第7話 6日目

 6日目

 あの即興の朗読劇の、台本が書かれていたノートを密かに読み返してみた。

 別世界の私と静留が紡いだ物語。それは、私と静留が結ばれたところで終わっていた。その先には、何も書かれてはいなかった。劇の筋書きを考えたら、当然ではあった。静留がこのノートの上に作り上げた世界は、私と彼女が結ばれたところで、何も残さずに滅び去るのだから。

 私達が結ばれた後も世界が続いていくのを拒み、終わらせてしまうような物語を書いた、静留の心情を想像すると、私は強い不安に襲われた。現実では、この一週間が終わっても、世界は滅びないし、私達の人生は続いていくのに、静留はそれを拒絶している。

 テントの外に静留が一人で出て行く時、私は彼女を引き留めた。今、少しでも目を離したら、静留が、命を絶ってしまうのではないかという恐怖が沸き起こったからだ。

 「一人で何処に行くの…、静留?」

 「ちょっと、やらないといけない事があって」

 「私も連れて行ってよ」

 「葵にはまだ内緒にしておきたいから、それは駄目。葵はテントの中で待ってて」

 そう言って、静留は私がついていく事を許さなかった。彼女は廃校舎の方に一人、歩いていった。一体、何をしているのだろう。

 しばらくして、静留はテントに戻ってくると、私の手を引く。

 「行こう、葵!」

 彼女に手を引かれるまま、私は、廃校舎の一角の、あの教室に連れて来られた。黒板には、私達がお互いに教え合った、「授業」の板書がまだ残されている。

 その教室の中に一つだけ置かれた、机の上には、ノートの破られたページが2枚乗せられている。そこには、「卒業証書」と静留の文字で書かれていた。

 「二人だけの、卒業式をやろう!」

 静留がそう言った。

 桜の花も咲いていなければ、教師や、見送る後輩達の姿もない。私達二人しかいない、真夏の「卒業式」。

 「入学式」をやった時と同じように、私達は、お互いに、「卒業証書」を渡し合う。思えば、この廃校舎にやってきた最初の日から、今日までの日々は流れるように過ぎ去っていった。黒板の板書の文字が、懐かしく思われる。

 あのコンクリートの檻のような学校を、「卒業」という形で抜け出せる日はまだ遠い。だから、私達は一年以上も早く「先取り」する。

私達は、既に学校としての役目を終えていた廃校舎を、夏のひと時だけ、私達だけの「学校」として蘇らせた。そして、今、私達の卒業によって、この廃校舎は「学校」として再び授かった短い命を終えて、廃墟へと戻っていくのだ。

 「これで、この校舎も、私と静留がいなくなったら、学校から、廃墟に戻っていくんだね…」

 「卒業証書」を渡し合った後、私はそう言って、教室の中を見回した。生命力豊かな蔦は、窓を乗り越えて、教室の壁にまで絡みついている。私達という「生徒」を迎えた事で、蘇った短い命も、植物達に飲み込まれて、また朽ち果てていくのだろう。

 「今日、やりたい事はね、卒業式の他に、もう一つあるんだ」

 教室を出た後、静留は私に言った。そして、私を連れて廊下を歩き続けて、校舎を出る。

見えてきたのは、シャーペンの先のように鋭く、十字架を頂点につけた尖塔がそびえる、あの礼拝堂だった。

 そして、静留は礼拝堂の扉を開けると、「この中に入って」と、私を招いた。

 私は段の一部のコンクリートが剥がれて、ガタガタになっている階段を踏みしめて上り、静留が奥で待っている、礼拝堂の中へと入っていった。

 窓ガラスを透過して陽の光が入って来るおかげで、礼拝堂の中はさほど暗くはなかった。

 かつては祭壇、というのかは分からないが、恐らく、そうした物があったであろう、礼拝堂の最奥、ステンドグラスで三方を囲まれた空間には、今は何も残されていない。ここもまた、祈りの場所としての命を終えた時に多くの物が撤去されたのだろう。

