鬼狼狩り――夢幻街冒険綺譚――

ねこたろう a.k.a.神部羊児

鬼狼狩り――夢幻街冒険綺譚――

 彼は孤独だった。

 そのうえ、傷つき、餓え、疲れ切っていた。

 強靭な肉体を泥のような疲労が包み込み、冷たい心臓が足りない血圧を少しでも上げようと空回りする。なめし皮を思わせる灰色の皮膚はあちこちを鉤爪によって切り裂かれ、開いた傷口からは真紅の生命が刻一刻と失われていく。下水道の湿った壁に手を突く。割れた鉤爪の先が硝石の付着した煉瓦をカチカチと鳴らした。彼は自分の手が震えているとはじめて気づいた。疲労と、もう一世紀以上もの間、久しく感じたことのなかった感覚が全身を蝕んでいた。

 寒さ。そして恐怖。

 彼はびくり、と頭を巡らした。同族の匂いが自らの血臭に混じる。蹄の立てる足音と、ミュウミュウという小声の囁きが、かすかな反響を伴って彼の尖った耳をくすぐる。

 彼は慌てて壁を離れ、死にかけた肉体に鞭打って進んだ。歯をぐっと噛み締めていないと、牙が鳴り、殺意に満ちたかつての同胞たちを引きつけてしまう。口の中で昔日に信じていた食屍鬼の神を呪い、自分に信仰を踏み外させた無貌の神を呪う。口の中に溜まった血を吐き出すついでに、役立たずの邪神どもに唾を吐きかける。

 屍喰らいが死にかけている。

 モルディギアンの異端審問官どもにわざわざ石打ちされるまでもない。向こうも先刻承知のはずだ。苦しみを引き延ばし、嬲りものにするのが彼らの流儀だ。つかずはなれずの距離を保ち、絶望と希望を交互に与える食屍鬼の狩りだ。

 空腹のあまり、少しでも腹の足しにと伸ばした鉤爪の先を、蚯蚓や鼠、土竜達が潮引くように逃げて行く。

 よろよろとあてどなく彷徨い、ただ転ばぬようにと踏み出す一歩一歩が、自然と行き先を選んでいた。秘密の開口部が見えた。食屍鬼の本能によって導かれた、墓地へと続く大地の裂け目。彼は大地の胎内から押し出されるように、薄暮の中へと転がり出た。

 消えゆく太陽の明かりに照らされた墓石のシルエットに自然と胸が高鳴ったが、それもわずかの間だった。失望の唸りが口角から漏れる。彼の無意識が導いたのは、彼が多くの時間を過ごした場所、そしてそれゆえにすでに無用となった場所だった。使われている墓地ならばいくばくかの滋養もあろうが、アーカムで最も古いウェスト墓地で埋葬が行われたのははるかな昔だ。口に出来るものなどあるはずもない。

 失望を覚えながら、墓地の間をよたよたと進み、空っぽの身体を引きずって這い進んだ。

 四肢から力が逃げ出してゆく。

 彼は一つの墓石につまずいて崩れ落ちた。自分の死に場所の墓碑銘を霞む目で読み取った。

 血の気の失せた脳髄の底から、おぼろげな記憶が浮かび上がってきた。

 彼は今、禁断の墓にもたれかかっていた。

 どんなに飢餓がはなはだしくも、アーカムの食屍鬼が絶対に手をつけない墓の一つが目の前にあった。汚れ、病み、呪われた墓だ。手をつければ、死よりも恐ろしい呪いを受けると忌み嫌われるタブー。彼は墓を凝視した。地面を透かして、その下に横たわる獣の屍体を見ようとするかのように。考える時間はない。選択肢は刻一刻と彼の鉤爪からこぼれ落ちてゆく。

 惨めな死を諾々と受け入れるか。

 汚れた獣の死肉を口にして魂を失うか。

 これは運命。いや、無貌の神の采配か。どちらでもかまわない。

 彼は鉤爪のついた手を振るった。

 墓石は半ば風化していて、鉤爪の中で脆く崩れた。柔らかな土を掘り返すと、芳醇な臭いが立ち上った。

 牙の並んだ口から含み笑いがこぼれた。喉にかかる笑い声はじきに哄笑へと変わった。

 藍色の空に十セント硬貨を思わせる月が昇っていた。


 これは嵐になるぞ、とメイウェザー中佐は思った。

 伝説と恐怖の息づく街アーカム。回転灯の点滅とひしめき合う捜査員の話し声が夜のマーシーヒル霊園の沈黙を破っていた。

 冷え冷えとした夜空に、ダイム硬貨のような月が輝く。月光を浴びて輝く雪が立ち並ぶ墓石に厚く積もってその不気味な印象をいささかなりとも和らげている。氷点下にまで冷えた鋼鉄の柵がローマ軍のファランクスのような整然たるシルエットを作る上には、育ちすぎた古木がねじくれた枝を木乃伊の指のように広げている。

 冷たい冬の空気の中に、一世紀ぶりに暴かれた墳墓の悪臭が混じる。人だかりの中央には墓穴が地面にぽっかりと口を開け、周囲には棺の残骸と細切れの屍衣に混じってネイハム・ジェンキンスの遺体の欠片が散乱している。

 ブルーのジャケットの鑑識員の間を縫うように、証拠採集が終わった場所だけを踏むように気をつけながら、中佐は現場をざっと見て回る。かつての英雄の霊はさぞ悲嘆に暮れていることだろう。墓穴が暴かれた際、道具が用いられた形跡はない。鉤爪のある手で掘り出されたのだ。棺の蓋を開ける労もかけず、そのまま穴を開けて中身を引きずりだしている。

 メイウェザー中佐は作業中の鑑識員のそばに寄り、ブルーのジャケットの肩越しに覗き込む。シリコンで型をとる前段階として、スプレー糊で新雪に残った足跡を固定していた。その足跡は裸足で、人間のものではあり得ない蹄を備えている。

