蛙様
緋雪
雨の夜には気をつけて
ズルッベタッ ズルッベタッ……
奇妙な音が聞こえた。
窓を開けて下を見る。
ズルッベタッ ズルッベタッ……
音は段々遠ざかっていき、何がいたのかも確認できなかった。
何だったんだろう。
翌日、クラスではちょっとした騒ぎになっていた。同じクラスの
「はい、席について! 出席とるぞ」
先生が来て、出席をとり始めた。
先生が当たり前のように、沢村梨香子の名前を飛ばす。教室中がざわめいた。
「沢村は、体調不良で欠席すると電話があったんだ」
先生は何事もなかったかのように、出席を取り続けた。
翌週の月曜日にも、またその翌日も、沢村は学校に来なかった。クラス内では、様々な憶測が流れ、結局のところ、誘拐事件ではないかという結論に至っていた。
大人たちは何も真相を教えてくれない。中学生に教えたところで、勝手な行動に出て、警察の邪魔になる恐れもあるからなんだろうな、と僕は思う。
中学生にだって、冷静に物事を考えられるヤツはいると思うけどな。ちょっとイラッとした時、反対側の窓際でもたれていた辻󠄀
放課後、辻󠄀本に捕まった。
「ねえ、
いきなり呼び捨てかよ。
「近いって言っても、同じ道路沿いってだけで、何軒も離れたマンションだよ」
僕は答える。
「ね、あの日、何か変わったことなかった? 悲鳴を聞いたとか?」
あの雨の日……あの日か。妙な音を聞いた。だけど……
「何も聞こえなかったよ。第一、遠すぎるだろ」
じゃあね、と言って帰りかけた僕の腕を、辻󠄀本沙織は掴んで言った。
「協力して。梨香子に本当は何があったのか、知りたいの。梨香子のこと助けたいの」
そうか。辻本は沢村と特別仲が良かったもんな。
僕は大きくため息をついた。
「わかった。でも、何もわからないかもしれないよ?」
「いいの。このまま何もせずに梨香子を失ってしまうのは嫌なの」
「わかった」
その日は今にも雨が振りそうな土曜日で、明日にしない? という僕の提案を、辻󠄀本は聞き入れなかった。
「早く聞き出さないと、皆、忘れちゃうじゃない?」
僕は、彼女に従うしかなかった。
僕たちは、沢村梨香子のマンションの沿線の一階の家を訪ねて回った。
「何でも構いません。変わったことはなかったですか?」
「もう、何回聞けば気が済むの? 知らないって!」
大抵、こんな感じで追い出された。
「ごめんねえ、ホントに知らないの。テレビの音が大きかったから」
中には、そんな風に優しく追い出してくれる人もいたが。
大抵、警察が調べているのだ。マスコミも聞きに来ているのだろう。考えることは皆同じだ。
が、ある一軒の家を訪ねた時のことだった。
「うちは、ばあちゃんが寝たきりでね。その時は、丁度ヘルパーさんが帰って、私が帰宅する時間だったんだけど、ちょっと帰宅が遅れてね。だから、その時間のことは何も知らないんだよ」
「おばあちゃんは、家にいたんですよね?」
辻󠄀本は家に入ろうとする。
「待てよ、失礼だろ、急に!」
さすがに僕が辻󠄀本を止めた。
「ごめんなさい。あの、でも、おばあちゃんに話を聞かせて貰えませんか?」
「え、でも……」
おばさんは
「うちのばあちゃんは、少し認知症の気があってね、わけのわからないことを言うこともあるからね。当てにはならないと思うよ」
僕らは、家の中に入れて貰った。
道路に面した窓際の部屋に、おばあさんが寝ていた。介護されている人が寝ている部屋特有の匂いがしていた。
「先週の木曜日に、友達がいなくなったんです。何か変わったことはなかったですか?」
辻󠄀本が話しかける。
「あんたは新しいヘルパーさん?」
ダメだ。話が通じていない。
「雨の日だったんです。何か知りませんか?」
僕が尋ねたその時だった。
「雨かい。この頃の雨の日はダメだ」
おばあさんは真っ直ぐに僕の目を見て言う。
「
奇妙な笑い方をして踊るような手の動きをし始めたので、僕は慌てておばさんに助けを求めた。
「あらら。ごめんなさいね。ばあちゃん、昔、近くの神社で巫女さんをやっててね。その時に踊っていたのを思い出すみたい。……もういいかしら?」
そう言われて、僕らは二人、退散するよりなかった。
その家を出ると、辺りはもう暗く、雨が降り出していた。
「送るよ」
この辺りで失踪事件が起きたばかりだ。女の子を一人で帰すわけにはいかない。
と、雨が強くなってくる。
「辻󠄀本んちってどこ?」
「本町通り」
「遠すぎじゃん」
僕は少し躊躇いながら言った。
「うち来る? すぐそこだし」
「いいの?」
辻󠄀本は、バッグを傘代わりにしながら言った。
僕のTシャツを着て、僕のジャージをはき、タオルで頭をゴシゴシ拭きながら、辻󠄀本が部屋に入ってきた。
「ごめんね〜、全部借りちゃって」
ちょっとドキドキする。が、話は沢村梨香子のことだ。
