第2話
アコナイトは茫然としていた。
嫁になれ、と眼前の男は言った気がする。
私に?
周囲をきょろきょろと見回してみても、部屋の中には自分と公爵しかいない。
念のため、自分を指さして確認してみる。
「私が?」
こくり。
「あなたの?」
こくり。
「嫁?」
……こくり。
「何度も言わせるな」
面倒くさそうに公爵はため息をつく。
いかにも当たり前のことを言っているだけで、自分がひどく物わかりの悪い子どもかのような扱いだ。
その姿は不遜、傲慢という言葉が相応しいだろう。
しかし、と思う。
アコナイトは自分の体を見下ろす。
成長途中とはいえスラムで暮らしていた時期の栄養不足や日々の厳しい訓練の影響で小さい体に、筋肉をつけたとはいえ細さが目立つ腕。
身に着けている暗殺衣装は同年代の子どもの中でも小さく、特注したものだという。
年齢は物心ついた時にはスラムで暮らしていたため、正確にはわからないが十と少し経ったくらいらしい。
通りすがる人に尋ねれば、十人中九人は貧相な子どもだと答えるだろう。
人によっては少女だとさえ気づかないかもしれない。
そんな自分を嫁にするということは……。
「変態、なの?」
「殺されたいのか?」
ぎろりと鋭く睨まれる。
アコナイトはふるふると首を横に振った。
「お前はただの飾りだ。いるだけでいい」
「いるだけ?」
「そうだ。俺にはもう婚約者がいるというその事実だけが欲しい。お前は寝て過ごすなりなんなり、勝手にしろ」
アコナイトは戸惑いを隠しきれなかった。
ヴォルフがどうして婚約者を必要としているのか、どうして暗殺者である自分を選ぶのか、全くわからない。
わたしが人を殺せるからだろうか。
「私は人を殺せる。望むなら、あなたの敵を暗殺して見せる」
「いらん。余計なことはするな」
ヴォルフの言葉はにべもない。
ただただ、アコナイトのことを道具として見ているかのような振る舞いは、どこかアコナイトの主人に似ている。
アコナイトの両腕につけられた手錠の鍵を外しながらヴォルフは言う。
「侍女を一人つけさせる。身の回りのことはそいつに頼め」
そして部屋を立ち去ろうとするヴォルフに、アコナイトは尋ねずにはいられなかった。
「どうして手錠を外したの?」
ヴォルフは振り返ることも立ち止まることもしない。
「お前に俺は殺せないからな」
ヴォルフが部屋を去り、静かになった部屋の中でアコナイトは一人ベッドの天蓋を見上げていた。
今自分が置かれている状況が、うまく呑み込めなかった。
自分はご主人様に命令されて、この国の貴族、ヴォルフ・フォン・フルストを暗殺しようとして失敗した。
失敗した暗殺者は、捕らえられて殺されるかご主人様に殺されるかのどちらかしかない。
そうして消えていった人を何人も見てきた。
だから自分もそうなると思ったのに。
今はこうして柔らかいベッドの上にいて、なぜか暗殺しようとしていた男の嫁になろうとしている。
一体何がどうしてこうなったというのか。
暗殺の対象に選ばれる人間はこの国を腐敗させている元凶で、ドブネズミにも劣るのだと教えられてきた。
だからこれは悪趣味なあの男の戯れで、自分に生きる希望を持たせてから殺すのではないか。
あるいは好きなだけ甚振ってから、ごみのように打ち捨てるのか。
あの男の考えがわからない。
そんな考えがぐるぐると巡っていると、こんこんこん、と優しくドアがノックされて失礼いたしますと声がした。
ドアを開けて部屋に入ってきたのはそばかすが愛らしい茶髪の女性だった。
くるぶしまで裾が伸びているメイド服に身を包んだその女性は音をゆっくり礼をする。
「アナ・スピラと申します。ヴォルフ様の命により、これからアコナイト様付きの侍女を務めさせていただきます」
「きれい……」
「え……」
アコナイトはアナの振る舞いを見て美しいと感じた。
一瞬のよどみもない丁寧な動作に、落ち着いた声音。
それは路地裏ではなく、庭園に咲く一輪の花を思い起こさせた。
「あ、ありがとうございます。未熟者ではありますが、精一杯お世話させていただきます」
「なら、教えてほしいことがあるの」
「はい。なんでしょうか」
アコナイトにはどうしても聞きたいことがあった。
「ヴォルフ・フォン・フルストって、どんな男なの?」
「ヴォ、ヴォルフ様を呼び捨て……」
アナが浮かべていた笑顔に、若干のひびが入ったように口元がひくりと震えている。
心なしか、冷や汗がアナの頬を伝う。
「どうして、そのようなことを?」
「あの男の考えていることがわからない」
あー、と納得したような声をアナは上げる。
「そうですね、確かにヴォルフ様は考えていらっしゃることがわからないといいますか、わからないように振舞われているといいますか」
何をどう伝えるべきかとアナは顎に手を当てて思案する。
そして数秒の沈黙の後、うんうんと頷いてぱっと笑顔を浮かべた。
「ヴォルフ様はあんなに怖い見た目で言葉も少ないですが、実はとても優しい人なんですよ。例えるなら、狼の皮を被った猫ちゃんみたいな人です!」
「猫ちゃん……?」
「はい!それなりに人懐っこい猫ちゃんです」
アコナイトは猫を思い浮かべて、嫌そうに口を歪めた。
それは虫けらを見つけたときのように、心底嫌悪感が表れているものだった。
「猫は嫌い。いつも食べ物を持っていくし、威嚇してくる。噛みついてくるやつばかりで、嚙まれると傷口が酷く痛むから」
「え?」
「だからあの男はいつも飢えているし、相手には容赦なく噛みついていくということでしょう?」
「いえ、ちがいます!いつもはそっけない態度をしているんですけど、心を許した人には時折甘えるような一面を見せるんですよ」
「それは本当に猫なの?私はそんな猫を見たことがない」
何かが致命的に食い違っている会話だった。
猫を好きか嫌いかではなく、お互いに猫という名前の全く中身が異なる動物について話しているような感覚。
そしてアナははっと何かに気付き、申し訳なさそうに尋ねる。
「奥様の出身を教えていただいても……?」
アコナイトはそれまでアナを見ていた目をそっと伏せた。
「わからない。ただ小さい時からずっとスラムで暮らしてきたことだけ覚えてる」
その言葉は、アナに少なからぬ衝撃を与えた。
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