あめいろの日日

かさ よいち

Anfang der Regenzeit.


 午後の授業はすべてふいにしてしまった。

 きっちり三コマ分を硬い枕に横たえていた首を擦りながら、飴子は起き上がった。

 肩のしたで絡まった薄墨のような色の髪は、手櫛で整えようとするもなかなか上手くいかない。


「もう少し体調管理に気を遣いなさいね」


 入学して日も浅いというのに、あなたの名前だけはすっかり覚えてしまったわよ、佐東さん。そう言い加えて、養護教諭はデスクから顔を上げた。


「中学から上がってきて、慣れないカリキュラムで体調を崩す生徒も多いし、あなたはなおさら」


 コンクリートの校舎に響く低い雨音が、やけに耳につく。


「雨、ですね」

「ええ、今日一日ずっとこの調子よ。話を逸らさないで」


 睡眠の作用とその重要性について、これまでに飴子は医務室を訪れるたびに散々と言っていいほど講義されていた。もし睡眠時間を増やしたら今からでも身長が伸びたりするのか、と訊くと、養護教諭は曖昧な笑みを浮かべた。彼女にすっかり意味をなさなくなった礼を言い、飴子は医務室を出た。薄暗くなった校舎の廊下には、湿った生暖かい空気が漂っている。

 

 この街の天気には慣れそうにない。


 止まない雨を映した灰色の廊下に、うっかり同化してしまいそうな気分だった。

 ちょっと晴れていると期待すれば、すぐさま手のひらを返したかのように、どんよりと重い空に様変わりする。その癖、空気は妙に温度を保っていて、いやに汗をかく。けれど、ずっと晴天を知らず、乾いた寒さのなかで過ごしていたあの頃よりはマシだ。

 

 放課後の誰もいない教室から荷物を取り、下駄箱へ向かいながら、飴子は傘を持っていないことに気がついた。今朝は晴れてこそいなかったけれど、雨が降るなどとは微塵も思っていなくって。


 ―――天気が変わりやすい街だから、いつも傘を持ちなさい。


 そう教えたのは、半年前から一緒に暮らしている血のつながった父だった。すっかり失念していた飴子は、羽織っていたブレザーのジャケットで教科書が入った鞄を包んで、気持ちのぶん小走りで雨のなかへと入っていった。鞄のなかにしまっていた携帯電話が、3回ほど小刻みにふるえていたことには気づけなかった。



 学校から十分ほど歩いたところにあるギャラリーカフェ、その裏手に飴子もとい父である泡雪の自宅がある。


 カフェと住宅、そのどちらも画廊を営んでいた両親から泡雪が譲り受けたものらしい。末子だったゆえかそれとも興味が向かなかったのかはわからないが、家業を継がなかった泡雪は、画廊として使われていたほうの建物を知人にカフェとして貸し出ている。この田舎町にはやや不釣り合いにも思える凝った石造りのこの家は、やはりご近所からは浮いているようで、そこに出入りするようになった飴子は、時たま向けられる物珍し気な視線が好きではなかった。


 雨で滑りやすくなった石段をゆっくり上がり、ようやく屋根のある玄関の前までたどり着く。


 両腕で抱え込んでいた鞄をくるんだジャケットとなかの鞄をそれぞれ左の肩と腕に引っ提げ、空いた右手で探り出した鍵をドアに差し込み回した。雨に体力を奪われたせいか、随分とドアが重く感じる。水を吸ってすっかり重くなったジャケットをコート掛けに雑に吊るすと、そのまま風呂場に直行する気力もなく、玄関の上り口に腰を下ろした。しまっていた携帯電話をなんとなく取り出すと、表の液晶画面の着信ランプがしきりに点滅していた。画面を開いて、着信―――いずれも泡雪から―――のいちばん新しい履歴から帰宅した旨のショートメッセージを送り、怠さを堪えながら濡れた鞄やら服やら自分自身やらを整えるため、家の奥へと向かった。

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