「やはり食屍鬼か」

「かなりでかいですが、これは本物ですよ、中佐。クリスマスの七面鳥をかけてもいい」

「遠慮する。君がそういうのならそうなのだろう。それに七面鳥は嫌いだ……」

 面倒なことになった。食屍鬼が今日まで守られていた協定を破った理由は不明だが、これが二つの種族の関係において芳しからぬ結果を生むであろうことは明白だ。中佐の携帯電話が短くコールする。液晶画面を一瞥し通話ボタンを押す。

「私だ……それで状況は?」

 中佐の声が険を帯びる。

「……そうか、わかった。そうしてくれ」

 中佐は通話を切断して嘆息した。

「どうしました?」

「プリン家の墓に侵入しようとしたものが居たそうだ。幸い、未遂に終わったらしいが、霊廟に鉤爪の跡を残していった。周囲には蹄の足跡もあるそうだ」

 中佐は呟き、嘆息した。

 本格的にまずいことになった。夜が重さと冷たさを増して肩にのしかかってくるような気がした。表示の消えた液晶に小雪が一つ、二つと降りかかった。降雪に気づいた鑑識員は慌てて足跡の上に覆いかぶさった。

 中佐はソーニャ・H・プリンの電話番号をプッシュした。緊急時以外絶対に掛けるなと言われている。どうやら今がその時のようだ。中佐はコールを聞きながら墓場の闇に目をやった。

 彼女は激怒するだろう。


「へくしっ」

 隙間風に背中を撫でられ、安部蔵人はくしゃみをした。台所の空気は冷え切っていて、息を吐くと白く凍る。ほとんど外気と変わらない。夏を旨とする日本家屋、それもそろそろ半世紀に手が届く築年数だから仕方がないのだが。

 蔵人は半纏姿で腕を組み、ぶるぶると震えながら鍋を見ていた。唯一、足元を温めるハロゲンランプが救いだ。コンロでは青白いガスの炎が鍋の小豆をぐつぐつと煮立たせる。よきところと見て蔵人は小豆をザルにあけ、水を入れると、鍋を持って寒い台所から退散した。居間のストーブで小豆を煮れば、寒い台所で震える必要もないし火元を監視できるので一石二鳥だ。母方の影響か、おしるこ、という呼び方よりも、ぜんざい、と呼称する方が蔵人にはしっくりくる。同居人の好物なのだ。

 廊下を小走りに和室の居間へと進む。ぺたりぺたりとスリッパの音すら寒々しい。襖を開けると、暖かな空気が出迎えてくれる。畳敷きの中央では、同居人のソーニャが炬燵に突っ伏して寝息を立てていた。

 お湯の入った薬缶をどかし、灯油ストーブの上に小豆の入った鍋を据え終えると、蔵人は同居人を起こさぬように注意して炬燵に滑り込んだ。

 足の先にぐにゃんとした物を感じる。火燵布団を捲り上げると、同居人のホットパンツからすらりと伸びる脚線美と、火燵の内側いっぱいに寝そべった大きな猫が見えた。すがめた猫目が迷惑顔で蔵人を睨む。童謡の通りに丸くなっていたところを邪魔してしまったらしい。蔵人は「ごめん、ホイエル」と小声で言うと、巨大猫はソーニャの白い太ももに顎を載せて目を閉じた。

 ようやく人心地ついた蔵人は、目の前ですやすやと寝息をたてる少女に目をやった。頭の左右で括った金髪が、臙脂色のセーターの上を滝のように流れている。同居を始めてもう半年にもなろうかというのに、ソーニャのそばに居ると、未だに少し、緊張してしまう。透き通るような肌理の細かい肌。桜色の頬。すっと通った鼻筋。ふっくらと愛らしい唇。街ですれ違えば誰もが振り返るような美少女だ。長い睫毛がふるふると震える。何か夢を見ているのだろうか。綺麗な子だと、見るたびにそう思う。

 愛らしい寝顔のそばには、ソーニャが作ったのであろう折り紙の小舟と、無骨な矛槌が無造作に置かれている。

 小舟の折り紙は微笑ましいと言えるが、矛槌となると全く別だ。おそらく、手入れをするつもりで引っ張り出してきたのだろう。長さは六〇センチ余りはあるだろうか。総金属製の、ずっしりと重そうなフリンジドメイス。一見、一輪の薔薇を抽象的に表したオブジェのようにも見える。つやつやとした鉄の表面には、優美な彫金が施され、工芸品めいた美しさが全体の雰囲気を和らげているものの、どう見ても野蛮全開の近接戦闘武器だ。林檎大の先端は軸から放射状に張り出した七枚のフリンジで構成され、どんな当たり方をしても確実に甲冑を食い破り、肉をえぐり、骨を砕く。中世ヨーロッパの戦場にこそ相応しく、現代日本の炬燵の上に転がっているのはいささか――いや、かなり不似合いだろう。

 ソーニャはこの矛槌を新体操選手がバトンを扱うように振るう。彼女は魔女にしてバステト神の巫女であり神官戦士なのだ。それだけに、槌矛が振り下ろされる相手は人間でないことも多い。ソーニャの強靭さは蔵人自身、何度も目にしている。しかしながら、彼女が若くして継いだ、悪意ある外宇宙の実体との戦いという家業を思うとやはり心配が募る。実際には蔵人の方こそソーニャに護られているのだが。

 心苦しくも、ありがたい。

 そんな彼女に対して自分ができることはほとんどない。ぜんざいを作ることくらいだ。物思いにふけりながら、蔵人は何気なく窓の外に目をやった。寒いはずだ。大粒の牡丹雪が降っていた。


 青白いカンテラがゆらゆらと揺れる。

 小舟は夢と現実のあわいにたゆたうネグ湖の黒い湖水を滑るように進んでいた。眠気を誘う単調な櫂の音が、濃い霧の中、茫漠たる空間に染みるように広がっていく。ローブを纏った朦朧とした漕ぎ手は始終伏し目がちで、これから誰かに降りかかる不幸を嘆いているかのようだ。湖面を覆う冷たい靄が、幽鬼のように形を変え、少女の髪にまとわりつく。行く手を睨むペリドット色の瞳の内側で黄金色の火が燃えていた。

