共振症.3
仕事が終えてすぐ、バス停に乗った。
宇宙船に閉じ込められたような音を立てて扉が閉まる。席に座ると同時に発車した。
東京で働いていた頃なら、今は混雑した列車に揺られていただろう。
父が事件を起こした当初は辞める気はなかった。同僚の気遣いも好奇も面倒だったが、俺が犯罪を犯した訳じゃない。
だが、どこで嗅ぎつけたのか職場に取材や無言電話が来るようになり、辞めようと決めた。元々好きな仕事でもないし、迷惑をかけてまで居座る気もない。
まだ半月前の話だが、終わったらもう過去だ。寧ろ初めから地元を離れていないような気さえする。
ただ、バスは嫌いだった。
揺れる車内を、西日が橙に染め上げる。脳内に滲み出す幻覚を消すために目を閉じた。
父に病院に連れて行かれた日も、梅雨の夕暮れのバスに乗った。
親父はいつから俺がおかしいと気づいたんだろう。
母親が俺たちを置いて出ていった翌日、邪魔だから母の私物の処分したときか。
俺の靴を盗んで逃げた同級生に石を投げたときか。
陸上部で転んで三針縫う怪我をしても泣きもせず、顧問に今後の活動を問われてその日に辞めたときか。
親父は無口で忍耐強く、俺にまともになるよう強いることはなかった。病院に連れて行かれたのは、俺が高校生になって幻覚を見始めてからだ。
親父と行ったスーパーで、偶然近くの客にぶつかった瞬間、頭に映像が溢れ出した。
一面に広がる草原。ただし、草はピンク色で柔らかく、人間の腸絨毛のようだった。俺の足先に触れた毛先がぶるんと揺れ、飛び散った生臭い液が膝を濡らす温かさまで感じた。
人生の中で一番生々しい感触だった。
その場に蹲った俺に親父が駆け寄って肩を揺らした。幻覚は消えたが、まだジーンズの裾が湿っているような気がした。
「特殊ですが、少なくはない事例ですね」
狭い診察室で、医者はそう言った。
「というと?」
隣に座った親父が俺の代わりに尋ねる。日焼けした腕を組み、眉間に皺を寄せ、宿題を忘れた生徒を問いただすような口調だった。
医者は指紋のついた眼鏡を押し上げ、俺を見た。
「息子さん、
「だとしたら、何ですか」
「他者との関わりを好まず、他者からの評価はそれが賞賛であれ批判であれ無関心、自身の願望を示すことはほぼない。そういったことは?」
親父は一度俺を見遣って、沈鬱に俯いた。
「うちは父子家庭で、私は教員ですから、幼い頃から息子にはいろいろなことを我慢させてきました。親子の時間も少なかった。私の責任です」
医者は聖人のような微笑を浮かべた。
「実のところ、家庭が人格形成にもたらす影響は半分より遥かに少ないとされています。それより多くの要因は遺伝子など生まれ持った性質によるものなんですよ」
「では、息子は生まれつき何かがあると?」
「誤解なきよう前置きすると、息子さんは冷淡なのではありません。寧ろその逆です」
「というと?」
「弥寛くんは一般的なひとよりも他者の影響を受けやすい。常にアイデンティティの危機に晒されているようなものです。普段は精神に甚大な被害を受けないよう、防衛本能として脳が感情にフィルターをかけているようなものですね」
親父が一瞬安堵の息を吐いたのがわかった。そのとき俺が感じたのは、傷心に近いものだったと思う。
親父もどこかで俺がまともだと思いたかったのか。
俺は初めて診察室で口を開いた。
「それが幻覚と何の関係が?」
医者は瞬きしてから言った。
「貴方は他人の精神の不調を受け取り、自分の中にそのイメージを再生してしまう。乱暴な言い方をすると、精神状態が不安定な他者に同調して幻覚を見てしまうんです」
告げられた正式な病名は覚えていないが、その後の言葉は覚えていた。
「俗に『共振症』と呼ばれていますが」
ろくでもない言葉遊びだと思った。
帰りのバスに揺られながら、親父もそう言った。
「狭心症と同じ呼び方なんて、馬鹿げてる」
