終章
雨音が耳をつく。
静閑な空間を、ただそれだけが彩っていた。
「そろそろね……私も、やっと休める」
菖浦は、浅くゆっくりと過去を想いながら溜息を吐いた。
カイリと別れてから…あれから、毎日は目まぐるしくて。結婚をして子供を産んで、いつの間にか自分の時間が失くなっていた。
「済まない…」
それでも、いい事もあった。
初めて産んだ赤子は、カイリがくれた子だった。
嬉しかった。
だって、それが唯一彼と生きた、証なのだから。
なんの因果か、その子も家を出たきり戻らなかったけれど…悪い人生ではなかった。
「いいんだよ。……あんたが謝ることじゃあない」
布団に横たわる菖蒲は、皺くちゃな顔を綻ばせて遂に深く息を吐いた。
「約束、ちゃんと覚えるぜ」
「あぁ…そうだねぇ。やっと叶うんだ。この老いた身体を捨てて、自由に…」
「おい、菖蒲…?」
応えは、ない。
その代わりに、老いた彼女から蝶が羽化するように『あの日』の菖蒲が抜け出した。
「!!」
「カイリ、言って?」
「あぁ…一緒に行こう」
「うん」
くすぐったそうに笑ってカイリに口づけた在りし日の菖蒲は、光の粒となって天へと昇っていった。
満願成就を迎え、成仏したのだ。
■
あの別れの夜…自分は禁忌を犯し、アヤメを娶った。独り残すよりはと、加護を…子を与えたのだ。
だが…若かった自分は裁き恐ろしさに、理屈をこねて彼女を置いてこの地を去った。
けれど、人と関わり合いを持った妖には、当然裁きが降る。
どこに逃げても結末は同じで、俺は族長の怒りが収まるまで水牢に幽閉された。
もちろん、幽閉を解かれてすぐにアヤメに会いに行った。
人と妖の時間は微妙に異なるから、残してきた彼女の存命が心配だった。
……残してきた身で想うのも形見が狭いが、菖蒲は息災だろうか?……
……託した子は、無事産まれただろうか?……
一足ずつ懐かしの地に近づくたび、懸念が立ち込める。
そして、ようやくたどり着いた家。
懸念どおり、彼女は自分によく似た白い髪の子供を連れて、人間の男と所帯を持っていた。
木立の影から覗いて、やはりと思った。
人間の男と朗らかに談笑するアヤメと、名も知らぬ我が子。
身勝手と責められても詮ないことだが、確認できただけでも幸せだった。
様子を見て満足した俺は、再びこの地を後にした。
それから幾年か過ぎて再びあの家を訪ねに行ったが…どうしたのか、アヤメが連れ合いに選んだ人の男も、我が子も家から消えていた。
人の噂で、アヤメが連れ合いに選んだ人間の男は徴兵されて戦地へ送られ…息子は、疎開に出されたのだと聞いた。
しかしその後、二人があの家に戻ることはなかった。
■
あれから60年を経ても、アヤメはずっとこの竹林の家で…独りきりでいつ来るかも解らない自分を待ち続けていてくれた。
「長いこと一人にしちまって、すまなかったな……アヤメ。一緒に行こうな、どこまでも一緒に」
カイリの頬を、大粒の涙がいくつも伝い落ちる。涙が菖蒲の頬に触れた瞬間、菖蒲の身体が淡い紅色の光を帯びて輝いた。
「ああ…綺麗だ。綺麗、だよ…」
そしてやがて、涙が凝ったような薄紅色の勾玉になりカイリの掌に納まった。
涙を咎めるようにチリンと強く大きく鳴った勾玉に、カイリは目を瞠る。
凛とした鈴音は、俯いた時は必ず背を押して元気付けてくれた在りし日の彼女を想わせた。
「そうか―――そうだな、ずっと一緒だ」
姿形が変わっても、彼女自身は変わっていない。
カイリは、いつか菖蒲に手渡した石青色の勾玉を取り出すと薄紅の勾玉と共に紐で括りつける。
寄り添って揺れる対の勾玉は夜明けの光を弾きまるで、微笑んでいるようだった。
「行こう、まだ旅は終わらない」
悲劇は、いつも雨の中。
自分で背負った罪枷と共にある。
けれど共に生きた記憶と温もりは、己が生がある限り、温かな記憶の中で永久に輝き続けるだろう。
雨の向こうに見る夢は 冬青ゆき @yuki_soyogo
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