#6



 自分の罪を忘れないことだけが、生きる理由だと思っていた。



 そうやってずっと生きてきたから、ずっと一人でいいと思っていた。それでよかった。俺が明るく楽しく前向きに生きていく理由なんて、あの日あの時あの川でなくなった。

 あの時死ねばよかった、とずっと考えたまま生きてきた。友人の代わり、あいつの代わりに、俺があの時死ねばよかったのに。

 ただあいつも好きだったゲームだけはなんとなくやめられなくて、ずるずる続けていた。そのうちに考察や攻略を話したくなって、インターネットを彷徨うようになった。

 生身のコミュニケーションじゃないから、という理由でひどい言葉のぶつけあいになっていることも多々あったけれど、それでもインターネット上の希薄な人間関係は俺の心を穏やかにした。ゲームという共通の趣味で繋がっていて仲良く話しながらも、私生活にはあまり踏み込まず、付かず離れずが心地よかった。

 そんな中で仲良くなったはるさんとオフでも会うようになった。シノさんにも気に入られて、同好会を結成した。


 そして。

 柚木くんに、出会った。

 


 生身の人間関係に対して少しずつ耐性がついていたが、実際のところ恋人なんていう付き合いはとても怖かったはずなのに、仮初ならば大丈夫だろうとタカをくくって柚木くんと仮の恋人関係になった。

 柚木くんといると、安らかで穏やかで清らかな気持ちになれた。仮初だとしても、誰かの代わりだとしても、騙されているのだとしても、それでもいい。

 柚木くんといるととても幸せだった。

 認めたくはないくらいに。

 認めてはいけないくらいに。

 


 柚木くんといると、とても幸せだ。



 柚木くんはきれいな星のようだった。俺の行く方向を指し示すような、きらきらとこぼれるように、それでいて一際強く輝く光。

 このきれいな星を知ったから、きっとこれで生きていける。

 恋とはつまり錯覚で、愛とはつまり執着で。

 そんな感情に振り回されて、自分を見失って、自分を追い込んでいくのもわかっていたけれど、でも。



 でも、柚木くんといるのが幸せだと思う自分が確かに、いる。

 


 柚木くんといれば、俺は穏やかで安らかで、清らかな気持ちになれた。たとえ俺の居場所が暗い川の底だとしても、柚木くんという星があるから、大丈夫だと思えた。

 仮初だとしても、誰かの代わりだとしても、騙されているのだとしても、それでもいい。

 柚木くんといるととても幸せだった。



 (そんな、)


 


 そんな都合のいいこと、今更許されるのか?


 

 窓辺に伏せられた写真立てが、俺を睨んでいる気がする。


 


 あの日の濁流が、うねる水が、全てを押し流すようなあの川が、俺を見つめている。遠ざかる光、こぼれる酸素、耳の奥であの時の、あの川の音がする。

 


 暗い川がこちらを見ている。

 



 (お前の手は星に届かないよ)



 

 暗く沈んだ部屋の中。窓辺の写真立て。

 はるさんやシノさん、柚木くんと仲良くなって、少し勘違いをしていたようだった。ダメだった。俺はダメだった。幸せになんかなってはいけなかった。

 自覚した瞬間、胃の奥底がいつも冷たくなって、胸の奥が少しずつ絞められていくような感じがする。苦しい。まるで水の底に沈むみたいに、真っ暗で、苦しくて、なにもわからなくなるような、そんな感じがする。

 それを味わう度に、俺は思い出す。そうだ、俺はまだあの暗い川にいなきゃいけない。一人であの川に残らなくてはいけない。だってそうやって、忘れないと決めたから。そうやってずっと、苦しみ続けることでしか、俺はきっと贖えない。己のしたことから。己の考えたことから。ずっと。



 ずっと。



 ふらふらと玄関を抜け出して、闇の中を進む。

 柚木くんといられたから勘違いしていた。柚木くんがきらきら光って、輝いて、とても美しいから勘違いしてしまっていた。忘れてしまっていた。ダメだった。忘れてはいけなかったのに、忘れてしまっていた。ダメだった。ダメだったのに。

 俺は俺のしたことから逃げられない。過去から逃げることはできない、過去は清算なんかできない、ずっと背中にへばりついている。俺はまだあの暗い川にいなきゃならない。苦しみ続けることでしか、俺はきっと贖えない。だってそうやって、決めたから。そうでなくてはならないから。ずっと。




 暗い川の音が聞こえる。



 目の前には川が広がっていた。

 川にいい思い出がないくせに、こうして何もかもが自分を締め付けてくるような、まるで水の底に沈むみたいに、真っ暗で、苦しくて、なにもわからなくなるような、そんな気分の時は川の近くにいると落ち着いた。それを自覚してから俺は、ずっと川のそばに住むようにしている。こうして夜中に、暗い川を見に行くために。

 俺は罪をずっと背負わなければならない。俺は幸せになるわけにはいかない。

 自分の罪を忘れないことだけが、生きる理由だったから。俺が明るく楽しく前向きに生きていく理由なんて、あの日あの時あの川でなくなった。

 川を見つめながら、震える手で煙草の火をつける。ゆらめく煙をかき消すように、煙をゆっくり吐き出した。

 (ああ、やっぱり俺にはこっちの方がいいや、)



「そういえばさ、ヒナって冬休みこっちにいる?」

 最悪な気分を吹き飛ばしたくて顔を出した同好会で、シノさんに声をかけられた。新作ゲームの話をしたり対戦ゲームをやったりして若干疲れてコーヒーをちびちび飲みつつ世間話としゃれこんでいると、自分も真っ当に大学生をやれている気持ちになる。

