第8話 7日目

 7日目

 礼拝堂の中で、起きた時はもう昼過ぎだった。

 その日は、午後も雨が降り続いていた。うるさいくらいに鳴き続けていた蝉達も、雨が強まってきた為か、今日は殆ど聞こえない。この後、本格的に台風が来たら、蝉達はどうなるのだろう。その短い命を、風に散らしてしまうのだろうか。

 私達のこの、かけおちというべきか、家出というべきかよく分からない旅は、今日まででおしまい。私と静留の二人だけを住人として、再構築されたこの儚い世界は終わり、現実という、学校があって、1億人の暮らす国があって、70億人が暮らす世界へと戻らねばならない筈だった。

 「帰ったらこっぴどく怒られるだろうね、私達…。勝手に廃墟に入り込んで、キャンプしてたなんてばれたら。台風が終わるのが嫌だな…。」

 礼拝堂の外を吹き荒れる雨風が止んだら、ここを出て行く。私だけでなく静留も、そう考えている筈だった。

 静留は、私の言葉には答えなかった。じっと、光を無くしたステンドグラスの天上世界を、虚ろな目で見上げていた。昨日の夜、急に闇の中で彼女が涙を零した時、この旅が終わる事に、感傷的な気持ちになっているのだろうか…。昨日の夜、私はそう考えた。しかし、それは楽観が過ぎる考え方だったようだと思い始めていた。静留は繊細な子で、だからこそ、蝉のような短命な命の生き物にも、あそこまで感情移入をするのだが、それにしたって、今の彼女の様子は、旅が終わる事への感傷だけでは片づけられない。窓の外に見える鈍色の空よりも、今の静留の目は輝きを無くして、暗く、淀んでいた。

 昨日の、あの最高に幸せだった時間の彼女の面影は、何処にもなかった。

 「どうしたの、静留…?今日は、ずっと黙ってるけれど」

 少し、声を大きくして呼びかけて、やっと静留は、私の方を向いた。

 そして、思いがけない言葉を発した。

 「私は…帰らない」

 彼女の言い方が、あまりにも自然というか、そうしない事-帰る事の方が逆におかしいと言わんばかりだったので、私は、咄嗟に言葉を返せなかった。

 「え…?帰らない…?何、言ってるの…静留?」

 「言葉通りの意味だよ。私は、私と葵で作り上げたこの幸せな世界から、出て行く気なんてない…。この旅に出た最初の時から、ずっとそう決めていた。」

 有無を言わせない物言いだった。そして、その言葉に、私は、息が詰まりそうになる。

 最初から、帰らないと彼女は決めていた。私達の暮らしてきた、元の日常の世界に。

 ‐どうして。一番、当たってほしくない予感が当たってしまった事に、私は唇を噛む。

 静留にとっては、これはやはり片道切符の、かけおちの旅のつもりだったのだ。

 『自殺』という、最悪の二文字が頭に浮かんだ。静留が、この場所から離れる事なく、私と築いた世界を失う事なくいられる術は、それ以外に考えられなかった。この一週間で終わる世界と共に、静留も滅んでしまうつもりなのか。蝉の人生のように。

 でも…、だったら、何で。

 「…なんでよ。静留が、死ぬつもりだっていうんだったら、なんで、私と結ばれたいってあそこまで願ったの!私は、静留と結ばれた世界が、この場所を去った後も、ずっと、続いていくんだって信じていたんだよ?ここで静留が死んでしまうのなら…、誓なんて、意味がなかったじゃない…」

 「葵。私が、この旅を始める前に言った事を思い出してよ。人間の人生の幸せな事なんて、ぎゅっと先取りしてしまえば、一週間で全部終わるって。私にとって、葵と結ばれる事が出来たのは、一番の幸せだよ。それを経験出来た、この一週間を超える程の幸せや、人生が輝く瞬間なんて、私は想像できない。私は、この場所で、二人で作った世界が消えてしまって、苦しい事ばかりの現実世界に帰るのは、もう嫌なの。幸せなままで…」

