第5話 アンダーハンドパス

 私たちに宛てがわれたのは大外の9レーンだった。タイム順で拾われた身だ、不利なレーンになるのは当然だったし、個人的にはカーブがきつくなる2レーンじゃなくてよかったと思った。


 2レーンから9レーンまで八組の高校名が紹介され、ついに開始の準備が整う。


「──オン・ユア・マークス」


 スターターの声が静まり返ったトラック内に伝播する。各校の第一走者が進み出て膝をつき、スターティングブロックに脚をかけて体勢を整える。


 そして訪れる完全な静寂。


 一気に緊張が跳ね上がる。バクバクと暴れる心臓を無理矢理に押さえつけて、私は遠く筑波先輩をじっと見つめる。


「──セット」


 全員が腰を上げ、重心を前方にかける。


 果てしない無が、一瞬にして過ぎた。


 ──号砲。


 スターターピストルから煙が上がって刹那を待たず、八人の選手が飛び出した。


「……よし!」


 筑波先輩のスタートダッシュは決勝の場においても群を抜いていた。並み居る強豪の選手たちを置き去りにせんばかりの超加速で、2レーンから8レーンまでの人たちをぐんぐんと突き放しながら駆け抜けていく。


 富士部長が走り出す。私からはふたりの距離の縮まり方などは見えない。ただ願うのは、部長が左手にバトンを握って私の方へ走ってきてくれることだけだ。


 部長の左手にバトンが現れた。無事にバトンが繋がったのだ。ホッと安心したのも束の間、私は全神経を集中する。テイクオーバーゾーン手前に貼ったテープに富士部長が到達した瞬間、私は全力で走り出さねばならない。


 若干苦しげな表情の部長が近づいてくる。5レーンと6レーンの第二走者が速い。そこは上位通過チームに宛てがわれるレーンだから当然だ。さらにチームの二走を務める選手は往々にしてエース級であることが多い。現に、昨年の新人戦決勝進出者である富士部長が抜き去られてしまっていた。


 でも関係ない。四継は二走で終わりじゃない。まだあとふたり走る。一番最初にゴールにバトンを持っていくことが勝利の条件なのだ。


 富士部長がテープを越える。私は前を向いて走り出した。


 加速だ。加速しろ。部長のことは考えるな。テイクオーバーゾーンの終わりも考えるな。とにかく加速だ。バトンをもらうまでに、絶対にトップスピードに乗りきれ──!


「はーい!」


 富士部長の声が背中にぶつかった。追いついてくれたのだ。反射的に私は右手を後ろに突き出した。──バシン! と、ひんやりしたアルミ合金製のバトンが手の中にばっちり収まった。


「いけええええええ! 涼花ああああああああっ‼」


 部長の絶叫が私の背中を押す。と同時に、それ以降、私の耳には一切の音が入らなくなった。


 進め。進め。進め。進め。次に私がやるべきことは、右手に握るこれを彼女に繋げることだけだ。


 体を左側に少し傾け、余計な力を入れないように細心の注意を払いながら、ひたすら重心の真下でウレタン製のタータンを叩く。


 視界の左端になにかがちらつく。5レーンと6レーンの選手だ。第二走者でリードを得た学校の選手が、私の内側にぴったりとついてきている。


 だけどそんなことはどうでもいい。


 集中しろ。全部。全部だ。返ってくるものを少しも取り零すな。反発を全部、余さず推進力に変換しろ。


 そう、これでいい。私は最高の走りができている。だって併走しているってことは、外側を走る私の方があの子たちよりもずっと速い──!


 第4コーナーが近づいてくる。ついに彼女の姿が視界に映った。いつものように体を前方に傾けて、目線だけは私を真っ直ぐに見つめている。


 不意に彼女の表情が鮮明に映った。


 彼女は、百華は──笑っていた。


 私には聞こえた気がした。百華の声が、確かに聞こえた気がしたのだ。


 ──私のこと、つかまえてみせてよ。


 分かったよ百華。必ず、必ずあなたをつかまえてみせる──。


 乳酸の溜まった体に今ひとたび鞭を打ち、自分の中にあるギアをもう一段階上げる。既に内側のレーンを走る他校の選手は眼中になかった。私の視界に映るのは、誰よりもつかまえたくて、誰よりも触れたいあの子だけだ。


 瞬間、百華が前方へと向き直り、倒れ込むようにして走り始める。細くしなやかな脚が一歩、また一歩と地面を叩くと、彼女の体はみるみるうちに加速していく。

 

 逃げていく。彼女が。私から、全力で。


 私は追いかける。彼女の背中を真っ直ぐに見つめながら、一生懸命に。


 どうか、どうか私から離れていかないで。


 ……いや、違う。

 私はあなたを離さない。わたしはあなたを、つかまえてみせる──。


 やがて私たちの距離は限りなくゼロに近づいて、その手がもう目の前にあった。


「──はい!」


 合図を送る。一瞬後、彼女の左手が腰の横に構えられて、手のひらが下向きに開かれる。


 私はそこに目がけて、下から振り上げるように自身の手を持っていった──。


 ──私の手と、百華の手が、重なった。


 ──つかまえた。


「──つかまっちゃった」


 彼女の発した一語が私の鼓膜を揺らしたかと思うと、既に私の手中にバトンはなく、左手にそれを握った百華が凄まじいスピードで直線を駆けていた。


 私は大きく息を吸い込んだ。


「百華ああああああっ! 頑張れええええええええっ‼」


 遠くなっていく彼女の背中。でも、私はそんな背中を視界に捉えて離さない。


 百華がフィニッシュラインを駆け抜ける。途端に、遮断されていた音たちが耳に飛び込んだ。割れんばかりの歓声だった。


 一体結果はどうだったのか。なにも分からないままに、私はのろのろと放心気味にホームストレートを歩いていく。

 アナウンスの声が会場に響いた。


「──ただいまのレース、一着は、第9レーン・宇水高校──」


 確かに聞こえたのに、それでも最初は信じられなかった。

 私たち、勝った──?


「涼花ああああああっ!」


 いつの間にかフィニッシュライン付近まで歩いてきてたらしい。駆け寄ってきた百華が飛び掛かるように抱きついてきた。


「うわあっ、も、百華……っ⁉」


「やった、やったよ涼花! 私たち勝ったんだ! 県総体の四継、優勝だよ!」


 この世のなによりも明るく魅力的な笑顔が、私の目の前で咲いていた。

 至上の喜びをたたえ、わずかに潤んだ双眸が私を見つめる。


「ありがとう涼花。私のこと、つかまえてくれて」


 そのとき私は想った。

 ああ、だから私は、いつまでも彼女を追いかけていたいのだ。

 そして何度だって彼女のことをつかまえて、確かに触れ合って、この笑顔を間近で眺めていたいのだ。


 そのために、何回だって私は彼女にバトンパスをしよう。


「いつだって私は百華をつかまえてみせるよ。それこそインターハイの決勝でだってさ」


 私は百華に微笑みかけた。


「──きっと全部、アンダーハンドパスで」


 ふと目をやると、筑波先輩と富士部長が泣き笑顔でこっちに向かって走ってきていた──。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アンダーハンドパス 夜方宵 @yakatayoi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