第9話 8日目

 8日目

 ページを照らす光が、夜明けの空の藍色から、次第に濃い朝の日差しの色に変わっていくのを見て、私は、日記から顔を上げた。ペンを走らせている間に、夜が明けていたらしい。

 7日目をようやく、書き終える事が出来た。これを今、書けているという事は、私と静留は、まだ生きているという事だ。

 長椅子に二人で、夜通し、身を寄せ合って座っていた。途中で、静留は泣き疲れた子供のように、私の肩に頭を乗せて、座ったままで眠っていた。

 台風は過ぎ去っていったらしく、目が覚めた時には、窓を叩く雨音も、ごうごうと鳴り響く、隙間を抜ける風の音も止んで、礼拝堂の中は静けさを取り戻していた。窓の外から差し込む日差しの強さから、空が晴れた事を知る。

 礼拝堂の最奥の、ステンドグラスが飾る窓に目を向ける。眩しい朝日が、建物の中の闇を払うように何本もの光の筋を成して、差し込んでいる。その時に見た、朝日に輝くステンドグラスに描かれる、神の姿、聖人達の姿の美しさに、私は息を呑んだ。嵐が過ぎて、安らぎを取り戻した私達を迎え入れるように、朝日が、天国を作り出していた。それは、一段と輝きを増しているように思われた。

 「綺麗…」

 私の隣で、静留の声がした。いつの間にか、目を覚ましていたらしい。彼女もまた、ステンドグラスに目を奪われて、その瞳の中に小さな天国を浮かべている。

 昨日、もしあのまま静留が死んでいたら、二人で、この天国を見る事は出来なかっただろう。

 朝の訪れと共に、礼拝堂の外からは、蝉の鳴き声がまた聞こえ出していた。それは、この朝、土を出て、空へと飛び立つ新たな仲間へと送っている歌声にも感じられた。

 嵐は止んだ。この天国にいつまでも浸っている事は出来ない。私も、外に広がっている、苦しい事も沢山待っている世界へと飛び立たねばならない。

 でも私には、静留がいる。

 「この場所から、離れたくないって、今も思ってる…?」

 私は、昨夜、静留と話した事が、彼女の中で揺らいでいないか確かめるように尋ねる。彼女は、首を横に振ってくれた。

 「外の世界に戻っていく事は、今だって、本当はまだ怖い。でも、もし私がまた心が折れてしまいそうになった時には、葵が引っ張り上げてくれるって約束してくれたから…、私は、怖くても、歩いて行けるよ」

 静留が隣にいてくれさえすれば、この廃校舎も、礼拝堂もいつか無くなってしまっても、私は、この天国をまた、何度も思い描く事が出来る。どんなに汚れた物で溢れた世界の中にいても。

 「一緒に生きよう。私達が生きてさえいれば、今見ている、この天国は滅びない。この場所が無くなってしまっても、ここに、二人だけの天国があった事は、私達の記憶の中に残り続けるんだから」

 荷物をまとめ、礼拝堂を後にする。この日記を書くのも、これで最後だ。

扉を開けて、外に出ると、夏の日差しがじりじりと肌に照り付ける。

 「あ、蝉がいる…」

 静留の声に、階段の下に目をやると、一匹の蝉が落ちていた。それを見て、この不思議な旅を始めるきっかけとなった話を、二人でした、あの学校の帰り道を思い出す。

 しかし、あの時、アスファルトの上で息絶えていった、あの蝉とは違った。私達が近づく気配を察したのか、その蝉は、力強い鳴き声を上げながら、飛び立った。自分はまだ力尽きてはいない。生きている、と叫ぶように。飛び立った蝉は、澄み渡るような青の広がる空へと飛んでいき、やがて見えなくなった。

 最後に、私達を包んでくれる、小さな天国だった、この礼拝堂を、二人で見上げた。あの、キスを交わした時に聞いた気がした、鐘の音を思い出して、鐘を探すが何処にも見当たらない。

 そうして、歩き出そうとした、まさにその時だった。

 蝉の鳴き声の中で、もう一度、確かに私は聞いたのだ。鐘が鳴る音を。二度とは帰れないこの場所から、外の広い世界へと出て行く、私達を惜しみ、そして祝福してくれているように、鐘は鳴っていた。

 静留も足を止めて、私を見た。彼女も驚きに目を大きくしていた。

 「ねえ、葵。今、また聞こえたよね、鐘の音が…。あ、あの時と同じように」

 キスを交わした時を思い出してか、静留は頬をまた染める。私も、日差しで照らされているのとは違う理由で、頬が熱くなっていく。うぶな私達は、キスにはこれから慣れていくのを、気長に待つしかなさそうだ。

 「きっと、この天国が、鐘を鳴らして、私達を見送ってくれてるんだよ…。私達との別れを惜しんで、そして門出を祝ってくれてる」

 人生の中で、信仰心のような物を持った事のない私も、今だけは、奇跡の存在を信じる事が出来た。

 「それじゃあ、行こう、静留…」

 私が手を伸ばす。それを、静留がしっかりと掴む。静留の指にはまっている、指輪の存在を手の中に感じ、私も自分の左手の薬指にはまるそれを見つめた。夏の日差しに光るそれは、今は、何カラットのダイヤの指輪よりも眩しく見えた。

耳には、幻なんかじゃなく、確かに聞こえた祝福の鐘の音が残っている。

 先程、この礼拝堂の階段から、大空へ旅立っていった蝉と同じように、私達も、一歩を歩み出した。

(了)

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盛夏の天国、私達の一週間 わだつみ @scarletlily1125

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