 「…死にたいっていうの?」

 私が問いかけると、葵は、哀しそうに微笑んだ。

 嫌だ。静留は自分勝手が過ぎる。貴女に置いていかれたら、貴女のいない世界で私はどうして生きていけるの。

 窓を叩きつける雨風は、私の感情をそのまま表現してくれているように荒れ狂っている。

 「…静留は、この旅が始まった、最初の時からずっと死ぬつもりでいたんだね。この一週間が終わりを迎えたら」

 「…そう。葵と作り上げた、二人だけの世界が滅ぶのと共に、私も死ぬ。この一週間は全部、その為の期間だった」

 気付けば、彼女は手に、ナイフを握っていた。

 「葵。これは、私からの、最期のお願い。葵は、ずっとノートに日記を書いていてくれたよね。それが、私と葵だけの世界が確かにあった証拠だよ。この台風が過ぎ去ったら、その日記を持って、この廃校舎を出て。私は…、7日目の今日が終わったら、ここで死ぬ。だけど、葵はどうか生き抜いて、二人だけの綺麗な世界を、その日記の中で完成させてほしい。私の死っていう結末を書いて」

 彼女のナイフを握る手は震えてはいたが、その瞳に宿っているものは、確固たる意志に感じられた。

 静留は、この廃校舎の外に広がっている現実世界…、綺麗な物で溢れているとはとても呼べないような、あの生きづらく、汚れた世界にまた戻っていくくらいなら、私と過ごした一週間の記憶を胸に抱いて、自ら滅んでいくつもりなのか。私と共に作った、「二人だけの美しい世界」が終わるのと同時に。

 「ふざけないで…!」

 静留の、すっかり諦めてしまったような…、「死」という結末に向かって一直線に伸びるトンネルを思わせる、暗く淀んだ瞳を見つめながら、私はそう、言葉を放つ。気の利いた言葉なんて言える自信はない。だけど、私がここを出て行けば、あのナイフで首を切るつもりでいる静留を、このまま黙って、置いてなど行ける訳がなかった。

 「汚い現実の世界に帰って、綺麗な自分が汚されるのが嫌。だからこの場所を、勝手に理想の美しい世界だと思い込んで、消えていく世界と一緒に死のうなんて…!静留は、身勝手すぎる。自分に酔って、そして、自分が一緒に死ぬのに相応しいような、綺麗な世界を作る為に、私さえも利用したんだ!」

 この一週間は、全て、静留の理想とする死に方の為の準備期間だった。そう考えると、彼女は最初から、計画的に、私という存在さえも、「美しい世界」を完成させる為の小道具のように思っていたのかと思われて、哀しみと、怒りも同時に湧いてくる。

 学校の中で居場所がない者同士というだけの共通点で、何となく繋がり、静留の事を知っていき、そして、好きになっていた。彼女の時折見せる、世を儚むような言動も含めて、私は気に入っていたし、静留も同じ気持ちでいてくれている事を願っていた。そして、この一週間で、静留が私に気持ちをぶつけてきてくれて、通じ合えた事が本当に嬉しかった。

 それなのに、この一週間が、こんな結末で終わるというのなら、私さえも、静留が理想の「死」を遂げる為の、小道具か、盛り上げる為の舞台装置の役割しかなかったように思えた。それが悲しくてならなかった。

 「やっと、素直に気持ちを伝えあう事が出来て、新しい私達の時間が、ここを出ても続いていくんだと信じてたのに…!私への裏切りだよ…、静留がやろうとしてる事は…」

 私は、頭を抱えて、長椅子の上に座り込む。礼拝堂の最奥、かつての祭壇があった場所に立っている静留は、茫然としていた。その手に握られたナイフは震えていた。

 その後、何時間もの間、礼拝堂に籠ったまま、私達は一言も言葉を交わさなかった。ピチャピチャと、何処かで雨漏りがしている音、隙間風の音、時には、遠くで鳴る落雷の音…、そうした音だけが、静まり返った礼拝堂の中に響いていた。

