炉辺の幸福
笠井 野里
クリスマスのよる
ある雪さえ降るような、凍える寒さのクリスマスの夜。みすぼらしい格好の青年は、
クリスマスに向けて一つ、女性独白体の恋愛小説をうんうんとうなって、何とか発表した青年ですが、誰も見ることはありません。「お願いします、読んでください」電子の海に叫ぶ彼の声は、虚空に響きます。青年はもう、人生がいやになってしまいました。哀れっぽくベンチに座る彼を、誰ひとりとして見ていません。前を向くとそこには、雪とイルミネーションの装飾を煌びやかにまとった人達が溢れています。
彼と同い年であろう学生のカップルが、一人座るベンチの彼をちらと見ます。青年は言いようのない切なさにベンチを立って、牛丼屋へととぼとぼ歩いて向かいました。少し離れてから後ろを振り返ると、さっきのカップルは、ベンチに座り二人寄り添い唇をくっつけていました。
牛丼屋の前の扉に立った彼は、学生カップルで満杯の店内の灯りを見て、ため息をつきました。クリスマスのご馳走は、牛丼屋にしようと思っていた貧乏な青年は、扉のガラスに映る自分の顔と、中の人達の顔を比べて、やせ我慢をするように薄く笑いました。雪が強まり、肩には粒の雪が大量についています。びゅうと吹いた風に「おおさぶい」と独り語りかけながら、近くのコンビニで弁当とストロング缶を買って、四畳半へと帰りました。
帰った青年は、アニメを見ながら晩酌をして、泣きました。内容が同じクリスマスのものだったのです。クリスマスのプレゼントを交換しあうキャラクターの姿を、彼は眺めていました。彼はプレゼント交換なんてやったこともありません。
アニメを見るのをやめて、SNSを眺めました。故郷の旧友たちは、愛の言葉と夜景ばかりを浮かべてきます。旧友たちが、陳腐な愛の言葉とホワイトクリスマスに酔うさまを想像して、その甘ったるしさに身震いしました。
いやになった青年は、寝ることにしました。彼は寝る際には、音声作品を聴く習慣がありました。イヤホンをした耳から流れたのは、田舎宿の女中たちと、鍋をつついて食べ、駄弁るような作品でした。目を閉じると鮮明に浮かぶ情景。女中の一人が自分で栽培したという白菜の味、炬燵を囲む皆。酔ってみなに絡む女将さん。騒がしい空間も、目を開けると消えてしまいます。その景色に慌てて戻ろうと瞼を閉じても、もうイメージは浮かびません。目の奥が熱くなって、涙が止まらなくなって、嗚咽が止まらなくなってしまいました。
青年はうわあと叫んで、慌ててパソコンの前に座って、自分の書いた小説を消してゆきます。ファイルを右クリックして、Dキーを押して削除。カチ、タン。カチ、タン。明るくもなく、温かくもない。あのマッチ売りの少女は、マッチの火に無限の創造を見出してさえいましたが、この文学を夢見る青年の、右クリックからは、なんの創造もありません。ただ消えてゆく、作品たち。涙で前さえ見えないのに、なんにも浮かびません。青年は、作家の才がないことを確信してしまいました。
薄暗い天井を眺めて、青年は幸せについて考えました。様々ぼんやりと浮かぶ幸せたち。自分の作品が評価されることを思いました。どこからともなく、マッチをこする音が聞こえます。その瞬間、青年の夢はどこかへ霧散しました。
恋人と過ごす一夜を思いました。シュッ! 火がついて、消えてしまいます。
家族と過ごす一夜を思いました。シュッ! また火がついて、消えました。
友人と過ごす一夜を思いました。シュッ! 消えてゆきます。
フライドチキン、クリスマスツリー、夜景、雪、イルミネーション、クリスマスソング、プレゼント、鍋、暖炉、マッチ。シュッシュッシュッ!
平凡な日常を、
マッチ売りの少女の不幸を思い浮かべました、シュッ! 己の不幸を思い浮かべました。シュッ!
青年は、絶えず聞こえるマッチの音に、つい噴き出すように笑ってしまいました。白い天井を眺めるのをやめて、白い雪の降る夜空を眺めました。そこには、流れ星も、青年を愛してくれるたった一人の人も現れません。青年はそれを思ってついに腹を抱えて笑いました。数分空を眺め、落ち着いたころに、はぁと一つため息をつき、その後パソコンの前に座って深呼吸をし、キーボードを打ちはじめます。小説づくりが始まりました。
――――
三日後のよく晴れて空も透明な朝、青年は赤くなった目と、真っ黒なクマを作ってついにある小説を書き終えました。そうして、口元に微笑みを残して、バタンと倒れてしまいました。どのような物語かは、ここでは多く語りません。ただ、マッチの火のような、すばらしいものであることだけは確かです。
しかし、その朝のある時間に、空に一筋の流れ星が落ちたことには、誰も気が付きませんでした。
炉辺の幸福 笠井 野里 @good-kura
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