共振症.5

 飛び降りた老人の血を洗い流したのが職員なのか、警察なのか、昨夜の雨なのかわからない。


 水溜まりがスニーカーの底を突き抜けて侵食してくるのを感じる。幻覚の中の血痕が現実を侵す想像を振り払いながら、俺は職場に向かった。



 施設の前には黄色と黒のテープが張り巡らされ、菊池老人の落下地点には三角コーンとブルーシートが置かれていた。シートの弛みに溜まった雨水が鱗のような雲を映して、もうひとつ空があるようだった。


 想像していた野次馬や警察官の群れはいなかった。父が事件を起こしたときはどうだっただろうか。

 俺はテープの網を回り込んで、裏口から施設に向かう。


 駐車場の隅の赤いブリキのスタンド式灰皿は昨日から掃除されていないのか、灰を溜めて白く変色していた。哀れだと思った。

 人間と違って物に対しては同情できた。自ら助けを求めて可哀想だと思ってくれと発信できる人間は、俺の手など借りなくても勝手にやってくれと思う。物は喋らないし、泣かないからいい。



 近くに干してある雑巾を取ったとき、裏口の扉が開いた。

賢木さかき、お前何やってるんだよ!」

 薄い光の射す扉から身を乗り出しているのは、初日に俺に突っかかってきた介護士の男だった。後ろから高橋が俺と男を見比べている。


 俺は聞かれた問いにだけ答えた。

「灰皿の掃除を」

「ふざけんなよ!」


 男はそう叫んで俺に突き進んでくる。開けっぱなしになった扉の先に知らない顔の群れが見えた。事務所の中にいるが、制服を着ていないから介護士ではない。注視しようと目を細めたが、立ち塞がった男に阻まれた。