「ねえ、『蛙様が変わる日』ってなんだろう?」
「おばあさんが作った幻なんじゃない?」
「蛙様って?」
「しっ……」
僕は辻本を黙らせた。
ズルッベタッ ズルッベタッ
「聞こえた?」
小声で聞く。辻󠄀本は、無言でうんうんと
「なんだろう?」
ズルッベタッ ズルッベタッ
ワン! ワンワン! シュッ ゴクッ
「今……犬を……」
辻󠄀本が恐る恐る口にする。
確かに、犬が丸呑みにされたような音だった。
二人でそうっと窓から外を見た。
暗い上に雨が降っているので、よく見えない。
その時、こちら側から走ってきた車のヘッドライトに一瞬「それ」が照らされた。一瞬のことだった。そこから、そいつの姿は見えなくなった。
「蛙……だった?」
「蛙……になりかけのやつ?」
「なりかけ?」
「尻尾があった」
「オタマジャクシからってこと?」
「『蛙様』が変わる日、なんじゃ……」
「『蛙様』が蛙になる日、ってこと?」
「俺、沢村がいなくなった雨の日、同じ音を聞いたんだ」
「まさか!」
「まさかだよ。考えたくもない」
「あいつが飲み込んだものが、どこかに連れて行かれてるってことはない?」
辻󠄀本沙織は、諦めない。
「ね、ね、天野。あいつの後をつけよう」
「もういないじゃん」
「次の雨の日。天野んちで張り込む」
おいおい。夜中かもしれないんだぞ。泊まる気か?
「大丈夫。お泊りセット持ってくるから」
……お前、俺のこと男だって忘れてるよな?
次の雨の夜、またあの音がした。
ズルッベタッ ズルッベタッ……
僕と辻󠄀本は
途中、吠える犬を、長い舌を伸ばし、ペロリ、ゴクッと飲み込んだ。
「ヒッ!」
恐怖に思わず声を出す辻󠄀本。
ヤツはこちらを振り返ると、辻󠄀本めがけて素早く舌を伸ばした。
僕が辻󠄀本を引っ張らなければ、彼女は連れて行かれたかもしれなかった。
僕は、彼女をビルの陰に引っ張り込んだ。追いかけてこられるかと思ったが、また向こう側へと前進する音が聞こえていた。
「行こう」
辻󠄀本が言う。たった今、あんな危ない目にあったのに? 僕は仕方なく彼女に従った。
ズルッベタッ ズルッベタッ……
音は、何かの建物の前で突然途絶えた。
「何があるんだろう? 行ってみよう」
そう言う辻󠄀本を流石に引き止める。
「明日、明日の昼間、見に来よう。今は危険だ」
「わかった……」
翌日の昼間、僕たちは、その場所を訪れた。
そこは、神社だった。蛙の像が祀られてある。
「もしかして……これが、『蛙様』?」
「なんで蛙が?」
二人で首を傾げているところに、
「蛙様を見られたのですね?」
僕たちは、何か悪いことをした気持ちになる。
「ご無事でよかったです」
「あの……蛙様というのは?」
「ここは、蛙様をお祀りする神社です」
「蛙を?」
「昔、この辺りは、全部田んぼや池でした。ある年、雨が全く降らない日が続き、稲が全滅しそうな時でした。蛙が一斉に鳴き出したかと思うと、雨が降り始めたのです。それで田んぼは助かりました」
「それで蛙を祀ったんですか」
「ええ、でも……」
宮司は
「昔は田畑が多かったこの辺りも、段々と家やアパート、マンションなどが建ち始め、蛙神社の祭や巫女の舞いなどが廃れてしまいました。今では、供物も滞るほどです。私どもも気を付けているのですが、何分この時期は特に栄養が必要なようで……」
「えっ? 待ってください。ご存知なんですか?」
「蛙様とて人間と同じです。空腹の時には、目の前の栄養を摂ります。それだけのことです」
「止めることはできないんですか?」
「残念ながら。昔はそれを知っている人が、この時季の雨の日の夜には出歩くなと、言って回っていたようですが、もうそれを知る人も生きていないでしょう」
僕はあのおばあさんの言葉を思い出す。そうか、あの人は止めてくれていたんだ。
ふと、思った。
「蛙ってそんなに大きくないですよね。なのに、蛙様は、なんであの大きさなんですか?」
「毎年、少しずつ大きくなっています。最初は、その辺の虫なんかを食べていらしたので安心していたのですが、そのうち犬や猫まで……そうして、どんどん大きくなってしまいました。私どもも、なんとか蛙様を
「今は、人間まで……ですか」
「どうすれば止められるんでしょう?」
僕の問いかけに、彼は言葉を選ぶように言った。
「いっそ人間が滅び、自然が戻り、蛙や他の生き物たちが、のびのびと生きていけるような環境になれば……」
蛙神社の池の蛙が、ケッケッケッと鳴き始めた。
「ほら、早くお帰りになられた方が。雨になりますよ」
宮司が静かな声で言った。
蛙様 緋雪 @hiyuki0714
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