4章 晩夏の涙雨


 共に風雨に耐えながら駆け足で季節が廻り、3年の時が過ぎた秋。

時を経て、二人は初めて出会った場所・竹林にいた。


「また…竹林に戻って来ちゃった。ねぇ、どうして?」


 何故だと不満を訴える彼女の腰まで伸びた黒髪を、秋の涼やかな風がゆるやかに揺らす。


「ここで、暮らせばいいんじゃないかって…思ってな」


 竹林の奥にある閑地を指差して、カイリは菖蒲の肩に触れた。


「どういう事? ここに、家を建てるつもり?」


「そうだ。ここはお前の故郷だしな、ここで暮らすのが一番だと思った。旅暮らしは…何だかひどく辛そうだから」


「そんなの、勝手な思い込み! カイリ、あたしが重荷?」


 菖蒲の表情に影が射す。

 涙を一杯に溜めた瞳は、今にも零れ落ちてしまいそうだ。

かぶりを振って胸板に縋り付く彼女の温もりが、カイリには何よりも辛かった。

 許されるのならば、今すぐにでも手を取って添い遂げたいが…それは彼女が人間であり、自身が妖である限り永遠に叶わない。

 見えず、決して埋まることのない深淵が二人を残酷に隔てていた。


「バカ、誰が置いてくと…」


「言ったじゃない! お前はここで暮らせばいいって…」


 遂に泣き出した彼女に焦れたカイリは、短く息を詰めた。


「すまない、アヤメ。どうしても行かにゃならない用事があって、じきに傍にいてやれなくなる」


「よ、用事ってなに?」


 遠慮ぎみに訊ねつつも、すっかり拗ねた目で睨めつけるアヤメの切り替えの早さに思わず目を丸くしたカイリは、ふにゃりと相好を崩した。


「まぁ…色々だ。色々」


「その感じは女…ね?」


 カイリの口調に浮いたものを感じたのか、菖蒲は面白そうに口角を上げる。

 女という生物は何故、総じて恋愛話に目がないのだろうか。カイリは早々に種明かしをして追撃を避けた。


「女っても、母だがな。家業を手伝えと呼ばれているのさ」


「なんだ、がっかり。もし浮気だったらガッツリ責められたのに」


「お前なあ、俺になに期待してたんだよ。それに何だ、その責めるってのは…」


「さあ、なんでしょうね?」


 のっぺりと呆れ顔をするカイリの傍ら、菖蒲は鈴を転がす声で笑う。

 楽しげな軽口さえ、カイリには愛しく掛け代えのないものだった。

 竹林の奥には桜の大木がある。

 カイリは地面に家の間取りを区画していた。


「なに、この地図? みたいなのは」


「間取りだな。まぁ見てろ、すぐ済む。天地の胞輩に助力奉る―――…」


「な、なに? いま少し揺れたわ…」


 大地がひとしきり大きく脈打った感じに驚いて、菖蒲はその場に立ちすくむ。

 耳慣れぬ言葉を紡ぎながら、カイリが仄かに青い光源―鬼火を地面に描いた図面に次々と封入してゆく。あまりの驚きと神秘の光景に、アヤメは呼吸も忘れて見入っていた。

 鬼火を総て図面に封入し終えてから間髪いれず、みるみるうちにその場に家屋が現れ、明かりが燈る。


「さて、こんなもんか。どうだアヤメ。新しい家は」


「立派な屋敷で吃驚しちゃった。だって、生家より庭は広いし、日当たりも良さそうだもの」


「そりゃ…よかった」


 傍らで微笑むアヤメの背を玄関へ押してから、カイリはふと遠い目をした。


「あ、雨。カイリ、濡れないだろうけど、そろそろ中に入ったら?」


「いや、いい。通り雨だし、すぐに止むだろ」


 とおり雨の中、カイリは曇天を見上げて虚ろに溜息をついた。

 自分は遠からず、彼女を残してこの地を去らねばならない。

 けれど、容易く別れを告げられない程に彼女との縁は深く絡み合ってしまった。

