああ言っちゃった、という後悔とがせめぎ合っていた。
篝は呆気にとられたような顔で私を見ていた。今の今までなんにも詮索しなかった人間が急にそんなこと言い出したら私だって目が丸くなる。さあ、篝はなんて答える?
「……ごめん」
彼女は辛そうに笑った。私の胸まで締め付けられるような「ごめん」は、どうにもならないことについての謝罪のように思えた。そんな顔させるつもりなんてなかったのに。
不意に篝は立ち上がり、そのまま外へ出ていった。引き止められなかった。私にはその資格がないと思ったから。騒ぎの跡と私だけが部屋に残されて、片付ける気力もなく、床の上でそのまま寝た。顔の横に缶が転がっていた。桃味だった。
篝がいなくなって半年が経った。季節はすっかり冬で、どことなく浮かれた雰囲気と、白く降り積もる雪がもうすぐ、クリスマスだと教えてくれる。けれども私には関係のないことで。いつも通りの残業で遅くなった帰り道、ぽつぽつとある街灯以外にはなんの温かみもない路地を足早に通り過ぎようとした私の耳に、ふと、私以外の足音が聞こえた。
(不審者……?)
だったらどうしよう。私は立ち止まった。すると、足音もぴたりと止まる。あれ、こういう怪談話なかったっけ……。
恐る恐る振り返ってみると、果たしてそこにいたのは篝だった。記憶にあるよりも髪が伸びているものの、間違いなく篝だ。
「かがり?」
「……久しぶり」
彼女は気まずそうに下を向いて、それからゆっくり顔を上げた。意を決したような面持ちだった。
聞きたいことはたくさんあった。でも、どこにいたの、とか、何してたの、とか聞く前に私は篝に抱きついていた。
「きみ、」
「会いたかった」
それ以上は言葉にならず、泣きそうな衝動が喉元から迫り上がってくる。篝はそんな私の背中に、そろりと手を伸ばして、そっと抱き締めた。篝の感触に包まれた途端私の喉が
「わたしも会いたかったよ」
赤ちゃんをあやすみたいにトントンと私の背中を叩いて、篝はあの甘い声を紡いだ。それだけで私の脳味噌は溶けてしまって、ああ。
涙がようやく止まって、私は篝の顔を見上げた。私より少し背の高い彼女は、私を覗き込むようにして綺麗に笑った。
「また、家に泊まる?」
「うん」
「いつまで?」
「きみがわたしに愛想を尽かすまで」
「じゃあ死ぬまでだね」
「そうなの?」
「そうだよ」
私は篝の首の後ろに手を回して、篝は私の背中を支えた。篝の体温が伝わってきて、なんとなく安心した。篝は私の眼の前にいる。戻ってきた、戻ってきた!
「ここじゃなんだし、きみの家に行きたいな」
「うん。帰ろう」
私たちは手を繋いで歩き始めた。手袋をしていない手はお互い冷たかったけれど、触れているところからだんだん熱が生まれて、それが次第に広がっていくのを感じた。私が握る手に力を込めると、篝も握り返してくれるのが良かった。言葉には出来ないけど、とても良かった。
家まではそれほど距離はなかったから、アパートにはすぐに着いた。がちゃんと鍵を回して扉を閉めたあと、私たちはひとつになろうとするみたいにぎゅうぎゅう抱き締めあった。落ち着くまで、しばらく掛かった。
隣に座って、淹れたコーヒーを飲みながら、篝はぽつぽつと話し始めた。あの日、私が篝を拾った日、篝は借金まみれの父親が失踪して、その借金取りから逃げてきたこと、もうどうでもいいという思いから僅かな所持金を酒に変えたこと、このまま寝ていれば死ねるかなと思っていたら私と出会ったこと、酔ったノリで私の家に転がり込んたこと、そうしたら思っていたより私に思い入れができてしまったこと。
「私のこと甘やかしてくれたのは、罪悪感から?」
「はじめはそれもあったけど、最終的にはわたしの意思だよ」
「出ていったのは?」
「きみに言えないことばかりの自分が厭になったから。だから、全部清算してからまた会いに行こうと思って」
「篝がどんな人でも私は受け入れたよ」
「きみは優しいね」
「私ね、篝のせいで、篝がいなくちゃ生きていけなくなったの。責任取ってくれる?」
「そのつもりで戻ってきたんだ。父を見つけて、役所に駆け込んだ。縁も切った。父がわたしに金を無心してくることもない。もう借金取りはわたしを追いかけてこない。隠れていなくても良くなった。これからは堂々ときみの横にいられる。仕事も探すよ、一緒にね」
「一緒に?」
「こんな夜遅くまで働かなきゃならない職場なんてやめてしまえばいい、きみに相応しい場所は他にもある」
「やめるって言う時、隣にいてくれる?」
「もちろん」
「ならやめる!」
私は篝に抱きついた。
「おっと」
篝のコーヒーカップが揺れた。彼女は器用に黒い波を収めると、カップを置いて私を抱き締め返してくれた。
「ねえ、私の名前、覚えてる?」
「当たり前だろう?」
「なら、呼んでくれる?」
篝は、にこっと笑うと、ゆっくり口を開いた。
「──
呼んで 午前二時 @ushi_mitsu
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