 ソーニャは中佐からの知らせを受けて、すぐに夢へと没入した。

 夢の世界は現実世界に隣接して存在する。熟練した夢見人や、魔女の修行を積んだものであれば、大いなるものどもの不況を買いでもしないかぎり夜の夢や午睡に見る夢から容易く足を運ぶことができる。夢だけに、距離や時間の制約は大きなものではない。ソーニャが今暮らしている日本からは、ガルフストリームで飛ぶよりもずっと早く食屍鬼とコンタクトを取ることができるはずだ。

 微睡の邑マークラ。

 覚醒の世界と夢の世界の間にあるあの邑には必ず食屍鬼が居る。今回の食屍鬼の手になる狼藉は、アーカムのオカルティストたちに少なからず衝撃を与えている。ニューイングランドの墓地はどこも食屍鬼の巣窟だが、隠避学を極めたものであれば、生前から食屍鬼どもとの間に親交を取り結び、侵すべからざる不可侵協定を結んで死後の安寧を確保することが不可能ではない。

 今回暴かれた墓は三つ。

 ネイハム・ジェンキンス。

 アンドリュー・バリモア。

 マイケル・コールリッジ。

 いずれもかつて存在した狩猟愛好会兼オカルト秘密結社、サーベラス・クラブの主要メンバーであり、いずれの墓もアミュレットと協定の名によって護られていたはずの墓所だった。

 そして、問題なのは未遂に終わった四つ目。

 プリン家代々の霊廟だ。先祖代々の魔女たち、ソーニャにとってはとくにママの眠る大切な場所だ。プリン家の魔女たちはエジプト人のやり方にならい、カーの憑代として肉体を保存している。その遺体が乱され、損壊を受ければ天の葦原での暮らしを送ることなどおぼつかない。当然、古のファラオ達のそれにならい、強力な呪いで封印し、守護している。今回の不埒なたくらみが未遂に終わったのは当然だが、その行為自体が甚だしい挑発であり、宣戦布告として受け止められて当然の狼藉だ。魔女との契約をないがしろにするのならば、食屍鬼たちにはそれ相応の報いを受けさせねばならない。古の知識の道は実力主義の弱肉強食だ。ここでしっかりとした対応をしなければ、プリン家自体が侮られる。ルートヴィヒ・プリン以降、連綿と続く家名に泥を塗られるわけにはいかない。プリン家の霊廟に手を付けた理由を問いただし、必要であれば制裁を加える。それがプリン家の十三代目としての義務だ。

 ママ。ソーニャは立派にやってみせるから。

 矛槌を握る手に、無意識に力を込めていた。巨大猫のホイエルがにゃおう、と鳴いてソーニャの膝に頬を擦り付けてくる。少女は自分の気持ちが張り詰めていたことに気付き、息を吐いてリラックスしようと努めた。相棒の背中をトントンと軽く叩く。ふさふさした毛の下にある発達した筋肉を頼もしく思う。

 大丈夫。独りきりじゃない。

 ふと気がつくと、周囲の霧が消え失せ、半マイルほど先に、微睡みの邑が気だるげに横たわっている。

 眠りにつく前に紙を折って作った魔法の船が、込められた魔力を発揮してあやまたずソーニャの夢を導いたのだった。冬の低い太陽が、丘の上の教会の尖塔を黄金色に燃え立たせ、傾斜から乗り出すようにして立ち並ぶ家々の化粧漆喰を塗られた壁をオレンジに染めている。スレートと甍の屋根の上でくるくると風見鶏たちがダンスを踊り、真鍮の尾羽を煌めかせた。街の東側ではすでに窓明かりが灯り始め、上空を白鷺の群れが寝ぐらへと急いでいる。

 ソーニャの小舟は、水面を滑り、二段甲板のガレー船や、海賊船、葦船の並ぶ桟橋へと着けた。朦朧たる船頭に一つうなずき、板張りの上に上陸した。

 漁師小屋の間を抜け、まずはバザールへと足を向けた。


 ガヤガヤという喧騒。冬の空気に混じる、異様な香の匂い。むっとする人いきれが寒さを遠ざけている。

 マークラのバザールはいつでも盛況そのものだ。誰が初めてこの邑を夢に見たのか問う者は多いが答える者は僅かで、邑のMAHKRAからして、アーカムの街自体が見る夢なのだと推測する者も居るが、はたして、本当のところを知る者が居るのか定かではない。覚醒の世界の住人にとっては広大にして危険と驚異の満ちる夢幻郷よりも安全に訪れることが出来る身近な場所だ。

 路地に満ちるのは、万聖節前夜の仮装行列めいた異風の百鬼夜行だ。

 それらは生きている人間の夢、死んだ人間の夢。夢の世界で生まれたもの、森の小人、妖精、魑魅魍魎、狐狸の類だ。さらさらと衣擦れの音を引き連れてそぞろ歩く古めかしい衣装で着飾った夜会服姿の紳士淑女たち。甲冑と戦斧銃で武装したドワーフの傭兵がカチカチと拍車を鳴らしてのし歩く。鳥のマスクのペスト医師がせかせかと大股で歩き、海賊船長がコツコツと義足を鳴らして闊歩する。

 奇妙だがさして危険ではない人々の間を縫ってソーニャはバザールを大股で歩く。石橋の立体交差の下で、ウルタールの近郊で罠で生計を立てている猟師を見つけて声を掛けた。目当ての獲物を告げると、四匹ばかりいたのだが、ついさっき売れてしまったと残念そうに応えが返る。空の籠を示され、ソーニャは唇を噛んだ。若い猟師はバステト信者であるらしく、ホイエルを連れたソーニャに好意的で、職業倫理の許す範囲で先客の特徴を告げた。あるいはソーニャの美貌とウルタールでは見られぬような格好――身体のラインをあらわにするセーターとホットパンツから伸びる美脚――に感銘を受けたせいなのかもしれない。