俺がどうでもいいと答えると、親父は硬い手で俺の肩を叩いた。
「気にするな。生まれつき目や指が少ないひとも多いひともいる。お前は身体じゃなく感情の一部がそうだっただけだ。お前が悪い訳じゃない。今できることをやっていこう」
俺が何と返したかは覚えていない。
今と同じような手すりも座席も橙の車内は、火葬される直前の棺の中のように思えた。
病院の前でバスが止まった。
あの日の小さな診療所とは違う、右側の車窓を全て埋め尽くすような大病院だ。
俺はバスを降り、受付に向かった。
面会時間間際の院内は静かだった。点滴台を押しながら公衆電話に向かうパジャマ姿の少女がいるだけだ。健康そのものに聴こえる笑い声を背にして角を曲がり、階段を上がる。
進むほど廊下は暗くなり、病院全体が深海の底にあるようだった。誘導灯の灯りが落とす影が魚影に見える。
親父の病室に入った途端、篭った空気が押し寄せた。
果実をぶら下げた樹木のように、沢山の管に繋がれた父が眠っている。酸素吸入器の内側が白く霞むのだけが、生きている証だった。
俺は傍のパイプ椅子に手をかける。このまま包帯を巻かれた脳天に振り下ろせば楽にしてやれるだろうかと思いながら、椅子を広げてベッドの隣に座った。
毎日来ても目覚める訳ではないし、俺は医者でもないから、無意味だと思う。それを言うなら俺の仕事も生活も無意味だ。何も変わらない。
親父の元々太い眉はそれ以上荒れていないし髭も生えていない。看護師が剃っているのだろう。
父はソフトボール部の顧問で常に日焼けして、腕には静脈が浮いていた。今はその腕もだいぶ細く色が薄くなった。
父は俺の高校の卒業式より自分の教え子の卒業式を優先した。言葉少なに詫びる親父に、高校にもなって卒業式に来る父兄は少ないと返すと、余計に暗い顔になった。教え子の様子を聞くと、ようやく父は表情を和らげて、アルバムを見せてくれた。
興味もなかったが、皆日に焼けて実直な笑顔を見せていて父に似ていると思った。俺よりずっと親子らしかった。
写真の中の未熟で細い生徒の首に、親父は手をかけたらしい。
その日は雨で、ソフトボール部の部員は学校の渡り廊下で走り込みをしていたらしい。親父はストップウォッチを借りに来た女子生徒に何かを言い、いきなり首に手をかけた。
汗と涙と唾液の泡を垂らして喘ぐ教え子の首を十五秒間締め続け、止めに入った別の生徒を殴った後、父は窓ガラスを割って二階から飛び降りた。
頭を打ったが、花壇の上に落ちたお陰で死なずに済んだ。流れる血がマリーゴールドを濡らし、雨に掻き消された。
ネットのニュースの見出しを見たときも、警察から連絡が来たときも、信じられなかった。
親父が殺しかけた生徒ふたりに謝りに行くべきかもしれないが、何も知らずに代わりに謝るのはかえって不誠実だと思った。刑事にも記者にも「わからない」と答えた。
ただひとつ、犯罪者になるなら俺の方だと思っていた。
物音がして、俺は背後を振り返った。
看護師が来たのかと思ったが、病室の入口に立っていたのは知らない男だった。
色の濃い眼鏡と派手なストライプのシャツを合わせて、男にしては長い髪をひとつに縛っていた。一般人には見えない。記事のネタ欲しさに取材に来たか、単なる揺りだろう。この一ヶ月で追い払う気力も失せた。
俺は椅子を畳み、病室を出る。男は眼鏡をずらして俺を見た。
「賢木弥寛さん」
名前を知られているのも想定内だった。親父の事件を検索すれば五分でわかる。俺が黙っていると、男は目を細めた。
「貴方、共振症ですねえ」
そこまで知られていたのは想定外だったが、だからといって話すこともない。
「だから何だよ。親父のことなら本人に聞いてくれ。待ってればそのうち起きるかもしれない」
俺は男の肩を少し押して病室を出た。
自分の靴音がひどく反響した。
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