Schafe zählen

 

『眠れないときは、羊を数えるといいのよ』


 そう教えてくれたのは父ではなく母だった。


『Schafe zählen, wollte ich schlafe・・・・・・』


 幼い飴子あめこは、羊と睡眠で韻をふみながら無意識のうちに深い眠りに落ちた。


『Einen Schaf,zwei Schafe,drei Schafe,vier Schafe,fünf Schafe,sechs Schafe,・・・・・・,hundert Schafe,・・・・・・,VIEL SCHAFE!』


 白い羊毛に押しつぶされ、幼い頃によく遊んだ歩道橋の階段を転げ落ちた飴子が夢のなかで最後に見たのは、自分と一緒に階段から足を踏み外して落ちていく「変わり者の羊」だった。

 夢を見ない眠りに入るその瞬間、何か重たいものが落っこちる鈍い音と同時に、水が跳ねたような気がした。きっと、夢のなかは雨が降っていたのだ。あの日のように。


 寒さで悴む手と足に対して、目を擦ったときに触れた額には脂汗が滲んでいた。

 数えた羊よりも寝返りをうった数の方が多いかもしれない。ベッドから上半身を起こした飴子は、酷い頭痛に加えて左頬に鈍い痛みを感じた。


「おはよう」


 といっても、もう夕方なんだけどね、と部屋に入ってきた泡雪あわゆきは肩眉を少し釣り上げて言った。


「良い夢は、見れなかった」

「だろうね」


 泡雪は飴子が寝ているベットの端に座って溜息をつく。


 昨晩、日付が変わる少し前に帰宅した泡雪が居間の床に蹲っている飴子を見つけたとき、彼女が寝ていたであろうカウチの傍にはグラスが転がっていて、中に残っていたらしい水がわずかにこぼれていた。このとき泡雪は、どの部屋にもラグを敷かない不精な生活をわずかながらに肯定できたし、堅い床に落とされようと一筋のひびも入らなかった値の張るグラスに感謝した。スカした若造だった頃、見栄で選んだオールドファッション・グラスだ。まさか娘にコップ扱いされるとは思わなかったが。


「居間のカウチで寝るのはやめなさい、自分の寝相を考えたほうがいい」

「だったら、もう少し早く帰って来ること、ね」


 仕方のないことだとはわかっていても、このだだっ広い、もはや屋敷とも呼べる住まいでたったひとり過ごすのは嫌なのだ。そんな家のなかでも、趣のある造りで凝った家具を揃えているにもかかわらず、どこか片付かない生活感のある居間が、泡雪がいないあいだの飴子にとって安心できるねぐらとなっていた。


「飛行機が遅れたんだ、仕方ないだろう?」

「・・・・・・わかってる」


 お帰りなさい、お疲れ様。


 ちょっと不貞腐れた様を見せてしまった飴子は、バツが悪そうに、小さく、とても小さく呟いた。


「ただいま」


 また今日からは、きっと羊を数える必要はない。

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あめいろの日日 かさ よいち @kasa_yoichi

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