共振症.2
「
鋭い声で、現実に引き戻された。
赤いブリキのスタンド式灰皿、ウレタンの飛び出したパイプ椅子、汚れたスニーカー、老人の送迎に使う白いバンの尻。
右手に挟んだ煙草から熱い灰が落ちて指先を炙った。反射的に吸殻を投げると、怪訝な視線が返った。
俺と同じ水色のポロシャツを着た中年の女が、事務所の扉を半分開けて俺を見ている。
「すみません、何か?」
「休憩終わったら皆さんのお茶の時間ですから。入居者さんの身体に触れるようなお手伝いはしなくていいですからね。お菓子の準備だけで」
「わかりました」
俺が頭を下げると、女はすぐ扉を閉めた。
この施設で働く前は大病院の看護師だったらしいが、いつも張り詰めて険しい表情をしている。親父の病院にいる看護師もそうだ。そういうものかもしれない。
俺はまだ火が燻る煙草を拾ってもう一度咥え、深く煙を吸う。
血塗れの畳も、包丁の刺さった死体も、蝉の化け物もいない。先週から俺の職場になった、老人ホームの駐車場だ。
何度も自分に言い聞かせる。幻覚なんて最近は見ていなかったのに最悪だ。それも、今までで一番酷い悪夢だった。
最悪なのは、その原因がきっとこの職場にあるということだ。気が滅入る。
俺は吸殻を捨てて立ち上がった。
施設の廊下は微かな尿の臭いと、それを掻き消すための薔薇の芳香剤の匂いがした。
「毎月の第一水曜日はお茶会なんです。季節のイベントがないと、日にちの間隔が余計わからなくなっちゃうから」
介護業界に俺の教育係の女は紅茶の乗った盆を片手にテキパキと説明した。
案内された食堂には扉がなく、十人程度の老人が円卓を囲んで座っていた。
大川が俺の耳元に口を寄せて囁く。
「一番右のお爺さんにお菓子を配るときは注意してね。あのひと、いっぱい食べるけど飲み込むのを忘れて洋服のポケットに吐いちゃうんですよ」
じっと円卓の隅を見下ろす老人はひどく痩せていた。いくら食べても胃には落ちない。賽の河原の石積みのような食事だと思う。
大川に促され、俺は生温いカップとカスタードプリンを円卓に並べる。
笑顔でしきりに話しかけてくる老人もいれば、黙りこくって動かない老人もいた。
注意するよう言われた右端の席の老人の前に皿を置く。
微動だにしない。黒ずんだ肌と浮き出した血管が、ニスを塗った木像のようだった。これなら特に気をつける必要もないかと思ったとき、老人の腕が素早く動いた。
大川が「ちょっと」と声を張り上げる。俺が動く前に、骨張った手がカスタードプリンを鷲掴みにした。勢いでカップがひっくり返り、紅茶が円卓に広がる。
俺はどうすべきか戸惑って、咄嗟に老人の腕を掴んだ。
頭に殴られたような振動が走る。食堂の風景が歪み、夏の日暮れの和室が広がっていく。薔薇の芳香剤を掻き消す血の匂い。
蝉の声が聞こえたとき、大川が俺の肩を揺らした。
「そっちはいいからテーブル片付けて!」
俺は我に返って老人の手を離した。向かいの席の老婆が泣き出し、駆けつけた他のスタッフが慌ただしく円卓を片付けていく。
俺は布巾でカスタードと紅茶の混じったシミを拭いた。幻覚は消えたが、心臓が騒いでいた。
老人の肘の内側には黒子が三つあった。
それからは特に何事もなくお茶会の時間が終わった。
大川に連れられて、俺は施設の奥の事務所に入る。壁には入居者の情報が挟まったファイルが並び、机の上には古いパソコンと畳み掛けのタオルがあった。
大川はポロシャツのボタンを開けながら苦笑した。
「いやあ、びっくりしたでしょ」
「はい、すみませんでした」
「いいのよ。でも、あんなの日常茶飯事ですからね。慣れてもらわないと」
事務所にはふたりのスタッフがいた。
まだ若い茶髪の女と、三十代くらいの大柄な男だった。初日に挨拶は済ませたはずだが、名前はまだ覚えていない。
事務所の隅のゴミ箱に血のついたティッシュが捨ててあった。病気のせいでよく鼻血を出す老人がいると説明されたから、そのせいだろう。
脳に染みついた幻覚が蘇り、俺は思わず口を開いていた。
「大川さん。さっき注意してくれって言ってた入居者さん、過去に何かあったんですか」
「他の方と揉めたり、ってこと?」
「いえ、そうじゃなくて、何か事件とか……」
「聞いたことないですけどね。家庭の事情とかは深入りしないから」
大川が不思議そうに答える。
奥にいた男が低い声で笑った。
「賢木くん、自分の父親の心配をしなよ」
隣の女が咎めるように男の腕を叩く。ここでも親父の起こした事件を知ってる奴に会うのか。ネット上に俺の家まで載っていたし、仕方ないと思った。
俺は前の職場で何度も言ったことを繰り返す。
「本人が起きないんじゃどうにもできないですからね」
男は面食らったような顔をした。俺が萎縮するとでも思っていたのか。俺が女子中学生の首を絞めた訳じゃない。気にする理由もない。
大川は聞こえてないふりをして、わざと明るい声を出した。
「賢木さんはパソコン詳しいんでしたよね! 前の職場でエンジニアだったから」
「それほどじゃありませんが、書類を作るくらいなら」
「助かるわ。こっち来て」
大川は机上のタオルを押し退けて、パソコンの前の椅子を引いた。俺は言われるがままに座る。
画面には明朝体の字がずらりと並んでいた。
「今うちの施設のホームページを更新してるんですよ。最近はAIで紹介文を作るんですって。そういうのわかる?」
「少しくらいなら」
「よかった。もう元の文はできてますから、変なところがないか調べてほしいの。結局機械があってもこういうのは人力なのよね」
電話が鳴る音がして、先程の男が慌てて受話器を取りに行った。
若い女の方が俺に向けて軽く会釈する。俺も首を曲げて返した。彼女も俺の親父が何をしたか知っているんだろうか。
俺は改めて画面に向き合った。
久々のブルーライトが目を刺し、脳の芯が痛む。スクロールしながら違和感のある箇所がないか調べていると、平坦な文字列の中に奇妙な漢字があった。
暃。
日と非を上下に組み合わせた、見たこともない漢字。恐らくフォーマットの基本漢字に誤って登録された典拠不明の字、いわゆる幽霊文字だろう。
前職で聞いたことがある。
修正しようとカーソルを合わせて気づいた。漢字の下部は「非」ではなかった。左右の棒線が六本ほどある気色悪い字だ。
硬く平坦な頭と、足と羽を閉じた虫の腹のようだった。
触覚を擦り合わせるかさついた音が、鼓膜の奥で響いた気がした。
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