第4話
アコナイトがアナに連れてこられたのは、彼女が寝かされていた部屋と同じくらいの広さを持つ浴場だった。
「来賓の方を持て成すための浴場です。清掃は欠かさず行われているので、問題なく使えますね」
アナが浴槽に備え付けられた獅子の像に手をかざすと、その大きく開かれた口からお湯が流れ始めた。初めて見るその光景に、アコナイトは目を見開く。
魔道具というものがある。単純な魔法が込められた道具で、生活を便利にするものから戦闘に役立つものまで多種多様だ。しかし一つ一つ職人が手作りしているため、一般にはあまり流通していない。スラムで生まれ育ったアコナイトにとっては特に珍しいものだ。
「お湯を沸かす魔道具なんです。中に魔力が貯められているので、魔法が使えない私でも扱えるんです。すごいですよね」
浴槽にあっという間にお湯が溜まっていき、湯気がもうもうと立ち込めていた。アコナイトはその様子をじっと眺めている。アナは湯あみの支度をしながらも、アコナイトをちらりとみて微笑んだ。
「もしかして、魔道具を使ったお風呂は初めてですか?」
「そう。でも、お風呂も初めて。いつもは水で流すだけだったから」
その水でさえ、今目の前に溢れんばかりにあるお湯に比べれば到底綺麗とは言い難いものばかりだった。街中でスラムの子どもが使えるような水は汚れた水で、洗っても逆に臭いが染みついたりした。暗殺の仕事で街の外に出た時には川や湖からきれいな水を使えることが楽しみになっていたくらいだ。
アナは一瞬目を瞠ったものの、すぐに優しく笑う。
「なら今日は目いっぱいきれいに洗いましょう。アコ様はもっと美しくなれますよ」
お洋服を脱がせますね、とアナが言うのでアコナイトは着ていた粗末な服を脱ぎ捨てた。またしてもアナの目が驚きで見開かれる。
服の下から現れたのは、痛ましい傷跡の数々だった。古い痕から新しい生傷まであり、数えるのも億劫だ。戦場で戦う戦士のそれと遜色ないのではないかとアナは思った。
「これは……」
「ご主人様の訓練はいつも厳しかったから、怪我をしない時のほうが珍しかった。それにまともな手当なんてできなかったから」
アコナイトは何でもないことのように言う。事実アコナイトにとっては怪我など日常茶飯事だった。骨が折れようが、傷口が膿んで痛もうが毎日訓練に明け暮れていた。そうしなければ、
アナはそっとアコナイトを抱き寄せた。
「それは決して当たり前のことなんかじゃないんですよ。これからはもっと違った世界を見ていきましょう」
アナが言う違った世界、それはまだアコナイトにはよくわからなかった。
浴場に入ると、アナは手早くアコナイトの髪を洗い始めた。アコナイトは無抵抗に、泡立ったアナの手がわしゃわしゃと自分の髪を洗うのを受け入れている。というよりは困惑していた。髪の毛が泡でおおわれる感覚も、アナの優しい手つきも初めてのものだった。アナは手つきこそ優しいものの、汚れや油が納得のいくように落ちないようで、都合三度ほど洗っては流してを繰り返した。体を洗うときも、濡れて泡立ったタオルで傷口が痛まないよう丁寧にこすってくれていた。
「わあ……!」
ゆっくりとお湯につかる。温かい感触に体が包まれて、全身の疲れをほぐしていくようだった。同じ体の汚れを落とすためのものなのに、今までの水で体を洗うという行為とは別の世界を見ている。
「こんな贅沢をしていいのかしら……」
今自分が感じているこの温かさの裏で、自分と同じような境遇にあった人は苦しんでいる。アコナイトはそう思うと微かに後ろめたくなった。
「ほかの人に申し訳ない、ですか?」
こくりと頷く。
「いいんですよ。アコ様は幸せになっていいんです。それにほかの人に申し訳ないなら、その人たちの助けになれる知識、力を学びましょう」
「人のための力……」
アコナイトは自分の掌を見る。この手にあるのは、ただ人を殺すための力だ。人を殺して生き延びることばかり考えてきた。そんな自分が人を助けるための力を手に入れられるだろうか。
「はい。人を助ける方法はいろいろあるんです。争いばかりが世界の全てじゃないんですよ」
アナは諭すように言う。アコナイトはただじっと、きれいになった掌を見つめていた。
風呂を上がり、タオルで体の水気を拭く。着替えに用意されていたのは質素なワンピースだった。どうやらアナのおさがりらしい。
「見てください!アコ様、すっごく綺麗ですよ!」
そう言ってアナが指し示したのは、不思議な板だった。周囲の物を映し出し、まるで世界がもう一つその奥にあるかのように見えるその板は、鏡というらしい。
鏡には見たことのない少女が映っていた。手足は華奢で、全体的に小さい印象を与える。頬は血の気の良い桃色に紅潮している。肩先までまっすぐに伸びた黒髪は、水分を含んで艶めいていた。いつも羨望の目で見ていたドールショップの店先に並んでいた、可愛らしい人形のような少女がそこにいた。
これがアコ様ですよ、とアナに言われるまで、アコナイトは鏡に映っているのが自分だと信じられなかった。
「これが私なの……?」
水辺で自分の顔を見たことはある。血色の悪い顔に、ぼさぼさに撥ねた髪の毛。どれをとっても今の自分には似つかない。
「はい」
ぺたぺたと自分の頬を触る。頬から伝わる感触が、夢ではないことを確かに伝えていた。
「アナ」
「はい、なんでしょうか」
「ありがとう」
アコナイトは笑った。その笑顔はぎこちなく引きつっていて、笑うことに慣れていない人間のものだった。しかしアナは、だからこそずきゅんと心臓が撃ち抜かれる幻聴を聞いたのだった。
殲滅公と毒の花 星 高目 @sei_takamoku
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