「どこ見てんだよ!」

 男に腕を掴まれて、雑巾が手から落ちた。白い布が汚れた雨水を吸って黒く変色した。男は唇の端から唾を飛ばした。


「お前な、何が起こったかわかってんのか? 朝から菊池さんの親戚が押しかけて、どういうことだって電話も鳴り止まないんだよ!」

「それと俺に何の関係が」

「お前が病気で、お前の親父が殺人犯だからだよ!」


 ピンクのカーディガンを肩にかけた高橋が俺と男の間に割り込んだ。

「やめてしてください、賢木さんは関係ないでしょう!」

 高橋は男の腕を俺から引き剥がそうとしたが、力が足りずに子どもが戯れているような形になった。男は高橋に一瞬視線をやり、俺に憎悪の目を向けた。


「見ろよ!高橋さんにまで迷惑かけてんだぞ!」

 俺は肩を竦める。迷惑なのはどっちだか、とは言わなかった。

「賢木、お前共振症なんだってな? 知ってるんだよ。他人の頭ん中覗いてめちゃくちゃにする病気だって。菊池さんが死んだのもお前が来たせいじゃないか?」


 俺は灰皿を横目で見た。自由な手でこれを掴んで、男の頭に叩きつければこの状況は終わる。やってないことをやったと思われるなら、犯罪者になった方がまだ納得がいく。



 軽薄だがどこか威圧的な声が思考を断ち切った。

「それ、誤解ですねえ」

 男が咄嗟に俺の手を離す。たたらを踏んだ俺の背を高橋が支えた。


 声の方を見ると、色付きの眼鏡をかけて長い髪を結んだ男が送迎用のバンの陰に立っていた。銀河を映したような柄の派手なシャツを纏っている。

 父の病院で見た男だった。



 高橋が不安げに聞く。

「あの、どちら様でしょうか? 今ここは……」

「失礼しました。私、記者のもので、ちゃんと取材許可も取ってますよ」

 長髪の男は胸元から小さなレコーダーを覗かせると、俺の方に歩み寄った。


「仕事柄調べているんですが、共振症っていうのは他人の精神に同調して幻覚を見てしまうことです。それは一方通行で、患者さんが他人に影響を及ぼすことはないんですよ」

 長髪の男は頷きながら続ける。

「介護に関わる方が病気に関してあらぬ誤解で当事者を責めるっていうのはねえ。ちょっと、施設全体の体勢に不安が生じますよねえ」


 高橋と介護士の男が唾を呑む。長髪の男は歯を見せて笑った。

「冗談です。私が調べているのは賢木さん、貴方のお父さんの事件ですから。ちょっとお時間いただけますか」

 俺は無言で高橋を見た。彼女は曖昧に頷く。

 長髪の男に連れられて駐車場を抜けながら、灰皿に溜まった灰のことを考えていた。



 長髪の男が向かった先は、駅前の喫煙所だった。

 高架下に衝立を設置しただけのもので、俺と男以外に人影はない。上を快速列車が駆け抜けるたび、頭蓋を踏み砕かれるような振動が走った。


酉越とりごえと申します」

 男はそう名乗った。

「記者って言うのは?」

「方便ですよ。貴方も助かったでしょう?」


 俺は答えず煙草に火をつける。酉越は派手なシャツから外国製の煙草を取り出し、ジッポライターを擦った。

「賢木さんのお父さんの事件のことを調べているのは本当です。共振症に関して興味があるのも」



 酉越は咥え煙草で懐を漁ると、折りたたんだメモ用紙を俺に突き出した。受け取って開くと、明るい色彩のイラストとゴチック体の文字が現れた。

『運動会のおしらせ』。俺にこんなものを見せて何になる。


 日時や持ち物の案内を眺めていると、ある一点に目が止まった。酉越が煙を吐く。

「わかります?」

 何の変哲もない文字列の一部に、奇妙な字があった。日と非を組み合わせ、虫の足のように線を増やした幽霊文字。

 介護施設のホームページや、死んだ老人が書いていたのと同じものだ。頭の中で蝉の声が反響した。



 酉越は俺から紙を取り上げた。

「この保育園で先日事件がありました。保育士による園児の虐待。昼寝中の子を布団から取り上げて床に叩きつけたそうです。ニュースで見ました?」

 俺は首を横に振る。蝉の羽根の擦れ合う音に似た耳鳴りが聞こえていた。


「事件を起こしたのは、若くて親御さんからも人気の保育士でした。ただ、気になる証言があってですね。三流のゴシップ誌にしか載ってない話なんですが」

 酉越は声を潜めた。

「昔からある園児が件の保育士を『怖い』と言っていたそうなんです。『あのひとの近くに虫がいるから』と」

「その子どもは……」

「共振症、でしょうね」



 俺は口を噤む。

 共振症の症状は個人によって違う。誰に触れて、何を見るかはそれぞれだ。同じ人間に触れても幻覚を見る患者と見ない患者がいる。見えたとしても、その幻覚は患者ごとに全く違う。

 父が俺のことを理解しようと毎週短い休みに図書館に通って集めた資料に載っていたことだ。


 突発的な殺人を犯した者の精神に、同じ虫が巣食っている。そんなことがあるものか。



 俺の指の間の煙草から伸びた灰がぼろりと落ちた。脱皮のようだった。俺は短くなった煙草を唇に押し当てる。

「……酉越さんは、何でこんなこと調べてんだ」

「必要だからですよ」

「あんた、何やってるひとなんだよ」

「何に見えます?」


 どう見ても真っ当な職についているとは思えなかった。だが、遊び半分で手を出しているようにも見えない。


 酉越が黙り込む俺に身を寄せた。重いタールの煙が俺の肩にぶつかって空へ這い上がる。

「賢木さん、取引しませんか。協力してくれれば、貴方のお父さんの潔白を証明できるかもしれません」

「事件を揉み消すってことか」

「まさか。真犯人を見つければ、自ずとお父さんの疑いは晴れるでしょう?」


 俺は身を逸らして避けようとした。

「俺の父親は自分の手で子どもの首を絞めたんだ。真犯人がいるような複雑な事件じゃない」

「いますよ。この中に」


 酉越は自分のこめかみを指で叩いて見せた。

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潜脳蟲 木古おうみ @kipplemaker

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