其の八
「けッ! なんとも汚らしい
そう吐き捨てるようにいった細目で向こう傷の男(たしか
迷いながらもなんとか出口を見つけ、下水道から地上へと戻ってくると日はすでに落ち、辺りはすっかり暗くなっていた。地上の店舗に灯りは点っておらず、ひとり居残っていたオッターに、オレは帰還するや否や盛大に歓迎されたというわけである。こいつ、もう片方の手首も折ってやろうか。
「あいつを……アーミンを始末できたのか?」
「ああ。とどめを刺したのはウィーゼルだ」
「そうか……世話になったな。
オッターは口の悪さからすれば意外なほど
「これも仕事でやったことだ。オレはオレにできることをし、そして対価を受け取る。それだけさ」
「ふん、そうだな。店の裏手に水を張ったタライと桶がある。清潔な
「そうさせてもらおう」
素っ気ないものいいの中にも微かな気遣いを感じたオレは、素直に好意を受けることにした。
いわれたとおり店の裏手に回り、タライに張られた水で具足や衣服の汚れを洗い流して身も清める。
濡れた体を木綿の浴巾で拭きながら、冷たい夜風に吹かれたオレは「へくしッ」とひとつ、大きなくしゃみをしたのだった。
*
月も頭上に輝き夜も更けた頃であったが、〈
「あんたには、ずいぶんと迷惑をかけてしまったな。礼をいわねばならん。これ、このとおりだ」
そういって親父は深々と頭を下げた。改まって感謝をされると、オレもムズムズと尻の座りが悪くなってしまう。
「まァ気にすんな、オレはただ美味い蕎麦が喰いたかっただけなんだ」
「あんたが出かけて行った後、すぐにあの目つきの悪い男が営業許可証を届けにやってきたんだ。『借金もチャラにしてやるから、もう二度と賭場には来るんじゃねェ』といっていたよ」
「ウィーゼルの計らいなんだろうな。年若いのにたいしたタマだよ。奴らに頼まれた仕事は片がついた。もう心配いらねえぜ。それよりだ……」
「ああ、わかってるわかってる。一杯二杯とケチなことをはいわねェ。何杯でも好きなだけ、腹ァいっぱいになるまで食べてくんな」
そういって親父は、
茹で上がったばかりの麺は冷水できりりと締められて。
出汁を効かせた甘辛い
おろしたての
小さな器にうず高く盛られたモリと。
熱々の湯気が立ち上るカケとが。
今まさに、オレの眼の前に。
こうしてオレは待望にして念願の懐かしき味、素朴にして鮮烈な、極上の蕎麦にようやくありついたのである。その味が如何なものであったかは――いうまでもあるまい。
*
さて、ここから先の話は、後から
昔々、ある港町に幼いハーフリングの姉弟がいた。両親に先立たれたふたりは棲む家もなく、汚い下水道をねぐらとし、毎日残飯を漁ってなんとか生きているような有様だった。そこへ救いの手を差し伸べたのが地下の街に棲む、猫好きな太った男だった。
太った男は姉弟に衣服と食料を与え、そのうえ雨風をしのげる場所まで世話をしてくれた。決して快適な生活とはいえなかったが、両親と死別してから初めて大人に優しくしてもらった。それまでは誰ひとり、姉弟を気に掛ける者などいなかったのだ。
姉弟はその恩義を忘れず、太った男の代わりに様々な品物を街中から、買ったり、拾ったり、ちょっと借りたりして、調達してくる仕事をするようになった。太った男が可愛がる浮浪児たちは他に何十人もいたが、中でも姉弟は抜きんでた才覚を発揮した。
その才を見抜いた男は、知人の中でも最高の技術をもつ者たちを師に就かせて、姉弟を鍛え上げていった。姉弟は期待通りに、否それ以上の能力を開花させ、特に弟の腕前は他に類を見ず、〈
やがて長じた姉弟は、太った男やその知人たちが組織する〈組合〉の中でも、一目置かれる存在となるが、ある時悲劇が訪れる。
弟が何者か
姉は弟を救おうと必死になって、治療を施せそうな高位の
業を煮やした姉は、街はずれに住む隠者に相談したのだった。隠者は古より治療薬として伝わる
その後、いかなる経緯があったのか定かではないが、弟は〈組合〉によって粛清されてしまったのだそうだ。〈組合〉はどんな理由であれ足抜けを許さないのだ。
その死を嘆き悲しんだ姉は、弟の為に小さな墓を建ててやった。ふたりがまだ幼かった頃、いつか街中に小さな家を買ってふたりで住もうと約束した、その街並みがよく見える丘の上に、その墓はあるのだという。
*
オレがその後、何処でどう過ごしてきたかというとだ。実は今もこの街、バルダーズ・ゲートに滞在している。あの蕎麦屋がある長屋にたまたま空き部屋があったので、借りてそのまま居座り続けているのである。部屋は狭いが、
オレは今日も今日とて、店主の親父と世間話をしながら、朝飯がわりに蕎麦を
「……あのなァ、キクさん。儂は前々から気になってたんだが、
「んなこたァわかってるぜ。この街から半日くらい船で下りゃァ、
「そりゃあそうだが、〈
「な、なんだってェ!? だって
「そりゃあ、アレだな。その地図に描かれた端がたまたまこの街だったってだけだな」
「そんな、まさか……嘘だろ……なんてこったッ!」
どうやら〈
(菊と刀と蕎麦・了)
菊と刀と蕎麦 猫丸 @nekowillow
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