 ただ、窓を彩る、カラフルなステンドグラスだけは、眩しい夏の日差しを受けて、今も尚、天国の世界をそこに描き続けていた。

 そして、夏の日差しが見せる、色彩豊かな天国の世界の中に、静留は立っていた。

 「…葵。ここで、式を挙げよう。私達の、結婚式を」

 昨日、即興の朗読劇の結末、現実と、劇の中の世界の区別が曖昧になる中、静留と交わした約束が、頭の中に蘇る。「結婚してください」という台詞が。

 そして彼女は、その手に、キラリと光る、二つの銀色の何かを乗せていた。静留に歩み寄っていき、私はそれが何かを見て、息を呑んだ。

 それは、二つの指輪だった。

 「街のお風呂屋さんに行った帰りに、お店に寄ったの、覚えてる?花火を買ったあの時」

 静留の言葉に記憶を辿っていく。確かにそんな事があった。あの時、確かに静留は、店の片隅で何か、品物を見ていて、花火を買った私に、先に店の外に出ているように促したのだった。

 「本物の指輪とかペアリングなんて、高すぎてとても手が出なかったから、これは、それっぽく銀色に塗ってるだけの、玩具みたいな指輪だし、サイズが合うかも分からないけど…、これを、私からの結婚指輪のつもりで、葵には受け取ってほしい」

 結婚。それは、人生の中で、縁のないまま、過ごすのだろうと何となく思っていた概念で、言葉だった。それが、静留と出会って、この廃校舎でお互いの気持ちを渡し合って、今、静留の掌の上に光る、二つの指輪の姿で、私の前に現れた。

 静留が、この一週間の中でとってきた行動。それは、時折、私には不可解に思われるものもあった。しかしその全ては、この瞬間の為に彼女が行ってきた準備だったのだと考えたら、辻褄が合う気がした。

 「私が、貰って、いいの…?」

 「その為に、ここへ持ってきたんだから。こんな、玩具みたいなのしか上げられなくって、ごめんだけど…」

 指輪が本物かどうかや、値打ちなんて、そんな事はどうでも良かった。静留が、この一週間の時間を、この瞬間の為、そして私の為に使ってくれていた事がただ、ひたすらに嬉しかった。この時だけは、私は、昨日の朗読劇の後から胸に抱いていた、暗い不安も晴れていった。

 「さあ、私の正面に立って。葵の顔を、私によく見せてほしい」

 指輪の事は、中々の衝撃で、私の心を揺さぶった。昨日とは反対に、今日は私が、静留の行動で、涙を零しそうだ。だから、彼女の正面に、今の状態で立つ事は正直恥ずかしかったが、それでも、私は静留の前へと歩み出る。ステンドグラスが作り出す、小さな天国の中へと身を投じる。

 ずらりと並ぶ、木製の長椅子には、誰一人の姿もない。私達に祝福の拍手の音は聞こえない。私達を見てくれているのは、ステンドグラスの中に描かれた神様と、天上世界の住人だけだ。

 「ここには、誰も、私と葵の誓を見てくれる人も、証明してくれる人もいないけど…、私達がお互いに証人だよ。後は、ステンドグラスの天国の住人が見ていてくれるよ」

 「この天国の中で、静留と結ばれるんだね…」

 私は、そっと、左手を差し出す。静留は、私の手に、割れ物を扱うよりも恐る恐るとした手つきで触れて、そっと、左手の薬指に玩具の指輪をはめていく。ぎこちない仕草だった。

 「ああ、やっぱり、嵌り切らないや…、ごめんね、葵」

 私の左手の薬指の関節の手前で、指輪は止まった。申し訳なさそうに静留は言った。きっと、指輪の位置は正しくないが、それでも構わなかった。静留の思いが込められた物が、私の体の一部になっている事に心は震えた。

 「じゃ、じゃあ、今度は私が、静留の指に、はめるね」

 私がそう言うと、静留は左手を差し出した。その手に触れると、緊張の為か、掌が少し汗ばんでいた。しかし、私も緊張しているのは同じ事で、静留の指を、銀色の輪の中にゆっくりと通していく。静留とは、手を繋いだ事は何度もある筈なのに、こうしてみると、彼女の指は思っていた以上にか細かった。

 それでも、玩具の指輪は、彼女の薬指の関節を少し過ぎたところで、それ以上深く入らなくなってしまった。

 「ごめん、これ以上は入りそうにない…」

 そう伝えるが、静留は、首を横に振る。指輪は微妙な位置で止まったままであるが、彼女は、その指輪を、まるで天国の住人達に見せつけるかのように、手を宙へかざした。

 「天国の神様、聖人の皆さん。見てください、これが私と葵の、愛の証です」

 それに倣って、私も、左手を、ステンドグラスが飾る、礼拝堂の窓に向けてかざした。

 赤、青、色とりどりのステンドグラスを透過して、薄暗い礼拝堂の中へと差し込んでくる光の柱が、静留と私の左手の指輪を煌めかせていた。神々しい聖人達の姿が描かれた窓から差し込む光は、本物の天上の世界から、地上にいるちっぽけな私達へと、差し伸べられたもののように思われた。

