最終話 月にいる友達
これはたとえ話だ。光速に近い速度で地球を回るロケットがあるとしよう。するとロケットの中で流れている時間は地球で流れている時間より遅くなるのだそうだ。
会社、というものはどうやら光速に近い速度で地球を回るロケットらしい。足を踏み入れた瞬間、僕たちの時間はそれと気づかず遅くなる。
でも、たまには自分の時間を生きたくなる。
自分の物語を始めたくなる。
タイムカードを切り、机に戻ると務用のパソコンをシャットダウンした。
「すいません……お先に失礼します。あとはお願いします」
頭を下げて、帰り自宅を始める。上司は不満げな顔をしていたが、鼻息を一つ立てただけで、引き止められることもなかった。
社屋から出ると、身を切るような冷たさが体を吹き抜けた。午後6時。もう外は真っ暗だ。日が落ちるのも随分早くなった。
きらきらと眩いイルミネーションが道を照らしている。
どこからかクリスマスソングが聞こえてくる。
空も大地も街の景色もみんな冬の色を深め始めていた。
「今日は、遠回りで帰ろうかな」
あの日、月から落ちた女の子と出会ってから、もう一月以上の時間が流れていた。
女の子が噴水から消えてしまった後、僕は少しの間呆然と立ち尽くしていた。
しばらくして、女の子が噴水の中で溺れているのではないか、と、宵闇の中、噴水に飛び込んで女の子を探して回った。
でも、彼女はどこにもいなかった。
跡形もなく消えてしまった。
抜け殻の体も残さず。おそらく、きっと、遠い月へと帰っていった。
全て夢だったのだ、と、仕事で疲れた自分が見た幻覚だったのだ。そう結論づけた方が現実的だとは分かってる。分かっているけれど。
あの夜のことを、女の子が話したことの一つ一つを、これ以上、嘘だと思いたくなかった。
なにより、僕自身が、もう嘘をつきたくなかった。
自分自身にも、彼女にも。
きっと、月には、宇宙には僕の見たことのない世界があって、君は今日もそこで一人で、空を覆い尽くす月虫を見つめながら、宇宙狼と追いかけっこしている。
僕が今ここに存在しているのが真実であるように。
君は、今もそこにいる。
見上げればあの日と同じ晴れた夜空が広がっている。
でも星座は少しだけ位置を変えていて。
空に浮かんでいる月は煌々と光る満月で。
夜の世界に確かな輪郭を与えている。
宇宙狼は月を平らげることに失敗したようだ。
「月にいる友達、か」
大きな月。
君がいる、君が生きている、君が今日も地球を見下ろしている星。
僕は少しだけ迷って、月へ向かって……
大きく手を振った。
月にいる友達 ゆきえいさな @goldilocks137
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