 スタンダード型の一輪車に乗った街灯夫が青銅の柱頭に輝く鯨油ランプに燃料を補充する下を進み、二人のピエロがハリネズミでお手玉する間をくぐり抜ける。腕が六本もある人形遣いが三体のマペットを操り、巧みに声色を変えて恋愛喜劇の愁嘆場を演じている横で、サフラン色のローブを纏う修道僧とターバンにダガーを差した暗殺教団のシークが奇妙な緊張感をみなぎらせている。ガスマスク姿の悪臭ジャンキーとゴミバケツの闘争を横目に通り過ぎて、焼き物の壺を服のように着こなした力持ちに、ふわふわと宙を漂う風船男に軽く会釈する。屋台で商われるものは、香ばしい揚げバナナ、まるい大きなりんご飴。丸石敷きに布を広げ、インクアノクよりの縞瑪瑙を商う商人たち。大粒のガーネット、オリアブの溶岩から掘り上げられた小像。マガー鳥の尾羽を飾った小粋な帽子屋。

 そして、目当ての存在を見つけた。大柄で野蛮で緑色をしたトロル――身長八フィート、幅もそれくらい――が担いだ袋から、間違えようもない舌を震わせる声が聞こえてくる。囚われのズーク族がおのれの運命を嘆き、哀れっぽく鳴いているのだ。ソーニャはトロルの前に立ちはだかって、獲物を譲渡して欲しいとの交渉を始めた。


「だから、最初からおとなしく渡しておけば良かったのに」

 そう言いながら、ソーニャはのびたトロルの手からズダ袋をもぎとった。身体を動かすと、体の芯が温まり、いささか気分も良くなっていた。自慢の矛槌で、頭蓋骨がぐにゃぐにゃになるまで殴打されて気絶したトロルの手に、ズークの代金の三倍にはなる銀貨を握らせた。遠巻きに見ていたギャラリーの一部は金髪の美少女が負けなかったことに不満の声を漏らしたが、ソーニャがそんな野次馬どもにそれとなく矛槌の柄頭に描かれた家紋を示すと皆顔色を変えて足早に立ち去ってゆく。

 ソーニャはズダ袋の口を開け、勢い良く飛び出してきた褐色の小動物の首根っこを抑え込んだ。鼻先の触手をうねらせる、レムールに似た夢幻郷由来生物は、鋭い牙でソーニャの指に食いつこうとする。

「あら、トロルシチューの運命から助けてもらったのにそんな態度?」

 バステトの巫女はキイキイと鳴いて暴れるズークをホイエルの前に突き出した。巨大な猫の姿に、ズークは種族的な恐怖心を喚起されたのか、るるるるる、と恭順の声を出した。大きな瞳に涙を浮かべ、物を掴むのに適した前足を合わせ、懇願するようにこすりあわせた。ズーク族はかつてウルタールの猫たちとの戦にこっぴどく敗れた歴史がある。彼らは今でも王族を人質に取られ、毎年貢物を差し出している。猫族を苦々しく思ってはいても、その無慈悲さと凶暴性とにあえて逆らうのは得策ではないことを知っているのだ。

「なによ、べつにとって喰うつもりじゃないって」

 そう言ってソーニャはポケットから手紙を取り出した。文面は穏やかだが、内容はプリン家としての最後通牒に等しい。ズークには食屍鬼を探し出し、手紙を手渡してほしいのだと言った。マークラにはそこらじゅうに食屍鬼の開けた隧道が口を開けている。すばしっこく、秘密を嗅ぎつけることに長けたズーク族なら簡単な仕事だろう。相手の出方がわからない以上、自分やホイエルが直接コンタクトを求めるのはリスクがある。

 一種のカットアウトだ。

 ソーニャのズーク語はひどいものだったが、ホイエルの猫語がいささか役に立った。

「ちゃんと仕事を果たしたら自由の身よ。無分別なことを考える前にウルタールの人質のことを思い出してあげてよね」

 そう言ってソーニャは細く巻いた外交文書を、ものを掴めるように発達したズークの手に押し込み、毛むくじゃらの首根っこを押さえた手と、ズダ袋の口を緩めた。褐色の小動物達は牙をむき出しにして飛び出し、路地裏の物陰に滑るように消えていった。


 バザールから二つもブロックを離れると、あたりは随分静かになる。丸石畳の坂道を歩き、駒形切妻屋根の家々の窓がぼんやりとした視線を投げかける。古のアーカムを思わせる閑静な地区だ。

 長年のうちに擦り切れて薄い影のようになった夢たちがしのび歩き、窓ガラスに焼きついた思い出がそれを見下ろしていたりする。それら朽ちかけた家々の中、決められた順序を守り、入り組んだ路地を登り、降りて、ソーニャはポーチのある緑の屋根の家にたどり着いた。

 古さびていながらも荒廃しているわけではない小さな家は、南面を除く三方を砂岩造りのビルに囲まれ、谷間の花のようにひっそりと眠り込んでいる。

 煉瓦積みの塀に設けられた鉄のアーチに、荊が絡み付いて扉を硬く閉ざしている。ソーニャは矛槌を掲げて、アーチに設けられたランプに近づける。パッと火花が飛んで、柔らかな炎が水晶板で囲まれた灯芯で燃え上がった。荊が葉ずれの音をたてて退き、固く閉ざされていた扉がひとりでに開き、主人の帰還を出迎えた。

 家の中は以前訪れた時と変わりない。シャンデリアに下げられた金魚鉢で光魚がゆっくりと泳ぎ、マントルピースの上の時計が、昨日ゼンマイを巻かれたばかりのようにカチカチと時を刻んでいる。

 用が有るのは武器庫だ。

 キッチンの脇にワインセラーのように設えられた短い階段を降りる。あかりを灯すと、さして広くはない空間にぎっしりと刀剣、棍棒、古式銃の類が並べられている。

 先祖代々が蓄えてきた戦利品だ。

 壁にかかった旧式の銃たちをソーニャは眺め、使い物になるだろうかと思案した。銃のようなしかけは、古いもの、もはや見向きもされないもの、忘れられかけたものでなければ、マークラでは上手く働かない。輪胴式喇叭銃を持ち上げてみるが、これはちょっと重すぎる。結局、シンプルな水平二連式の散弾銃に決めた。戸棚から二〇番径用の早合を三つ四つと取り出しておく。それから、重いケースに収まった戦術装甲服を引っ張り出した。