「冬休み?」

「そうそう。ってか、年末年始とか?」

 年末年始。その言葉に胃の底が少しだけ冷たくなる。あの街に帰れないことを思い出す。

「……いる予定です」

「あ、そうなの?俺もさあ、今年はバイトとか飲みとか年末まで入っちゃったからちょっとずらして帰ろうと思ってたんだよね」

「シノさん去年もそんなこと言ってませんでした?」

 俺がそう言うと、そうだったっけ?と言いながらシノさんがグミを食べる。勧められたのでなんとなくグミをもらって、口に入れた。甘い。甘さの奥の方にレモンの味がする。

「まあ年末年始じゃなくてもいいけどさ、またなんかみんなで遊びたくて。この前の楽しかったじゃん」

「ああ、そうですね。楽しかったです」

「そうそう。はるさん?も嫌じゃなければまた誘ってさ、遊びたいじゃん」

 確かに。この前はるさんを呼んで四人で遊んでからというものの、何回か四人でゲームをする機会があった。はるさんも社交的なほうではないし、シノさんはまあいいとして柚木くんも人見知り気味なので盛り下がらないか心配だったけれど、杞憂だった。何回遊んでもなんとなく楽しい。特にシノさんははるさんと意気投合したらしく、はるさんを個人的に誘ってゲームをしているらしい。

 確かに、あの四人で遊ぶのは楽しそうだ。はるさんは少し時間を合わせにくいかもしれないけれど、先んじて言えば開けてくれるかもしれない。そう思えるほどには、仲良くなっているつもりだし。

「まあもしよければどっか借りて一晩ゲームしたりだらけたりする感じも楽しいかもね。合宿ってことにすれば補助もらえるし」

「が、合宿?!」

 シノさんの突拍子もない話に驚いて大声が出てしまった。周囲からちらりと向けられる視線に耐えられなくて、口元をおさえて姿勢を正す。

「どうしたのヒナ」

「いや……合宿っていう陽な響きに驚きすぎて……」

「確かに俺たち合宿とか外のイベントやったことないもんな。ふらっと集まってゲームしてるだけだし」

 確かにそうだ。シノさんと柚木くんと俺の3人きりの同好会なので、メッセージアプリで適当に予定を合わせて気まぐれに遊んでいるのが主な活動だ……というか、思い返すとそれしかしていないかもしれない。同好会っぽさは確かにないかもしれない。

「やってもいいかもな、合宿。俺もシノと柚木と一日遊びたいし」

「……確かにそれは俺もそうですけど、シノさん課題とか大丈夫なんですか?毎回出ません?」

「まあそれはね!なんとかするとして……あと難しいかもだけどはるさんに声かけてみようかな」

「はるさん?!来てくれますかね……」

 はるさん、ゲームの誘いには来てくれるがオフの遊びに乗ってくれるかはわからない。俺ですら五分五分なのに四人で遊びたいと言って誘って大丈夫なんだろうか。

「まあいいや、ちょっとはるさん誘って日程決めてから場所決めてもいいかもね。とりあえずまた連絡するわ」

 話を急にまとめて立ち上がったシノさんを思わず見上げると、俺の視線に気づいたシノさんが深いため息をついた。何かやってしまったかと思って血の気が引いたが、シノさんが暗い顔のまま口を開く。

「……さっきのヒナの言葉で、課題あることを思い出したからやってくわ……」

「マジですか。お役に立ててよかったです」

 ほっとした俺に気づいたのか、シノさんは一瞬嬉しそうに微笑んで、そしてまた暗い顔に戻った。締切がわりと近いのだろう。シノさんはこういううっかりをよく起こす。それもあって、柚木くんはわりとシノさんに口やかましいというか、歳上にしては距離が近いというか、そういう感じなのかもしれない。

 


 柚木くんに一度、シノさんとの距離の近さについて不快に思わないか聞かれたことがある。曰く、昔付き合っていた人にはそれを指摘されて言い合いになってしまったことがあるらしい。

 俺は仮の恋人だからシノさんとの関係にどうこういう権利はないと思い、柚木くんにそんなことを言った。言った後で「これってあまりよくない回答なのかも」と気づいて思わず柚木くんの顔を見た。嫉妬してほしかったり独占欲をむきだしにしたりしたほうがよかったかと思ったら、柚木くんは俺の答えに安心したらしく、柔らかく笑った。

 柚木くんは優しい。たぶん、仮の恋人になるよりも昔からずっと、彼はそういう人だったんだろう。シノさんに対しても表面上は適当にあしらってるように見えてその実貶めるようなことはしていない。彼の寛大さと優しさによって、俺はなんとか恋人をやれているに違いない。

 だから俺は、その優しさを独り占めしたくなかった。ただそれだけのことなのに、それがこんなに彼を安心させるのであれば。彼がそれでこんなにほっとしたように笑うなら。彼の大事な人を俺が嫌いにならない、たったそれだけで。



 柚木くんはきれいな星のようだった。俺の行く方向を指し示すような、きらきらとこぼれるように、それでいて一際強く輝く光。



 (このきれいな星を知ったから、きっとこれで、)




知りたくはなかった。目を逸らしていたかった。けれど、自覚したならもう認めるしかない。

 柚木くんが笑うと嬉しい。柚木くんが恐れるものから守って上げたい。柚木くんと一緒にいると心が落ち着く。

 隣にいてくれると、とても幸せな気持ちになる。たとえそれが、俺には本来過ぎたものだとしても。

 


 

 (ああ、俺、柚木くんのことが好きなんだ、)




 たとえ星に手が届かないとしても、それが不相応だとしても、今ある幸せを手放したくはなかった。

 だから俺に罰が下るまで、俺が全てを清算するまで、もう少しだけ。



 もう少しだけでいいから。







 

 


 

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