錆びた紫陽花

鹽夜亮

錆びた紫陽花

 行く宛がない。気力もない。梅雨は憂鬱だ。気圧の変化は頭痛を伴って、雨音と共に鉛のような私の体を地面に縛り付けている。

 紫陽花を見よう、そう思った。梅雨の風物詩、というよりも、私にとっての紫陽花は一種の象徴だった。それは幸せな記憶の、錆びてモノクロになってゆく記憶の、今の在り方の、あらゆる象徴であった。

 昔は藍色の紫陽花が好きだった。夕暮れの空を凝縮したかのようなその色合いは、美しさと儚さに満ち満ちて見えた。今は、何も感じない。

 雨に打たれる事に何も感じなくなって、何年が経つのだろう?

 そんなことを思いながら、視界一面に咲く紫陽花の面々を眺める。多様な色は私の視覚を刺激する。ただ、それだけだった。

 人もいない、山中の、紫陽花だけが有名な寺を歩く。石畳の参道の周囲は、紫陽花で満ちている。藍色の海の中に、私は私を見つけた。

 鮮血のような赤ではない。華やかなピンクではない。それは、錆びついた鉄のような、鈍色の、グロテスクな紅色の紫陽花だった。これを見るためにここに来た、そう思った。

 藍色の海の中で、孤独に錆びついてゆくそれは、血染めの入水に見えた。花弁の上に這う蟻も、どこか物憂げに映る。この紫陽花も、咲いたばかりの時は鮮やかな色彩で周囲を魅了したのだろうか。藍色の中、ぽつりと浮かぶ赤はさぞ美しく、人々の目を引いただろう。

 それが今は、誰の目にも止まることもなく、錆びつきながら土に還ることを待っている。その佇まいは、さながら死刑囚か、死を待つ病人か、…私のようだ。

 カシャリ、と写真を撮る。カメラを手にしていた時は紫陽花をよく撮ったものだ。今はスマートフォンで事足りる。否、壊れたカメラを買い替える金がないだけの話かもしれない。

 カシャリ、カシャリ。

 機械音が不粋に境内に響く。煩わしかった。その音に、人間の穢れを思った。だが、私は撮ることは辞めなかった。被写体は錆色の紫陽花、それだけでよかった。

 記憶が滲んでいく。幸せな記憶も、悲しい記憶も、あなたの笑い顔も、泣き顔も、全てが薄れ、端から火をつけられた写真のように欠け落ちていく。

 あなたはどこかで、知らない誰かと結婚したと聞いた。嬉しい知らせだ。未練などない。ただ、謝りたい心しか残らなかったのだから。

 錆色の紫陽花は、そう長く花の形を留めることはしないだろう。例え来週、この紫陽花を見に来たとしても、その姿はないのかもしれない。だからこそ、美しいと思った。咲き誇る栄華は、やがていつか枯れる。幸福も、憂鬱も、何もかも、時は平等にそれを錆びつかせてゆく。そしてやがて、全て土に還る。死は救済などとは言わない。自然の摂理は、人間の善悪や価値観を持って図るべきではない。今そこにあるそれ、そのものこそが全てででしかない。なんたる優しさだろう。私はここでもののあはれ、とは言わない。私が思っているのは、心情ではない。観察から来る、ただの事象だ。だからこそ、彼らは完成されている。人間の付け入る隙など、欠片もありはしない。それでいい。

 錆色の紫陽花にも飽きた。さて、帰ろうか。

 次は何をしよう?今日にはまだ時間がある。煙草の銘柄を変えようか。それとも女遊びとでも洒落込もうか。ゲームもいい。ああ、音楽も捨てがたい。そういえば、金に余裕があるのなら蕎麦を手繰って帰るのもいい。…車のエンジンを、咆哮させる。



 人は不完全だ。人が人であるだけ、不完全は加速する。

 どれほど知恵や人間性が発達しようと、あの錆色の紫陽花を、たった数分で忘れる程度の感性しか持たぬのだから。

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錆びた紫陽花 鹽夜亮 @yuu1201

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