 ブリガンダイン・マークⅨ。古色蒼然たる武器類に比べ、新品同様のタクティカル・ボディ・アーマー。半年前、ファージングバレーの地下工廠から増加試作品の一つをちょろまかしてきた正真正銘の最新兵器。マット・デイモンが火星で着ていた宇宙服にちょっと似ている。ケヴラーとチタンとセラミックの複合装甲は百メートルの距離で発射されたラプア・マグナムを止める防弾性能。さらにパワーアシスト機能、ホメオスタシス支援装備と限定的ながら環境追随迷彩を持つ殺しのための尖端モード。もっとも、ハイテクは夢の世界では機能しない。ただ鎧として受動的に存在するだけだ。それでも食屍鬼とがちんこでやり合うなら役に立つはずだ。ソーニャはセーターとホットパンツを脱ぎ、ライムグリーンのスポーツブラとショーツだけになった。

 さすがにちょっと肌寒い。急いで装備を身につける。装甲服の内側は、ゴツゴツ、ぐにゃぐにゃして、あまり肌触りのいいものではない。

 胸甲を着けようとしてソーニャは少しとまどった。

 またちょっときつくなってる。

 むぅ。

 近いうちにまた作り直さないといけないだろう。そのことを装備課に告げるのはやはりちょっと恥ずかしい。

 息を吐いてなんとかベルトを留め、完全武装の魔法少女が出来上がった。体重に匹敵するほどの重量の甲冑だが、重量の配分が良いので身につけてしまえばさほど気にならない。チタンのチン・ガード――ソーニャはエリザベス・カラーと呼んでいる――が少し鬱陶しいが、柔らかな頚動脈を無防備に晒すよりはましというものだ。ソーニャは姿見で自分の姿を見た。矛槌とソウドオフ・ショットガンで武装したモダンな十字軍騎士といったところか。食屍鬼の十や二十は楽に殺せそうに見える。

 うん、と頷くソーニャの傍で、ホイエルが我関せずといった顔で毛繕いをしている。

「ホイエル、あなたもちゃんと鎧を着るんだからね」

 そう言われて巨大猫は顔をあげ、渋面を作った。


 マークラ。アップタウン地区。遺棄された教会。

 すっかりと日は落ちている。傾きかけた尖塔ごしに星たちが冷たく瞬いているのが見えるのは、朽ち果てた屋根が落ちて会衆席に瓦礫となって積み上がっているからだ。ドラゴンの鱗のようなスレートが床に散乱し、それを強壮なる菌糸類がちゃっかりと利用している。壁に作られたアルコーヴでは、フードを目深に被った聖人達の彫像がかつての聖所を未だに守っている。ステンドグラスの大窓は大部分が無残に打ち砕かれ、風が吹き抜ける虚ろな開口部となっているが、わずかに残ったガラスが仄めかす信仰の性質からして、ソーニャはそれを惜しいとも思わなかった。

 ズークに持たせた最後通牒で、一方的に指定した会合場所がここだった。べつにどこでも良かったのだが、交渉が決裂した時に備えて、そこそこの広さがあって、なおかつ人気がない場所にしようと思ったためだ。プリン家は平和を愛する一族なのだ。

 この廃墟ならばぶっ壊したところでどこからも文句は出ないだろう。

 日没から一時と指定したが、まだ相手は現れない。ソーニャは猫の巫女だ。待つのは苦ではないが、相手に待たされるのは嫌いだった。それともこちらを無視するつもりなのか。

 その時、ホイエルが何かの気配に気づいた。尻尾を膨らませ、唸り声を上げる。ソーニャは墳墓の土の匂いを嗅いだ。右手の矛槌と、左手の散弾銃を構え、四方の気配を嗅ぎ取った。

「落ち着け、若き猫よ」

 しゃがれた声が廃教会に響いた。アルコーヴの聖人像のうちの四つが、命を得たかのようにいっせいに身じろぎした。今の今まで、大理石を刻んだ彫像だと思っていた等身大の像たちは、ローブをはためかせ台座から飛び降りると、フードを捲り上げた。とはいえ、そこに晒されたのは銀で出来た髑髏の仮面で、素顔は覆い隠されている。

 ソーニャは己の失態を悟った。魔術と隠行で欺かれ、モルディギアンの神官に取り囲まれるとは。だがまだ負けると決まったわけではない。数では負けても、装甲と火力ではこちらが優位だ。

 ホイエルはやる気満々で尻尾を膨らまし、鋭い牙をむき出しにして唸っている。

 ソーニャは矛槌を持つ手に力を込めた。主人の意に応じて、鋼の矛槌――その銘、セブン・ダイムス――は真紅の炎を吹き上げた。赤熱する矛槌のフリンジが、廃教会の中を松明のように照らし出した。

 硝石にまみれた蹄がもう一歩でも近づけば、電光石火の早業で、食屍鬼どもの犬に似た頭蓋を打ち砕いてくれる……。

 ソーニャがそう思った瞬間、四方の食屍鬼のうちの三匹が音もなく後退った。

「落ち着けと言うに。幼き猫よ。我らが争う理由などない。話し合うべき……その気性、まさにプリンの家の娘。エーリカの曾孫、ソーニャ」

 残った一匹がミトン状の手袋をした掌を見せ、武器と戦意のないことを示した。

「……もちろん、話し合うことに異存はないわ。私はそのためにここに来たのよ」

 ソーニャは躊躇ったが、曽祖母様を知るらしき食屍鬼に興味を抱き、槌矛を下げた。むろん、謀りであればすぐさま行動に移せるよう、散弾銃の撃鉄は上げたままだ。

「我ら一族皆、そなたの家の廟に手を触れるはしておらぬ。かつての約定をよく覚え、また古き神の寵愛めでたき者の亡骸を乱し、呪い受くるを恐るるゆえ……」

「それじゃ……」

「最後まで聞くがよい。今よりもまだ幼き頃によく人の話を聞かぬ子だと周囲から言われたであろう」

「なっ」

「プリンの家の者はみな同じよ。エリスの娘ソーニャ。そなたらの廟を乱したるは食屍鬼であり、かつ食屍鬼ではない……」

 モルディギアンの神官の発したゼンモンドーめいた言葉にソーニャはつい口を挟みそうになったが、先ほど図星を指されたこともあり、黙って聞くことにした。

「ジェイコブはかつて我らの同胞であった……」


 食屍鬼の神なるモルディギアン。その神官の一人――一匹というべきか?――ジェイコブが、いつの頃からか旧来の神を侮り、嗤笑する暗黒神ナイアーラトテップを信仰しはじめたこと公言して憚らぬようになった。教会はあえて窘めることもせず、苦々しく思いながらも無視でこれに応じた。しかしジェイコブが他の食屍鬼たちを無貌の神の信仰へと誘いはじめたに及び、教会は異端者を石打ちで殺すことを決め、ただちに異端審問官が差し向けられた。