 私は何度も、日記帳を見返した。あっという間に過ぎていった、私と静留の、「一週間で先取りした、濃縮した人生」を。

 静留はこの一週間で、本当に、もう人生を十分に生きたと思えているのだろうか。静留の望み通り、彼女が「死」を選んだ事を、この日記帳の最後に私が書き記せば、それで彼女は人生の幸せを味わったうえで、一生を終えた事になるのだろうか。

 ‐そんな筈がなかった。私達が、この一週間、やってきた事に意味がなかったとは思わない。だけど、この一週間の出来事は、全て、現実世界に存在しているイベントの名前を借りてきて、それを真似していたに過ぎない。確かに「生きてるだけで丸儲け」なんて言える程、人生も現実世界も甘くはない。楽しくて幸せな事の、何十倍も、辛い事の方がきっと多いだろう。それでも、私は貴女と生きていきたい。真似事ではなく、今度は、本当の幸せを貴女と掴みたい。

 この一週間が終わった後も、続いていく筈だった、私と静留の時間。それを、あの黒板の板書の言葉のように、「ムダ」の二文字で切り捨てられるなんて絶対に嫌だ。

 それに、静留がいなくなった世界は、私にとっては滅んだ世界と同じなのだから。そんな世界で私だけ生きていける筈がない。

 しかし、静留に今、真っ直ぐにそんな気持ちをぶつけても、きっと彼女の心には届かない。この嵐が止んでしまったら、私はここを出なければならず、静留は「死」を以て、美しい世界と共に滅ぶ気なのだから。

 礼拝堂の中に、暗闇が立ち込めてくる。台風の激しさはピークを迎えたようだった。礼拝堂に残る窓ガラスがビリビリと震えて、何度となく、雷の光が、礼拝堂の中、そして私達の顔を照らした。夜が来ても、静留は、決してナイフを手放さなかった。

 私は、最後の賭けに出る事にした。

 「ねぇ、静留…。やっぱりいくら考えても、私は貴女の言いなりにはなれないよ。こんな終わり方、絶対許さない。私だけ生き残って、この一週間を書き残した日記を、静留の死で終わらせる事なんて出来ない…。だから…、貴女が、この世界と共に死ぬというのなら、私も連れて行ってよ」

 「な、何、言ってるの、葵…?」

 今度は、静留が驚きのあまり、固まっていた。この賭けがどう転ぶか、分からない。出るとこ勝負だ。私は、より直接的な表現で繰り返した。

 「静留が死んでしまうのなら…、外の世界ももう、私にとっては、滅んだ世界と一緒なの…。そんな世界で、私だけ生き続けていく気持ちなんかない。それなら、静留に、今、この場で私を殺して、天国へ連れていってほしい。静留が、もう人生に悔いはないっていうなら…、そして、それ程まで、綺麗な世界と一緒に滅びたいなら…、二人で一緒に滅びよう」

 「そんな事…出来る訳ないじゃん!!私は、葵を道連れにする気なんて全くなかったのに。葵は生きて、私の死で、この一週間の人生の日記を完成させてよ…」

 「それが、どんなに私に残酷な事を言ってるか、分かる…?静留がいなくなるなら、そんな世界、生きる意味ないって、私は言ってるの。なのに、自分勝手に静留は、自分の綺麗な最期の為に私を使って、自分が死んだ後も、私だけで生きろなんて言ってくる。無理だよ、そんなの。静留が死ぬっていうのなら、私もここで死ぬ。でも私は、自殺はしたくない。死ぬのなら、大好きな静留の手で、殺してほしい…」

 そして、畳みかけるように私は静留に言った。

 「静留が、自分がいなくなっても私には生きろなんて、残酷な事を言うのなら、私にだってこれくらい、要求する権利はあるよね?」

 酷い事を口にしているという自覚は、勿論ある。しかし、彼女の「私がいなくなっても葵だけは生きて」という要求は、それほどに私にとって、残酷である事を知ってほしかった。