 それなのに、どうしてやることもできない、想いに応えてやることができないなんて―――あんまりだ。


「カイリ、早く中に入ろうよ」


 名を呼ぶ伸びやかな声さえも、鋭利に浅く、カイリを斬りつけて血を滲ませる。


「ああ、今行く」


 これは夢だ。

 雨の向こうに見る夢は、泡沫のしらべ。

 雨が止めば消えてしまう、夢でしかないのだ。

 そう思わねば、堅く保ち続けてきた理性が解けてしまいそうだ。


「アヤメ…受けとってくれないか」


 カイリが胸ポケットから取り出し、手渡したのは澄んだ青色の勾玉だった。


「キレイ…。どうしたの、これ。舶来品でしょう?」


「いいや、違う」


「違う?」


「これは…俺の鱗だ」


「うろ…こ? えっ、でも石にしか見えないわ? それに、これが鱗だというなら、カイリ…あなた…」


「今まで、なんとなしにぼかして教えたことはなかったがな…アヤメ。俺は妖だ。水龍のな」


 菖浦は、過去の記憶を思い出す。

 何度も手を繋いだけれど、カイリの掌はいつも冷たくて…まるで蛇のようだと思ったことも少なくなかった。


「そう…。そうだったの。龍の妖、だから貴方の手は…いつも冷たかったのね」


「―――。寂しくなったら、それを握れ。温もりくらいは届けられるはずだ」


「どうして? どうして今、正体を教えてくれるの? お別れのような事をいうの?」


 勾玉を受け取ってしまった菖浦は、別れを悟って蒼白な顔色で立ち尽くした。


「カイリ、嘘よね? だって、まだ行かないって言ってたじゃない。そんな、ねえ…なんとか言って。言ってったら!」


 菖蒲は精一杯の力を込めてカイリの胸板に掻き付いた。震える腕が、無様なほど稚拙に外套を握り締めている。

 けれど無様でも愚かでも、いま、彼を引き留める術は此しかなかった。


「イヤよ!こんな立派な屋敷まで用意して、安心させてから置き去りにしようだなんて…なんて酷いヒトなの!!」


「…もう限界だったんだ」


「なにが限界だというの!? ちゃんと話してくれなくちゃ、分からないわっ」


「これ以上…俺の傍に居続ければ、アヤメ…お前は遠からず妖である俺に、精気を吸い尽くされて死ぬだろう。俺はお前にそんな結末を、辿らせたくない。だから遠ざけねばと…」


「私が、死ぬ? そんな訳ないわ。いたって健康よ、冗談でも笑えないわ?」


「本当なんだ。俺は妖、いくら愛しくとも…まだ先のある人間のお前を連れては行けない」


「そんな…」


「だが、これだけは分かってほしい。置いてく訳じゃない。…お前はここで待って、未来を紡ぐんだ」


「いつも一緒だった! 一緒にいてくれたのに、どうしてっ」


 感情のまま泣き叫ぶ菖蒲を、カイリは遂に抱き竦めた。


「かよわき人の子、これ以上先に踏み込んではならん。闇に魂を食われてしまうゆえな。だからお前には…ここで生きてほしいんだ」


「…カイリ……」


 雨が、止んだのだ。


「すまない、アヤメ」


 菖蒲の頬を、いくつも幾つも涙が伝い散る。


「ねぇ、カイリ……最後だというなら、魔法を頂戴?」


 涙伝う頬を拭って見上げる菖蒲に、カイリは静かに頷いた。


 ―――愛している。愛しているのだ。

 だのに、それでも傍らには居られない。

 なんて無情で、苦しい愛だろう。 

 甘く啄む口づけは決して2人を穿つ楔には成り得ないなんて…。

 2人はきつく抱き合い、涙を溢した。



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