 追い詰められたジェイコブはそれまで全ての食屍鬼があえて手を触れたこともない禁断の墓所、半ば忘れ去られたかのピーター・シェリダン医師の墓地を開くという暴挙にでた。

 シェリダン医師の名について、ソーニャは先祖代々の活躍譚の一つで聞いた記憶があった。たしか、獣の病に結びついていたような気がする。

「シェリダンは優秀な医者で、アーカムばかりではなく、巡回の馬車でインスマスやマーブルヘッド、キングスポートまで足を伸ばし多くの人命を救った。食屍鬼にとっては迷惑なことだが。されどある時、奇病に冒されたフランス系カナダ人の治療に当たり、その病を得た」

「その患者は人狼だったのね」

「左様。シェリダン医師は自らが救ってきた病人の倍の人間を殺した。病の蔓延を防ぐため、獣の犠牲者も、またそうと疑われた死者も荼毘にふされた。我らは空きっ腹を抱えることとなったのだ」

「シェリダンを殺したのはサーベラス・クラブの三人の狩人たち。そしてそれに手を貸したのが私の曽祖母さま」

「食屍鬼どもは再び墓地が亡骸で満ちるようになったを感謝し、満月の下で四人の狩人の墓には一切手をつけぬと約束した。人狼の亡骸は銀の縛鎖で封じられ、ウェスト墓地の外れに葬られた。荼毘にふすことを避けたのは、シェリダンに罪はなく病が彼を殺戮に駆り立てたからだ」

「それで……その話が今起きていることにどう繋がるの?」

 食屍鬼の神官の話の進む先が見えず、ソーニャは眉根をきゅっと寄せた。

「ジェイコブがあえて協定を破ることで食屍鬼社会の評判を地に落とすつもりだとでも?」

「彼はシェリダンを食べたのだ」

 その言葉の意味を一瞬考え、ソーニャは口の中で小さく呟いた。

「マイ、バステト」

 アルハザードが悪名高い『死霊秘法』でイブン・スカカバオを引用しながら妖術師の墓について記した一文を思い出していた。妖術師の横たわらぬ墓は幸いである……。力ある妖術師は自らの屍肉を喰らう蛆どもに魂を移し、不浄な再誕を遂げることがある。そのような魔術は禁断のものであれ、そう珍しいことでもない。ソーニャの祖先、ルートヴィヒ・プリンも『妖蛆の秘密』の中で一章を割いて警告している。

 屍体を喰らうことはその生き物の力を我がものとすることにほかならない。記憶もまた力であり、魂とは記憶である。また食屍鬼は屍の脳を嗜む時、その舌は生前の記憶を味わうという。人狼の狂気が、屍肉喰らいの魂を逆に喰い潰すこともあるだろう。

「それが先ほど言った言葉の意味だ。ジェイコブはもはや食屍鬼ではなく、彼の肉体に宿るのは狂える人狼の魂だ」

 感染力の強い獣の病は通常噛まれることで感染するが、人狼の屍肉を食らえば当然、同様の結果をもたらすはずだ。ジェイコブは心身ともに、穢れた獣へと成り下がったと見て間違いない。

「なぜそんなことを?」

「自らを放逐した我らに対する報復心か、自棄を起こした末の衝動的な行動か。それはわからぬ。ジェイコブは身内の恥だが、哀れでもある。もはや魂を失い人狼の狂気と記憶に支配され、古の狩人たちに報復しておる。墓を暴くという屈辱的なやり方でな」

 ソーニャはエリザベス・カラーに顎を埋め、神官のもたらした意外な情報について考え込んだ。筋が通っているように思える。バステトの巫女は散弾銃の撃鉄をゆっくりと戻した。

「それで、あなたたちはどうするの。このまま野放しにするつもり?」

「我らでは歯がたたぬ。異端審問官らは皆返り討ちよ。半死半生で獣の様に吠え猛り、我が手で止めを刺さねばならぬ者もいた……」

 神官のしゃがれ声が、言い訳のような色を帯びた。

「私にあなたたちの内輪揉めの尻拭いをして欲しいのね?」

「我らの利害は一致しておるのではないかな。若き猫よ。今宵も月が天高く昇れば、奴はまたそなたの家の廟を荒らすであろう。復讐が果たされるまでは」

「まったく……この埋め合わせは高くつくわよ」

 ソーニャの言葉に仮面の神官はうっそりと頷いた。

 落ちた天井から、ちらほらと雪が舞い込んできた。ホイエルが寒そうにブルッと体を震わせた。


 マークラ外縁部。サウスエンド。名もなき墓地。ここはもう、かなり覚醒の世界に近い。

 かつてはこの墓地で飽食し、戯れていた記憶の名残が、病の獣をしてここを寝ぐらと定めさせた。普段ならたむろしている懶惰な食屍鬼どもは殺されるか追い散らされるかして、今は墓地にふさわしい静寂が雪の降る音の底にたれている。

 雪は覚醒の世界から吹き込んできたものに相違なく、薄闇に紗幕のようにかかり、ソーニャの視界を灰色のノイズで覆った。霊廟に据えられたガーゴイルが石の瞳で睨みつけ、頭部のない天使像がもの悲しげに佇んでいる。ソーニャは左右に視線を投げ、潜みこむ恐怖を駆り出そうとする。雪の布団を被った墓石に混じり、蹲る怪物が待ち構えているかのように思いなされ、矛槌を握る手に自然と力がこもる。矛槌頭の七枚のフリンジに開いた小さな穴には、人狼狩りにふさわしく、七枚の一〇セント銀貨がおさまり、その銘の由来を示している。

