第3話

 暗殺に来た女を嫁にすることにしたから世話をしろとアナが主から命じられたのはつい先ほどの事。

 この時点で急にもほどがあるが、実際に会ってみれば女というのはまだ年端も行かない少女であった。

 未来を諦めた人間に特有の無機質な目、手入れの行き届いていない肩の下まで伸びた黒髪は、ところどころが撥ねている。使い古された人形のようだと一目見て思った。

 自分より一回り年上の女性を想像していたために、部屋に入ったとき驚愕を押し殺せたのは奇跡に近い。

 そして同時に主の正気を疑った。

 こんなに幼い子を嫁にするとは、ひょっとして主は変態なのだろうか。

 確かに貴族同士で幼い時から婚約者がいることはある。

 しかしそれはお互いが幼い場合がほとんどだ。

 既に結婚して子どもがいてもおかしくない年齢の男性と、娘と言われても仕方ない年齢の女の子が婚約することなど皆無に等しい。

 けれどあくまで皆無、全くないわけではないのが恐ろしいところで、変態的な趣味を持つ貴族ならありうるのである。

 金にあかせて借金の形に婚約を迫っただとか、特定の年齢にしか興味がないだとか大体がまともな形の結婚ではない。

 色恋沙汰の欠片も見えない方だとは思っていたが、まさか自分の主がそういう嗜好を持っていたとは考えたくもないものだ。

 とはいえアナはあくまで一従者に過ぎず、詮索するわけにもいかない。

 何か理由があるのだろうと無理やり納得することにした。

 アナとて噂は好きだが、触れてはいけないものもこの世にはあるのである。

 

 アコナイトは物心ついた時にはスラムで暮らしていた。

 汚物や死体の饐えた臭い、ぎろぎろと目に昏い光を宿した者たちと生きることを諦めた者とが共に暮らしていたことを覚えている。

 そんな場所にあって、身寄りのない子どもが何もなしに生きていけるわけもない。多くは徒党を組み、犯罪に手を染めてでも必死に日々の糧を得ていた。

 スリも物乞いも、彼らにとってそうしなければ生きられないからそうしただけにすぎない。

 アコナイトもまた徒党を組んで暮らしていた一人だった。体が小さく力も弱いアコナイトが生きていくには、同じような境遇の子どもと群れるしかなかった。

 それが変わったのは、黒づくめの男たちが現れてからだった。男たちはアコナイトのような子どもたちに食料と寝床を提供し、身を守る術を教えた。アコナイトがご主人様と呼ぶ男たちが暗殺ギルドの人間で、教えられていたのは人殺しの術だったことを知ったのは随分後の事。

 訓練を重ね、体が殺気に対して自然に動き、相手を手にかけることを覚えた頃初めて仕事を任された。人間を殺せと言われた。権力を悪用して気に入らない人間を捕まえては拷問する警備の兵士だから、気兼ねなく殺せと。

 小さな体を活かして気配を殺し、寝首を後ろから掻いた。呆気ない感触に、なぜか悲しくなった。

 そうして民から重税を取る悪徳領主や暴利をむさぼる金の亡者となった商人など、言われるがままに人を殺めてきた。その数は両手の指ではもう足りなくなってしまったけれど、どの相手も手にかけたときの感触を今でも鮮明に思い出せる。

 そして今回もまた、ヴォルフ・フォン・フルストという悪人を殺して終わるのだと思っていた。


 アコナイトは自分の過去をとつとつと語った。アナにとってはそれが重要なことなのだろうと思った。

 この世界には恵まれた者と恵まれざる者がいる。後者を主とするようなことがあれば、ご主人様に拾われる前の自分のように人間と呼べるのかすら怪しい生活を送ることになってしまう。

 自分の命は暗殺に失敗したときから失われたようなものだ。もしアナがこの話を聞いて自分から離れることになっても、それはアナという生きている人間のためのことだと。

 だから事実を隠すことなく語った。

 途中から後ろめたくなって目を伏せたのは、アナから向けられる軽蔑の目線を見たくなかったからだ。アコナイトとて、人の命を奪うことが忌避されるべきだということくらいはわかっている。

