共振症.4

 施設の駐車場で煙草に火をつけると、無数の窓がぎらりと光った。


 二階以上の窓には落下防止のための鉄格子がつけてある。痩せ細った老人なら通れなくもないが、無理に体を捻じ込めば身体が千切れるだろう。

 陽光に熱された鉄格子は拷問器具のように輝いていた。外からは刑務所、中は幼稚園に見える施設だと思った。



 昨日から続く偏頭痛が気圧のせいか、幻覚のせいかわからない。他人の精神に同調して幻覚を見る俺は、この仕事に就くべきじゃなかったのかもしれない。ここの老人たちは殆ど皆、幻覚の中に生きているようなものだ。



 煙を吐いたとき、ピンクのパーカーを羽織った若い女が現れた。私服だから一瞬わからなかったが、昨日いたスタッフだ。

「おはようございます。隣いいですか?」

「ああ、どうぞ」

 俺が身を退くと、女は電子タバコを取り出した。話しかけるべきか迷ったが、まだ名前を覚えていない。女は察したように微笑んだ。

「高橋です」

「すみません……」


 苺味のガムのような甘い香りの煙を吐いて、女は眉尻を下げた。

「昨日はすみませんでした。あのひと、前も別のスタッフさんと揉めたんですよ」

 何のことかわからなかったが、昨日親父のことを詰った男の話だと思い出した。

「別に、高橋さんの謝ることじゃないですよ」

「うちの業界は殆どちゃんとしたひとなんですけど、偶にああいうひともいるんです」


 高橋は俺に近寄り、声量を落とした。

「そういえば、昨日菊池さんのことで質問してましたよね。過去に何かあったかって」

 俺が触れた瞬間、幻覚を見たあの老人だ。

「ああ、気にしないでください」

「ここだけの話、あの方昔刑務所に入ってたんですよ」

「刑務所に?」

「ええ、殺人だそうです。でも、可哀想なんですよ。子どもの頃からお父さんに虐待されていて、抵抗したはずみに殺してしまったそうです。あんまり聞かないであげてくださいね」

 俺は思わず目を見開いた。蝉の鳴く和室、血まみれの畳、扇風機が血の匂いの風をかき混ぜる。

「それは、夏でしたか……」


 俺の問いに高橋は面食らったようで、「そこまでは分かりません」と首を横に振った。俺は曖昧に頷く。

「まあ、過去は過去ですからね」

 高橋はまた甘い香りの煙を吐いて笑った。



「今日は絵葉書をやるんですよ」

 仕事が始まってすぐ、大川にそう言われた。

 筆とパレット、乾いた土のような絵の具を食堂の円卓に並べる。卓の中央には造花の紫陽花や胡瓜やトマトが置かれていた。

 高橋が入居者の手を引いて食堂に現れる。俺は老人たちが絵の具や花を誤飲しないよう見守る係だった。


「葉書はお孫さんたちに送ってもいいですね。一言書いてあげたらきっと喜びますからね」

 大川の言葉に老人たちが朗らかに頷く。

 従順に絵筆を握る面々は、昨日のお茶会よりだいぶ少なく見えた。レクリエーションに参加できない者もいるのだろう。菊池という父殺しの老人は相変わらず無言で机の隅を見つめていた。


 大川が老人の肩を叩きながら話しかけていく。

「菊池さん、筆持ってみましょうか。佐藤さんは何を描いてるの?」

 夏なのにカーディガンを羽織った老女は、茄子の表面にありもしない花を描いていた。

「娘が小さいときにねえ、茄子の花の浴衣を作ってあげて、すごく喜んでまだ四月なのに着るって言って、風邪引いちゃったのよ」

「あら、じゃあ思い出のお花なんですねえ」


 俺は会話を聞きながら、テーブルに溢れた絵の具を拭く。粗い布目が汚れを吸い上げ、青黒く侵食されるのを見て、また気が遠くなりそうだった。



 菊池という老人はようやく絵筆をとったようだ。描くというより削るように紙の表面に毛束を擦り付けている。見ないようにしていたが、大川の声が耳に入った。

「お習字もいいけど絵も描いてみましょうか。ほら見て、この紫陽花綺麗でしょう」


 老人は取り憑かれたように一心不乱に筆を走らせていた。紫の絵の具が腕に飛び散り、肘の黒子を増やしていく。老人は狭い葉書を無視して机にも何かを書いていた。

 俺は思わず息を呑む。老人が記しているのは、昨日パソコンの画面で見た、日と非を組み合わせて左右の棒線を増やした、蟲のような字だった。


「ちょっと菊池さん、机が汚れちゃいますからね。紙の中だけに描きましょうね」

 大川の苦笑が間伸びして聞こえた。老人が顔を上げる。卵白のような黄ばんだ目が俺を捉えた。老人は絵筆を放り投げて立ち上がった。紫の絵の具が弧を描き、倒れた椅子ががらんと跳ねる。