「これで私達の誓は、天国の神様、聖人様も皆、証人だよ」

 指輪の材質が変わる筈もないのに、礼拝堂の中の、小さな天国から注いだ光を浴びた指輪は、お互いの手につけられる前より、輝きを増して、より神聖な物に変化しているようにさえ、私には思われた。

 静留も感慨深げに、指輪をつけた左手を眺めていた。そして、私に視線を送ると、今度は急に頬を染めた。何処かもじもじしながら、彼女は言う。

 「あ、葵。まだ、終わりじゃないからね。し、式っていうからには、指輪だけじゃなくって、肝心な事、まだやっていないでしょ、私達は。何か、忘れてない?」

 「肝心な事…?」

 「指輪もお互いにつけたら、もう、後に残るのは、一つしかないでしょ。その…、ち、誓のキ…」

 静留が言わんとしている事を悟った途端に、私は、自分の顔から湯気が噴き出るような心地がした。そうだ、静留の言う通り、もう、この後する事となれば、あれ以外にないではないか。

 静留が、緊張と暑さから目を回して倒れそうになった、あの教室での、「練習」の時間の一幕が頭をよぎった。今思えば、静留が強引なくらいに、私にあの「練習」を迫ったのも、今という本番を予定しての事だったのだ。

 「葵…、その顔色を見たら、もう気付いてるんでしょ…、私が、今から何をしてほしいのか」

 「う、うん…。静留が、ま、前、『練習』だって言っていたのは、今日の、この時の為だったんだね」

 「練習」でさえ、あれ程にぎこちなかった私達二人が、スムーズにあれが出来るのか。私の浅い知識ではあるが、あれは、確か本当の結婚式では、新郎さんから新婦さんにやる事だった気がする。同性の私達の場合には、どちらからするのが正解なのだろう。

 「か、確認なんだけど…、どっちからする?私が静留にするのか、それとも、私が、静留にされるのを、待っていたらいいのか…」

 「こ、この前の…『練習』の通りに、やってほしい…」

 静留が言う通りにするなら、この前と同じように、私が彼女にする事になる。あの時は、体を近づけて、する演技だけで良かったが、今度は、本当にするのだ。お互い、勿論、本番の経験など、一回もない。まさか、あの一回きりの、途中で打ち切りのようになった練習だけで、本番に臨む事になるとは。

 「わ、私とするのは…無理とか、嫌って事なら…言ってくれていいから。葵にしてほしい気持ちは本物だけど、でも、無理やりさせるような事は、私だって嫌だから」

 固まっていた私に、静留がそう言う。違う。静留が相手である事に、拒否や嫌悪感なんてある訳がない。急いで首を横に振る。

 「ち、違うよ!ただ…、この前の『練習』だって、あんなぎこちなかったのに、上手くできるかなんて、私は自信、なくって…」

 「べ、別に、上手く出来なくったって、いいじゃん…!ここには、私達しかいないんだから。も、もし失敗して、最悪、勢いあまってお互いにおでこぶつけようと、誰も笑いやしないんだからさ…」

 静留の初めてを、私が貰う訳だから、そんなみっともない事になってしまっては、目も当てられない。しかし、このまま私が固まっていたところで、事態は何も良くはならない。静留の願いを叶えなくては。

 うるさい胸の鼓動を、少しでも落ち着かせる為に深呼吸をする。物語の中の主人公は、どうして、あんなに、緊張で固まる事もなく、何事もないように、恋人と初めてのそれを交わせるのだろう。そんな事を思いながら、足を一歩踏み出す。静留との距離は2メートルくらいしかないのに、その距離が非常に遠い。

 私が歩み寄ってくるのを察した静留は、迎え入れるように、瞼を閉じる。両肩が上がっている事からも、彼女の緊張が伝わってくる。落ち着け、と何度も念じながら、静留との間隔を詰めていく。静留の顔が、どんどん近づいて来る。そして、私が、これから触れるところ‐彼女の唇も。