 すべてを語り終えた時、沈黙が訪れた。身じろぐ音すら憚られるその沈黙は、徐々に張り詰めていく。限界を迎えたのはアコナイトの方だった。

 ゆっくりと顔を上げてアナを見る。大人たちがよく見せていたように、アナもまたごみを見るような目で自分を見ていると思っていた。けれどアナは軽蔑の目などしていなかった。

 アナの大きく開かれた目から、静かに涙が流れ落ちている。美しいな、とアコナイトは感じた。

 けれどアコナイトは困惑もしていた。アナが何を思って涙を流しているのかがわからなかった。

 アナはベッドに腰掛けるアコナイトの傍によって、アコナイトを優しく抱きしめる。アコナイトはそれをただ受け入れていた。

「奥様は大変な世界で生きてこられたのですね」

 アナの声音は一言一言を噛み締めるようで、とても暖かい。

「もうそんな苦しむ必要はないんです。奥様はもっと優しい世界で生きていいんです」

 アナは腕を少し緩めてアコナイトに目を合わせる。その目は確固たる決意を宿していた。

「私が支えます。私が傍にいます。私だけは、何があっても奥様を裏切りません」

 そうして、はにかむように笑った。

「ですからもうそんな不安そうな顔はしないでください。きっと大丈夫ですから」

「……優しいのね」

「それが私の取柄なんです。昔からなんでも頼める女と評判なんですよ」

「それはちょっと違う気がするわ」

 ほんの少しだけ、アコナイトの口角が上がる。

 アナもそれを見て、嬉しそうに笑うのだった。


「ヴォルフ様には、何か考えがあるのだと思います。でもそれは決して奥様を悪いようにはしないでしょう」

「……その前に、いい?」

「なんでしょうか」

「その奥様っていうの、なんだかムズムズするからやめてほしいの」

 アコナイトは奥様と呼ばれるのがむず痒かった。背筋がぞわぞわする感覚だった。まだヴォルフの婚約者であるという実感が湧いていない。

「そうですねえ、ではなんとお呼びしましょうか」

 アナも奥様よりももっといい呼び名が欲しかった。アコナイトに仕える理由はもう、主の婚約者だからというだけではない。

「……仲間たちからは、アコと呼ばれていたわ」

「では、アコ様とお呼びしますね」

 奥様よりはしっくりくると、アコナイトは頷く。

 では改めて、とアナは続けた。

「ヴォルフ様は世間では悪い印象を持たれているようですが、実のところはとても優しい人です。私のような行き場をなくした平民にも居場所を与えてくれました」

「悪い人間ではないの?」

「事実が捻じ曲げられて伝えられているんです。ヴォルフ様に仕える私たちは、世間で言われるようなことをヴォルフ様が決して行わないと知っています」

 ですから、とアナは一つ間を置いた。

「アコ様はヴォルフ様のことを知るために、近くで見ているといいと思うんです。お仕事の手伝いや、食事を一緒にしたりして」

「そんなことしていいのかしら」

「私からもヴォルフ様に申し上げてみます。何も知らないまま時間が過ぎるのを待つよりは行動するに限りますから」

 それにお互いの無関心はいずれ離婚に繋がりますし、とアナは心中で付け加えた。結婚した侍女の愚痴の大半は夫が無関心であることか、ろくでなしであることだ。そんなことは子どもに教えなくていいのだ。

「余計なことはするなと言われたわ」

「どこが余計なものですか、これからのために必要なことです」

 ふんす、とアナは鼻息を鳴らす。理由はわからないがなぜか気合が入っていることはアコナイトにもわかった。おそらく何を言っても止まる気はないのだろう。

「わかったわ。あの男に会いに行きましょう」

「その前に」

 ベッドから降りたアコナイトの両肩をアナはがっちりと掴んだ。

「お風呂に入りましょう。話はそれからです」

 有無を言わせない笑顔がアコナイトに迫る。ぎこちなく頷いたアコナイトに、浮かれた様子で入浴の準備を始めていくアナであった。

 

 

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