 菊池は身を屈め、老体とは思えない速さで駆け出した。止めようと伸ばした俺の腕に硬い衝撃が走る。蝉の声が脳内で炸裂した。



 濃密な鉄錆の匂いが鼻腔から侵入し、思わずえづく。血染めの畳と真夏の夕暮れが広がっていた。

 見下ろした俺の腕は乾いた血がこびりつき、肘の内側に三つの黒子があった。


 蝉の声が騒がしい。鼓膜に張り付いて鳴いているようだ。

 薄く開いた襖の間から硬質な頭が覗いた。

 黒光りする蝉の頭。左右の複眼が部屋の惨状を万華鏡のように映す。針金に似た触覚が探るように動き、俺を指した。見たぞ、と言われた気がした。


 無意識に後退った瞬間、俺の手足は制御を失い、ひとりでに暴れ出した。俺は夕陽の色を移した障子戸に体当たりする。びくともしない。


 蝉の声が大きくなる。俺が障子にぶつかるたび、身体に衝撃が走る。枠組みの中に組まれた棧に血が飛び散る。俺の血か、父の血か。


 目蓋を持たないはずの蝉が目を細めた。襖が開き、巨大な蝉の全身が現れた。虫の腹には無数の毛の生えた足が蠢いていた。

 俺は何度も障子にぶつかる。薄紙が破れ、ささくれだった棧が腕の皮膚を削った。


 蝉は畳に横たわる父の死骸に覆い被さった。目を背けたいのに、身体は障子に押しつけたまま、俺の頭は九十度回転して背後の蝉を見ている。


 虫の頭からストロー状の口が伸び、父の胸に生えた包丁の横に突き刺さった。無数の脚が父の死骸を包む。

 じゅるりと血肉を吸い上げた蝉の腹が、膿瘍のように膨らむ。饐えた腐臭が広がった。引き伸ばされた腹は膨張に耐えきれず、ミチミチと音がして裂け目から血が溢れ出した。


 逃げろ、逃げろ、逃げろ。蝉の鳴き声に混じる声が頭を揺する。俺は障子の枠組みの間に無理に腕を捻じ込む。摺り下ろされるように手の皮膚が裂けていく。あれは俺の父じゃない。俺はあの老人じゃない。

 複眼が俺を捉えた瞬間、あれほど硬かった障子が呆気なく倒れた。



 悲鳴に次いで激しい金属音が響いた。


 食堂には絵の具と汚れた葉書が散乱していた。溢れたバケツから落ちる紫の雫が床を打つ。

 円卓を囲んでいた老人たちはふたりしか残っていない。怯えた叫びを上げる者と、まだ存在しない花を描き続けている者。スタッフは誰もいない。


 高橋が甲高い声で俺を呼んだ。

「賢木さん! 外! 外!」

 俺はふらつきながら食堂を出る。高橋は廊下の窓を指して叫んでいた。俺は足を早めて彼女の隣に立つ。



 まだ悪夢の中にいると錯覚しかけた。だが、血の色は幻覚で見たものより鮮明だった。


 地面の凹凸をなめくじが這うように、じくじくと赤が侵食していく。楕円を描く血溜まりの中にあの老人が倒れていた。

 首は九十度捻れ、血塗れの腕はやけに細い。


 白い目を天に向ける老人の真横に、障子戸の枠組みに似たものが落ちていた。その錆びた表面に綿毛のような白髪と、ぬらぬらと光る赤い欠片が張りついている。

 二階に駆け上がって、鉄格子を無理矢理破って、窓から飛び降りたのか。障子戸を倒して、虫のいる和室から逃げたように。


 頭の中には、まだ蝉の声が充満していた。

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