 そっと、両手を伸ばして、彼女の二の腕のあたりを掴む。彼女の唇に、注意が向くと、自分の中に沸々と、初めて感じる種類の欲望が湧いて来る。その欲望に身を任せてしまった方が楽なのかもしれないが、静留とのそれは、こんな感情に任せてやってしまう事だけは嫌だった。だから、その汚い欲望に必死に、蓋をして抑え込む。

 静留を大切にする、その誓を立てるのだ。この廃校舎の外に広がって、これからも続いていく現実という世界の中でも、彼女を離さないと誓う。その為の行為に汚い欲望は必要ない。

 あまりに待たせて、またしても静留を熱中症で倒れさせる訳にもいかない。自分で自分の背中をどんと突き飛ばす気持ちで、静留の顔に顔を近づけ、その唇に、自分のそれを重ねた。

 その瞬間、刹那に、礼拝堂の中に静寂が訪れた。そして、その静かな礼拝堂の中に響いて来る、蝉の鳴き声に混じって、私は、祝福するように、鐘がなる音を聞いた気がした。もう、この礼拝堂の鐘がなる事は、ない筈なのに。

 どの程度の時間、唇を重ねていたのかは、これを書いている今も思い出せない。一瞬のようにも、もしかしたら数分もあったかのようにも感じる。

次に記憶がはっきりしてくるのは、お互いに唇を離して、静留の顔を見つめていた時だ。彼女は、頬どころか、首元まで朱に染まっていた。

 静留は、不思議な事を言った。

 「鐘の音…」

 「え?」

 「キ、キスしてた時…、この、礼拝堂の鐘が、鳴っている音を聞いたような、そんな気がするの…。もう、ここの鐘を鳴らす人もいないし、そんな事ある訳ないのに…」

 礼拝堂。私達を見つめるように並ぶ、ステンドグラスの天上の世界。そういう特別な環境と、あとは、夏の暑さが聞かせた幻の音だったのかもしれない。しかし、生まれてからこの方、神様とか、天国なんて信じた事もなかった筈なのに、私はこの時ばかりは、二人を祝福しようと、天の神様が鳴らしてくれた鐘の音色だったのでは、と信心深いような事を思い、神秘を感じた。


 6日目も、もう終わろうとしている。今、懐中電灯の灯を頼りに、礼拝堂の中の長椅子でこの日記を書いている。

 青空が続いていた天候は、夕方から急速に崩れてきた。地面からは、雨の前触れを知らせる湿った土の匂いが立ち昇り始め、廃校舎を囲む森も、風に木の葉を揺らし始めた。あれだけ眩しく照り付けていた日差しも、分厚い雲の向こうに隠れてしまった。

 二人共、スマホの充電はとっくに切れて、この廃校舎の外の世界の情報から遮断されていたから、知りようがなかったが、この天気の崩れ方から、台風が来ている事は間違いなかった。

 急ぎ、校庭のテントを畳んで、私達は荷物をまとめて、この礼拝堂の中へと避難する事にした。廃校舎より、この礼拝堂の方がまだ窓も残されていて、雨風を凌げると考えたからだった。

 昼間、私達の誓を見守ってくれていた、神様や聖人達‐天上世界の住人達も、今は夜の闇の中に溶けて、消えてしまった。そんな中で、私と静留は身を寄せ合っている。狭いテントの中と違い、この礼拝堂は、二人で過ごすには大きすぎた。それに、昼間はあれだけ神々しく見えたこの空間が、夜になると、打って変わって、怖く、物悲しくも感じられた。次第に強まる雨足は、ステンドグラスを叩きつけている。この広い場所を照らすにはあまりにも非力な懐中電灯で、窓のそれを照らしてみると、昼間の神聖な空気とは違い、雨垂れが、夜の闇の中で聖人達の流す涙のようにも見えた。

 静留は、私の左隣に座って、ずっと私の左手を握っている。彼女の顔は闇に隠れて、よく見えないが、その手は小刻みに震えているように思えた。

 今日、私達は、子供じみた真似事だとしても、愛する者同士で結ばれるという幸せを掴んだ筈だというのに、今の、私の隣にいる彼女はしゃくりあげていた。

 「怖いの…?」

 暗闇の中で、静留が首を横に振るのが見えた。彼女の涙の理由に、頭を巡らしてみる。私達の、この旅が明日で終わる事を惜しむ涙かと、私はそう思っていた。

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