そこここ
灯村秋夜(とうむら・しゅうや)
残念なことに、これはフィクションではないんです。ぼくは文芸部所属ですから、こうしてモノガタリの集まる機会には興味がありまして、自分で考えたおはなしを持って参上したかったんですが……ん? 別に悪いとは思ってませんよ、実話だけだとか体験したことだけだとか、そういう制限は言ってなかったわけでしょう? そもそもの話、怪談なんて簡単に集まるわけがないじゃないですか。なんか怖かったらなんでも怪談だオカルトだと、そういうくくりになるんでしょうけどね……だったらなおさら、なんでもありでしょう。
ゲームでいう「裏世界」ってご存知ですか? ゲーム内データにあるものの、真っ当な手段ではたどり着けない場所にテレポートできたり、入れない場所で延々と歩き続けることができたりする、バグの一種です。そういう体験をね、してしまいまして……あれがなんだったのか、いまだに分からないままなんですよ。題名を付けるとすれば「そこここ」、あたりでしょうか。
ぼくが住んでいる部屋はちょっといいマンションの五階でして、なかなか景色もいいんです。インドア派なので、ベランダに出る機会なんて布団を干すときくらいですけどね。まあ、景色がいいからって知らない土地を巡るわけじゃありませんし、そのへん両親にはちょっと申し訳ないとは思ってるんですが。ああ、ぼくの地元、ここじゃありませんよ。
で、ね。隣の部屋との壁の方を向いて寝ると、よく悪夢を見るんですよ。テレビの電波か何かが、脳の磁気に干渉してるのかな、とか……常識で考えれば、そうなりますよね。あの体験まではそう思ってましたし、今でも八割まではそう思ってます。ただ、あの一回の、ほんとうにバグみたいな経験のせいで、そう思えなくなりました。
ゼミの先輩と教授とあと何人かで飲んで、そうとう酔っぱらってた日のことでした。炭酸がきつい酒もけっこう飲んだからですかね、苦しかったみたいで、寝相がむちゃくちゃ悪かったんですよ。起きる前の意識もちょっとだけあって、布団はめくれるわうんうん唸るわで、同居人がいたらちょっとは文句言われてたと思います。
最終的に、転げ落ちちゃったんですよ。壁の方に。
いや、ないですよ? そもそもの話ですけど、ベッドは壁にぴったりくっついてるんだから、転げ落ちようがないです。前にも寝相が悪かったときはありましたけど、手をびたんってついて、手の甲を内出血しまして。痛かったなぁ……壁の方には落ちようがないし、落ちたことがなかったんです。
まだまだかなり酔っぱらってたので、エントランスの呼び出しチャイムが鳴ったのを聞いて、真夜中に誰が来たんだろうと思って、画面付きのドアホンを確かめに行きました。よくよく考えると、その時点ですでにおかしかったんですよね。ちょうど鏡合わせの位置と言いますか、ベランダから向かって左についてたドアホンが、なぜか右側にあったんです。しかも、まったく見知らぬメガネの青年が映ってて……「はぁん?」って言ったんだったか、まともな応対はできなかったように記憶してます。
相手の言ってることもものすごい変で、「なんでお前みたいなやつがそこにいる」だとか、そういうことをすごい剣幕でまくし立てられまして。なんでも何も、ぼくはあの部屋に住んでたわけですから、何言ってんだお前このバカ、みたいな答え方をしました。先方からしたら、知人を訪ねてきたはずなのに知らない相手に一方的にごちゃごちゃ言われて、たいそう不愉快だったんでしょうね。なんか妙な声だけ残して、行っちゃいまして。
しかし、いくら酔っててもそんな問答してたら醒めてくるもので。そこが自分の部屋じゃないってことが分かってきたんです。いちいち品のいい小物なんて置いてあるし、灯りを付けてみたら、どうやら女性の部屋らしいことに気付いて、仰天しましたよ。そのわりにはきったないし、何日洗濯してなかったんだか、女物の下着が大量に干してあって……どう考えてもおかしいなと思って、半袖シャツとハーフパンツっていう寝間着そのまんまの格好で外に出ました。
外の光景も、このあたりのそれじゃなくて、妙に都会っぽいんですよ。もともとの住人の知り合いに出くわしたらどうしよう、なんて思いながら、階段を足早に降りて……土地の手がかりというか、酔ってて知らない人の自宅に上がり込んだなら、どうやって自宅に帰ったもんだか調べようと思ったんです。電柱を見てその町の地名を見れば、そこから端末で検索するなり、タクシーで駅に連れて行ってもらうなりできますよね。
ところが端末も財布も持ってなかったー、って気付きまして、どうにか手近なコンビニでヒントを得ようかなと。思ったそのときに、口論のようなものが聞こえまして。コンビニの駐車場のすみっこで、ちょうど車の影になったところに、男女がいたんです。女性が嫌がってるみたいだったので、ちょっと近寄ってみたら、さっきのメガネでした。
察するに、自宅まで突き止めたストーカーが、真夜中に家まで押し掛けた――ってことだったみたいですね。「その声、さっきのやつかぁ!」ってブチ切れられまして、トラブルがこっちに飛び火してきたと思ったそのとき、ですよ。街灯の灯りの下でも、かなりの美人だって分かる彼女が……あれは、なんて言えばいいんでしょうね。
急に「びしゃっ」って……人の形をした看板に、幼稚園児が好き放題ペンキをぶちまけたみたいに、極彩色の平面になってですね。振り向いたメガネも、ぼくと同じくらい驚いてましたよ。それで、おんなじ色をした幕をばっと降ろしたかと思うと、青年のものすごい悲鳴が聞こえてきました。それで、ぼくは急に前につんのめって、こけました。
気が付くと、ぼくは住んでるマンションのベランダにいました。しかも、こう……頭がコンクリートにめり込んでて、ぬるっと抜けたんです。さっきまでの体験を思い出して、おそるおそる振り向いて部屋の中を見ると、自分の部屋でした。テレビの横に小物も置いてないし、部屋干しの洗濯物なんて当然ありませんでした。その日が洗濯する予定でしたから、当然ですよね。
部屋中探して何か痕跡がないか探りましたし、その日からはベッドの位置を変えて、両親にも相談してマンション自体を変えてもらいました。冷静に考えたら、ぼくこそ何言ってんだって話なんですけど、冷静じゃなかったですからね。
で、その。何がいやかって、この話にはオチがないことなんです。あの美人に街で出くわしただの、たまたま覚えていた地名が会話に出てきただの、そういうのがなくて。ストーカーがヤバいのか、人じゃない彼女がヤバいのか、それとも異世界に行っちゃったって話なのか。どうにも取っ散らかってて、小説のネタにもなんないんですよ。
事実は小説よりも奇なり、って言いますけど。この手で、この足で体験したはずのことがネタにできないって言うのがね……物書きのはしくれとしちゃ、いちばん惨かったですよ。いや、夢じゃないんです。ちょっとサイズが合わないけど、クロックスがあったんで、自分の靴の代わりに履いて外に出たんです。ベランダに、片方だけ落ちてました。手に取ってみたら、中で何か動いて……かかとの方に落ちてきたんですよ。あの色のネイルが。
あの体験が何だったのか、何が起きたのか、知らないままでいようと思ってます。あの日以来、何も起きてないから……何もしなければ、何も起きないはずです。あの日以来、酒も炭酸も飲まなくなったんで、……長生き、できますかね。
そこここ 灯村秋夜(とうむら・しゅうや) @Nou8-Cal7a
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