 私は、静留の元へと歩いていく。

 「さあ、好きなようにして…。静留の言う通りには絶対しない。私は、決して静留の前から離れないから」

 静留は、ガタガタと肩を震わせていた。窓の外で煌めいた稲光に、一瞬照らされた彼女の表情は、引きつっているように見えた。ナイフを持つ、彼女の右手にそっと触れる。

 「そのナイフで私を刺してよ」

 静留はぶんぶんと首を横に振る。それなら…と、彼女のナイフを持つ手を掴んで、私の胸へと、ナイフを向けさせようとした。その瞬間、彼女は、私の手を払い除け、悲痛な声を上げた。

 「出来ないって…、言ってるじゃん!!」

 そのまま、私と静留は取っ組み合いのようになり、汚れる事も構わず、礼拝堂の床の上に転がっていた。何処かにナイフは飛んでいき、床に落下してカラカラという音を立てた。

 私を床に押し付けるようにして、静留は私に馬乗りになる。

 次に稲光が私達を照らした時、静留の瞳には涙が浮かんでいた。

 「なんでっ…こんな、酷い事させるの、葵…。葵を殺すなんて事、無理だって言ってるのに…」

 私の頬に、熱い滴が落ちてきた。

 「それなら静留だって、私に、無理な事言ってるじゃない…!私は、静留の死を見届ける為なんかに、ここに来た訳じゃない!本当は、私はまだ生きたいよ。でも、それは絶対、静留がいなきゃ駄目なの!静留がどうしてもここで死ぬっていうなら、私もここで死ぬ」

 「どうして分かってくれないの…⁉私には無理なんだよ…。ここを出て、また現実の世界で、この先、何年生きるかも分からないのに、辛い事だらけの人生を生きていくなんて…」

 どうして分かってくれないの、はこっちの台詞だ。私も、目頭が熱くなるのを感じながら、声を張り上げる。

 「静留の方こそ、私の気持ちを、分かってくれてないじゃん!今、ここで私を殺さなくても、静留が自殺するなら、私の心は、静留に殺されたのと一緒なんだよ…⁉死んだ心のままで、私に生きていけって言う、静留こそずっと酷いよ!」

 静留が、うっ、と息を呑んだ。言葉が、やっと彼女の心に触れられた気がした。

 「でも…、私はじゃあどうしたらいいの、葵?私が死ねば、葵の心は死ぬ…、だけど、私はきっと、この先も、また何度も、息詰まって、死にたくなる…。引く事も進む事も出来ない」

 「その時は、何度だって、私が、静留の首根っこ掴んででも、こっちの世界に引き戻すよ。そして、二人仲良く、一緒に苦しもう。静留は、空に飛び立って、たったの一週間で死ぬ蝉じゃない。この一週間だけで、本当に、人生を生ききった事になんか、なる訳ない…!私は、真似事だけで終わらせる気はないから…!昨日、ここで立てた、あの誓だって、学校卒業して、あの淀んだ街を抜け出したら、絶対、本物にするんだから…!」

 静留の、私を床に押さえつける力が、次第に弱くなっていくのが分かった。その隙を見逃さずに、私は、力の緩んだ静留を床に座らせると、小刻みに震えている肩を包み込むように抱きしめた。

 本当に、命知らずの無茶苦茶な賭けをしたと思う。だけど、静留を信じる私の心が、彼女を引っ張り込もうとしていた闇を払う事が出来た。

 「ごめん…、私がバカだったせいで、葵の心を壊してしまうところだった…。葵は、一番、大切で、傷つけたくない人だっていうのに。自分の辛さしか、私、考えられてなかった…。葵との最期の思い出を作れたら、もう自分は葵を遺して死んでもいいなんて、身勝手すぎたよ…」

 静留はそう言って、謝り続けた。

 「静留、約束してほしい。どんなに辛くても、死のうなんて、もう思わないで。静留はもう、一人じゃないんだから。もしも一人で生きるのは無理でも、私がここにいる。二人なら、きっと出来る。静留は、いつか話してくれた、ずっと独りぼっちだったロンサム・ジョージとは違うんだから」

 私は静留にそう言い聞かせながら、あやすように、彼女の背中を優しくさする。

静留は何度も頷いて、「約束する」と言ってくれた。

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