 ホイエルが肉球の間から毛を生やした大きな足で雪の中をのし歩き、ソーニャの前衛を立派に努めてくれる。ニューイングランド育ちの長毛の猫は、雪も寒さも苦にしない。

 だしぬけに、雪の紗幕を破り、黒々とした影が飛び出した。

 ソーニャは反射的に散弾銃を向け、引き金を引く。装填されているのは銀のざら玉だ。炎と煙をもろともせず、朦朧とした影がソーニャに向かって飛び込んでくる。体をかわして振り向きざまに、矛槌で痛烈な一撃を加えた。

 空気の破裂する音が響き渡り、一瞬で白熱した矛槌は鮮烈な残像を闇に刻んだ。超高熱により七枚のダイム硬貨は熔解銀の散弾となって敵に降りしぶいた。黒い影は瞬時に燃え上がり、炎が蒸発した雪がもうもうたる湯気の中で松明のように輝いた。手応えのなさにソーニャは刹那の間訝しみ、それが単なる干からびた屍体に過ぎないと気がついた。

 次の瞬間、反射的に跳んでいた。

 空気を切る音を引いて、巨大な凶器がソーニャの甲冑をかすめ、金属同士がこすれ合い歯の浮くような悲鳴をあげた。ソーニャは引き伸ばされた一瞬に、敵の獲物が巨大な弓鋸であることを見て取った。少女は地面を転がると、起き上がりながら向き直り、相対する敵を正面から見据えた。

 ピューリタンハットを頭に載せ、襤褸と化したコートを羽織った背の高い食屍鬼だ。犬に似た鼻面が帽子の陰から覗いている。極端な猫背にもかかわらず、上背はソーニャを超える。幽鬼のごとき立ち姿は、案山子のように痩せている。食屍鬼はゆらり、と身体を回してソーニャに向き直り、炯炯と光る獣の目で少女の姿を捉えた。

「プゥリィインンン!」

 牙の並ぶ口腔から、怨嗟のこもる唸り声が漏れた。容姿か、匂いからか、ソーニャをエーリカ・プリンと見間違えたか。それとも、血筋に連なる者だと悟ったのか。

 爆発的な憤怒が食屍鬼の身体から溢れ出し、ソーニャは気圧されぬように丹田に力を込め、ソーニャは胸いっぱいに息を吸った。

「私はソーニャ・葉月・プリン! バステトの巫女にしてルートヴィヒ・プリンの血に連なるもの。エーリカの曾孫。ジェイコブ……いえ、シェリダン。曽祖母さまがなさったように、あなたに引導を渡してあげるわ!」

 少女の口上を理解してか否か、食屍鬼がまっすぐに飛び込んでくる。

 右手には、大昔の外科医が持っていた骨鋸によく似た弓鋸を握り、棒切れのように軽々と振り回す。病と狂気が、食屍鬼に凄まじい膂力を与えている。墓石を削って火花を散らし、鋼の鋸歯が迫る。ソーニャは右、左と迫る凶器をスウェーで躱し、上段からの叩きつけるような一撃には矛槌を当てて受け流す。左手の拳が飛んできて、胸甲に叩きつけられ、ソーニャはたたらを踏む。目の前で食屍鬼の口が大きく開き、屍を喰らうものの生臭い息がソーニャの頬を撫でた。

 ホイエルが猛烈な勢いで食屍鬼の背中に飛びつき、鋭い爪で襤褸のコートにしがみ付いた。三〇ポンドの体重と、増加装甲の重みが一気にかかり、食屍鬼はバランスを崩した。上体が流れ、無防備になった相手の脇腹に甲冑の膝を叩き込む。僅かに動きが鈍った相手を、渾身の力で押しのける。散弾銃の撃鉄を起し、相手の腹に銃口を押し当て、残る一発を撃ち込んだ。

 ギャンッ、と悲鳴を上げて食屍鬼は崩れ落ちる。一度、二度と痙攣し、すぐに動かなくなった。ソーニャは目の前に横たわる食屍鬼の身体を見下ろし、やれやれと大きく息を吐いた。食屍鬼に天国はない。死後、肉体を仲間に喰われることで供養とするらしい。ジェイコブにはそれはない。そう思うとすこし哀れだ。

 ホイエルがすぐに近づいてくる。ソーニャは大活躍した愛猫の頭をぐしぐしと撫でた。


 雪がやんだ。さらさらという雪音のノイズが消え、しんと世界が静まりかえる。

 蒼い光が音もなく差し込み、一面が銀色に染まる。風がその顔から叢雲を拭い去り、月が天中に君臨した。

「グルルルロオオオオオオオ!」

 獣の雄叫びが響き渡った。魂消るような咆哮が、墓場の石という石、柵という柵をビリビリと振動させる。

 見れば死んでいたとしか思えない食屍鬼が体を起こしている。

 まさかあの状態から復活するとは。

 血反吐を吐きながら、銀のざら玉の埋まる腹部から自らのはらわたを鉤爪で掻き出している。身体がみしみしと音を立てて膨れ上がり、ゴムに似た質感の肌を突き破り、針のような剛毛がわさわさと生え、伸びる。身体を震わせて衣服の名残を振り払うと、ソーニャに向けて怨嗟の篭る目を向けた。犬に似ていたその顔は、すでに狼のそれとなっていた。

 ソーニャは再装填は間に合わないと悟り散弾銃を投げ捨てた。矛槌一本でやりあうしかない。ポーチから銀貨の詰まった小袋を取り出し、フリンジの穴に押し込もうとする。

 人狼は凄まじい速度で飛びかかってきた。後ろにステップを踏み、距離を取る。

 獣じみた腕が握る弓鋸が凄まじい速さで振られた。かなり浅いと見てソーニャは動かなかった。

 バキン、と音がして、弓鋸の刃が伸びてきた。故意か。それとも偶然か。二箇所で固定されていたブレードの根元が外れ、持ち手の先端で蝶番のようにぶらさがった鋸身がソーニャの腕を襲った。ガントレットは金属を止めたが、少女の手からは銀貨の袋がもぎ取られ、雪の中へと落下した。

