月にいる友達
ゆきえいさな
第1話 ロケットはありませんか?
これはたとえ話だ。光速に近い速度で地球を回るロケットがあるとしよう。するとロケットの中で流れている時間は地球で流れている時間より遅くなるのだそうだ。
会社、というものはどうやら光速に近い速度で地球を回るロケットらしい。足を踏み入れた瞬間、僕たちの時間はそれと気づかず遅くなる。
その証拠に、タイムカードは9時00分から18時00分の8時間労働に励んだことを示しているが、長い旅を終え、ようやく降り立った地球上の時計は23時2分12秒を刻んでいる。これは、きっと相対性理論が働いた結果なのだ。
我が身に降りかかった「サービス残業」という忌まわしい慣習を、高校時代のうろ覚えの知識で納得させて、一つ大きなため息をついた。
細い五日月と秋の星座の下、僕はゆっくりと歩き出す。
終電には間にあうだろうか。
走れば問題なく間に合いそうだ。
疲れた体は「早く帰ってあったかなお布団の中で惰眠を貪りたい」と駄々をこねている。労働で酷使された頭は「余計に疲れるような真似はやめてくれ」と主張している。
僕は、ほんのちょっとだけの逡巡して、ほんのちょっとだけ歩調を速めた。
初秋の肌寒い風が身体に打ち付ける。
日中はまだ暖かいからと、タンスから上着の一つも出してない自分の不精を呪う。
学校では相対性理論のことや、あまり役に立たない世の中の知識を沢山教わった気がするけど、体が寒いと心も冷たくなる、なんてことは教えてくれなかったな。
緩やかにカーブを描く道を通り過ぎて、駅へと通じる公園通りに出る。
針山のようなビルの木立の中で、ここだけがぽっかりと開けている。都会では数少ない広い空を見上げられる場所。
ふと立ち止まって、僕は頭上を見上げた。
五日月がさっきよりも、大きく、明るく見えた。
「腹減ったな……」
息を吐いて、また歩き出す。
駅へと続く石畳を踏み締める革靴の音が寂しげに響いた、その時だった。
「どいて……」
遠くから、か細い悲鳴が聞こえた。
「どいてくださあああああああああああああい!!!」
それから低く大きな音が夜の公園に轟いた。
どしんというのか、どごん、というのか。
擬音で例えるならそうなる。
真夜中の公園。公園の全域を照らし出すほどの灯は残念ながらない。
何かが起こったのは間違いないが、その何かがいかなる事態であるのか咄嗟に目では確認できない。
いや、違う。これは、多分、僕が事態を理解をするのを拒んでいる。
だって、最初に聞こえてきたのは女の子の悲鳴で……。
……続けて聞こえたのは衝突音。
「嘘だろ」
状況を受け止めた瞬間僕の心臓は早鐘を打ち始めた。
これは明らかな緊急事態だ。
事故、もしくは事件だ。
脳は事態を飲み込めず、心はひたすらに慌てていた。
でも、狼狽えている場合じゃなかった。
音と声の発生源を探る。右、左と顔を忙しなく動かす。
そして見つけた。
視線の三メートルほど向こうに、うずくまったうっすらとした人影を。
疲れと焦りと混乱で足がもつれて転びそうになりながら、影に駆け寄る。
怪我はないか? 意識があるのか? 救急車を呼ぶのが先か?
「だ、大丈夫ですか!」
大声で呼びかける。救急救命の講習は何度も受けているのに、いざその時がくると次に何をしたらいいのかまったく思い浮かばない。思い浮かんでも、それが正解かわからない。
次は周りに協力を頼むんだったか。その前に人工呼吸かAEDか、考えながら混乱し、混乱しつつも考えていると……。
座り込んでいた影が、やおらこちらに顔を向けた。
薄暗い街灯に照らされて、顔を焦点に、ぼんやりとしていた姿が像を結ぶ。
女の子だ。
それも綺麗な。
僕を見て、女の子は、濃い睫に縁取られた、大きな瞳を見開いた。
ほっと胸を撫で下ろす。
意識はあるようだ。少なくとも顔には目立った傷はない。
「怪我はない? 痛いところは?」
問いかけながら、他に怪我がないか確認するために改めて彼女の姿を眺め渡す。
そして、まあ、驚いた。
女の子は真っ黒だった。
頭のてっぺんから、つま先まで。
つまり、服装の話だ。黒づくめ。
黒くないのはこちらを見つめてる顔くらいのものだった。
大きな帽子は真っ黒。
古風なブラウスにスカートも真っ黒。
手袋、ストッキングにブーツも真っ黒。
極め付けは足元に転がった、これまた真っ黒な日傘だった。
日傘なんて……真夜中には不要な代物だ。
普段着ならばそこそこ個性的だし、寝巻きだとするならもはや奇天烈だ。
ゴスロリってやつなんだろうか?
いや、待て、今はそういう状況じゃない。
彼女の奇妙奇天烈な装いに想いを巡らせている場合じゃない。
幸いにも服に破れた箇所や血の跡はないようだ。
しかし女の子は落下したショックなのだろうか?
口も聞けずに、パチパチと瞬きを繰り返してこちらを見ている。
なんとか落ち着かせることはできないか考える。
けれど、いい考えは出てこなくて……。
僕は仕方なく、ぎこちない笑顔を作って見せた。
すると、効果があったのか、女の子ははにかんだような顔を見せた。
そして。
「あのー、この辺りにロケットはありませんか?」
とてもよく分からない言葉を呟いた。
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