 ソーニャの狼狽をついて人狼の巨体が飛び込んでくる。体当たりを受けて弾き飛ばされ、背中を墓石にしたたかにぶつけた。恐ろしい鉤爪が少女の首を狙って繰り出され、チタンのチン・ガードに阻まれる。鉤爪が塗料の皮膜を削り取り、金属の地金をむき出しにする。鉤爪が肩をがっちりと掴み、大口がソーニャの頭を囓ろうと洞穴のように開いた。

 ソーニャは赤熱する矛槌を毛むくじゃらの腿に叩きつける。肉と毛の焼ける匂いが鼻をうつ。人狼は悲鳴をあげながらも、ソーニャを掴んだ腕から力を抜くことはしなかった。

 ホイエルが稲妻の速さで飛び込んで、口に咥えた小袋をソーニャの手に押し付ける。中に入った銀貨の感触にソーニャは獰猛な笑みを浮かべた。

「ステュクス河の渡し賃には十分ね!」

 ソーニャは銀貨を握った左手を人狼の腹に突き立てる。拳の中で炎が燃え上がり、一千度の炎に舐められた銀貨が溶け、白魚のごとき指の間から溢れ出す。人狼の強靭な皮膚は清楚にして純粋な銀の力で呪い解かれ、濡れ紙のように破れた。絶叫をあげる人狼の腸の中、火炎と熔解銀を掴んだ拳が突き進み、肋をくぐって心臓に達した。

 ソーニャは左手を強く握りしめ、レモンを絞るように熔解銀を人狼の胸郭に撒き散らした。

 ボンッ、と音がして人狼の肺が破裂し、口と鼻から炎が吹き出す。心臓で燃える炎の輝きが、皮膚の上に肋骨の影を投げた。

 ソーニャは腕を引き抜き、後退った。

 炎が生けるもののように獣の身体を這い回り、飲み込んでゆく。最も純粋な力が、穢れた獣を浄化してくれる。

 ソーニャは燃え盛る炎に向かい、小さく頭を下げてバステト神に祈りを捧げた。

「ホイエル、今回は殊勲賞ね」

 ソーニャがかたわらで胸を張る愛猫の背中を撫でてやると、灰色の巨大猫はごろごろと喉を鳴らした。

 一人と一匹はかつてシェリダンであり、ジェイコブだった人狼の身体は、ゆっくりと形を失ってゆくのをしばらくの間眺めていた。火の粉が、さかしまに降る雪のように月のかかる天へと舞い上がってゆく。


 火燵布団の中でもぞもぞと動きがあり、ホイエルがズルズルと長い身体を引っ張り出した。蔵人の顔を一瞥し、くわぁ、とあくびをしてブルルッと身体を振る。火燵で体温が上がりすぎたのか、ガリガリと硝子戸を引っ掻き、寒いくれ縁へと出て行った。長毛の巨大猫は雪が気になるのだろう、窓の外をじっと見つめ、ふわふわとした尻尾で床を撫でる。猫の額の幅で開いた戸から、ひんやりとした風が忍び込んでくる。蔵人は引き戸を閉めようと立ち上がりかけたとき、「にゃわっ」と頓狂な声を上げ、ソーニャがビクッと身体を起こした。金髪碧眼の美少女は、ぶんぶんと顔を振って周囲を見回した。ペリドット色の双眸が、蔵人の顔を捉えた。その瞳は、海棠の眠り未だ足らずというところか、まだすこし、とろんとしている。

「おはよう」

「おはよ、クロード……私、どれくらい寝てた?」

「小一時間くらいかな」

「そっか」

「携帯、何度か鳴ってたよ」

「ん」

 ソーニャは座布団に載った携帯電話を取りあげて、何かショートメッセージを送ると、また座布団に放り投げた。

「暑い……汗かいちゃった」

 タートルネックを引っ張って、パタパタと仰ぐ。上気した頬が、なんとなく、色っぽく見えて蔵人はどきりとした。

「……なんだかいい匂いがする」

「ぜんざい、もうそろそろ大丈夫なんじゃないかな」

「食べる!」

 即答するソーニャに、蔵人は思わず口元を緩ませた。年下の従妹は、普段はとてもしっかりとして、話をしているとどちらが年上かわからなくなるほどだが、ときおり年相応に……いや、それよりもあどけなく見える。

「な、なに?」

 蔵人の反応に、ソーニャの頬にさした赤みがほんのりと色を増した。

「いや、ソーニャはぜんざいが好きなんだなって」

「だって美味しいんだもの」

 蔵人はくすくすと笑いながら思った。今年は色々なことがあったが、暮れのひと時をゆっくりと過ごせるのはとても幸せなことだ。できれば、来年は今年よりも穏やかに、つつがなく過ごせればいいのだが。

「ねえ、ソーニャ」

「ふん?」

「いつもありがとう。これからもよろしくね」

 なんとなく、すこし畏まって蔵人は言った。

「えっ? なに? どうしたの」

 一瞬ソーニャは戸惑ったような表情を浮かべた。大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。

「今年は君に随分お世話になっちゃったから。いつも助けてくれて……その、君さえよければだけど、来年もきっとお世話になると思うから。恩返しも出来ないけど……ぜんざいくらいだったら、いつでも作るから」

 そこまで言って、蔵人は自分がトンチンカンなことを言っているのではないかと不安になった。

「なんか、変なこと言ってるね、ごめん」

「そ、そんなことないわ。こちらこそ……す、末長く、よろしくお願いします……」

 ソーニャはなぜか真っ赤になって俯き、もごもごと喋りながら火燵布団の中に潜り込んでいく。

「えっと、それじゃ、お餅切ってくるよ。ストーブで焼く?」

「私も手伝う」

 立ち上がった蔵人を追って、ソーニャそそくさと立ち上がった。すらりと伸びた脚線美。白い肌が目に眩しい。

 なぜこの子はいつも薄着で平気なんだろうかと蔵人は訝しんだ。

「台所寒いよ」

「へーきだもん……」

 台所へ向かう二人の足音を聞きながら、ホイエルはふわふわと落ちてくる牡丹雪を飽きることなく見つめていた。

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鬼狼狩り――夢幻街冒険綺譚―― ねこたろう a.k.a.神部羊児 @nekotaro9106

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